りゅうがんいん 松月山竜岩院(曹洞宗)の創立は,天文元(1532)年で,開山は竜拈寺(りゅうねんじ)第4世休屋宗官和尚である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,上岩崎村「松月山竜岩寺,吉田竜拈寺末寺,平僧,客殿六間・四間半,右寺内鎮守白山権現」とある。 本 ...
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頼朝ゆかりの長楽の桧(民話) とは(豊橋百科事典より)
よりともゆかりのながらのひのき 鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147~99)は,京の都へ上る時,鎌倉街道を豊橋市雲谷(うのや)町の普門寺から船形山を越え,豊橋市岩崎町・多米(ため)町・牛川町乗小路・石巻本町和田へと駒を進めた。豊橋市石巻本町長楽の集落にひときわ大きな桧 ...
吉田神社(豊橋市関屋町) とは(豊橋百科事典より)
よしだじんじゃ 吉田神社は,古くは天王社・牛頭(ごず)天王・吉田天王社と称した古社で,治承2(1178)年源頼朝が普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)に滞在したとき,戦勝祈願のため家臣を代参させ,三河守護安達藤九郎盛長も社殿を造営したという。天文16(1547)年今川義元 ...
夜学会 とは(豊橋百科事典より)
やがくかい 夜学会は,明治25(1892)年9月,牟呂青年学術研究会が発足したことに始まる。次に,明治32(1899)年2月,雲谷(うのや)青年夜学会が,年齢15歳以上25歳以下の者を会員として設立された。これ以前の,明治27(1894)年ごろから,有志夜学会が設けられた。この会 ...
文覚上人祈りの泉(民話) とは(豊橋百科事典より)
もんがくしょうにんいのりのいずみ 普門寺(豊橋市雲谷町)に「文覚上人祈りの泉」という小さな池がある。ある年のこと,日照りの日が続き,村全体が水枯れ状態となった。そのころ,旅から戻った文覚上人は,水不足に難渋する村のために,夜半から岩の上に座り,一心不乱に ...
ムササビ とは(豊橋百科事典より)
むささび ムササビ(齧歯(げっし)目リス科)は,体長は約40㎝の哺乳類である。首から前後肢,さらに尾にかけて飛膜が発達しており,夜間飛膜を拡げて木から木へ滑空して移動する。昼間は樹の洞や人家の屋根裏で寝て,日没後に活動する。「ギュルギュルギュル・・・」という ...
源頼朝 とは(豊橋百科事典より)
みなもとの・よりとも(1147~99) 源頼朝は,久安3(1147)年4月8日,尾張熱田(名古屋市)で,源義朝の3男として生まれた。3男ではあるが,母が熱田神宮司藤原季範女であるため,嫡子とされた。治承4(1180)年の挙兵以来,建久元(1190)年と同6(95)年の2回上洛してい ...
「普門寺の大杉」(豊橋市指定天然記念物) とは(豊橋百科事典より)
ふもんじのおおすぎ 「普門寺の大杉」1本(普門寺)は,昭和43(1968)年6月19日,豊橋市天然記念物に指定された。 スギは,スギ科の常緑高木で,細く先のとがる葉を持ち,幹はまっすぐに伸びることが多い。この性質ゆえに,用材のための植林がよく行われており,社寺にも ...
普門寺旧伽藍址(豊橋市雲谷町ナベ山下) とは(豊橋百科事典より)
ふもんじきゅうがらんし 普門寺旧伽藍址は,普門寺背後の山中に所在するかつての境内址であり,総面積33万㎡にわたって展開する大山林寺院址である。旧伽藍址は元堂址(もとどうあと),元々堂址(もともとどうあと)と称する2つの大規模な堂址を中心に,100か所を超える平場( ...
普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町ナベ山下) とは(豊橋百科事典より)
ふもんじ 船形山普門寺(高野山真言宗)の開基は,神亀4(727)年,諸国巡錫(じゅんしゃく)中の行基菩薩が霊気を感じ,聖観世音菩薩立像を刻み本尊としたといわれている。平安時代に真言宗となった。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,雲谷村「真言宗,船形山普門 ...
船形山城(豊橋市雲谷町上ノ山) とは(豊橋百科事典より)
ふながたさんじょう 船形山城は,三河と遠江(とおとうみ)の境に位置し,築城時期は明らかではないが,今川氏が三河方面への侵攻の拠点とするために築いたものとされる。 城址(じょうし)は普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の裏山にあたり,現在は東海自然歩道のルートとなっ ...
