わかまつじんじゃ 若松神社は,昭和30(1955)年,野依(のより)開拓農業協同組合の守護神として天照大神と豊受大神を勧請して創祀した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を ...
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老人保健施設 とは(豊橋百科事典より)
ろうじんほけんしせつ 老人保健施設は,病状が安定しており入院による治療を必要としない寝たきり・認知症など日常生活の自立が困難な高齢者が,家庭復帰のためのリハビリ訓練や療養に必要な看護・介護および医療サービスを受ける施設である。・光生会介護老人保健施設赤岩 ...
酪農 とは(豊橋百科事典より)
らくのう 酪農は,乳牛を飼育して牛乳を生産する畜産経営の一つである。飼育乳牛は,ホルスタイン種がほとんどである。豊橋に酪農が取り入れられた歴史は,昭和12(1937)年創立の中央製乳株式会社が,豊橋・渥美・八名(やな)・宝飯郡および湖西地方一帯に,乳牛飼育を積極 ...
幼稚園 とは(豊橋百科事典より)
ようちえん 豊橋市内には31の幼稚園がある。学校法人曙幼稚園(昭和28年設立)牛川育英幼稚園(昭和50年設立)恵日(えにち)幼稚園(昭和23年保育園,同31年幼稚園設立)大清水幼稚園(昭和31年保育園,同43年幼稚園設立)希望が丘幼稚園(昭和53年設立)悟真寺幼稚園(昭和 ...
山田安平 とは(豊橋百科事典より)
やまだ・やすへい(1869~1938) 山田安平は,明治2(1869)年10月22日,山田安蔵の長男として生まれた。山田安平は家業を継ぎ,明治42(1909)年,一星青物市場に対抗して豊橋青乾物会社を河合虎三郎・倉橋源平・中島駒次・小山秀作・中村為太らと創立して,食料品・青果 ...
藻草騒動 とは(豊橋百科事典より)
もぐさそうどう 藻草騒動は,天保14(1843)年,大崎村と東植田村,西植田村,野依(のより)村,仏飼(ぶっしょう)村,切反ヶ谷(きったがや)村の5か村が藻草場入会(いりあい)の件で争った事件である。取調べの結果関係する文書がないことで,5か村の入会は認められないと決定 ...
「南栄町物語」(水口源彦) とは(豊橋百科事典より)
みなみさかえちょうものがたり 「南栄町物語─軍隊の街から学園の街へ─」(水口源彦 平成8年)は,高師村の空池,福岡村の蟹原,磯辺村の東山という3地区が南栄町として成立したことを記したものである。田原街道が野依街道と分岐する辺りに,明治25(1892)年村づくりが ...
マツ とは(豊橋百科事典より)
⇒ アカマツ - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog http://nagasa ...
前田健次 とは(豊橋百科事典より)
まえだ・けんじ(1861~1927) 前田健次は,文久元(1861)年9月15日,渥美郡下細谷村(豊橋市東細谷町)の前田伝次郎の2男に生まれた。17歳の時,渥美郡野依村(豊橋市野依町)の山田家へ養子に行った。明治15(1882)年,前田伝次郎が経営する,細谷製糸所の所員となった ...
墓地 とは(豊橋百科事典より)
ぼち 墓地は,明治以前には,町方は寺院境内に,農村では村々に散在していた。明治以降は火葬が普及し,寺院境内に墓碑を建てることが多くなり,大規模な墓地が市営で造成された。平成17(2005)年,大規模墓地は,市営5か所,私営1か所である。 市営墓地は,飯村(いむれ ...
仏餉村 とは(豊橋百科事典より)
ぶっしょうむら 渥美郡仏餉村は,寛永検地によって野依(のより)村から分立した。仏餉村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に131石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分140石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数32,人数158であった。「三 ...
仏鑑寺(豊橋市野依町西屋敷) とは(豊橋百科事典より)
ぶつがんじ 義徳山仏鑑寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,享保7(1722)年で,開山は不明で,開基は野依(のより)村の篤信者村田翁(純性義徳庵主)である。この地に霊峰山仏鑑寺と称する古刹(こさつ)があったが慶長年間兵火に遭い伽藍(がらん)一切を焼失し,毘沙門天像だけが ...
富士見台土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
ふじみだいとちくかくせいり 富士見台土地区画整理事業(組合施行)は,豊橋市南大清水町・西赤沢町・老津町の44haにわたって,昭和56(1981)年度から同63(88)年度に施行された。昭和60(1985)年2月4日富士見台一~三丁目・同63(88)年6月1日野依台一~二丁目,同63 ...
福岡村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
ふくおかむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡橋良村・小池村・小池村持地高足(たかし)分地・山田村・小松新田・佐藤村・小浜村は合併して福岡村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行された。明治39(1906)年9月10日,福岡村・高師 ...
