愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:製糸

りんこうじ  大円山林広寺(曹洞宗)の創立は,慶長3(1598)年,本尊は観音菩薩像,開基は下条(豊橋市下条西町〔五井〕)の郷士白井麦右衛門の支流白井治郎兵衛である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,柴屋村「大円山林広寺,豊川妙厳寺末寺,平僧,客殿六間・三 ...

よしはら・ゆうたろう(1860~1936)  吉原祐太郎は,万延元(1860)年8月17日生まれ,三河国渥美郡の芦原新田(豊橋市芦原町)を開発した吉原弥次右衛門の末裔(まつえい)である。明治12(1879)年,郡内有志とともに農事団体を興す。明治20(1887)年,勧業協会と名付ける ...

よかれん  「予科練」は第2次世界大戦当時の海軍飛行予科練習生(海軍少年飛行兵)の略称である。海軍は昭和17(1942)年のミッドウェー海戦の敗北と,ガダルカナル島争奪の消耗戦において,優秀な飛行機搭乗員の大半を失った。急遽(きゅうきょ)多数のパイロット養成と補充 ...

ようまん  養鰻は,天然のウナギの稚魚(シラス)を養鰻池で養殖することである。豊橋市における養鰻は,明治29(1896)年,神野新田の干拓事業とともに,神野新田の三郷付近で奥村八三郎が投餌(なげえさ)による養鰻を行い,企業化をしたのが最初といわれる。浜名湖と並んで ...

ようさん  養蚕は,蚕を飼育して繭を取る産業である。豊橋地方では,明治期の初めごろから養蚕が始まった。明治6(1873)年,朝倉仁右衛門や柴田豊水などが長野県から桑苗を求めたり,養蚕技術の習得を高めたこともあって盛んとなった。明治10(1877)年には,これら養蚕農 ...

ようけい  豊橋の養鶏は,明治24(1891)年,大崎(豊橋大崎町)の小柳津友治が500羽規模での飼育を開始したことに始まる。その後,豊橋へ進出し,採卵養鶏に徹して,明治30(1897)年には7000~8000羽規模に発展した。小柳津友治は,アメリカから白色レグホンを輸入し,年 ...

やべ・みつふさ(1885~1980)  矢部満房は,明治18(1885)年10月11日,福島県岩瀬郡白方村(岩瀬村)の矢部助重の2男として生まれた。明治42(1909)年,農林省東京蚕業講習所を卒業後蚕業技師として各地に勤務した。大正12(1923)年,愛知県技師に就任し,愛知県蚕業試 ...

やぎゅうがわうんが  柳生川の改修は,柳生川耕地整理組合連合会により,昭和8(1933)年1月に着手,同11(36)年2月工事が完了した。その中で東海道線柳生川鉄橋下から牟呂港まで4500mを,幅27m,干潮水面下1.8mとし,柳生川鉄橋下に360m四方の船溜を設け,牟呂港から200t ...

やぎ・いちろう(1901~90)  八木一郎は,明治34(1901)年7月23日,八木用作の長男として,渥美郡高師村藤並(豊橋市藤並町)で生まれた。大正12(1923)年3月,東京高等蚕糸学校を卒業し,東京府・愛知県・農林省・興亜院・大東亜省の農林技師に就任,昭和21(1946)年, ...

やがくかい  夜学会は,明治25(1892)年9月,牟呂青年学術研究会が発足したことに始まる。次に,明治32(1899)年2月,雲谷(うのや)青年夜学会が,年齢15歳以上25歳以下の者を会員として設立された。これ以前の,明治27(1894)年ごろから,有志夜学会が設けられた。この会 ...

むぎ  麦は,イネ科に属し,大麦,小麦,裸麦,ライ麦,燕麦などがある。わが国には,古来より在来種はあったが,明治9(1876)年には,数回にわたってアメリカの大麦や小麦,やや遅れてイギリス産の小麦種が入って,栽培が広まった。東三河地方には,明治20(1887)年前後 ...

