愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:高師

とよはしし  明治22(1889)年10月1日の町村制施行により豊橋市街23町が渥美郡豊橋町となった。明治28(1895)年2月25日,豊橋町(25大字)は豊橋村(9大字)を合併した。明治39(1906)年7月16日,豊橋町(34大字)・花田村(1大字)・豊岡村(6大字)は合併して豊橋町(41 ...

とちくじょう  豊橋市屠畜場は,明治40(1907)年,豊橋市東田(あずまだ)町と高師村(豊橋市高師町)に設置されたのがはじめである。その後,昭和2(1927)年,豊橋市岩田町田尻前(豊橋市三ノ輪町三丁目)に建設された。昭和37(1962)年,豊橋市曙町南松原に年間5万頭の処 ...

としけいかく  都市計画法が大正8(1919)年に施行され,豊橋市は同12(23)年7月1日都市計画法の適用を受けることが決定した。大正14(1925)年1月8日,豊橋市,宝飯郡下地町,渥美郡牟呂吉田村,高師村福岡・磯辺・高師(梅田川以北)・大崎,二川町大岩・二川(梅田川以 ...

どーなつかげんしょう  豊橋市は都市の規模が大きくなり,広小路や駅前大通にビルが立ち並び,中心業務地区(CBD)らしくなってきた。ところが,商店主や会社の社長たちは,中心部に居住せず,牛川や岩田,あるいは高師方面の閑静な土地に住宅を建てて移り住むようになった ...

どうろげんぴょう  道路元標は,大正11(1922)年,道路法施行令により,各市町村に1か所設置することが義務付けられた。豊橋市札木町の角の東海道(国道1号)と田原街道(国道30号)の分岐点に,豊橋市道路元標が設置された。当時の各市町村(高師村・二川町など)に道路元 ...

⇒ 高師原・天伯原の開拓 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog h ...

てんぱくばら  天伯原は,豊橋市の南部,梅田川以南から太平洋岸まで広がる洪積台地で,渥美半島の基部にあたる。標高は太平洋岸が80m~60mと高く,北西の三河湾に向かって低くなり,標高20mほどになる。天伯原の形成は,梅田川以北の高師原よりも古く,原型面はほとんど侵 ...

てんぱくしょうがっこう  豊橋市立天伯小学校は,昭和25(1950)年1月,豊橋市天伯町天伯に高師小学校の分校として開設され,同29(54)年,校舎が建設された。昭和30(1955)年4月,高師小学校区の天伯町・東高田町・南高田町を校区として分離独立した。昭和38(1963)年, ...

てらさわむら  寺沢郷は,文永4(1267)年,高芦(たかし)庄(豊橋市高師町)から分立したという。渥美郡寺沢村の村高は,「三河国村々高附」(寛政期)に174石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に中泉支配所177石余とある。昭和4(1929)年の家数は78,人数は870であった ...

ちょうそんがっぺい  明治以後の市町村の歴史は合併の歴史である。明治11(1878)年12月20日郡区町村編制が行われ,戸長を置いた。明治11(1878)年12月28日町村分合を行った。明治9(1876)年2月14日愛知県令の通達は,一定の行政水準を維持するに足る費用負担と地租改正の ...

ちゃぎょうのうぎょうきょうどうくみあい  豊橋市茶業農業協同組合は,昭和23(1948)年12月25日,205人の正組合員のもと設立総会を開催した。初代組合長は堀田稔で,事務所を豊橋市中八町の官有地に設けた。現在は,豊橋市上野町に事務所を設け,製茶工場を豊橋市野依(のよ ...

ちめいのざんち  地名の設定・変更・廃止は,地方自治法第260条に,①市町村議会の議決,②都道府県知事に届け出る,③県公報に告示することが必要であると規定されている。地名の残置で目立つのは,学校・官公庁などが土地区画整理区域にはいらないために,旧地名がそのま ...

ちくしみんかん  豊橋市地区市民館は,昭和47(1972)年3月,豊橋市社会教育審議会が行った「豊橋市における社会教育施設の適正な配置・規模および望ましい運営について」の建議を受け,年次計画で各中学校区に地区市民館(各小学校区には校区市民館)の建設を決定着工した ...