船形山(豊橋市岩崎町・雲谷(うのや)町) とは(豊橋百科事典より)
ふながたさん 船形山は,豊橋市の東部,弓張山系の南端近くにある標高276mの山で,山頂は北東部から南西部にかけてなだらかなカーブをえがいているので,東側山麓から仰ぐと山容が船底型に見える。山頂には,戦国時代に今川方により城が築かれ,現在も土塁の一部が残ってい ...
「不動明王・二童子各立像」(愛知県指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
ふどうみょうおう・にどうじかくりゅうぞう 「木造不動明王・二童子各立像」3躯(く)(普門寺蔵)は,平成3(1991)年3月29日,豊橋市有形文化財(彫刻),同5(1993)年2月26日,愛知県有形文化財(彫刻)に指定された。 普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の「不動明王立像 ...
ヒノキ とは(豊橋百科事典より)
ひのき ヒノキ(ヒノキ科)は,常緑高木で,日本特産の樹木である。ヒノキの名の由来は「火の木」で,樹皮を細く裂いて,火口(ほくち)として利用したからだといわれている。材は緻密で硬く,建築材としてとくに柱などに重用される。江戸時代,幕府の御料林であった木曽で有 ...
原村 とは(豊橋百科事典より)
はらむら 渥美郡原村の村高は,「三河国村々高附」に(寛永期)に316石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分401石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数46,人数219であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,原村「神明・八幡宮,禅宗 ...
白山社(豊橋市大脇町大脇) とは(豊橋百科事典より)
はくさんしゃ(おおわき) (大脇)白山社の創建は明らかでないが,大脇新田(豊橋市大脇町)は鎌倉時代に雲谷(うのや)村(豊橋市雲谷町)より分村したもので,分村のころ産土神(うぶすなかみ)として菊理姫(くくりひめ)を祀ったものとされる。「三州吉田領神社仏閣記」(元 ...
夏目甕麿 とは(豊橋百科事典より)
なつめ・みかまろ(1773~1822) 夏目甕麿は,安永2(1773)年5月5日,浜名郡白須賀宿(湖西市白須賀)の酒造業を営む夏目忠蔵の長男として生まれた。幼名を舂太(うすた),通称を嘉右衛門といい,萩園と号した。寛政9(1797)年遠江(とおとうみ)国豊田郡大谷村(天竜市)の ...
中原村 とは(豊橋百科事典より)
なかはらむら 中原村は,元和7(1621)年の開発で,高57石余とされる。渥美郡中原村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に220石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分172石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数29,人数147であった。「三州 ...
豊橋別院(豊橋市花園町) とは(豊橋百科事典より)
とよはしべついん 豊橋別院(真宗大谷派)の創立については,天文3(1534)年説(「三州吉田記」)と寛永初年説(「豊橋及其附近」)など諸説があるが,現存している文献によると文禄4(1595)年ごろ,本願寺の教如上人(1558~1614)が現在地に吉田惣道場を創立して誓念寺 ...
戸田宗光 とは(豊橋百科事典より)
とだ・むねみつ(?~1508) 碧海郡上野荘(豊田市)にいた土豪の戸田宗光は,文明7(1475)年ごろ,渥美郡大津(豊橋市老津町)に入り,同12(1480)年ごろ田原(田原市田原町)に移った,明応2(1493)年ごろ牧野氏と今川氏に対峙するために,朝倉川左岸に仁連木(にれん ...
「銅経筒」(国指定重要文化財) とは(豊橋百科事典より)
どうきょうづつ 「銅経筒(瓦壺入)」久寿三年建辰月二十九日 願主僧勝意ノ銘アリ 1口・「附銅鏡(瓦壺入)」鴛鴦(えんおう)花唐草文様 1面(普門寺蔵)は,大正12(1923)年3月28日,国宝(金石文)(昭和25年5月30日,国の重要文化財)(考古資料)に指定された。 ...
昶遍法印 とは(豊橋百科事典より)
ちょうへん・ほういん(1668頃~1751) 昶遍法印は,寛文8(1668)年ごろ,吉田(豊橋)呉服町の林弥次右衛門景品の13男として生まれた。幼少のころ,普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)に入って得度。名を教春といったが,後年,昶遍と改めた。 享保17(1732)年5月,普門寺 ...
