わにぐち(とうかんのんじ) 「東観音寺の鰐口」1口(東観音寺蔵)は,平成元(1989)年3月24日,豊橋市有形文化財(工芸)に指定された。 「東観音寺(豊橋市小松原町)の鰐口」は青銅製,「三州奥郡細谷住人九郎三郎,天文弐年癸巳九月吉日」の陰刻銘があり,天文2(153 ...
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「臨済寺の経文」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
りんざいじのきょうもん 「臨済寺の経文」8点(臨済寺蔵)は,昭和39(1964)年5月19日,豊橋市有形文化財(文書・典籍)に指定された。 「臨済寺の経文」は,吉田(豊橋)藩主小笠原家から菩堤寺臨済寺(豊橋市東田町西郷)に奉納されたもので,経文8点は,吉田藩主小笠 ...
林広寺(豊橋市大村町勘太) とは(豊橋百科事典より)
りんこうじ 大円山林広寺(曹洞宗)の創立は,慶長3(1598)年,本尊は観音菩薩像,開基は下条(豊橋市下条西町〔五井〕)の郷士白井麦右衛門の支流白井治郎兵衛である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,柴屋村「大円山林広寺,豊川妙厳寺末寺,平僧,客殿六間・三 ...
竜灯の松(民話) とは(豊橋百科事典より)
りゅうとうのまつ 昔,岩屋観音堂(豊橋市大岩町)の裏に松の大木があった。枝は四方に伸び,天にも届くかと思われるほどであった。いつのころからか,この大木に,夕方になると灯(あか)りがつくのが遠くから見えた。ところが近寄ってみると,灯りは見えないのであった。こ ...
竜泉寺(豊橋市石巻萩平町城脇) とは(豊橋百科事典より)
りゅうせんじ 雲洞山竜泉寺(臨済宗妙心寺派)の創立は不明だが,開山は蛮渓和尚(応永5年示寂(じじゃく))であるので,室町初期の創立と推察される。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,萩平村「雲洞山竜泉寺,嵩山正宗寺末寺,平僧,客殿五間・三間」とあり,古来正 ...
竜守院(豊橋市原町供養塚) とは(豊橋百科事典より)
りゅうしゅいん 源洞山竜守院(曹洞宗)の創立は慶長20(1615)年,原村の開発に伴って村の惣庵(そうあん)として建てられ,白須賀(湖西市)蔵法寺6世天山尭存和尚が開山となった。当初は北方6町の地にあって竜守庵と称していた。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に, ...
竜岩院(豊橋市岩崎町ズシ) とは(豊橋百科事典より)
りゅうがんいん 松月山竜岩院(曹洞宗)の創立は,天文元(1532)年で,開山は竜拈寺(りゅうねんじ)第4世休屋宗官和尚である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,上岩崎村「松月山竜岩寺,吉田竜拈寺末寺,平僧,客殿六間・四間半,右寺内鎮守白山権現」とある。 本 ...
竜運寺(豊橋市船町) とは(豊橋百科事典より)
りゅううんじ(ふなまち) 橋本山竜運寺(浄土宗)の創立は,天正6(1578)年であり,開山は方誉念西上人,本尊は阿弥陀如来像である。山号橋本山は寺が豊川(とよがわ)の大橋の傍らにあったことに由来する。 豊川(とよがわ)の大橋は幕府の重視した三大橋の一つで,天正18 ...
竜雲寺(豊橋市忠興(ただこう)二丁目) とは(豊橋百科事典より)
りゅううんじ(うしかわ) 忠興山竜雲寺(臨済宗妙心寺派)は正保2(1645)年,正円寺住職竜雲が隠居地として創立した(「忠興村庵寺由緒書之事」元禄10年)。開山は秀村首座である。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,牛川村「忠興新田,庵,三間・弐間,浪ノ上正 ...
楽法寺(豊橋市東脇二丁目) とは(豊橋百科事典より)
らくほうじ 五願山楽法寺(曹洞宗)は,もと天台宗で,後に臨済寺院となったが,天正元(1573)年竜拈寺(りゅうねんじ)第6世雪雄宗継和尚が曹洞宗に改宗再興し,さらに竜拈寺第13世天岩州呉和尚(?~1645)が再興して山号を玉竜山と称したが,後に五願山と改めた。またか ...
