もり・ぼうひつ(1888~1952) 森夢筆,本名彦一は,明治21(1888)年12月11日,西加茂郡猿投町(豊田市)に生まれた。明治44(1911)年,早稲田大学を卒業し,愛知県第四中学校に奉職したが,大正6(1917)年退職した。以後,渥美電鉄・中部電力・中央水力などに勤務した ...
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変電所 とは(豊橋百科事典より)
へんでんしょ 電力は発電所から高圧で基幹変電所に送電し,配電用変電所から需用者に配電する。明治42(1909)年,見代(けんだい)発電所(南設楽郡作手村)から豊橋変電所(宝飯郡下地町)に1万Vの特別高圧で送電したものを2200Vに降圧して豊橋市内に配電した。明治45(1 ...
平井信号場(宝飯(ほい)郡小坂井町平井) とは(豊橋百科事典より)
ひらいしんごうじょう 平井信号場は,昭和2(1927)年6月1日,愛知電気鉄道(名古屋鉄道)が豊川鉄道(飯田線)の吉田(豊橋)駅へ乗り入れたとき,豊橋起点3.9㎞地点から分岐する位置に設置された信号場である。愛知電気鉄道の上り線は豊川鉄道の下り線をオーバークロス ...
避病院 とは(豊橋百科事典より)
ひびょういん 避病院は,明治中期から昭和前期に,伝染病患者を隔離収容した伝染病院の別称である。明治政府は伝染病の流行と死亡者の増加に対応し,明治13(1880)年,太政官布告第34号「伝染病予防規則」を公布,同26(93)年,衛生行政を警察行政管下に組み入れ,同30( ...
美術博物館(豊橋市今橋町) とは(豊橋百科事典より)
びじゅつはくぶつかん 豊橋市美術博物館は,昭和52(1977)年6月,豊橋市今橋町の豊橋公園内で着工した。昭和54(1979)年2月に完成,同54(79)年6月,開館した。この間,名誉市民の丸善相談役司(つかさ)忠から陶磁器約1000点が寄贈され,旧吉田(豊橋)藩主末裔(まつえい ...
「東三河電気事業沿革史」(芳賀信男) とは(豊橋百科事典より)
ひがしみかわでんきじぎょうえんかくし 「東三河電気事業沿革史」(芳賀信男 平成8年)は,「渥美半島電気事業小史」の続編として出版した。第1編は明治中期の豊橋電燈を重点的に,第2編は東三河地域に設立された小電力事業社の経緯と統合・消滅について述べ,さらに第3 ...
内藤斎平 とは(豊橋百科事典より)
ないとう・さいべい(1905~61) 内藤斎平初代要吉は,吉田(豊橋)新銭町(豊橋市駅前大通三丁目)で味噌醤油醸造業を営んでいた。 内藤斎平2代初吉は,明治33(1900)年渥美郡醤油同業組合を設立,同40(07)年株式会社丸仲魚問屋社長となった。大正2(1913)年豊橋魚鳥 ...
豊橋電燈 とは(豊橋百科事典より)
とよはしでんとう 豊橋電燈株式会社は,明治26(1893)年,豊橋商業会議所が創設された折の電気燈設立気運の高まりにより,翌27(94)年3月に,三浦碧水・福谷元次・佐藤弥吉ら8人が発起人となり,資本金1万5000円で創立された。全国で14番目,愛知県内では名古屋電燈につ ...
豊橋機関区(豊橋市花田町石塚) とは(豊橋百科事典より)
とよはしきかんく 昭和18(1943)年8月1日,名古屋鉄道局静岡管理部豊橋機関区が開設された。昭和62(1987)年3月1日,豊橋電車区と改称し,翌63(88)年3月13日,豊橋運転区と改称した。平成元(1989)年3月11日,豊橋運転区と豊橋車掌区をあわせて豊橋運輸区とした。なお ...
豊橋映画会館 とは(豊橋百科事典より)
とよはしえいがかいかん 豊橋映画会館は,昭和21(1946)年,豊橋市指笠町(豊橋市新本町)に天野道治により設立された。洋画会館とも称された。昭和22(1947)年,豊橋キャピトル劇場,翌23(48)年,国際劇場と改称したが,同35(60)年廃業し,跡地は中部電力の用地とな ...
東邦電力 とは(豊橋百科事典より)
とうほうでんりょく 東邦電力株式会社は,大正11(1922)年5月に設立された。社長は伊丹弥太郎であった。大正10(1921)年,名古屋電燈株式会社(社長福沢桃介)は豊橋電燈株式会社(社長福沢桃介)を合併した。豊橋電燈は名古屋電燈の豊橋営業所となった。名古屋電燈は大 ...