みんぞくしりょうしゅうぞうしつ  豊橋市民俗資料収蔵室は,旧多米小学校の校舎を利用して,昭和53(1978)年に設置された。収蔵展示品は,北設楽郡東栄町・豊根村の山村民俗資料や豊橋市海岸部での海苔養殖,糸の町豊橋を支えた養蚕・製糸や農耕などの民俗資料である。昭和 ...

みかわもめん  三河木綿は,地合も厚く丈夫な小幅白木綿で,印半纏(しるしばんてん)・暖簾(のれん)・帯芯(おびしん)などとして広く使用されていた。日本の綿作は,明治期の初頭から増加の一途をたどり,明治20(1887)年には,生産高もピークとなった。その後,日本の綿花が ...

みうら・へきすい(1841~1915)  三浦碧水は,天保12(1841)年11月29日,吉田(豊橋)藩札元三浦深右衛門の2男に生まれた。幼名を陽次郎といい,字(あざな)を温夫と称した。文久のころ(1861~64),江戸に出て幕臣高畠眉山について西洋流兵学・砲術を学ぶ。慶応4(1868) ...

まるじょうせいさくじょ  株式会社丸上製作所は,明治39(1906)年丸上小松製糸所として創業したのが始まりである。丸上製作所は,昭和19(1944)年に創設され,翌20(45)年に鉄道車両用ばねの製造,同24(1949)年には船舶用ディーゼルエンジン用ばね,同33(58)年に鉄道 ...

まゆどんや  繭問屋は,養蚕農家から繭を買い上げて製糸業者へ売る仕事をする業者である。豊橋の繭問屋は,明治19(1886)年に豊橋札木町で柴田新吉・白井吉太郎が創立したのが最初とされている。製糸家は,はじめのころは直接,農家から繭を購入していたが,製糸業の発展に ...

まゆけんていじょ  大正13(1924)年,愛知県蚕業試験場豊川支場(明治45年原蚕種製造所豊川支所設置,大正11年改称,昭和44年廃止)の豊橋出張所が豊橋市花田町妙立寺(豊橋市前田南町二丁目)の愛知県蚕業取締所豊橋支所内に設置され,昭和4(1929)年から,繭検定業務を ...

まきの・しんじ(1911~97)  牧野新二は,明治44(1911)年2月21日,渥美郡牟呂吉田村東豊田(豊橋市北島町)で生まれた。大正15(1926)年,八町尋常高等小学校を卒業し,家業の玉糸製糸業を手伝った。昭和8(1933)年,合資会社ミスズセロファン商会を豊橋市関屋町に設立 ...

まえだ・でんじろう(1832~99)  前田伝次郎は,天保3(1832)年5月2日,渥美郡下細谷村(豊橋市東細谷町)の前田喜代次郎の長男に生まれた。20歳ごろ,魚の仲買人として表浜の生魚を干し鰯,煮干しとして付近の山村に出荷した。慶応元(1865)年から明治4(1871)年に至る ...

まえだ・けんじ(1861~1927)  前田健次は,文久元(1861)年9月15日,渥美郡下細谷村(豊橋市東細谷町)の前田伝次郎の2男に生まれた。17歳の時,渥美郡野依村(豊橋市野依町)の山田家へ養子に行った。明治15(1882)年,前田伝次郎が経営する,細谷製糸所の所員となった ...

ほそやせいし  細谷製糸は,朝倉仁右衛門(1829~85)によって始められた製糸工場である。朝倉仁右衛門は明治9(1876)年ごろから自宅で座繰(ざぐり)製糸を始めていたが,明治10(1877)年に仲間を募って赤心組を結成した。その後,赤心組の主だったメンバーと長野県など製 ...

ふたがわしゅくそうごうちょうさほうこくしょ  「二川宿総合調査報告書」(豊橋市教育委員会 平成11年)は,豊橋市教育委員会より刊行された。調査・執筆・編集は教育委員会から委託を受けた二川宿総合調査団(会長小野木重勝)が平成6(1994)年から同10(98)年までの5か ...

ふくたに・もとじ(1860~1943)  福谷元次は,安政7(1860)年2月18日,宝飯郡柴屋村(豊橋市大村町)の林勝蔵の2男に生まれた。明治15(1882)年,豊橋札木町の旅籠(はたご)丁字屋,福谷藤十郎の養嗣子となった。明治22(1889)年,豊橋町会議員,同34(1901)年,豊橋町 ...

