とよはししげすいどうし 「豊橋市下水道誌」(豊橋市役所 昭和11年)は,豊橋市下水道の昭和6(1931)年11月1日の起工式から同11(36)年3月25日の竣工式に至る豊橋市下水道築造の記録である。 豊橋市下水道は合流式下水道で,豊橋市街を八町・松山・船町・東田・花田・ ...
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豊橋市(市制施行) とは(豊橋百科事典より)
とよはしし 明治22(1889)年10月1日の町村制施行により豊橋市街23町が渥美郡豊橋町となった。明治28(1895)年2月25日,豊橋町(25大字)は豊橋村(9大字)を合併した。明治39(1906)年7月16日,豊橋町(34大字)・花田村(1大字)・豊岡村(6大字)は合併して豊橋町(41 ...
豊橋座 とは(豊橋百科事典より)
とよはしざ 豊橋座は,明治34(1901)年に花田村石塚(豊橋市花田町石塚)に設立された。永井仙十らが名古屋市巾下(名古屋市西区)にあった西栄座を3250円で買い受け,合名会社として豊橋に移築して豊橋座とした。建坪は260余坪であった。明治40(1907)年には,一流の新 ...
豊橋高等小学校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
とよはしこうとうしょうがっこう 高等小学豊橋学校は,明治14(1881)年10月,八町の旧藩校跡に創立された。明治19(1886)年4月の小学校令によって,尋常小学校4年(義務教育4年)・高等小学校4年となった。明治20(1887)年4月,渥美郡立渥美郡高等小学校と改称し,翌21 ...
豊橋機関区(豊橋市花田町石塚) とは(豊橋百科事典より)
とよはしきかんく 昭和18(1943)年8月1日,名古屋鉄道局静岡管理部豊橋機関区が開設された。昭和62(1987)年3月1日,豊橋電車区と改称し,翌63(88)年3月13日,豊橋運転区と改称した。平成元(1989)年3月11日,豊橋運転区と豊橋車掌区をあわせて豊橋運輸区とした。なお ...
豊橋瓦斯 とは(豊橋百科事典より)
とよはしがす 豊橋瓦斯株式会社は,明治41(1908)年に神野三郎や福谷元次など7人が発起人となって瓦斯事業申請を提出し,翌42(09)年に原田万久や名古屋の神野金之助などを加えた15人が発起人となって,資本金50万円で設立された。豊橋市花田町手棒(豊橋市白河町)に一 ...
豊橋駅(豊橋市花田町西宿) とは(豊橋百科事典より)
とよはしえき 豊橋駅は,明治21(1888)年9月1日に,東海道線の浜松~大府間の開通に伴い,渥美郡花田村西宿(花田町西宿,東京起点293.6㎞)に開業した。なお,東海道線は,明治22(1889)年7月1日に,新橋~神戸間が全通した。 明治30(1897)年7月15日に,豊川鉄道の吉 ...
豊橋育児院 とは(豊橋百科事典より)
とよはしいくじいん 豊橋育児院は,明治28(1895)年,渥美郡花田村稗田に開設した東海育児院を端緒に始まる。明治33(1900)年12月,経営難のため東三河仏教会に委任し,16人の児童は称名院に移った。明治38(1905)年5月,青山衝天が経営に参加し,豊橋市が補助金を交付 ...
豊川の鉄橋 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのてっきょう 豊川に明治21(1888)年,東海道線(単線)の鉄橋が架設され,同41(08)年,複線化(下り線架設)した。この間,豊川鉄道(飯田線下り線)の架設は,明治30(1897)年,資本金40万円を50万円に増資して,下地町起点を花田村(豊橋市花田町西宿)豊橋 ...
豊川鉄道 とは(豊橋百科事典より)
とよかわてつどう 明治29(1896)年1月24日,豊川鉄道株式会社に私設鉄道敷設免許状が下付され,同29(96)年2月1日,豊川鉄道株式会社創立,取締役社長横山孫一郎(1846~1911),同29(96)年,起点を下地から花田村に変更(資本金を50万円とする),豊橋停車場(明治32 ...
