わたなべ・へいないじ(1852~1925) 渡辺平内治は,嘉永5(1852)年11月,三河国渥美郡馬見塚村(豊橋市川崎町)の渡辺寛の長男として生まれた。幼名は潔,明治10(1877)年,24歳で家督を相続し,平内治を襲名した。明治5(1872)年,村の総代に推挙されて以来,宝飯郡鹿 ...
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蓮泉寺(豊橋市花園町) とは(豊橋百科事典より)
れんせんじ 高流山蓮泉寺(真宗大谷派)ははじめ正行寺と称し,その創立は不明な点が多い。寺伝によれば,創立は応永8(1401)年で,開山は慶心法師で,三河国足助庄下山上小市(豊田市)に建てられ,後,4世了慶法師(文安4年示寂(じじゃく))の時,渥美郡馬見塚(吉田城 ...
吉田川渡船 とは(豊橋百科事典より)
よしだがわとせん 吉田川(豊川(とよがわ))に架かる吉田大橋の大規模な修理・架け替えは幕府直轄で行われた。江戸時代初期の吉田大橋の架け替えの際には,古い橋を通行しながら新しい橋の架橋工事が行われたが,正徳3(1713)年の大修理からは吉田宿の船町が渡船を運航し ...
吉田方村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
よしだがたむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚村・高須新田が合併して豊田村と改称したが,同17(84)年8月11日豊田村は分離して,東豊田村・西豊田村と改称した。明治11(1878)年12月20日の編成により,茅野新 ...
吉田方小学校(豊橋市吉川町) とは(豊橋百科事典より)
よしだがたしょうがっこう 豊橋市立吉田方小学校は,明治6(1873)年10月,第10中学区第5番小学吉川学校が三ッ相(みつあい)村・吉川村・野田村を通学区域として,吉川村の香福寺に発足し,同8(75)年8月,渥美郡第6番小学高洲学校(高洲新田・馬見塚村・青竹新田・富久縞 ...
吉川村 とは(豊橋百科事典より)
よしかわむら 渥美郡の吉田方5か村は,寛永15(1638)年,羽田(はだ)村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚村に分立したという。渥美郡吉川村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)では吉田中3032石余である。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,吉川村豊橋藩領分297石余 ...
横須賀村 とは(豊橋百科事典より)
よこすかむら 横須賀村は,元正元(1573)年以前は,横州村と称していたという。「新訂三河国宝飯郡誌」鹿菅村に,「永正二年乙丑年,今川治部大夫氏親ノ旨ヲ承ケ,牧野田三支配ノ節,天文七戊戌年,横州村ヲ開発,渡津ノ今道ヨリ横手ニ当リ寄州アリ,諸人横州ト云タルヲ村 ...
養福寺(豊橋市川崎町) とは(豊橋百科事典より)
ようふくじ 塔本山養福寺(浄土宗)の創立は,文禄4(1595)年で,開山は誠誉春達法師である。山号塔本山は当時の地名(塔ノ元)より出ている。本尊は阿弥陀如来立像である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,馬見塚村「浄土宗,川崎,塔本山養福寺,吉田悟真寺末寺 ...
幽照軒五道 とは(豊橋百科事典より)
ゆうしょうけん・ごどう(1833~1904) 幽照軒五道は,天保4(1833)年4月,渥美郡志田村(田原市神戸町)に生まれた。俗名を仲井伝之助といった。弘化2(1845)年,吉田(豊橋)悟真寺の諦誉上人に随身し,馬見塚村(豊橋市馬見塚町)専願寺住職となり,徳弁と名乗った。 ...
明徳院(廃寺) とは(豊橋百科事典より)
みょうとくいん 野口山明徳院は,創立・開山・開基などは明らかではない。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,馬見塚村「禅宗,新銭町,野口山明徳院,無寺院,吉田竜拈寺(りゅうねんじ)末寺,客殿五間・四間,境内東西六十八間・南北五十四間,寺内文殊堂,弐間・三 ...
妙円寺(豊橋市魚町) とは(豊橋百科事典より)
みょうえんじ 運立山妙円寺(顕本法華宗)は,文禄元(1592)年の創立で,開山は日円上人である。開基は吉田城主池田輝政である。池田輝政は天正18(1590)年7月,吉田(豊橋)城主となったとき,妙立寺(湖西市吉美)の日円上人に帰依し,上人登城の際の休息所として堂宇 ...
三ツ相村 とは(豊橋百科事典より)
みつあいむら 吉田方5か村は,寛永15(1638)年,羽田(はだ)村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚(まみづか)村に分立したという。渥美郡三ツ相村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)では吉田中3032石余である。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,三ツ相村豊橋藩領分2 ...
