れいくたうん 豊橋レイクタウンは,豊橋市南部の南大清水・老津・西赤沢の各一部に造成された大清水台地区(開発面積45.79ha)と,東赤沢・南大清水・伊古部の各1部に造成された富士見台地区(開発面積44.53ha)からなっている。この辺りは丘陵地で原野や畑であったが,大 ...
タグ:老津
吉野山塚(豊橋市老津町今下) とは(豊橋百科事典より)
よしのやまづか 吉野山塚は,豊橋市老津町の老津公園にある芭蕉の句碑で,「よし野にて 桜見せふぞ 桧(ひ)の木笠」と刻まれている。建立年月は平成13(2001)年11月で,碑は高さ113㎝・幅61㎝の自然石で,表面を研磨してある。寿貞(芭蕉の側に居た女性)の追善供養とし ...
郵便番号 とは(豊橋百科事典より)
ゆうびんばんごう 郵便番号制度は,昭和43(1968)年7月1日から実施された。豊橋郵便局の集配区域(昭和7年合併の豊橋市)は440となり,石巻局441-11・二川局441-31・高豊局441-32・老津(おいつ)局441-33・前芝(小坂井局)441-01のように集配局番号が付けられた。平 ...
郵便局 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 石巻郵便局(豊橋市石巻本町北市場) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂 ...
森崎新田 とは(豊橋百科事典より)
もりさきしんでん 森崎新田は,万治3(1660)年以前,田原湾岸に林権四郎によって高39石余を開発された。渥美郡森崎新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分40石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数18,人数83であった。明治11(1878)年 ...
妙見古墳(豊橋市老津町明見) とは(豊橋百科事典より)
みょうけんこふん 妙見古墳は,紙田川の河口に向かって伸びる段丘の端部に立地する。妙見古墳は前方後円墳で,全長49m,後円部の径27m,前方部の長さ22mである。墳丘は2段築成されており,葺石(ふきいし)や周溝は現状では確認されていない。前方部は後世に墓地として掘り込 ...
「三河国大津名蹤綜録」(山本貞晨) とは(豊橋百科事典より)
みかわのくにおおつめいしょうそうろく 「三河国大津名蹤綜録」(著者自筆,美濃本1冊,墨付39丁 享和3年)は,「豊橋市史々料叢書」四「三河国吉田名蹤綜録」の付録として平成9(1997)年翻刻・出版されている。下地村(豊橋市下地町)の商家山本貞晨(1775頃~1821)が ...
「三河日記」(山本政嗣) とは(豊橋百科事典より)
みかわにっき 「三河日記」(著者自筆)は,天保10(1839)年下野国宇都宮藩(宇都宮市)の藩士山本喜三太政嗣が藩命を受け,遠祖戸田三郎九郎清光供養のため江戸を出発し,東海道二川宿から渥美郡大津村(豊橋市老津町)太平寺に至って使命を終え,その後近隣の戸田家ゆか ...
富士見台土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
ふじみだいとちくかくせいり 富士見台土地区画整理事業(組合施行)は,豊橋市南大清水町・西赤沢町・老津町の44haにわたって,昭和56(1981)年度から同63(88)年度に施行された。昭和60(1985)年2月4日富士見台一~三丁目・同63(88)年6月1日野依台一~二丁目,同63 ...
富士見街道 とは(豊橋百科事典より)
ふじみかいどう 富士見街道は,豊橋市が平成2(1990)年に,道路愛称として公募して認定した道路である。この街道は,豊橋市植田町神戸坂の国道259号(田原街道)より同東赤沢町東横根の国道42号(表浜街道)までの東赤沢線(愛知県道409号)延長5.5㎞である。なお,「富士 ...
ファインモールド(豊橋市老津町的場) とは(豊橋百科事典より)
ふぁいんもーるど 有限会社ファインモールドは,昭和62(1987)年鈴木邦宏により創業され,平成12(2000)年有限会社とした。ファインモールドは,樹脂製品の設計から金型製作,射出成形までを一貫して行う技術者集団としての総合企業である。ファインモールドは,顧客のニ ...
東三河水道事務所(豊橋市東小鷹野(ひがしおだかの)二丁目) とは(豊橋百科事典より)
ひがしみかわすいどうじむしょ 愛知県東三河水道事務所は,東三河地域に水道用水並びに工業用水を供給する事業所として,昭和45(1970)年4月,豊橋市東小鷹野に設置された。水道事業は,豊橋市・豊川市・蒲郡市が独自に建設した水道施設を愛知県が継承,新城市・音羽町・ ...
