にししんさくのあしあと 「西進策の足あと-或る地方記者の記録」(三河輿論(よろん)新聞社 昭和46年)は,河合陸郎(1902~76)が昭和5(1930)年から同14(39)年までの約10年間,郷土紙「新朝報」および「豊橋同盟新聞」の記者時代に「喫煙室」「一日一題」「独りごと ...
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「豊橋同盟新聞」(新聞) とは(豊橋百科事典より)
とよはしどうめいしんぶん 「豊橋同盟新聞」は,戦時下の国策に従い,昭和13(1938)年11月1日に,豊橋市内の日刊6紙(参陽新報・新朝報・豊橋日日新聞・大衆新聞・東海朝日新聞・あさひ新聞)が合併して創刊された。西八町の参陽新報社跡に本社を置き,後に豊橋市札木町に ...
「東海朝日新聞」(新聞) とは(豊橋百科事典より)
とうかいあさひしんぶん 「東海朝日新聞」は,豊橋で最初に発刊された夕刊新聞である。大正15(1926)年10月1日の第1276号に「呱々(ここ)の声をあげて四年」の見出しがあることから,創刊は大正11(1922)年ごろとされる。豊橋市会議員をしたこともある岡田実が個人経営と ...
高崎信吉 とは(豊橋百科事典より)
たかさき・しんきち(1898~1944) 高崎信吉は,明治31(1898)年7月13日,渥美郡田原町(田原市田原町)に高崎喜太郎の長男として生まれた。8歳の時豊橋に転居したといわれる。愛知県第四中学校では同人雑誌「流動」,早稲田大学では「世紀」を発行した。大正13(1924)年 ...
「大衆新聞」(新聞) とは(豊橋百科事典より)
たいしゅうしんぶん 「豊橋大衆新聞」は,昭和4(1929)年12月創刊の日刊紙である。タブロイド4ページだてで,購読料は1部2銭,1か月30銭であった。社屋を豊橋市花田町角田に置き,編集所を前田南町に置いた。創業者高崎信吉(1898~1944)の個人新聞的な性格が強かった。 ...
「新朝報」(新聞) とは(豊橋百科事典より)
しんちょうほう 「新朝報」は,明治35(1902)年9月28日に豊橋で発刊された日刊紙で,4ページだて。購読料は1部1銭,月ぎめは1か月15銭であった。新朝報の前身は,明治33(1900)年11月に朝倉幾太郎が発行した「めざまし新聞」であった。毎月3回の発行であったが,明治34( ...
「参陽新報」(新聞) とは(豊橋百科事典より)
さんようしんぽう 参陽新報は,豊橋で最初に発刊された日刊新聞で,4ページだて。外国ニュース・国内政治・社会ニュース・汽車時刻表・諸相場・小説・文芸・広告などで紙面が構成されていた。発売当初の購読料は,1か月20銭であった。参陽新報の前身は,明治28(1895)年 ...
河合陸郎 とは(豊橋百科事典より)
かわい・ろくろう(1902~76) 河合陸郎は,明治35(1902)年3月1日,渥美郡豊橋町(豊橋市飽海(あくみ)町)に白井又蔵の6男として生まれた。6歳の時,豊橋市札木町の叔母河合しげの養嗣子となった。大正5(1916)年八町高等小学校を卒業し,大阪で働き,YMCA夜間英語学校 ...