「馬見塚村渡辺家文書」(愛知大学綜合郷土研究所編) とは(豊橋百科事典より)
まみづかむらわたなべけもんじょ 「三州渥美郡馬見塚村 渡辺家文書」(愛知大学綜合郷土研究所 昭和52~平成11年)は,愛知大学創立30周年記念事業の一環として「愛知大学綜合郷土研究所資料叢書」の刊行が計画され,その叢書の第1~7集として22年かけて出版されたもので ...
馬見塚村 とは(豊橋百科事典より)
まみづかむら 永正2(1505)年,牧野古白が馬見塚と飽海(あくみ)の地に今橋城を築いたという。また,馬見塚のもとの地は,後の吉田(豊橋)城の地である。今川氏親は,馬見塚の替え地として,渡辺平内次に三ツ相村120貫文をあてがったという。吉田方5か村は,寛永15(1638 ...
松島新田 とは(豊橋百科事典より)
まつしましんでん 松島新田は,寛文7(1667)年,柳生川河口右岸に吉田(豊橋)藩士野部与次右衛門・堀惣助,馬見塚村孫平次によって開発された新田である。渥美郡松島新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分287石余とある。「吉田藩領戸数調」(安政5年 ...
「尾三測量日記」(大須賀初夫) とは(豊橋百科事典より)
びさんそくりょうにっき 「尾三測量日記」(愛知県郷土資料刊行会 昭和56年)は,享和3(1803)年,伊能忠敬(1745~1818)が第4次測量として江戸を出発し,駿河から三河,尾張,美濃,越前などを測量した日記から,三河,尾張の部分を抜き書きしたものである。 下細谷村 ...
初盆大施餓鬼 とは(豊橋百科事典より)
はつぼんだいせがき 初盆大施餓鬼は,豊橋の各宗寺院(真宗を除く)で行われている。中でも豊橋市馬見塚町にある浄土宗専願寺で毎年行われている初盆大施餓鬼は東三河地方でも有名である。 施餓鬼会は,春秋の彼岸会とともに仏教の代表的な行事の一つである。本来は悪道に ...
羽田村 とは(豊橋百科事典より)
はだむら 羽田の地名は,「倭名類聚鈔」(承平年間)三河国渥美郡6郷の1である幡太郷とする説と,渥美郡渥美町福江の旧称畠を幡太(はだ)郷とする説がある。吉田方5か村は,寛永15(1638)年,吉田町地および羽田村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚(まみづか)村に分立し ...
野田村 とは(豊橋百科事典より)
のだむら 吉田方5か村は,寛永15(1638)年,羽田(はだ)村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚(まみづか)村に分立したという。渥美郡野田村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)では吉田中3032石余である。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,野田村豊橋藩領分689石余, ...
土倉新田 とは(豊橋百科事典より)
とくらしんでん 土倉新田は,高須新田とともに,寛文5(1665)年,豊川(とよがわ)河口左岸に摂津池田(大阪府池田市)の土倉五郎兵衛および吉田(豊橋)本町の高須久太夫・高須嘉兵衛,上伝馬町の真弓佐平,豊川村(豊川市)の高須十太夫が開発したものである。しかし,延 ...
東三水族擁護同盟 とは(豊橋百科事典より)
とうさんすいぞくようごどうめい 東三水族擁護同盟会は,水産業者の人毛工場(日本人造羊毛株式会社)誘致反対運動の団体である。昭和8(1933)年12月8日,豊川町(豊川市)の妙巌寺(豊川稲荷)において,宝飯郡,豊橋市,渥美郡裏浜,豊川上流の各漁業代表者32人が集まり ...
高須新田 とは(豊橋百科事典より)
たかすしんでん 高須新田および土倉(とくら)新田は,ともに,寛文5(1665)年,豊川(とよがわ)河口左岸に吉田(豊橋)本町の高須久太夫・高須嘉兵衛,吉田上伝馬町の真弓佐平,豊川村(豊川市)の高須十太夫,吉田住土倉五郎兵衛によって開発された。しかし,延宝8(1680) ...
綜合郷土研究所(愛知大学) とは(豊橋百科事典より)
そうごうきょうどけんきゅうじょ 愛知大学総合郷土研究所は,昭和26(1951)年6月,旧豊橋陸軍第一予備士官学校の将校集会所の建物内に設立された。東海5県の資料・史料の所蔵が多く,機関誌「綜合郷土研究所紀要」は48輯刊行,資料叢書「三州渥美郡馬見塚村渡辺文書」など ...
専願寺(豊橋市馬見塚町) とは(豊橋百科事典より)
せいがんじ 正行山専願寺(浄土宗)の創立には諸説がある。元文元(1736)年編「悟真寺古記」には「文禄二年七月,笈感上人馬見塚村に燕居し玉ふ。専求庵之なり」とあり,当寺の創立を文禄2(1593)年,開山を悟真寺16世笈感魯念としている。 「三州吉田領神社仏閣記」( ...