彦坂新田 とは(豊橋百科事典より)
ひこさかしんでん 彦坂新田は娵取(よめとり)新田とともに,梅田川流域から離れた植田南部の乏水性の丘陵地に開発された新田である。この新田は,元禄13(1700)年吉田(豊橋)藩主久世重之の奥方女中縁家の者を百姓に取り立て,開発したものである。やせ地であったので,野 ...
八幡社(豊橋市野依(のより)町八幡) とは(豊橋百科事典より)
はちまんしゃ(のより) (野依)八幡社は,慶雲元(704)年豊前国宇佐八幡宮からの勧請で,康和2(1100)年平忠朝が再建,神田を寄付したという。競馬・歩射神事は,野依および高塚・伊古部(いこべ)・植田・仏餉(ぶっしょう)で務めた。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年 ...
野依村 とは(豊橋百科事典より)
のよりむら 渥美郡野依村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に984石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分1179石余,八幡社領3石,嵩山寺(すざんじ)領5石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数143,人数751であった。「三州吉田領神社仏閣記」 ...
「野依八幡社のシダレザクラ」(豊橋市指定天然記念物) とは(豊橋百科事典より)
のよりはちまんしゃのしだれざくら 「野依八幡社のシダレザクラ」1樹(野依八幡社境内)は,平成11(1999)年2月22日,豊橋市天然記念物に指定された。 シダレザクラは,バラ科の落葉高木でヒガンザクラの枝が垂れる品種である。サクラとしては,寿命が長いため古木にな ...
「野依のめおと松」(豊橋市指定天然記念物) とは(豊橋百科事典より)
のよりのめおとまつ 「野依のめおと松」2本(野依八幡社)は,昭和45(1970)年2月18日,豊橋市天然記念物に指定されたが,同55(80)年11月14日,指定を解除された。 野依のめおと松は,幹の目通り2.5m・樹高11.5m・樹齢推定300年と,幹の目通り2.1m・樹高12.6mの黒松2本 ...
野依小学校(豊橋市野依町諏訪) とは(豊橋百科事典より)
のよりしょうがっこう 豊橋市立野依小学校は,明治6(1873)年9月,第10中学区第12番小学野依学校とし,野依村の東雲院を校舎として開校し,翌7(74)年,嵩山寺(すざんじ)に移転した。明治13(1880)年,渥美郡第27番小学野依学校と改称し,翌14(81)年,校舎を野依村中 ...
野依街道 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 愛知県道407号(伊古部(いこべ)南栄線) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長 ...
農協 とは(豊橋百科事典より)
のうきょう 農業協同組合(以下農協)は,昭和23(1948)年,それまでの農業会が解散して農業協同組合法に基づき,信用・購買・販売・加工・共同施設・福利厚生施設・技術指導などを主な事業内容として発足した。豊橋市内には27の農協と14の開拓農協があったが,昭和42(19 ...
西山遺跡(豊橋市野依台一丁目) とは(豊橋百科事典より)
にしやまいせき 西山遺跡は,梅田川の支流である西ノ川によって形成された沖積地を望む標高30mの段丘上に所在した集落遺跡である。愛知県企業庁による土地造成事業に伴い,昭和58(1983)から同60(85)年に豊橋市遺跡調査会が発掘調査を行った。調査では45棟の竪穴住居址( ...
南稜中学校(豊橋市植田町的場) とは(豊橋百科事典より)
なんりょうちゅうがっこう 豊橋市立南稜中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,本部を植田小学校に置き,植田教場(植田小学校)・大清水教場(植田小学校大清水分教場)・大崎教場(大崎小学校)・野依(のより)教場(野依小学校)に分散して,大崎小学校・植 ...
南部中学校(豊橋市北山町東浦) とは(豊橋百科事典より)
なんぶちゅうがっこう 豊橋市立南部中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,福岡教場(福岡小学校)・高師教場(高師小学校)・磯辺教場(磯辺小学校)に分散して,南部第一中学校として発足し,校地を豊橋兵器支廠(ししょう)跡(豊橋市北山町東浦)に求めて校 ...
中瀬古館(豊橋市野依(のより)町中世古) とは(豊橋百科事典より)
なかぜこやかた 中瀬古館は,豊橋南部方面,主に梅田川流域で勢力を誇った畔田(くろだ)氏の城の一つである。天文・弘治年間(1532~58)に今川家臣畔田三郎兵衛尉が居住していたという。規模については明らかではない。城址(じょうし)は東雲寺(豊橋市野依町)とその周辺で ...