蛤塚 とは(豊橋百科事典より)
はまぐりづか 蛤塚は,豊橋市老津町の老津公園にある芭蕉の句碑で,「蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ」と刻まれている。建立年月は平成元(1989)年10月,碑は高さ200㎝・幅94㎝の御影石の平板型で,三河芭蕉会が奥の細道の旅300年記念として建立した。句は元禄2(1689) ...
花ごろも塚(豊橋市老津町今下) とは(豊橋百科事典より)
はなごろもづか 花ごろも塚は,豊橋市老津町の老津公園にある芭蕉の句碑で,「きてもみよ 甚(じん)べが羽織 花ころも 宗房」と刻まれている。宗房は若いころの松尾芭蕉の名前である。また,詞書14行が記されている。建立年月は平成4(1992)年10月で,碑は高さ89㎝・幅1 ...
芭蕉句碑 とは(豊橋百科事典より)
ばしょうくひ 江戸時代の元禄期を代表する俳人松尾芭蕉(1644~94)は,各地を旅して多くの名句を残している。吉田(豊橋)へも貞享4(1687)年に訪れていて,「松葉を焼て」の句や,「寒けれど」の句を詠んでいる。豊橋市内には12基の芭蕉句碑が建立されている。 「松葉 ...
農協 とは(豊橋百科事典より)
のうきょう 農業協同組合(以下農協)は,昭和23(1948)年,それまでの農業会が解散して農業協同組合法に基づき,信用・購買・販売・加工・共同施設・福利厚生施設・技術指導などを主な事業内容として発足した。豊橋市内には27の農協と14の開拓農協があったが,昭和42(19 ...
南部配水場(豊橋市東赤沢町坪ノ谷) とは(豊橋百科事典より)
なんぶはいすいじょう 豊橋市水道南部配水場は,豊橋市上水道における南部地域(東海道線以南)の配水拠点として,昭和56(1981)年8月,豊橋市東赤沢町坪ノ谷に開設された。南部地域は,北部地域(東海道線以北)の配水拠点小鷹野(おだかの)浄水場から配水していた。しか ...
波入江城(豊橋市老津町波入江) とは(豊橋百科事典より)
なむれじょう 波入江城は,田原方面で勢力を誇った戸田氏の城の一つである。築城時期・規模などは不明である。祥雲寺(豊橋市老津町)が城址(じょうし)に当たるが,遺構はない。 現在は城址の北西方面は埋め立てられ,工業団地となっているが,往時は三河湾に面した城であ ...
那賀山乙巳文 とは(豊橋百科事典より)
なかやま・おみふみ(1905~70) 那賀山乙巳文は,明治38(1905)年8月1日,豊橋で,父・那賀山浩,母・ゆさの子(異母兄が2人いた)として生まれた。20歳前後から,三河・遠江(とおとうみ)地方の郷土史研究に没頭した。浜松の内田旭に師事し,国史資料編纂室の岡本太郎に ...
「豊橋寺院誌」(豊橋寺院誌編纂委員会編) とは(豊橋百科事典より)
とよはしじいんし 「豊橋寺院誌」(豊橋仏教会 昭和34年)は,昭和28(1953)年豊橋仏教会総会において企画され,同34(59)年に刊行された。内容は,豊橋市内に現存する200か寺と廃寺61か寺についての創立・沿革・文化財(宝物),事業(幼稚園)などを,さまざまな資料 ...
豊橋市(市制施行) とは(豊橋百科事典より)
とよはしし 明治22(1889)年10月1日の町村制施行により豊橋市街23町が渥美郡豊橋町となった。明治28(1895)年2月25日,豊橋町(25大字)は豊橋村(9大字)を合併した。明治39(1906)年7月16日,豊橋町(34大字)・花田村(1大字)・豊岡村(6大字)は合併して豊橋町(41 ...
豊橋家政高等専修学校(豊橋市老津町西高縄) とは(豊橋百科事典より)
とよはしかせいこうとうせんしゅうがっこう 豊橋市立家政高等専修学校は,昭和23(1948)年,老津村会議事堂を仮校舎として,老津村立高等家政学院として発足したことに始まる。昭和24(1949)年4月,老津村立高等家政学校の設置が認可され,同24(49)年9月,旧青年学校の ...
戸田宗光 とは(豊橋百科事典より)
とだ・むねみつ(?~1508) 碧海郡上野荘(豊田市)にいた土豪の戸田宗光は,文明7(1475)年ごろ,渥美郡大津(豊橋市老津町)に入り,同12(1480)年ごろ田原(田原市田原町)に移った,明応2(1493)年ごろ牧野氏と今川氏に対峙するために,朝倉川左岸に仁連木(にれん ...