はだの・たかお(1798~1882)  羽田野敬雄は,寛政10(1798)年2月14日,宝飯郡西方村(宝飯郡御津町西方)の山本兵三郎茂義の4男に生まれた。幼名を兵作また茂雄といった。通称を常陸,栄木といった。文化15(1818)年,渥美郡羽田村(豊橋市花田町斎藤)の羽田八幡社神主 ...

はだちゅうがっこう  豊橋市立羽田中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,花田小学校・羽根井小学校を校区として,羽根井小学校の校舎を使用し,西部第一中学校として設立された。昭和23(1948)年9月,羽田中学校と校名を変更し,同25(50)年,豊橋市花田町堀 ...

にほんのせいしとし  「日本の製糸都市─都市再生の地理学的研究─」(古今書院 昭和62年)は,日本の製糸都市の形成と推移の研究書である。前橋・古河(こが)・丸子・甲府・豊橋の5都市を取り上げて,明治・大正期から昭和前期および戦中の移り変わりを明らかにした。日本 ...

ながい・せんじゅう(1850~1915)  永井仙十は,嘉永3(1850)年3月10日,宝飯郡下地村(豊橋市下地町)で生まれた。家業は醸造業を営んでいたが,明治6(1873)年下地村学校世話方3人(永井仙十・内藤八郎兵衛・長尾賢保)の1人に選ばれた。明治25(1892)年豊橋商業会議 ...

とよはししょうこうかいぎしょ50ねんし  「豊橋商工会議所五十年史」(豊橋商工会議所 昭和18年)は,豊橋地方商工業の発達を展望し,豊橋商工会議所50年間の活動の状況を尋ねることを目的に発行された。前編で日本における商工会議所の沿革という歴史的命題から説き起こし ...

とよはしさんしのあゆみ  「豊橋蚕糸の歩み」(豊橋市教育委員会 昭和50年)は,明治以来の蚕糸業の先覚者たちや養蚕と製糸業を後付け,豊橋蚕糸業の発展と衰退をたどったものである。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 ...

とよはしおんど  豊橋音頭は,昭和9(1934)年に豊橋観光協会設立を記念して作られた。豊橋を観光的に売り出すことを目的としていたが,観光資源として突出したものがなかったため,当時の主要産業であった製糸工場などを題材にしたとされている。作詞は西条八十,作曲は中 ...

どっち  蚕の蛹(さなぎ)をドッチという。柳田国男の「西は何方(どっち)」にドッチのことが詳しく書かれている。豊橋は製糸都市だったので,製糸工場から出るドッチがたくさんあった。ドッチは栄養豊富なため,鶏やうなぎの餌(えさ)にする養鶏業・養鰻(ようまん)業が盛んであ ...

つみいしづかこふん  積石塚古墳は,土ではなく石を主に使用して墳丘を築いた古墳である。中国東北部および朝鮮半島に存在することから,日本国内にあるものは渡来系氏族の墓制とする説が有力である。東三河地域では豊橋市北部の吉祥山塊を中心に積石塚古墳が分布しており, ...

たまいと  玉糸は,玉繭から引いた糸のことである。蚕は,二匹で一つの繭を作ることがある。一匹の蚕が作る繭(精繭)と比べ,大きく玉のような形をしていたので,玉繭と呼ばれた。玉繭は精繭と異なり糸の取り出しが難しく,質的にも落ちるため,屑(くず)繭扱いで真綿の原料 ...

たかはしせいし  高橋製糸は,明治38(1905)年6月に吉田方村(豊橋市菰口町)で操業を始めた。大正14(1925)年ごろには釜数114・従業員数135人規模の玉糸製糸工場となった。第2次世界大戦後の昭和23(1948)年からは輸出玉糸の指定工場となって営業を続け,豊橋では大手の ...

たかはし・いよ(1849~1926)  高橋猪代は,嘉永2(1849)年6月,渥美郡七根(ななね)村(豊橋市西七根町)の高橋徳十郎の子に生まれた。高塚(豊橋市高塚町)の小野田吉次郎に教えを受け,明治7(1874)年養蚕業を志し,野生桑苗の栽培に着手した。明治15(1882)年蚕種製 ...