戸田忠道 とは(豊橋百科事典より)
とだ・ただみち(1813~91) 戸田忠道は,文化10(1813)年8月3日,渥美郡高塚村(豊橋市高塚町)・西七根(にしななね)村(豊橋市西七根町)の領主旗本戸田忠養の2男として江戸で生まれた。天保15(1844)年兄・忠真の養嗣子として,家督を継いだ。安政3(1856)年幕府講武 ...
道路愛称 とは(豊橋百科事典より)
どうろあいしょう 豊橋市の道路愛称は,豊橋市土木部道路維持課が平成2(1990)年に幹線道路の愛称を公募し,認定したものである。通称名がそのまま道路愛称となったのは13路線で,姫街道(国道362号の豊橋市石巻本町~嵩山(すせ)町7.0㎞),豊川街道(愛知県道豊橋豊川線 ...
東雲寺(豊橋市野依町中瀬古) とは(豊橋百科事典より)
とううんじ 陽光山東雲寺(臨済宗妙心寺派)は,永正9(1512)年の創立と伝えられているが,開基開山は不明である。永禄7(1564)年,野依(のより)村の彦坂惣兵衛経逸が寺の荒廃を惜しんで再興し,尾州下津(おりづ)村(稲沢市)正眼寺15世日山樹林和尚を請じて中興開山とし ...
天伯原 とは(豊橋百科事典より)
てんぱくばら 天伯原は,豊橋市の南部,梅田川以南から太平洋岸まで広がる洪積台地で,渥美半島の基部にあたる。標高は太平洋岸が80m~60mと高く,北西の三河湾に向かって低くなり,標高20mほどになる。天伯原の形成は,梅田川以北の高師原よりも古く,原型面はほとんど侵 ...
茶業農業協同組合 とは(豊橋百科事典より)
ちゃぎょうのうぎょうきょうどうくみあい 豊橋市茶業農業協同組合は,昭和23(1948)年12月25日,205人の正組合員のもと設立総会を開催した。初代組合長は堀田稔で,事務所を豊橋市中八町の官有地に設けた。現在は,豊橋市上野町に事務所を設け,製茶工場を豊橋市野依(のよ ...
竜巻 とは(豊橋百科事典より)
たつまき 豊橋周辺では,地形などの関係からか,竜巻の発生が多い。昭和16(1941)年11月28日豊橋市大崎町付近から前田町方面に向かって発生した竜巻で死者が12人も出ている。 平成11(1999)年9月24日,午前11時から午後1時の間に豊橋市や蒲郡市,宝飯郡小坂井町などで4 ...
高豊郵便局(豊橋市高塚町西石神) とは(豊橋百科事典より)
たかとよゆうびんきょく 高豊郵便局は,明治9(1876)年,高塚郵便局として開設され,下細谷村・上細谷村・小島村・小松原村・寺沢村・東七根(ななね)村・西七根村・高塚村・東伊古部村・西伊古部村・赤沢村・城下(しろした)村・野依(のより)村・高足(たかし)村を管内にし ...
高師村(明治39年合併) とは(豊橋百科事典より)
たかしむら 明治39(1906)年9月10日,渥美郡高師村・福岡村・磯辺村・野依村・植田村・大崎村は合併して高師村と改称した。昭和7(1932)年9月1日,高師村は豊橋市に合併した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このペ ...
高師村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
たかしむら 明治11(1878)年12月20日,郡区町村編制により,渥美郡高足(たかし)村・芦原新田・森田新田・藤並新田・高足原尾先新田・高足新新田は合併して高師村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行された。明治39(1906)年9月10日,高師村・福岡村・磯辺 ...
高師原・天伯原の開拓 とは(豊橋百科事典より)
たかしばら・てんぱくばらのかいたく 高師原・天伯原の開拓は,第2次世界大戦後の深刻な食糧事情を解決するためと戦災・復員・引揚者の就農のために,軍用地4825haを民間へ解放することにより始められた。JR東海道線・豊橋鉄道渥美線・梅田川に囲まれた高師原は,標高20~3 ...
高師小学校(豊橋市上野町上原) とは(豊橋百科事典より)
たかししょうがっこう 豊橋市立高師小学校は,明治6(1873)年7月,第10中学区第10番小学脩徳学校として,高足(たかし)村の高林寺に,高足村・森田新田・藤並新田・小松新田・山田村・佐藤村・小池村・橋良(はしら)村・小浜村を校区とし,橋良に分場(小池・小松・橋良・小 ...
「大地は語る」(池田芳雄) とは(豊橋百科事典より)
だいちはかたる 「大地は語る」(池田芳雄 昭和60年)は,池田芳雄が昭和37(1962)年の「新城市誌」に掲載した地学関係著作・論文50編と,愛知県農地林務部自然保護課の自然環境保全に関する調査報告書を加えた合計100編以上の著作の中から,東三河にしぼって「東愛知新 ...