たはらかいどう  田原街道は,東海道吉田(豊橋)の札木町と御輿休(みこしやすみ)町(豊橋市新本町)の境の横町から魚町へ通じ,魚町から東に移って,垉六(ほうろく)町・下リ町(花園町)を通り,新銭町・中柴町(平和通り)から柳生橋を経て田原へ通じる街道で,奥郡(おく ...

たつまき  豊橋周辺では,地形などの関係からか,竜巻の発生が多い。昭和16(1941)年11月28日豊橋市大崎町付近から前田町方面に向かって発生した竜巻で死者が12人も出ている。 平成11(1999)年9月24日,午前11時から午後1時の間に豊橋市や蒲郡市,宝飯郡小坂井町などで4 ...

たかしりょくちのしぜん  高師緑地(豊橋市高師町北原)は,元陸軍の演習廠舎(しょうしゃ)があったが,戦後開拓されなかった場所である。昭和42(1967)年,24.2haが公園にされた。現在,緑地内には公民館(生活家庭館)・馬場・老人福祉センターがある。用地の中央には,国 ...

たかしりょくち  高師緑地は,豊橋市南部の豊橋鉄道渥美線沿いの豊橋市高師町北原に,昭和42(1967)年4月に開設された面積24万1700㎡の総合公園で,渥美線と国道259号によって分断されている。明治38(1905)年5月に,豊橋俘虜(ふりょ)収容所が開設された。その後,陸軍の ...

たかしやま  高師山は,豊橋市高師町から静岡県浜名郡新居町にかけて広がる広大な丘陵地を総称するもので,特定の山を指す名称ではない。「高師山」は,平安時代から遠江(とおとうみ)国の歌枕になっている。また,「高し」の掛詞として多くの歌に詠まれたり,紀行文に記され ...

たかしむら  明治39(1906)年9月10日,渥美郡高師村・福岡村・磯辺村・野依村・植田村・大崎村は合併して高師村と改称した。昭和7(1932)年9月1日,高師村は豊橋市に合併した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このペ ...

たかしむら  明治11(1878)年12月20日,郡区町村編制により,渥美郡高足(たかし)村・芦原新田・森田新田・藤並新田・高足原尾先新田・高足新新田は合併して高師村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行された。明治39(1906)年9月10日,高師村・福岡村・磯辺 ...

たかしむら  「和名類聚鈔」の渥美郡6郷中の高芦(たかし)(多加之)は,渥美郡高足村とされる。ただ,古代の高芦郷の地は梅田川下流域のみではなく,広く太平洋岸に至る地をも包含し,鎌倉時代以後多数の村が分立して今日に至っている。渥美郡高足村の村高は,「三河国村々 ...

たかしばら・てんぱくばらのかいたく  高師原・天伯原の開拓は,第2次世界大戦後の深刻な食糧事情を解決するためと戦災・復員・引揚者の就農のために,軍用地4825haを民間へ解放することにより始められた。JR東海道線・豊橋鉄道渥美線・梅田川に囲まれた高師原は,標高20~3 ...

たかしばらじんじゃ  高師原神社は,昭和20(1945)年の終戦によって高師原開拓営団によって開拓された弥生町(弥生町・弥生松原町),曙町(測点町・曙若松町・曙南松原町・松並町)の6町の氏神として,同23(48)年皇大神宮を迎えて祀ったものである。平成11(1999)年本 ...

たかしばらおさきしんでん  渥美郡高足原尾先新田は,慶応3(1867)年の開発である。高は明らかでない。明治9(1876)年の合併願では家数25,人数108である。産土神(うぶすながみ)に大山津美神社を勧請した。明治11(1878)年,高足村・芦原新田・藤並新田・森田新田・高足 ...

たかしばら  高師原は,豊橋市街地南部の柳生川と梅田川の間に広がる東西約6㎞・南北約4㎞の洪積層の台地である。「たかし」の地名は,平安時代の「倭名類聚鈔」にある「渥美郡高芦(たかし)」によるものとされる。それは,古来から歌にも詠まれてきた。高師原は,南接する天 ...