陽光寺(豊橋市植田町池下) とは(豊橋百科事典より)
ようこうじ 天徳山陽光寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,天平11(739)年で,開山は行基菩薩であると伝えられている。往古は真言宗であったが,その後の沿革についてははっきりしていない。戦国時代に乾林虎和尚が陽光寺を再興し臨済宗に改宗し,東観音寺の末寺にしたと伝え ...
牟呂村 とは(豊橋百科事典より)
むろむら 牟呂村は,柳生川河口の渥美湾に面している。牟呂の地名は熊野の「牟婁(むろ)」に由来するとされる。渥美郡牟呂村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に1844石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に上牟呂村豊橋藩領分610石余,中牟呂村豊橋藩領分474石余・坂 ...
木槿塚(豊橋市小松原町坪尻) とは(豊橋百科事典より)
むくげづか 木槿塚は,豊橋市小松原町の東観音寺にある松尾芭蕉の句碑である。「道のへの 木槿は馬に 喰れけり」と刻まれ,詞書6行も記されている。建立年月は寛政12(1800)年夏で,当時の住職万年和尚と京都の俳人柳後園が発起人となって建立したものである。以前は本 ...
「三河文献集成」(久曽神昇・近藤恒次) とは(豊橋百科事典より)
みかわぶんけんしゅうせい 「三河文献集成」全4冊(愛知県宝飯地方史編纂委員会 昭和38~41年)は,宝飯地方史資料13~15巻として三河国関係の文献および一般編著中の三河国関係の記事など503の資料を集成して刊行されたものである。 「三河文献集成 上世編」(「宝飯地 ...
万福寺(豊橋市小浜町) とは(豊橋百科事典より)
まんぷくじ(こはま) 宝樹山万福寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,寛治5(1091)年鎌倉時代以前の開創であり,本尊が大日如来坐像であることから往古は真言宗の寺院であったといわれている。その後,鎌倉建長寺派に転派し,天正年間(1573~92)京都妙心寺派に移って東観音 ...
万年妙暁 とは(豊橋百科事典より)
まんねん・みょうぎょう(1742頃~1816) 万年妙暁は,設楽郡出沢(すざわ)村(新城市出沢)の滝川家に生まれた。宝暦4(1754)年,東観音寺で得度し,京都に学び,明和8(1771)年,嵩山正宗寺(すうざんしょうじゅうじ)(豊橋市嵩山(すせ)町)に来住した。天明5(1785)年 ...
馬見塚村 とは(豊橋百科事典より)
まみづかむら 永正2(1505)年,牧野古白が馬見塚と飽海(あくみ)の地に今橋城を築いたという。また,馬見塚のもとの地は,後の吉田(豊橋)城の地である。今川氏親は,馬見塚の替え地として,渡辺平内次に三ツ相村120貫文をあてがったという。吉田方5か村は,寛永15(1638 ...
本願寺(豊橋市賀茂町出口) とは(豊橋百科事典より)
ほんがんじ 医王山本願寺(曹洞宗)の創立は不明であるが,もとは天台宗の古刹(こさつ)であったと思われる。開基の孤雲玄峯和尚の時,曹洞宗寺院に再興改宗され,豊川妙厳寺末寺となったものと思われる。本尊は薬師如来坐像で,十二神将とともに時代のある雄健の作である。 ...
菩提寺(豊橋市石巻中山町奥屋) とは(豊橋百科事典より)
ぼだいじ 蓮華山菩提寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,嘉慶年間(1387~89),開山は遠峯座元と伝えられ,古来正宗寺末松寿派に属していた。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,中山村「禅宗,蓮花山菩提寺,嵩山正宗寺末寺,平僧,客殿五間半・四間半」とある。本尊は ...
「法華経普門品」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
ほけきょうふもんぼん 「紺紙金泥法華経普門品」1巻(東観音寺蔵)は,昭和62(1987)年3月20日,豊橋市有形文化財(文書・典籍)に指定された。 法華経は8巻にするのが一般的であるが,装飾経になると一品ずつ分けることがある。東観音寺(豊橋市小松原町)の「法華経普 ...