立岩(豊橋市雲谷(うのや)町) とは(豊橋百科事典より)
たていわ 立岩は,豊橋市の東部,愛知・静岡県道3号(立岩街道)の豊橋市二川町と湖西市新所とのほぼ中間の北側にある標高88.7mの独立したチャートから成る岩山である。南面は,高さ25mほどのほぼ垂直の岩壁で,ロッククライミングのトレーニング場となっており,初級・中 ...
大三紙業(豊橋市雲谷(うのや)町外ノ谷) とは(豊橋百科事典より)
だいさんしぎょう 大三紙業株式会社は,昭和13(1938)年,松井源吉が豊橋市神明町で松井洋紙店を創業したことに始まる。昭和26(1951)年商号を大三紙業株式会社とし,同36(61)年大池工場を豊橋市向山町伝馬に建設し,軟包装資材加工工場とした。昭和56(1981)年に,深 ...
大栄(豊橋市雲谷(うのや)町外ノ谷) とは(豊橋百科事典より)
だいえい 株式会社大栄は,大栄製作所として昭和25(1950)年森田広次が豊橋市中八町で,板金店を開業したことに始まる。昭和30(1955)年には,養鶏用石油ランプのトップヒーター製造を開始し,同37(62)年工場を豊橋市佐藤町に移転する。昭和50(1975)年に有限会社大栄 ...
素盞嗚神社(豊橋市新本町) とは(豊橋百科事典より)
すさのおじんじゃ(みこしやすみ) 治承2(1178)年源頼朝が雲谷(うのや)の普門寺に在泊,天王社(吉田神社)に祈願した。(御輿休(みこしやすみ))素盞嗚神社は,その後文治2(1186)年天王社の分霊を建立し,天王社の別宮としたことに始まる。天文16(1547)年今川義元は ...
スギ とは(豊橋百科事典より)
すぎ スギ(スギ科)は,常緑針葉高木で,日本特産の樹木である。本州から四国,九州に広く自生し,寿命が長く,各地に大木がある。材は芳香があり,美しいので建築材として重用される。また,三河地方でよく作られる五平餅のへら板や弁当箱にも用いられる。植林される樹種 ...
真竜院(豊橋市東赤沢町茶ノ木) とは(豊橋百科事典より)
しんりゅういん 広沢山真竜院(曹洞宗)の創立は不明であるが,もと真言宗で普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の末寺であったと伝えられる。衰退していたものを,底岳徹明和尚が曹洞宗に改宗再興し,のちに竜門寺末となった。開基は水野蔵人頭定守(?~1487)と伝えられる。 ...
神宮寺(豊橋市魚町) とは(豊橋百科事典より)
じんぐうじ 白雲山神宮寺(天台宗)は,吉田(豊橋)に長禅寺という禅宗寺院があったが荒廃していたので,慶長元(1596)年知多郡師崎(知多郡南知多町)の羽頭(はず)神社別当職神宮寺の初代重信法印が禅宗寺院長禅寺を再建して開山となり,神宮寺と称して天台宗に改めた。 ...
「釈迦如来坐像」(国指定重要文化財) とは(豊橋百科事典より)
しゃかにょらいざぞう 「木造釈迦如来坐像」1躯(く)(普門寺蔵)は,大正11(1922)年7月15日,国宝(彫刻),(昭和25年5月30日,国の重要文化財)に指定された。 普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の「釈迦如来坐像」は,桧(ひのき)材の割矧造(わりはぎづく)りで,像高136 ...
「四天王立像」(国指定重要文化財) とは(豊橋百科事典より)
してんのうりゅうぞう 「木造四天王立像」4躯(く)(普門寺蔵)は,大正11(1922)年7月15日,国宝(彫刻),(昭和25年5月30日,国の重要文化財)に指定された。 普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の「四天王立像」は,像高170.3~178.8㎝の持国天・増長天・広目天・多聞天 ...
山岳寺院 とは(豊橋百科事典より)
さんがくじいん 豊橋市と湖西市の境界である弓張(ゆみはり)山地の山中には,古代から中世にかけて存続した寺院址が存在する。これらは平安時代の真言宗・天台宗などの密教系寺院であり,いずれも後世に廃絶したか,あるいは山麓の別地点に境内を移転させてしまったものが多 ...
駒止めの石(民話) とは(豊橋百科事典より)
こまどめのいし 源頼朝(1147~99)は逆戈(さかほこ)神社(豊橋市浜道町)を崇敬(すうけい)していた。文治4(1188)年に神領を寄進した時,お墨付きに八遅戈(やちほこ)大明神と記した。神社は後に,石巻神社の分霊を祀り,逆戈神社と改名したという。源頼朝が鎌倉より京へ ...