東海産業技術振興財団 とは(豊橋百科事典より)
とうかいさんぎょうぎじゅつしんこうざいだん 東海産業技術振興財団は,昭和62(1987)年7月1日愛知県,豊橋市をはじめとした東三河地域および静岡県などの自治体と中部電力,トヨタ自動車など民間企業からの寄付金10億0400万円を基本財産とし設立された。目的は,産学官共 ...
天竜東三河総合開発計画 とは(豊橋百科事典より)
てんりゅうひがしみかわそうごうかいはつけいかく 天竜東三河特定地域国土総合開発計画は,昭和25(1950)年5月に制定された国土総合開発法により,荒廃した国土の復興をめざして指定された全国22地域の特定地域開発計画のうちの一つである。愛知県東部,静岡県西部,長野 ...
電価争議 とは(豊橋百科事典より)
でんかそうぎ 電価争議は,大正9~10(1920~21)年の第1次電価争議と昭和5~6(1930~31)年の第2次電価争議の2回あった。第1次電価争議は,豊橋電気株式会社の合併問題が発端となった。大正9(1920)年12月,豊橋電気株式会社は,名古屋電燈株式会社との合併を決め,合併 ...
中部配電 とは(豊橋百科事典より)
ちゅうぶはいでん 第2次世界大戦直前の昭和16(1941)年9月,国の配電統制令に基づいて中部配電株式会社設立命令が11の電気事業者に発せられた。昭和17(1942)年4月1日,東邦電力の海東要造が社長となり中部配電株式会社が設立された。資本金2億円・従業員9073で本社は名 ...
中部電力(豊橋市神明町) とは(豊橋百科事典より)
ちゅうぶでんりょく 中部電力株式会社は,昭和26(1951)年5月1日,10年間にわたる電力国家管理を離れ,全国9つの電力会社の一つとして,中部配電および日本発送電の設備を譲受して設立された。 平成17(2005)年,営業区域は愛知・岐阜(一部を除く)・三重(一部を除く ...
「中部地方電気事業史」(中部電力事業史編纂委員会編) とは(豊橋百科事典より)
ちゅうぶちほうでんきじぎょうし 「中部地方電気事業史」(中部電力株式会社 平成7年)は平成元(1989)年,名古屋電燈会社の開業100年を契機として,「中部地方電気事業史」の編纂が企画された。電気事業に関する歴史資料が散逸し,往時の事業に従事した人々も数少なくな ...
中部産業遺産研究会 とは(豊橋百科事典より)
ちゅうぶさんぎょういさんけんきゅうかい 中部産業遺産研究会は,昭和59(1984)年愛知県内の工業高等学校の教員が産業遺産の研究に取り組んだことに始まる。愛知県内の戦前からのメーカー500社に手紙を送り,589件の産業遺産を見つけた。平成5(1993)年,研究会を中部産 ...
総合開発機構(豊橋市駅前大通二丁目) とは(豊橋百科事典より)
そうごうかいはつきこう 総合開発機構は,昭和43(1968)年8月,開発ビルに愛知県・豊橋市・中部電力・名古屋鉄道などが出資し,第三セクターとして設立された。その主な事業は,埠頭(ふとう)・港湾諸施設の運営・臨海工業団地の分譲・住宅用地の造成分譲およびビル管理運 ...
新幹線 とは(豊橋百科事典より)
しんかんせん 昭和39(1964)年10月1日,東京~新大阪間515.4㎞(営業キロ552.6㎞)の東海道新幹線が開業した。豊橋駅は,在来線の海側へ地平駅を建設した。上り副本線(11番ホーム)・上り本線(12番ホーム)・上り通過線・下り通過線・下り本線(13番ホーム)の5線で,プ ...
「三遠南信産業遺産」(石田正治) とは(豊橋百科事典より)
さんえんなんしんさんぎょういさん 「三遠南信産業遺産」(春夏秋冬叢書 平成18年)は,明治時代から昭和前期を中心に三遠南信地方で築かれ,今に残る産業遺産200か所を1冊の本にまとめたものである。製造業を中心に水力発電などの電力産業,鉄道敷設などの交通・運輸産 ...
奥田正香 とは(豊橋百科事典より)
おくだ・まさか(1847~1921) 奥田正香は,弘化4(1847)年3月,鍋屋上野(名古屋市)の和田氏の子として生まれ,尾張藩士奥田主馬に引き取られた。尾張藩勤皇派幹部,僧侶,明治政府参与,地方行政官を経て,名古屋区会議長,愛知県会議長などを歴任したが,奥田の本領は ...