法蔵寺(豊橋市伊古部町下リ) とは(豊橋百科事典より)
ほうぞうじ 仏教山法蔵寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,天正2(1574)年である。寺伝では,「村に月法庵と海蔵院の2か寺あってこれを併合,慶長9(1604)年,東観音寺中興玉岫(ぎょくしゅう)和尚を勧請して法蔵院とした」とある。本尊は仏師長兵衛作と伝える木造観音・勢至( ...
宝形院(豊橋市向山町南中畑) とは(豊橋百科事典より)
ほうぎょういん 摩尼山宝形院(真言宗醍醐派)は,安永2(1773)年に阿闍梨諄慶法印により創建され,本尊は十一面観音像である。宝形院は吉田町裏(豊橋市中世古町)にあり,真言宗修験(しゅげん)派に属していたが,明治維新後,真言宗醍醐派となる。 第8世万通法印は,日 ...
一筋の縄(民話) とは(豊橋百科事典より)
ひとすじのなわ 宝暦4(1754)年,豊川(とよがわ)の大橋の架け替え工事にあたって,江戸下谷の大工茂平・善右衛門の2人は,工事の難しさに困って,岩屋山の観音堂に7日間参篭(さんろう)した。満願の日,豊川に一筋の縄が流れて行く夢を見た。縄は流れながら弓形になって, ...
久田全珖 とは(豊橋百科事典より)
ひさだ・ぜんこう(1869~1947) 久田全珖は,明治2(1869)年6月24日,海部郡高台寺村(津島市高台寺町)に生まれた。幼少期に愛知郡荒子村(名古屋市中川区荒子町)の荒子観音寺住職澳取邑全能について得度した。その後,明治24(1891)年10月,天台座主実源大僧正につい ...
「馬頭観音御正体」(国指定重要文化財) とは(豊橋百科事典より)
ばとうかんのんみしょうたい 「金銅馬頭観音御正体」「三河国小松原寺,文永八年大才辛未正月十五日」の籠字銘(かごじめい)がある1面(東観音寺蔵)は,昭和17(1942)年5月30日,国の重要美術品に認定され,同34(59)年6月27日,国の重要文化財(工芸品)に指定された。 ...
羽田村 とは(豊橋百科事典より)
はだむら 羽田の地名は,「倭名類聚鈔」(承平年間)三河国渥美郡6郷の1である幡太郷とする説と,渥美郡渥美町福江の旧称畠を幡太(はだ)郷とする説がある。吉田方5か村は,寛永15(1638)年,吉田町地および羽田村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚(まみづか)村に分立し ...
野依村 とは(豊橋百科事典より)
のよりむら 渥美郡野依村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に984石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分1179石余,八幡社領3石,嵩山寺(すざんじ)領5石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数143,人数751であった。「三州吉田領神社仏閣記」 ...
「野菊」(大和田建樹) とは(豊橋百科事典より)
のぎく 「野菊」(大和田建樹 明治42年)は,国文学者で詩人の大和田建樹(1857~1910)が刊行した474ページの書物で,大和田建樹が暮らしの中で経験したこと,紀行文,短歌,詩などのエッセー集である。東三河を旅した時に羽田八幡宮文庫(この中では羽田野文庫となって ...
盗まれた観音様(民話) とは(豊橋百科事典より)
ぬすまれたかんのんさま 昔,牛川(豊橋市牛川町)に信心が深い男が住んでいた。男は,朝倉川の向こう岸にある太蓮寺(豊橋市東田町西脇)の三十三観音に日参を重ねていた。ある日,男は観音様を自分の家に持ち帰れば,毎日,寺に通わなくてすむと考え,観音様を背負って歩 ...
二の午の絵馬(民話) とは(豊橋百科事典より)
にのうまのえま 小松原(豊橋市小松原町)に,貧乏な男が住んでいた。男は毎日,野良仕事に励んだが,たくさんの子どもたちを養うのがやっとだった。そこで,男は家宝の品を畑仕事のできる馬と交換したが,この馬が暴れ馬で,つないでおいた綱を食いちぎり,畑や辺り一面を ...