豊岡村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
とよおかむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡上岩崎村・手洗村・下岩崎村・田尻村・平川新田は合併して岩田村となったが,同17(84)年8月11日,岩田村は分離して岩崎村・岩田村となった。明治11(1878)年の郡区町村編制により,渥美郡仁連木村・ ...
図書館(豊橋市羽根井町) とは(豊橋百科事典より)
としょかん 豊橋市中央図書館は,嘉永元(1848)年,羽田八幡宮の神官であった羽田野敬雄(たかお)が設立した羽田八幡宮文庫の蔵書の大部分を引き継いで設立された。豊橋市は,明治44(1911)年,愛知県下で最初の公立図書館を計画(豊橋市花田町守下)し,大正2(1913)年1 ...
都市計画 とは(豊橋百科事典より)
としけいかく 都市計画法が大正8(1919)年に施行され,豊橋市は同12(23)年7月1日都市計画法の適用を受けることが決定した。大正14(1925)年1月8日,豊橋市,宝飯郡下地町,渥美郡牟呂吉田村,高師村福岡・磯辺・高師(梅田川以北)・大崎,二川町大岩・二川(梅田川以 ...
常盤座 とは(豊橋百科事典より)
ときわざ 常盤座は,明治の後期,地元の有志により,豊橋市花田町東郷(南松山町)に建てられた劇場である。向かい側には門口の狭い茶店が4軒並んでいたということである。長続きせずに大正の初期に身売りし,建物は船で姫路へ運ばれたといわれている。 - - 豊橋市議の ...
動物園(豊橋市大岩町大穴) とは(豊橋百科事典より)
どうぶつえん 豊橋の動物園は,明治32(1899)年,安藤政次郎(1855~1930)が豊橋駅前(豊橋市花田町西宿)に開設したことに由来する。明治45(1912)年,広小路開鑿(かいさく)のため豊橋市花田町守下に移転する。しかし,安藤政次郎が死去したため,昭和6(1931)年,遺 ...
電話局番 とは(豊橋百科事典より)
でんわきょくばん 豊橋の電話が自動開局(4桁のダイヤル式)したのは,昭和6(1931)年3月29日である。大正15(1926)年,東京・横浜,昭和3(1928)年,大阪・京都・神戸・名古屋に自動交換式の電話が登場した。豊橋と姫路が軍都として選ばれた。しかし,自動改式は豊橋だ ...
つつじが丘小学校(豊橋市佐藤五丁目) とは(豊橋百科事典より)
つつじがおかしょうがっこう 豊橋市立つつじが丘小学校は,平成7(1995)年4月,豊橋市佐藤町東谷に岩西小学校校区の佐藤町・東三ノ輪町・雇用促進佐藤団地,栄小学校区の山田町(東海道線以北),松山小学校区の花田町土亀,向山小学校校区の佐藤町の才ノ神団地を校区とし ...
町村合併 とは(豊橋百科事典より)
ちょうそんがっぺい 明治以後の市町村の歴史は合併の歴史である。明治11(1878)年12月20日郡区町村編制が行われ,戸長を置いた。明治11(1878)年12月28日町村分合を行った。明治9(1876)年2月14日愛知県令の通達は,一定の行政水準を維持するに足る費用負担と地租改正の ...
朝鮮総聯 とは(豊橋百科事典より)
ちょうせんそうれん 在日本朝鮮人総聯合会豊橋支部は,昭和20(1945)年10月,在日朝鮮人聯盟(朝聯)の設立,同24(49)年9月朝聯の団体規制など法規制による強制解散を経て,同30(55)年5月25日に設立された。朝聯の豊橋支部として豊橋市花田町築地に事務所を設けた。 ...
朝鮮初中級学校(豊橋市柳生町) とは(豊橋百科事典より)
ちょうせんしょちゅうきゅうがっこう 豊橋朝鮮初・中級学校は,昭和20(1945)年10月,大崎・向山・小坂井地域に国語講習所を開設したことに始まる。昭和21(1946)年2月,大崎朝鮮人小学校を設立した。続いて豊橋市往完町に,花田朝鮮人小学校,宝飯郡小坂井町に,小坂井 ...