特定郵便局 とは(豊橋百科事典より)
とくていゆうびんきょく 特定郵便局は,「全国郵便局沿革録」明治篇・「三河三等局長会沿革誌」「東海地方特定郵便局長会史」によれば,二川(明治4年)・高塚(明治9年,同42年高豊と改称)・大津(明治9年,同14年老津と改称),高井(明治9年,同12年玉川と改称,同42年石 ...
「銅鍾」(太平寺)(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
どうしょう(たいへいじ) 「銅鍾」1口(太平寺蔵)は,昭和32(1957)年9月19日,豊橋市有形文化財(工芸)に指定された。 太平寺(豊橋市老津町)の「銅鍾」は,太平寺後方の山中より発見されたもので,竜頭21㎝を加えて97㎝,口径55㎝のものである。銘文に,「大日本国 ...
電話局番 とは(豊橋百科事典より)
でんわきょくばん 豊橋の電話が自動開局(4桁のダイヤル式)したのは,昭和6(1931)年3月29日である。大正15(1926)年,東京・横浜,昭和3(1928)年,大阪・京都・神戸・名古屋に自動交換式の電話が登場した。豊橋と姫路が軍都として選ばれた。しかし,自動改式は豊橋だ ...
町村合併 とは(豊橋百科事典より)
ちょうそんがっぺい 明治以後の市町村の歴史は合併の歴史である。明治11(1878)年12月20日郡区町村編制が行われ,戸長を置いた。明治11(1878)年12月28日町村分合を行った。明治9(1876)年2月14日愛知県令の通達は,一定の行政水準を維持するに足る費用負担と地租改正の ...
中部第100部隊 とは(豊橋百科事典より)
ちゅうぶだい100ぶたい 陸軍は南太平洋における厳しい戦訓から,昭和18(1943)年2月,陸軍航空本部直轄の陸軍飛行場設定練習部を豊橋に設置した。飛行場設定練習部は中部第100部隊と称して,旧歩兵第18聯隊(吉田城址(じょうし))におかれ,本部・研究部・教育部・練習隊 ...
多聞院(豊橋市老津町薬師前) とは(豊橋百科事典より)
たもんいん 医王山多聞院(臨済宗妙心寺派)の創立は,天慶元(938)年で,本尊薬師如来像も藤原時代の作であると伝えられている。天和2(1682)年一無順栄首座が再興し,太平寺中興大円光覚禅師を勧請開山とした。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,大津村「禅宗 ...
旅に病んで塚(豊橋市老津町今下) とは(豊橋百科事典より)
たびにやんでづか 旅に病んで塚は,豊橋市老津町の老津公園にある芭蕉の句碑で,「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」と刻まれている。平成6(1994)年10月に三河芭蕉会によって建立されたものである。碑は高さ120㎝・幅95㎝の自然石,表面は長方形に研磨されている ...
高縄城(豊橋市老津町西高縄) とは(豊橋百科事典より)
たかなわじょう 高縄城は,「三河国二葉松」(元文5年)に,「大津村古城,号城山,彦坂小刑部,戸田全衛門,同三郎左右衛門」とある。戸田宗光が大津(現在の老津)に入ったのが文明7(1475)年であることから,この城もそのころ築かれたと考えられる。 城址(じょうし)は ...
高豊郵便局(豊橋市高塚町西石神) とは(豊橋百科事典より)
たかとよゆうびんきょく 高豊郵便局は,明治9(1876)年,高塚郵便局として開設され,下細谷村・上細谷村・小島村・小松原村・寺沢村・東七根(ななね)村・西七根村・高塚村・東伊古部村・西伊古部村・赤沢村・城下(しろした)村・野依(のより)村・高足(たかし)村を管内にし ...
太平寺(豊橋市老津町東高縄) とは(豊橋百科事典より)
たいへいじ 長松山太平寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,嘉応年中(1169~1171)であり,開山は峯翁祖一禅師である。真言宗の寺であったが,延元年中(1336~1340)大暁正宗国師峯翁祖一和尚が再興し臨済宗となった。寛永年中(1624~1644)大円光覚禅師雲竜善祥和尚が中興と ...
「大休禅師画像」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
だいきゅうぜんじがぞう 「大休禅師画像」1幅(太平寺蔵)は,昭和58(1983)年3月15日豊橋市有形文化財(絵画)に指定された。 太平寺(豊橋市老津町)の「大休禅師画像」は,絹本着色,掛幅,縦88㎝,横36㎝。大休禅師は,京都妙心寺25世であったが,今川義元・太原雪斎 ...