たかしのしょうじ(12世紀頃)  文覚(俗名遠藤盛遠)が,高師原で追いはぎに遭ったという。この追いはぎが高足ノ庄司である。「三河雀」に「昔高足の庄司と云盗人,此山(窟堂観音)に住,高雄の文覚,兵衛(源頼朝)変をすすめ,白川ノ法皇の院宣を乞にのぼりし時,此所に ...

たかしだいちゅうがっこう  豊橋市立高師台中学校は,昭和49(1974)年4月,西幸町浜池(開拓指導所跡)に,南部中学校から分離して,高師小学校・天伯小学校を校区として設立された。昭和54(1979)年,幸(みゆき)小学校,同56(81)年,芦原小学校が新設されて校区となっ ...

たかししんめいしゃ  「和名類聚抄」に見える渥美郡高芦(たかし)郷,「神鳳抄」の高足(たかし)御厨はこの地で,高芦神明社は白鳳3(674)年伊勢内宮を勧請したと伝える。配祀する須勢理比売命(すせりひめのみこと)は「三河国内神明帳」の従五位上伊久佐女天神である。「三州 ...

たかししんしんでん  高足新新田は,明治2(1869)年の開発で,梅宮新田ともいう。渥美郡高足新新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分55石余とある。明治9(1876)年の合併願では,戸数3である。明治11(1878)年,高足村・芦原新田・藤並新田・森田新田 ...

たかしじんじゃ  高師神社は,明徳3(1392)年の鎮座で菊理姫(くくりひめ)を祀り,白山社といった。昭和18(1943)年進雄(すさのお)神社(豊橋市西高師町津森)を合祀した。進雄神社は享保7(1722)年の鎮座である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,高足(たかし)村 ...

たかししょうがっこう  豊橋市立高師小学校は,明治6(1873)年7月,第10中学区第10番小学脩徳学校として,高足(たかし)村の高林寺に,高足村・森田新田・藤並新田・小松新田・山田村・佐藤村・小池村・橋良(はしら)村・小浜村を校区とし,橋良に分場(小池・小松・橋良・小 ...

たかしこぞう  「高師小僧」50坪(豊橋市西幸(にしみゆき)町浜池)は,昭和32(1957)年10月15日,愛知県天然記念物に指定された。平成12(2000)年11月21日,浜池公園の西の地域の350㎡が追加指定された。 「高師小僧」は,赤茶色の棒状または管状をした形体の名である。 ...

⇒ 愛知大学前駅(豊橋市町畑町町畑) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂な ...

たかしえき  豊橋鉄道渥美線高師駅は,大正13(1924)年1月22日に,渥美電鉄高師~豊島(としま)間の開業により,新豊橋起点4.3㎞地点に開業した。昭和26(1951)年6月30日に,高師駅構外の大日本紡績(ユニチカ)に貨物専用線を敷設したが,同52(77)年8月1日に廃止された ...

だいちはかたる  「大地は語る」(池田芳雄 昭和60年)は,池田芳雄が昭和37(1962)年の「新城市誌」に掲載した地学関係著作・論文50編と,愛知県農地林務部自然保護課の自然環境保全に関する調査報告書を加えた合計100編以上の著作の中から,東三河にしぼって「東愛知新 ...

だい15しだんゆうち  第15師団の誘致は,明治40(1907)年3月に持ち上がった。市制施行直後の豊橋市の将来発展策を模索している時であり,大きな期待が寄せられた。陸軍省は,日露戦争(1904~05)後,4個師団を増設すると発表した。そのうち1個師団は東海道筋に設置すると ...

だい15しだんちょうかんしゃ  「愛知大学公館(旧陸軍第15師団長官舎)」1棟(豊橋市高師石塚町石塚)は,平成14(2002)年9月30日豊橋市有形文化財(建造物)に指定された。 「愛知大学公館」は,明治45(1912)年「陸軍第15師団長官舎」として建設され,洋館とその西側に ...

だい15しだん  第15師団は日露戦争中,東京において編成され,満州の戦野に赴き,第2軍の戦闘序列に編入されたが,戦いが終わると千葉県習志野に帰還した。第15師団の地方移駐の議が起り,豊橋・浜松・岐阜が候補に上ったが,最終的に豊橋に設置されることになった。明治41 ...

