愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議選に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。現在、豊橋市長(戦後最年少)。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:草間

もぐさそうどう  藻草騒動は,天保14(1843)年,大崎村と東植田村,西植田村,野依(のより)村,仏飼(ぶっしょう)村,切反ヶ谷(きったがや)村の5か村が藻草場入会(いりあい)の件で争った事件である。取調べの結果関係する文書がないことで,5か村の入会は認められないと決定 ...

むろむら  明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡上牟呂村・中牟呂村・下牟呂村・松島新田・富田新田・上ノ原新田・草間村・向草間村・松井新田は合併して磯辺村と改称した。明治17(1884)年8月11日,磯辺村は分離して牟呂村(上牟呂村・中牟呂村・下牟呂 ...

むろむら  牟呂村は,柳生川河口の渥美湾に面している。牟呂の地名は熊野の「牟婁(むろ)」に由来するとされる。渥美郡牟呂村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に1844石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に上牟呂村豊橋藩領分610石余,中牟呂村豊橋藩領分474石余・坂 ...

むこうくさまむら  向草間村は,江戸時代初期に草間村より分立した。渥美郡向草間村の村高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分216石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数37,人数148であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,向草間村 ...

みなみさかえちょう  豊橋市南栄町は,昭和7(1932)年,渥美郡高師村が豊橋市に合併した際,高師村大字福岡(橋良)字蟹原,大字高師字空池(からいけ),大字磯辺(草間)字東山で編成された町である。明治40(1907)年,高師村に陸軍第15師団が置かれ,大正13(1924)年, ...

みずなしがわ  水無川は,豊橋市街地南東部の幸(みゆき)小学校に隣接する豊橋市江島町の清水池を水源として西に流れ,市道(弥生町・畑ヶ田町49号線)の豊栄(ほうえい)橋(豊橋市弥生町)で内張川と改称する延長1130mの梅田川水系の普通河川である。流域一帯は,昭和20(194 ...

まつしましんでん  松島新田は,寛文7(1667)年,柳生川河口右岸に吉田(豊橋)藩士野部与次右衛門・堀惣助,馬見塚村孫平次によって開発された新田である。渥美郡松島新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分287石余とある。「吉田藩領戸数調」(安政5年 ...

まついしんでん  松井新田は,寛文2(1662)年以前,梅田川下流右岸に開発された新田である。渥美郡松井新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分129石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数14,人数69であった。産土神(うぶすながみ)に伊勢 ...

ほんぐうじんじゃ  本宮神社は,草間村本宮大明神と称し,寛永元(1624)年,駒形の産土神(うぶすながみ)として熊野の三柱を祀った。社殿の東側に天神石があり,往古は磯部天神といった。「三河国内神明名帳」に「磯部天神,坐渥美郡」とある。「三州吉田領神社仏閣記」(元 ...

べるでぃ  ベルディは,杉浦豊作によって昭和50(1975)年,豊橋市吉川町に園芸用資材の販売会社として設立された。昭和57(1982)年から,メリクロン(メリステム・ティシュー[成長点組織]のメリと,クローン[栄養繁殖された遺伝的に同一固体]という言葉の合成語)研究 ...

はちまんしゃ(いっしき)  (一色)八幡社は,往古鎌倉若宮ともいわれ,延宝3(1675)年の鎮座という。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,草間村「八幡宮」とある。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは ...

なかのしょうがっこう  豊橋市立中野小学校は,昭和60(1985)年4月,豊橋市橋良町向山の旧愛知県立豊橋盲学校(昭和56年3月廃止)跡地に福岡小学校区の小浜町・中野町・中野草間町,磯辺小学校区の二六(にろく)町・王ヶ崎(おがさき)団地・草間三区,栄小学校区の新草間町を ...

とよはしろうがっこう  昭和23(1948)年4月,盲・聾児義務就学制が実施され,同23(48)年11月,盲・聾分離が行われ,愛知県立豊橋盲唖学校は愛知県立豊橋聾学校・同盲学校となった。昭和24(1949)年1月,幼稚部(1年)・小学部(6年)・中学部(3年)・高等部(3年)・専 ...