大玄法師と狐(民話) とは(豊橋百科事典より)
だいげんほうしときつね 昔,大玄法師という坊さんが高林庵(豊橋市西高師町)にいた。ある時,大玄が南の浜に行くのに,野依(のより)(豊橋市野依町)を過ぎ,天伯原(豊橋市天伯町)に出ると,狐がたくさん遊んでいるのに出くわした。大玄は突然,持っていた法螺貝(ほら ...
嵩山寺(豊橋市野依(のより)町中瀬古) とは(豊橋百科事典より)
すざんじ 少林山嵩山寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,養老2(718)年とされる。寛文7(1667)年文律和尚が吉田(豊橋)奉行所へ宛てた書上(嵩山寺蔵)によると,開創以来600年余は不明なるも,寺伝によれば,建武元(1334)年夢窓国師が当地に来訪した際,現在地(豊橋市野 ...
素盞嗚社(豊橋市野依(のより)町西屋敷) とは(豊橋百科事典より)
すさのおしゃ(ぶっしょう) (仏餉(ぶっしょう))素盞嗚社の創建の年ははっきりしないが,寛永3(1626)年仏餉村(豊橋市野依町[仏餉])の村田三郎太夫が願主となり,神主村田九郎兵衛らと再建したといわれる。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,仏餉村「天王,祢 ...
スーパーマーケット とは(豊橋百科事典より)
すーぱーまーけっと 昭和50(1975)年から,広い駐車場を持つ郊外型大規模小売店の時代に突入した。昭和50(1975)年,向山ボウリング跡(豊橋市向山町中畑)にユーマート向山店(昭和53年ユニー向山店と改称,平成9(1997)年改築してアピタ向山店),山口毛織跡(豊橋市 ...
サクラ とは(豊橋百科事典より)
さくら サクラ(バラ科)は,落葉高木で,種類が多く,一般に春に白色または淡紅色の五弁の花が開く。古くから日本人に愛され,日本の国花になっている。豊橋では4月上旬に盛りをむかえ,豊橋公園・向山緑地・岩屋緑地・牛川遊歩公園などで花見を楽しむことができるほか, ...
国道23号バイパス とは(豊橋百科事典より)
こくどう23ごうばいぱす 国道23号豊橋バイパスは,名豊道路の一部として計画され,豊川市為当町(愛知県道31号)から伊古部南栄線(愛知県道407号)の豊橋市野依町までの延長17.6㎞の自動車道路である。豊橋市野依町からの国道23号豊橋東バイパス(野依IC~国道1号間)に ...
校区市民館 とは(豊橋百科事典より)
こうくしみんかん 校区市民館は,昭和47(1972)年,豊橋市社会教育審議会の社会教育施設の適正な配置と規模に関する建議を受け,地区市民館に次いで年次計画(昭和49年)で建設着工された。昭和55(1980)年,東田(あずまだ)・松葉・津田・磯辺・大崎・鷹丘・下条・多米( ...
クロマツ とは(豊橋百科事典より)
くろまつ クロマツ(マツ科)は,常緑針葉高木で,雄松(おまつ)とも呼ばれ,庭木としてよく植えられている。幹が黒く,葉が長く,松笠も大きいなど,雌松(めまつ)と呼ばれるアカマツより豪壮に見える。山地に生えるアカマツに対して,クロマツは海岸近くに生える。美保の松 ...
切反ヶ谷村 とは(豊橋百科事典より)
きったがやむら 切反ヶ谷村は,寛永検地によって野依村から分立した。渥美郡切反ヶ谷村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に29石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領33石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数3,人数11であった。「三州吉田 ...
大清水小学校(豊橋市南大清水町元町) とは(豊橋百科事典より)
おおしみずしょうがっこう 豊橋市立大清水小学校は,昭和21(1946)年9月,旧陸軍大清水飛行場の跡地(豊橋市大清水町大清水)に大清水町を校区とした植田国民学校大清水分教場が開設され,同24(49)年,植田小学校大清水分校として認可されたことに始まる。昭和29(1954 ...
大崎村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
おおさきむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制,同22(89)年10月1日,町村制施行の渥美郡大崎村は,同39(1906)年9月10日,磯辺村・高師村・野依村・植田村と合併して高師村と改称した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうご ...
大崎島・大津島 とは(豊橋百科事典より)
おおさきじま・おおつじま 田原湾の海面の寄州(よりす)に,大崎村(豊橋市大崎町・船渡町)に属する本島・平島・長松島(一部)と大津村(豊橋市老津町)に属する大津島・蜷島(になじま)・仏島・長松島などがあった。江戸期にはこの海域に,野依村・西植田村・東植田村・切 ...