化積上人 とは(豊橋百科事典より)
けしゃくしょうにん(生没年不詳) 普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の化積上人は,源義朝の弟,源頼朝の叔父といわれる人物である。源頼朝は,建久元(1190)年上洛の途次普門寺に宿泊し,多年にわたる平家追討の祈祷を修してきた功績に報いるために,雲谷(うのや)・岩崎両 ...
鹿嶋神社(豊橋市雲谷(うのや)町上ノ山) とは(豊橋百科事典より)
かしまじんじゃ 鹿嶋神社は,神亀年中(724~728)武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀ったと伝え,旧称を高宮大明神と称し,社地は現在地より山奥であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,雲谷村「鹿嶋大明神,祢宜権三郎,右境内弥勒堂(みろくどう)弐尺四方」 ...
大川村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
おおかわむら 明治11(1878)年12月20日,郡区町村編制の渥美郡大岩村・二川村(大脇新田を合併)・谷川村(雲谷村・中原村・原村が合併)は,同22(89)年10月1日,町村制施行にあたって合併して大川村と改称した。明治26(1893)年6月23日,大川町となった。明治30(1897 ...
梅田川 とは(豊橋百科事典より)
うめだがわ 梅田川は,梅田川水系の基幹をなす二級河川(愛知県管理)である。静岡県境に近い豊橋市雲谷(うのや)町から流れ出した半尻川(豊橋市域の延長1400m)が,静岡県湖西市梅田で梅田川と改称し(静岡県内延長1320m),豊橋市中原町で南方から流れて来た境川(延長47 ...
雲谷村 とは(豊橋百科事典より)
うのやむら 渥美郡雲谷村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に497石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分400石余,普門寺領100石とあり,「吉田領戸数調」(安政5年)によれば家数58,人数280であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,雲谷村「真 ...
雲谷町神楽保存会 とは(豊橋百科事典より)
うのやちょうかぐらほぞんかい 雲谷町神楽保存会は,江戸時代中期から二川町雲谷地区の神楽を受け継いできて,昭和51(1976)年に伝統の復活と伝承という明確な目標をもって再結成された。昭和初期には「門付け」と称して6~7人の青年が東三河一帯,遠州地方を巡回した。現 ...
葦毛と手洗(民話) とは(豊橋百科事典より)
いもうとてあらい 葦毛(豊橋市岩崎町)は,源頼朝(1147~99)が鎌倉街道を通って京都にのぼった時,険しい山越えであったためか,乗っていた葦毛(あしげ)の愛馬が急に苦しみ,死んでしまったのを悼み,この地に葬った。亡骸を葬った所を「葦毛(いもう)」と呼ぶようになっ ...
イノシシ とは(豊橋百科事典より)
いのしし イノシシ(偶蹄目(ぐうていもく)イノシシ科)は,哺乳類で体長は1m余りある。頑丈な体つきで,上あごの犬歯は牙(きば)状になっており,雄では武器になる。雑食性で,カエル・ミミズなどの小動物や植物の根茎を掘って食べる。昼間はササやススキの原で「寝屋(ねや) ...
「阿弥陀如来坐像」(普門寺・平安期)(国指定重要文化財) とは(豊橋百科事典より)
あみだにょらいざぞう(ふもんじ・へいあんき) 「木造阿弥陀如来坐像」1躯(く)(普門寺・平安期)は,大正11(1922)年7月15日,国宝(彫刻)(昭和25年5月30日,国の重要文化財)に指定された。 普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の「阿弥陀如来坐像」(平安期)は,像高 ...
「阿弥陀如来坐像」(普門寺・鎌倉期)(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
あみだにょらいざぞう(ふもんじ・かまくらき) 「木造阿弥陀如来坐像」1躯(く)(普門寺・鎌倉期)は,平成9(1997)年6月24日,豊橋市有形文化財(彫刻)に指定された。 普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の「阿弥陀如来坐像」は,普門寺の客殿の本尊として祀られ,13世紀 ...
愛知・静岡県道3号(豊橋湖西線) とは(豊橋百科事典より)
あいち・しずおかけんどう3ごう 愛知・静岡県道3号(豊橋湖西線)は,明治12(1879)年,国道県道一覧表,大正2(1913)年一覧表に,「渥美郡二川町より静岡県西浜名郡新所村に至る新所街道」と掲載されている。昭和34(1959)年12月15日に,湖西大岩豊橋線,同46(71)年 ...