だい15しだんゆうち  第15師団の誘致は,明治40(1907)年3月に持ち上がった。市制施行直後の豊橋市の将来発展策を模索している時であり,大きな期待が寄せられた。陸軍省は,日露戦争(1904~05)後,4個師団を増設すると発表した。そのうち1個師団は東海道筋に設置すると ...

だいいちぎんこう  第一銀行は,明治5(1872)年三井小野銀行として設立され,翌6(73)年国立銀行条例により第一国立銀行となり,同29(96)年株式会社第一銀行に改組した銀行である。 第一銀行豊橋支店は,大正12(1923)年に起きた取り付け騒ぎをきっかけに起こった豊橋 ...

せきしんぐみ  赤心組は,明治10(1877)年,養蚕の生産性向上のため,朝倉仁右衛門・前田伝次郎・小柳津忠民らによって結成された。組合員は30余人で,朝倉佐野四郎,柴田豊水なども会員であった。 組合員は各自が桑葉を持ち寄って共同で飼育研究を続け,産繭収入を積み立 ...

せいしやがっこう  豊橋製糸夜学校は,明治44(1911)年5月,狭間尋常小学校内に製糸業者によって組織された製糸夜学校組合により設立された。製糸女工のうち義務教育を終えていない者の教育を行うことを目的とした。大正15(1926)年に廃校となった。 - - 豊橋市議の長 ...

⇒ 繭検定所 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog http://nagasa ...

せいし  製糸は,養蚕農家が収穫した繭を原料とし,製品としての蚕糸を作ることをいう。二川町や豊橋の花田町などに,精繭から生糸を挽(ひ)く生糸製糸と,玉繭から生糸を挽く玉糸製糸場が数多くあった。豊橋における製糸は,明治9(1876)年朝倉仁右衛門や前田伝次郎らの努 ...

すずき・へいごろう(1847~1921)  鈴木平五郎は,弘化4(1847)年12月7日,八名郡萩平村(豊橋市石巻萩平町)の杉村家に生まれた。4歳の時,同村の鈴木平八の養子となった。明治5(1872)年西郷郷学校幹事となり,同7(74)年西郷学校教員(明治8~13年首座教員)となった ...

しみずせいし  清水製糸は,明治33(1900)年に清水熊太郎(1875~1960)が親戚筋と共同で始めた製糸場である。清水熊太郎は明治37(1904)年に神戸村(田原市)に敷地300坪(後に3000坪となる)・44釜の玉糸工場をつくったが,大正3(1914)年豊橋へも進出し,豊橋市花田町 ...

しみず・くまたろう(1875~1960)  清水熊太郎は,明治8(1875)年4月25日,渥美郡田原村(田原市田原町)の清水梅助の長男として生まれた。明治30(1897)年海産物商を開業,同33(1900)年神戸村(田原市神戸町)に玉糸製糸業を開業した。大正3(1914)年豊橋市花田町( ...

しばた・ほうすい(1854~1922)  柴田豊水は,嘉永7(1854)年1月28日,吉田(豊橋)藩士柴田善伸の養嗣子・柴田収次の2男に生まれた。養蚕業を始めた契機は,羽田野敬雄の「参河国養蚕由来記」を読んで啓発されたことにあるといわれる。明治6(1873)年箕輪村(長野県伊那 ...

⇒ 蚕業取締所 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog http://naga ...

さんしふたがわ  「蚕糸ふたがわ-小渕志ちと女工の生活」(小渕志ちと女工の生活を調べる会 昭和51年)は,二川小学校の社会クラブの教師たちによって編集された。糸徳製糸とそこで働いた女工たちの生活について調査し,資料として残したいと考え刊行した。 - - 豊橋 ...

さんぎょうとりしまりじょ  愛知県蚕業取締所豊橋支所は,明治30(1897)年公布された蚕種検査法により,同33(1900)年,愛知県蚕種検査所豊橋出張所が渥美郡役所(豊橋西八町)内に設置されたことに始まる。明治38(1905)年,豊橋市花田町妙立寺(豊橋前田南町二丁目)に ...

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