とよはしのうぎょうがっこう  豊橋市立農業学校は,昭和21(1946)年4月,豊橋市新川国民学校で開校式を行い,同21(46)年9月,旧陸軍名古屋師団兵器部豊橋出張所跡(豊橋市北山町)へ移転した。昭和22(1947)年4月,6・3・3制移行に伴い第1学年生徒募集は停止されたため ...

とよはしちゅうおうこうとうがっこう  愛知実修女学校は,昭和23(1948)年4月,6・3・3制への移行により愛知実修女子高等学校となり,家庭科を置いた。昭和26(1951)年3月,学校法人高倉学園に組織変更し,付設幼稚園を設立した。昭和32(1957)年11月,豊橋女子高等学校 ...

とよはしじょししょうぎょうがっこう  大正12(1923)年4月,豊橋市立実業補習学校(男女,昼間)が豊橋高等小学校(豊橋市舟原町)を校舎として開校された。昭和2(1927)年4月,豊橋市立女子商業専習学校(昼間)となり,同13(38)年4月,豊橋市立女子商業学校と校名を変 ...

とよはししょうぎょうこうとうがっこう  昭和23(1948)年4月,6・3・3制に移行のため,豊橋市立商業学校は豊橋市立商業高等学校(豊橋市草間町の旧輜重隊(しちょうたい)跡)となった。昭和23(1948)年10月,豊橋市向山町中畑の旧工兵隊を校舎としていた豊橋実業高等学校( ...

とよはししょうぎょうがっこう(いちりつ)  豊橋市立商業学校は,大正12(1923)年4月,豊橋市立図書館(豊橋市花田町守下)を仮校舎として設立された。大正13(1924)年4月,校舎を豊橋市東田(あずまだ)町堂前(昭和22年豊橋市仁連木(にれんぎ)町と所在地名変更)に新築・ ...

とよはしこうぎょうこうとうがっこう  昭和23(1948)年4月,6・3・3制への移行に伴い,豊橋市立工業高等学校(通常課程電気科・機械科・紡織科・建築科)・併設中学校および豊橋第二工業学校を収容した夜間課程(機械科)となった。昭和23(1948)年10月,豊橋市立工業高等 ...

とみたしんでん  富田新田は,寛文(1661~73)ごろ柳生川左岸に開発された。高は「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分102石余とあり,「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数5,人数33であった。明治11(1878)年,牟呂村・松島新田・富田新田・上ノ原新田・向 ...

とうこうじ(むこうくさま)  医王山東光寺(曹洞宗)は,もと真言宗で,八名井(新城市)にあった吉祥山今水寺の末寺であったと伝えられる。第2世底岳徹公監院(?~1563)の時禅宗に改宗,開山第1世とし,竜拈寺(りゅうねんじ)第14世明尊和尚(?~1653)の時に竜拈寺末と ...

とうかいつけもの  東海漬物株式会社は,昭和16(1941)年名古屋市で東海漬物製造株式会社が設立されたことに始まる。昭和20(1945)年本社を渥美郡田原町(田原市)に移転した。昭和37(1962)年には本社工場を豊橋市向草間町向郷に移転した。取り扱い品目は,タクアン漬, ...

ちょうえいじ  天獏山長栄寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,行基(667~749)の足跡から見て和銅,天平(708~749)年代に駒形の地に一草庵として存在したと推測される。文治元(1185)年源平の乱に焼失した。その後,天正11(1583)年東観音寺4世玉岫和尚が本宮神社(豊橋市 ...

ちくたいいくかん  豊橋市地区体育館は,昭和49(1974)年から平成6(1994)年にかけ,市内10地域に順次開設された。昭和49(1974)年前田南地区体育館(豊橋市前田南町二丁目),翌50(75)年新栄地区体育館(豊橋市新栄町大溝),同57(82)年牛川地区体育館(豊橋市牛川 ...