長全寺(豊橋市花田町斉藤) とは(豊橋百科事典より)
ちょうぜんじ(はなだ) 万年山長全寺(曹洞宗)は,永禄3(1560)年,竜拈寺(りゅうねんじ)5世悟慶宗鶴和尚により開かれた。開基は羽田村の羽田野九郎右衛門尉と伝えられている。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村「禅宗,万年山長全寺,吉田竜拈寺末寺,平 ...
駐輪場 とは(豊橋百科事典より)
ちゅうりんじょう 豊橋駅東口自転車等駐車場は,平成6(1994)年4月,豊橋市が豊橋市駅前大通一丁目に地下2階,延べ床面積7958㎡,自転車3300台・ミニバイク900台を収容できる駐輪場として供用開始した。エレベーター・オートスロープを備え,監視カメラを設置し,防犯体制 ...
地名の残置 とは(豊橋百科事典より)
ちめいのざんち 地名の設定・変更・廃止は,地方自治法第260条に,①市町村議会の議決,②都道府県知事に届け出る,③県公報に告示することが必要であると規定されている。地名の残置で目立つのは,学校・官公庁などが土地区画整理区域にはいらないために,旧地名がそのま ...
千歳劇場 とは(豊橋百科事典より)
ちとせげきじょう 昭和21(1946)年,豊橋市花田町稗田(豊橋市駅前大通一丁目)の神藤病院の北半部に豊橋大映(オリオン座改め)が建てられた。昭和27(1952)年千歳劇場,同38(63)年千歳日活と改称したが,同45(70)年廃業し,跡地は丸物(昭和48年豊橋西武となる)の ...
太陽神戸銀行 とは(豊橋百科事典より)
たいようこうべぎんこう 昭和24(1949)年6月,日本無尽株式会社が飯田支店豊橋会場を豊橋市花田町守下に設置し,翌25(50)年3月豊橋支店とした。昭和26(1951)年6月豊橋市松葉町の額田ビルに移転した。昭和26(1951)年10月に日本相互銀行と商号を変更し,同41(66)年 ...
大聖寺(豊橋市花田町石塚) とは(豊橋百科事典より)
だいしょうじ 明王山大聖寺(真言宗醍醐派)の創立は,阿遮羅院栄伝法印である。永正元(1504)年で,開山は宝飯郡篠束村(宝飯郡小坂井町)にあったが,天正4(1576)年吉田(豊橋)守上(豊橋市松葉町称名院門前の道路を隔てた東側の丘稜地)に移転した。 大聖寺ははじ ...
「大衆新聞」(新聞) とは(豊橋百科事典より)
たいしゅうしんぶん 「豊橋大衆新聞」は,昭和4(1929)年12月創刊の日刊紙である。タブロイド4ページだてで,購読料は1部2銭,1か月30銭であった。社屋を豊橋市花田町角田に置き,編集所を前田南町に置いた。創業者高崎信吉(1898~1944)の個人新聞的な性格が強かった。 ...
総代 とは(豊橋百科事典より)
そうだい 江戸時代の村々は,村名・村高・鎮守・庄屋があり,吉田24町にも庄屋が置かれ,行政機関であり,自治組織でもあった。明治39(1906)年の市制施行によって,大字代表を総代とした。「豊橋市史」第3巻に,明治41(1908)年の第15師団歓迎会経費割賦表では,54町(4 ...
製糸 とは(豊橋百科事典より)
せいし 製糸は,養蚕農家が収穫した繭を原料とし,製品としての蚕糸を作ることをいう。二川町や豊橋の花田町などに,精繭から生糸を挽(ひ)く生糸製糸と,玉繭から生糸を挽く玉糸製糸場が数多くあった。豊橋における製糸は,明治9(1876)年朝倉仁右衛門や前田伝次郎らの努 ...
清源寺砦(豊橋市花田町石塚) とは(豊橋百科事典より)
せいげんじとりで 清源寺砦は,豊橋駅から近い城海津交差点の西,清源寺一帯である。周辺は市街地化され,遺構はなく,時期,規模なども不明である。 城主については「三河国吉田名蹤綜録」(文化年間)に石塚清助の名があるが,「何国の武士といふ事を知らず,且歳歴も審 ...