神明社(豊橋市馬見塚(まみづか)町薮新切) とは(豊橋百科事典より)
しんめいしゃ(まみづか) (馬見塚)神明社の創建は,社伝に神亀3(726)年の鎮座という。天文9(1540)年津波に遭い,神主渡辺忠安が溺死し,神像および旧記を失う。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,馬見塚村「神明,祢宜平助」とある。社殿は文政6(1823)年の ...
神明社(豊橋市川崎町) とは(豊橋百科事典より)
しんめいしゃ(かわさき) (川崎)神明社は,応仁元(1467)年の創建という。古い棟札に,寛永18(1641)年中林太良兵衛とある。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,野田村「川崎,神明,祢宜七郎右衛門」「川崎村,大明神,無社森有,祢宜平太郎弥よ・村中支配」, ...
浄慈院(豊橋市花田町百北) とは(豊橋百科事典より)
じょうじいん 多聞山浄慈院(浄土宗西山禅林寺派)は,「縁起(えんぎ)」によると,はじめ下野国(栃木県)にあったが,寛文7(1667)年住職忍誉良済は本尊押合地蔵尊を負って吉田(豊橋)馬見塚へ,さらに高須新田(豊橋市高洲町)に移ったが,高潮に遭ったため,延宝8(16 ...
17人の郷士 とは(豊橋百科事典より)
17にんのごうし 戦国時代には多くの郷士が東三河に土着し,多くの郷村が成立した。林自見「三州吉田記」に「是時東三河有十七人郷士」とあり,今橋城を守る今川方の17人の郷士がいたことを記している。① 戸田惣兵衛は,二連木(にれんぎ)にいた。② 石田式部は代々,吉田 ...
下野新田 とは(豊橋百科事典より)
しものしんでん 下野新田は,天和2(1682)年ごろ,吉田(豊橋)札木町の問屋久兵衛が馬見塚(まみづか)村の堀割に堤を築き,その両岸を開発して問屋新切と称したものである。元禄16(1703)年,下五井村の権左衛門・野田村の弥惣左衛門が整備して下野新田と称した。渥美郡 ...
西光寺(豊橋市大手町) とは(豊橋百科事典より)
さいこうじ 日東山西光寺(曹洞宗)は慶長6(1601)年,竜拈寺(りゅうねんじ)2世祖庵英彭和尚の開創と伝えられている。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,馬見塚村「禅宗,手間町,日東山西光寺,吉田竜拈寺末寺,平僧,客殿五間・四間,寺領三石目,伊奈備前守様御 ...
喜見寺(豊橋市花園町) とは(豊橋百科事典より)
きけんじ 呉服山喜見寺(曹洞宗)の創立は,南北朝末期の元中7(1390)年で,開基は郷士の吉見吉(喜)太郎であり,寺域は当時戦乱のために消失した吉見氏の城址(じょうし)であると伝えられている。開山は大津(豊橋市老津町)桂昌寺の3代徳海和尚で,はじめは吉見寺と書い ...
観音寺(廃寺) とは(豊橋百科事典より)
かんのんじ(はいじ) 普門山観音寺(浄土寺)は,永正3(1506)年の創立で,開山は法順法師という。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,馬見塚(まみづか)村「浄土宗,指笠町,普門山観音寺,吉田悟真寺末寺,平僧,客殿四間半・四間,境内東西七間半・南北廿二間,右 ...
願成寺(豊橋市東新(ひがししん)町) とは(豊橋百科事典より)
がんじょうじ 正覚山願成寺(真宗高田派)の創立は,大永2(1522)年,開山は行円法師である。はじめ関屋町にあったが,天正18(1590)年城主池田輝政が城地拡張をした際に指笠(さしかさ)町(豊橋市新本町)に移転,大正10(1921)年東田(あずまだ)町北蓮田(れんだ)(豊橋 ...
川崎町 とは(豊橋百科事典より)
かわさきちょう 川崎とは,川の前(さき)という意味である。豊橋市川崎町は,明治初年までは,馬見塚・吉川・三ツ相・野田とは地続きであった。「鹿菅村誌」によれば,川崎の村内小区画は,吉川川崎南・野田川崎北・馬見塚川崎南がある。現在でも豊橋市川崎町には,吉田方地 ...
今橋 とは(豊橋百科事典より)
いまはし 豊川(とよがわ)は飽海(あくみ)川と呼ばれ,承和2(835)年の太政官符では飽海の渡しと呼ばれた。貞応3(1224)年ごろ,ここに架橋された橋を今橋と称したとされる。地名は飽海で,橋名は今橋であった。永正2(1505)年,牧野古白が飽海と狸塚(まみづか)(馬見塚) ...
飽海村 とは(豊橋百科事典より)
あくみむら 飽海の地名は,飽海河の渡しとして「類聚三代格」(承和2年)太政官符に現われる。「和名類聚鈔」(承平年間)の渥美郡6郷中の渥美であるとの説もある。しかし,伊勢神宮領の「本神戸廿戸号渥美神戸,新神戸十戸号飽海神戸,新加神戸十戸」の記述などから,渥美 ...