だいにしょうぎょうがっこう  昭和2(1927)年4月,豊橋市立商業専修学校(小学校高等科卒業を入学資格とする)が豊橋市立商業学校に併置(2か年の夜間課程)された。昭和16(1941)年4月,豊橋市立第二商業学校に組織変更された。昭和19(44)年3月,教育非常措置令により ...

だいにこうぎょうがっこう  豊橋市立第二商業学校は,昭和19(1944)年3月,教育非常措置令により,豊橋市立第二工業学校に組織変更し,機械科・電気科を設けた。昭和20(1945)年6月,空襲により校舎(豊橋市立商業学校)が全焼した。また,その年の8月7日,豊川海軍工廠( ...

だいおうじ(くさま)  松岳山大応寺(曹洞宗)は,大雄院と称する真言寺院であったが,大永7(1527)年竜拈寺(りゅうねんじ)第3世仙桂宗休和尚が曹洞宗に改宗再興し,開山となった。本尊は地蔵菩薩坐像である。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,草間村「松岳山大 ...

すさのおじんじゃ(みなみさかえ)  (南栄)進雄神社は,元禄11(1698)年森田新田(豊橋市町畑町森田)が開発され東浦(豊橋市北山町東浦)の地に牛頭(ごず)天王を奉斎したが,明治5(1872)年進雄神社と改め,同42(09)年遷祀,大正8(1919)年空池(豊橋市南栄町空池) ...

すさのおしゃ(むこうくさま)  (向草間)素盞嗚社は,社伝によると寛永2(1625)年はじめて祀るとある。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,向草間村「牛頭(ごず)天王,祢宜茂兵衛」とある。大正10(1921)年稲荷社を合祀した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋の ...

すさのおしゃ(おがさき)  (王ヶ崎)素盞嗚社は,社伝によると寛永9(1632)年はじめて祀るとある。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,草間村「牛頭(ごず)天王,祢宜五左衛門」とある。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうござい ...

しょこくこじょうのず  「諸国古城之図」は広島市立中央図書館浅野文庫所蔵の城絵図群で,正式には「諸国当城古城之図」のうちの「諸国古城之図」である。その編成については,広島浅野家第7代藩主であった浅野重晟(しげあきら)の治世中(宝暦13年から寛政11年)に,藩主の ...

しちょうへいだい15だいたい  明治40(1907)年11月,豊橋に陸軍第15師団が設置され,輜重兵第15大隊が豊橋郊外高師村草間(豊橋市草間町)に置かれた。輜重とは,荷物をのせる車の意であるが,第15師団にはほかに兵器支廠(ししょう)(北山町)が設置されているので,糧秣( ...

しおがまじんじゃ  塩釜神社の創建は,明応年中(1492~1501)に大山(豊橋市大山町)の産土神(うぶすながみ)として国常立命(くにのとこたちのみこと)を勧請したものと伝える。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,草間村「汐鎌社」とある。 - - 豊橋市議の長坂です ...

しえいじゅうたく  豊橋市営住宅は,第2次世界大戦後の応急住宅として,昭和22(1947)年ごろ豊橋市南栄町・向山町・新八町など旧軍用地に木造平屋建ての住宅が建設されたが,同28(53)年から同50(75)年ごろまでに払い下げが行われた。豊橋市営住宅として最初は平屋建て ...

さかえしょうがっこう  豊橋市立栄小学校は,昭和27(1952)年,旧陸軍兵器支廠(ししょう)跡(豊橋市北山町東浦)に福岡小学校区の山田石塚町・南栄町・小松町・北山町・牧野町・栄生町・空池町・東栄町・弥生町,岩西小学校区の江島町を校区として新設された。昭和30(1955 ...

くさまむら  「和名類聚鈔」の渥美郡6郷中の磯部(以曾倍)は太平洋岸の伊古部とする説もあるが,現在の磯辺地区とされる。江戸期には草間村であったが,やがて,向草間村・松井新田・上ノ原新田が分立した。草間村内には,王ヶ崎・駒形・一色・大山などの枝郷があった。渥 ...