「二天像」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
にてんぞう 「木造二天像」2躯(く)(東観音寺蔵)は,昭和55(1980)年1月16日,豊橋市有形文化財(彫刻)に指定された。 東観音寺(豊橋市小松原町)の「二天像」は,持国天と多聞天である。持国天の像高100㎝,邪鬼幅68㎝,多聞天の像高110㎝,邪鬼幅75㎝で,東観音寺 ...
豊橋市歌 とは(豊橋百科事典より)
とよはししか 豊橋市制実施5周年祝賀の歌(明治44年8月1日)1 今橋城は昔にて 吉田の里も夢なれや 名を豊橋とよびてより 四十余年は過ぎにけり2 市制布かれて五星霜 戸数一万五千あり 人口五万の余を数ふ 県下第二の大都会3 十五師団を迎へては ...
戸田宣成 とは(豊橋百科事典より)
とだ・のぶなり(?~1546) 戸田宣成は,戸田憲光の2男で,戸田金七郎宣成と考えられる。生年は不詳である。永正3(1506)年父・戸田憲光とともに今橋(豊橋)城主牧野古白を滅ぼし,今橋城主となった。大永(1521~28)初年に牧野古白の子・牧野成三に追われて大崎(豊橋 ...
徳合長者(民話) とは(豊橋百科事典より)
とくごうちょうじゃ 6世紀のころ,滝蔵人正時清(たきくらんどのしょうとききよ)という人が多米(ため)(豊橋市多米町)の東に住んでいて,「滝山長者」と名のっていた。時清は河内の国に行き,聖徳太子の説法を聞き,太子から徳合長者の名を賜(たまわ)り,太子の作った大日 ...
「銅鐸鈕」(国指定重要文化財) とは(豊橋百科事典より)
どうたくちゅう 「銅鐸鈕」1口(東観音寺蔵)は,昭和9(1934)年7月31日,国の重要美術品(考古学資料)に認定され,同61(86)年3月28日,豊橋市有形文化財(考古資料)に指定された。 昭和9(1934)年7月31日の告示に「袈裟襷(けさだすき)文銅鐸鈕」伝静岡県浜名郡白須 ...
東漸寺(豊橋市寺沢町寺瀬戸) とは(豊橋百科事典より)
とうぜんじ 仏法山東漸寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,文中元(1372)年で,東観音寺中興玉岫(ぎょくしゅう)和尚を勧請開山とする。本尊は観世音菩薩立像である。創立当初は「東福寺」と称して海岸部に位置していたが,火災焼失後の慶長12(1607)年「東漸庵」と改称し,後 ...
東光寺(豊橋市東七根町北浦) とは(豊橋百科事典より)
とうこうじ(ななね) 医王山東光寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,13世紀初頭と推測され,天台宗を経て臨済宗の建長寺派であった。本尊は当初,薬師如来坐像であったが後述の移転を期に釈迦如来坐像を祀る。創立以来の経過は不明であるが,元亀3(1572)年東観音寺中興玉岫( ...
東光寺(豊橋市新栄町新田中) とは(豊橋百科事典より)
とうこうじ(しんさかえ) 明照山東光寺(浄土宗)の創立は,天文19(1550)年であり,開山は林誉恵休上人で,当初吉田指笠町(豊橋市新本町)に建立された。本尊は岡崎源空寺より寄進された阿弥陀如来立像である。江戸時代黒印2石を受けており,「三州吉田領神社仏閣記」 ...
「東観音寺の仮面」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじのかめん 「東観音寺の仮面」10面(東観音寺蔵)は,昭和42(1967)年2月17日,豊橋市有形文化財(彫刻)に指定された。 「東観音寺の仮面」は,明和4(1767)年8月面打師出目杢之助庸吉の面目録にある日光作1面(鬼),弥勒作1面(婆),文蔵作2面(鉢巻男 ...
「東観音寺中世文書」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじちゅうせいもんじょ 「東観音寺中世文書」2巻(東観音寺蔵)は,昭和62(1987)年3月20日,豊橋市有形文化財(歴史資料)に指定された。 東観音寺(豊橋市小松原町)は,中世には多くの所領を持ち,寺伝では,3か村1000石の所領を持ったという。天文5(1536 ...