生花市場(豊橋市神野新田町ニノ割) とは(豊橋百科事典より)
せいかしじょう 豊橋生花市場組合(任意組織)が,昭和8(1933)年8月,名古屋,浜松に先がけて設立された。昭和11(1936)年になると,豊橋市新川町市南に豊橋生花市場(申合せ組合)が発足した。 昭和20(1945)年9月,戦災により中止していたが,再発足し立ち会いを始 ...
青果市場 とは(豊橋百科事典より)
せいかしじょう 一星青物市場は,明治41(1908)年,豊橋市花田町に開設された。明治42(1909)年,大丸青乾物問屋が設立された。大正7(1918)年,両者は合併し豊橋青果株式会社が発足した。大正8(1919)年,生産者に青物市場会社を起こす動きがあり,翌9(20)年,それ ...
ステーションビル(豊橋市花田町西宿) とは(豊橋百科事典より)
すてーしょんびる 豊橋ステーションビル株式会社は,昭和25(1950)年3月民衆駅第1号として誕生した。その後,老朽化した駅舎改築に伴い,昭和45(1970)年7月,鉄筋コンクリート造りの新しいステーションビルが完成した。平成2(1990)年には,豊橋駅総合開発事業がスター ...
素盞嗚神社(豊橋市花田町中郷) とは(豊橋百科事典より)
すさのおじんじゃ(なかごう) (中郷)素盞嗚神社は,花ヶ崎村中郷(豊橋市花田町[花ヶ崎]中郷)の氏神である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,花ヶ崎村「牛頭(ごず)天王,祢宜五平次」とある。鎌倉時代の開村と伝えるが,寛文3(1663)年の棟札が残る。社殿は ...
瑞信寺(豊橋市花田町大山塚) とは(豊橋百科事典より)
ずいしんじ 瑞信寺(高野山真言宗)の創立は,大正6(1917)年,開山は萩原瑞信尼である。瑞信尼は幡豆郡西幡豆の人で弘法大師を信仰していた。60歳のころ豊橋に移居して人々の帰依を受け,豊橋市花田町大山塚に100坪の地を求め,6坪の弘法堂を建てて大山塚の伊奈弘法と呼 ...
新豊橋駅(豊橋市花田町西宿) とは(豊橋百科事典より)
しんとよはしえき 豊橋鉄道新豊橋駅は,豊橋鉄道渥美線(新豊橋~三河田原間18.0㎞)の起点(終着)駅で,JR豊橋駅に隣接している。大正14(1925)年5月1日に,渥美電鉄師団口~新豊橋(花田)の開業により,終着駅として開業した。当初は現在地より南に400mほど離れた位 ...
白井烟嵓 とは(豊橋百科事典より)
しらい・えんがん(1894~1976) 白井烟嵓は,明治27(1894)年2月8日,渥美郡花田村(豊橋市西羽田町)に白井徳平の2男として生まれた。本名滝司。従兄弟の白井永川(1884~1942)から絵の手ほどきを受け,静古と号した。大正3(1914)年近衛聯隊に入営,除隊後松林桂月に ...
白井永川 とは(豊橋百科事典より)
しらい・えいせん(1884~1942) 白井永川は,明治17(1884)年3月2日,渥美郡花田村(豊橋市西羽田町)の白井勝蔵の長男に生まれた。本名を儀三郎,字(あざな)を義人,号を永川といった。牟呂八幡社神官の森田光文(緑雲)について神職を志すとともに,国学と南画を学んだ ...
情報プラザ(豊橋市花田町西宿) とは(豊橋百科事典より)
じょうほうぷらざ とよはし情報プラザは,平成9(1997)年8月,豊橋駅新幹線改札口東側に,東三河の地域情報および観光の拠点として開設された。施設面積は80㎡で,地域紹介棚(地場特産品展示用)・とよはし情報ネットロボット・パンフレットコーナー・案内カウンター・マ ...
消防署(豊橋市東松山町) とは(豊橋百科事典より)
しょうぼうしょ 豊橋の消防組織の端緒は,天明3(1783)年,吉田(豊橋)藩主松平信明の火消し組設置であった。明治15(1882)年,私設消防5組が復活,同27(94)年,消防組規則が制定され,同38(1905)年,私設消防組から警察消防(公設)組が設置され,同42(09)年,私 ...