だいげんほうしときつね  昔,大玄法師という坊さんが高林庵(豊橋市西高師町)にいた。ある時,大玄が南の浜に行くのに,野依(のより)(豊橋市野依町)を過ぎ,天伯原(豊橋市天伯町)に出ると,狐がたくさん遊んでいるのに出くわした。大玄は突然,持っていた法螺貝(ほら ...

せんしゃりょだん  独立戦車第8旅団(鋭敏)は,昭和20(1945)年5月,豊橋・浜松方面に配備され,第73師団(怒)とともに遠州灘海岸防備の中核兵団であった。戦車第23聯隊は浜松北方に,戦車第24聯隊は豊橋南方に展開した(旅団司令部は引佐郡三ヶ日町)。独立戦車第8旅団 ...

せっかい  豊橋地方での石灰製造は,石灰岩を産出する石巻山を中心とする八 名(やな)郡嵩山(すせ)村(豊橋市嵩山町)と牛川村(豊橋市牛川町)で,江戸時代から焼製されていた。石灰岩は,石垣用材や石灰,セメント,肥料など用途は広い。近代化が進むにしたがって,セメン ...

せいかつかていかん  豊橋市生活家庭館は,昭和42(1967)年11月,豊橋市高師町北原(高師緑地)地内に開設された。主として,文化活動をはじめとした生涯学習事業を開催している。建物延べ面積1712.16㎡,鉄筋コンクリート造り2階建てである。施設は,本館1階は事務室・図 ...

すずき・えつ(1886~1933)  鈴木悦は,明治19(1886)年10月17日,渥美郡老津村(豊橋市老津町)で鈴木浅吉の長男として生まれた。成城中学校,東京外国語学校,早稲田大学を卒業後,明治43(1910)年「万朝報」に入社した。「早稲田文学」に「家なき人」「解放」「幻影」 ...

すぎやまえき  豊橋鉄道渥美線杉山駅は,大正13(1924)年1月22日に,渥美電鉄高師~豊島(としま)間の開業により,老津~谷熊(やぐま)間(新豊橋起点12.7㎞)に開業した。昭和42(1967)年10月1日に貨物取扱を廃止,同44(69)年4月20日に無人化となる。平成4(1992)年12月 ...

すぎた・ゆうそうし(1907~85)  杉田有窓子,本名英一郎は,明治40(1907)年12月12日,豊橋市魚町の杉田八五郎の長男として生まれた。青山学院神学部予科,明治大学専門部史学科を卒業し,大和学園高等女学校,文部省維新史料編纂事務局,横浜専門学校に勤務した。昭和13 ...

しろばんば  「しろばんば」(中央公論社 昭和38年)は,井上靖(やすし)(1907~91)の自伝的小説である。昭和35(1960)年1月から同37(62)年12月「主婦の友」に連載された。昭和38(1963)年,「続しろばんば」が書きおろしで中央公論社から出版された。物語の主人公洪 ...

しょうやげんきち  庄屋源吉は,宝暦2(1752)年に高足(たかし)村(豊橋市高師町)に生まれ,18歳の時,庄屋となった。このごろ吉田(豊橋)領の百姓は,年貢の重圧に苦しめられていた。源吉が20歳のころ,領内各村の庄屋が連名で減租を願い出たが,役人はそれを許さなかっ ...

じょうすいじょう  小鷹野浄水場は,昭和5(1930)年3月,豊橋市の上水道事業として建設された。八名郡下川(しもかわ)村西下条(げじょう)地先(豊橋市下条西町三ノ下)の豊川(とよがわ)河底の伏流水を水源として,同村牛川字小鷹野(豊橋市東小鷹野二丁目)に浄水場を,八名 ...

しもほそやむら  細谷郷は,建久元(1190)年,高芦(たかし)の庄(豊橋市高師町)から分立したといわれる。渥美郡下細谷村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に560石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に中泉支配所634石とある。明治7(1874)年の家数134,人数688で ...

じっしゅうじょがっこう  大正13(1924)年10月,南設楽郡新城町(新城市)の下山嘉一郎が愛知和洋裁縫女学校を設立し,大正15(1926)年,渥美郡高師村福岡字鍵田(豊橋市鍵田町)に移転し,愛知高等和洋裁縫女学校と改称した。昭和2(1927)年,高等実科を新設して愛知高 ...

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