「東観音寺多宝塔」(国指定重要文化財) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじたほうとう 「東観音寺多宝塔」3間2層塔婆,屋根柿葺(こけらぶき)(東観音寺)は,明治40(1907)年5月27日特別保護建造物(昭和25年5月30日に国の重要文化財)に指定された。 「東観音寺多宝塔」は,昭和33(1958)年1月解体修理に着工し,翌34(59)年6月 ...
「東観音寺古境内図」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじこけいだいず 「東観音寺古境内図」1幅(東観音寺蔵)は,昭和58(1983)年3月15日,豊橋市有形文化財(絵画)に指定された。 「東観音寺古境内図」は,紙本着色,掛幅,縦166㎝,横145㎝で,作者は不明であるが,巻止めに「当山応永已前於旧跡鎮座之図」と ...
東観音寺旧伽藍址(豊橋市小松原町東ノ谷) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじきゅうがらんし 東観音寺(豊橋市小松原町)は,天平5(733)年に行基によって創建されたと伝わるが,実際にその存在が確認できるのは,現存する仏像の制作推定年代である11~12世紀ごろである。現在,東観音寺は国道42号線より北側の内陸部に位置しているが ...
東観音寺(豊橋市小松原町坪尻) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじ 小松原山東観音寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,天平5(733)年であり,開山は行基菩薩と伝えられる。創立縁起は,淳和天皇・後奈良天皇御宸翰(ごしんかん)・複数の縁起書(えんぎしょ)を編集した「東観音寺御由緒書」(延宝7年)によると「行基菩薩が紀州熊 ...
「東街便覧図略」(高力猿猴庵) とは(豊橋百科事典より)
とうかいべんらんずりゃく 「東街便覧図略」(稿本 寛政7年)は,熱田から江戸にいたる東海道の名所・名物・風景を詳細な解説付きで描いた肉筆草稿本である。筆者は尾張藩士高力猿猴庵(こうりきえんこうあん),本名高力種信(1756~1831)である。天明6(1786)年,藩命に ...
東雲寺(豊橋市野依町中瀬古) とは(豊橋百科事典より)
とううんじ 陽光山東雲寺(臨済宗妙心寺派)は,永正9(1512)年の創立と伝えられているが,開基開山は不明である。永禄7(1564)年,野依(のより)村の彦坂惣兵衛経逸が寺の荒廃を惜しんで再興し,尾州下津(おりづ)村(稲沢市)正眼寺15世日山樹林和尚を請じて中興開山とし ...
鉄道唱歌 とは(豊橋百科事典より)
てつどうしょうか 明治33(1900)年5月,大和田建樹作詞・上真行と多梅稚(おおのうめわか)作曲の「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり」という歌詞から始まる「鉄道唱歌」は,「地理教育唱歌」と名づけられて発売された。その30番が豊橋である。30番 豊橋おりて乗る汽 ...
長楽寺(豊橋市石巻本町立石) とは(豊橋百科事典より)
ちょうらくじ 竜尾山長楽寺(臨済宗妙心寺派)は,正宗寺の祥叔和尚が延文2(1357)年,長楽(ながら)村(豊橋市石巻本町)の東北瀬戸山の山腹に創立した。山形が竜尾に似ていたことから山号にしたといわれる。正宗寺2世蒲済和尚を請じて開山と仰ぎ,浄蔭派に属していたが, ...
聴松寺(豊橋市西七根町北浜辺) とは(豊橋百科事典より)
ちょうしょうじ 海応山聴松寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,天正8(1580)年であり,開山は東観音寺中興玉岫(ぎょくしゅう)和尚である。本尊は馬頭観音坐像である。東観音寺16世収崖和尚筆「当寺沿革」によると,玉岫和尚の退休の地として当初,寺沢村西ノ谷付近に草庵を設 ...
長谷寺(豊橋市石巻本町野添) とは(豊橋百科事典より)
ちょうこくじ 紫雲山長谷寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,永徳2(1382)年正宗寺3世蒲済和尚を勧請開山としている。開基は祥嶺和尚であり,古来正宗寺末浄蔭派に属していた。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,高井村「柴雲山長谷寺,嵩山村正宗寺末寺,平僧,客殿 ...