くさまじょう  草間城は,豊橋南部の梅田川流域で勢力を誇った畔田(くろだ)氏の城で,畔田氏関連の城跡群の中では最も北に位置している。築城時期などは不明。規模については地籍図から150m×100mほどと考えられている。「三河国二葉松」三州古城記(元文5年)に,「草間村 ...

くさまくちしりゃく  「草間区地誌略」(写 美濃本25丁 明治12年)は,凡例に「予著ス所ノ草間区ハ本村磯辺村ナルヲ以テ巻首ニ磯辺村ノ総論ヲ掲テ以テ地理及ビ人口ノ景況ヲ記ス」とあるように,現在の磯辺校区の地誌を記述したものである。内容は,磯辺村論・草間区総論・ ...

きんろうふくしかいかん  愛知県豊橋勤労福祉会館(アイプラザ豊橋)は,東三河地方の勤労者を中心にした県民の文化・教養・体力向上・余暇の健全な活動の場を提供する総合的な福祉施設として,昭和51(1976)年7月,高師緑地に隣接した豊橋市草間町東山に開館された。会館 ...

かすがじんじゃ(くさま)  春日神社の社伝には,往古葛間天神と称し,元禄7(1694)年はじめて天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀るとある。葛間天神は,「三河国内神明名帳」にある「正五位下草間天神,坐渥美郡」かといわれる。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に ...

おおたけ・とうち(1881~1953)  大竹藤知は,明治14(1881)年2月13日,渥美郡磯辺村(豊橋市草間町)に生まれた。若くして地方政界に出て,36歳で高師村長になる。大正9(1920)年渥美郡畜産組合長,渥美郡町村会会長となった。昭和7(1932)年愛知県会議員となり,同22 ...

おおすか・はつお(1908~81)  大須賀初夫は,明治41(1908)年10月15日,渥美郡高師村磯辺(豊橋市向草間町)の大須賀幸一の長男として生まれた。昭和2(1927)年,愛知県第一師範学校を卒業し,田原東部尋常高等小学校,田原中部尋常高等小学校の訓導,同18(43)年から ...

ええじゃないか  ええじゃないかは,慶応3(1867)年7月14日吉田(豊橋)宿近郊牟呂村大西(豊橋市牟呂大西町)での伊勢外宮や伊雑社(いざわのみや)の御札降りを契機として,牟呂村では手踊りや餅投げ神酒の振る舞いなど臨時の祭礼が行われた。この後周辺の羽田村・草間村・ ...

うえのはらしんでん  上ノ原新田は,延宝7(1679)年以前,柳生川左岸を牟呂村によって開発された新田である。渥美郡上ノ原新田は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分117石余とある。八幡社があったが,明治24(1891)年,小浜村神明社の境内に遷座した。明治11( ...

いそべむら  磯辺村は,明治11(1878)年12月20日,郡区町村編制により,渥美郡上牟呂村・中牟呂村・下牟呂村・松島新田・富田新田・上ノ原新田・草間村・向草間村・松井新田が合併して磯辺村と改称したものである。明治17(1884)年8月11日,磯辺村は分離して,磯辺村・牟 ...

いそべしょうがっこう  豊橋市立磯辺小学校は,明治6(1873)年9月,第10中学区第13番小学草間学校として,長栄寺に開校したことに始まる。明治12(1879)年,磯辺村駒形字丸山(豊橋市駒形町丸山)に新築・移転する。明治20(1887)年,福岡学校磯辺分教場となる。明治22( ...

いせとせん  伊勢渡船とは,江戸時代に存在した吉田(豊橋)湊から伊勢の川崎・神社(かみやしろ)などの湊へ渡る船便のことである。多くは三河以東から伊勢参宮をする旅人の近道として使われた。伊勢への渡船は吉田宿船町が事業を独占し,その運賃から上前銭を徴収することが ...

あみだじ  無量山阿弥陀寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,応徳元(1084)年9月で隣地所在の古墳「王塚」の供養寺として建てられた真言寺院ではないかとされる。永正3(1506)年,禅宗となり,建長寺の蘭渓道隆の高弟南浦紹明を勧請開山として臨済宗になったと伝えられている。 ...

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