松竹映画劇場 とは(豊橋百科事典より)
しょうちくえいがげきじょう 松竹映画劇場は,昭和21(1946)年,豊橋市花田町石塚(大橋通二丁目)の豊橋劇場跡に,キララ興行(柴田芳男)によって設立された。木造2階建て,600人収容の規模であった。昭和35(1960)年,歌舞伎座事業室直営の豊橋松竹会館として,複合映 ...
松操女学校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
しょうそうじょがっこう 豊橋松操裁縫女学校は,明治40(1907)年9月,中野彦助が豊橋市花田字松山に設立(本科2年・実科1年・師範科2年)された。昭和15(1940)年4月,財団法人松操高等女学校を設立し,高等女学校,裁縫女学校の二本立てとし,同15(40)年11月,豊橋市 ...
浄慈院(豊橋市花田町百北) とは(豊橋百科事典より)
じょうじいん 多聞山浄慈院(浄土宗西山禅林寺派)は,「縁起(えんぎ)」によると,はじめ下野国(栃木県)にあったが,寛文7(1667)年住職忍誉良済は本尊押合地蔵尊を負って吉田(豊橋)馬見塚へ,さらに高須新田(豊橋市高洲町)に移ったが,高潮に遭ったため,延宝8(16 ...
商工信用組合(豊橋市駅前大通三丁目) とは(豊橋百科事典より)
しょうこうしんようくみあい 豊橋商工信用組合は,昭和27(1952)年6月,本店を豊橋商工会議所隣の豊橋貿易商工会館(豊橋市花田町石塚)に置き,田原・福江支店を含め3店舗で営業を開始した。昭和37(1962)年には豊橋市駅前大通三丁目に本店を新築・移転した。昭和42(1 ...
商工会議所(豊橋市花田町石塚) とは(豊橋百科事典より)
しょうこうかいぎしょ 豊橋商工会議所は,明治26(1893)年3月,豊橋商業会議所として全国で20番目に設立された。豊橋商業会議所は,豊橋町札木町豊橋銀行内に事務所を設置し,以後30年間に関屋,西八町,上伝馬など12回事務所を移転した。大正15(1926)年,豊橋市花田町 ...
酒造 とは(豊橋百科事典より)
しゅぞう 酒造業は,味噌・醤油などと並んで明治期から,豊橋の代表的な食料品工業であった。明治34(1901)年に,永井仙十が中心となって,宝飯・渥美・南設楽(したら)3郡の酒造業者25人を集めて,東三酒造組合を設立した。東三酒造組合は,当初事務所を宝飯郡下地町(豊 ...
終着駅 とは(豊橋百科事典より)
しゅうちゃくえき 豊橋駅の飯田線と名鉄名古屋本線は,頭站(とうたん)式の始発駅・終着駅である。豊橋駅の東海道線は,明治21(1888)年の開業以来,通過駅であった。しかし,近年電車のこま切れ運転が増加して,豊橋駅で折り返すものが増加して,乗り継がなければならなく ...
社会保険事務所(豊橋市菰口町三丁目) とは(豊橋百科事典より)
しゃかいほけんじむしょ 愛知県豊橋社会保険事務所は,昭和10(1935)年5月1日に,豊橋市松葉町のエビスヤ百貨店跡に豊橋健康保険出張所として,三河部を管轄区域に発足した。昭和11(1936)年には,豊橋市花田町松山に庁舎を新築移転した。昭和14(1939)年には,西三河 ...
市民文化会館(豊橋市向山大池町) とは(豊橋百科事典より)
しみんぶんかかいかん 豊橋市民文化会館は,昭和42(1967)年10月,図書館・集会室・展示室・ホールを持つ総合施設として,向山大池西岸を埋め立てて建設された。 図書館は,大正2(1913)年1月,花田町守下に開館した。昭和13(1938)年5月,道路(国道23号線)建設のた ...
清水製糸 とは(豊橋百科事典より)
しみずせいし 清水製糸は,明治33(1900)年に清水熊太郎(1875~1960)が親戚筋と共同で始めた製糸場である。清水熊太郎は明治37(1904)年に神戸村(田原市)に敷地300坪(後に3000坪となる)・44釜の玉糸工場をつくったが,大正3(1914)年豊橋へも進出し,豊橋市花田町 ...