大雲寺(豊橋市老津町大津中) とは(豊橋百科事典より)
だいうんじ 金福山大雲寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,文保元(1317)年で,開山は桂昌寺(豊橋市老津町)2世少林快哉禅師と伝え,往古は臨済宗建長寺派であったが,天文年中(1532~55)に妙心寺派に改めた。創立以後,中興開山梅谷禅師を経て,徳川初期の快天悦公首座が ...
「雪叟詩集」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
せっそうししゅう 「雪叟詩集」1編(太平寺蔵)は,昭和62(1987)年3月20日,豊橋市有形文化財(文書・典籍)に指定された。 太平寺(豊橋市老津町)の「雪叟詩集」は,縦26㎝,横17㎝,料紙123枚。雪叟和尚(?~1593)は,天正年間(1573~1592),太平寺に在住し,俗 ...
鈴木悦 とは(豊橋百科事典より)
すずき・えつ(1886~1933) 鈴木悦は,明治19(1886)年10月17日,渥美郡老津村(豊橋市老津町)で鈴木浅吉の長男として生まれた。成城中学校,東京外国語学校,早稲田大学を卒業後,明治43(1910)年「万朝報」に入社した。「早稲田文学」に「家なき人」「解放」「幻影」 ...
杉山中学校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
すぎやまちゅうがっこう 杉山村立杉山中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴って,旧杉山青年学校の校舎を使って,杉山小学校を校区として開校(六連(むつれ)分校は六連小学校の校舎を使って,六連小学校を校区として発足,昭和36年田原町東部中学校に合併)した ...
杉山駅(豊橋市杉山町前屋敷) とは(豊橋百科事典より)
すぎやまえき 豊橋鉄道渥美線杉山駅は,大正13(1924)年1月22日に,渥美電鉄高師~豊島(としま)間の開業により,老津~谷熊(やぐま)間(新豊橋起点12.7㎞)に開業した。昭和42(1967)年10月1日に貨物取扱を廃止,同44(69)年4月20日に無人化となる。平成4(1992)年12月 ...
章南中学校(豊橋市老津町宮脇) とは(豊橋百科事典より)
しょうなんちゅうがっこう 豊橋市立章南中学校は,昭和35(1960)年4月,老津中学校・杉山中学校を統合して,老津小学校・杉山小学校を校区として発足した。昭和36(1961)年4月,杉山校舎は老津校舎に統合し,同36(61)年11月,校舎の鉄筋化が完成した。平成17(2005)年 ...
祥雲寺(豊橋市老津町波入江) とは(豊橋百科事典より)
しょううんじ(おいつ) 呑江山祥雲寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,延応元(1239)年ごろとされる。当初真言宗であった。その後寛永年間(1624~1644)に太平寺中興雲竜和尚を勧請開山として再興,妙心寺派に改宗したと伝えられる。本尊は釈迦如来坐像であり,勢至堂(せい ...
寿泉寺(豊橋市瓦町通二丁目) とは(豊橋百科事典より)
じゅせんじ 鶴松山寿泉寺(臨済宗妙心寺派)の創立年代は不明であるが,開山は大津村(豊橋市老津町)桂昌寺の松山和尚である。延宝8(1680)年,新規開発された河原町(豊橋市瓦町)へ移転し,京都妙心寺末寺の証文を得た。元禄6(1693)年,公儀寺社奉行所から寿千寺の公 ...
慈洞寺(豊橋市老津町三島) とは(豊橋百科事典より)
じとうじ 聖谷山慈洞寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,明応3(1494)年で,開山は玉月宗華首座である。本尊の虚空蔵菩薩像の詳細は不明である。歴代中,中興開山積堂和尚は桂昌寺の徒弟で,明治20(1887)年の本堂改築や信徒の教化に献身した。 「三州吉田領神社仏閣記」( ...
時習館高等学校(豊橋市富本町国隠(くにかくし)) とは(豊橋百科事典より)
じしゅうかんこうとうがっこう 愛知県豊橋中学校は,昭和23(1948)年4月,6・3・3制移行に伴い,愛知県立豊橋高等学校となる。昭和23(1948)年10月,愛知県立豊橋時習館高等学校と改称した。昭和24(1949)年4月,男女共学・小学区制・総合制の高等学校再統合が行われた ...
三共食品(豊橋市老津町後田) とは(豊橋百科事典より)
さんきょうしょくひん 三共食品株式会社は,昭和50(1975)年豊橋市老津町後田に,中村俊策によって設立された。三共食品は昭和50(1975)年,乾燥野菜,天然調味料のエキスの製造とインスタント食品の具材,スープなどの製造を始めた。ラーメンの具材では,全国の生産シェ ...
境橋(境川・朝倉川・柳生川) とは(豊橋百科事典より)
さかいばし 境橋は,東海道(旧国道1号)で,現在の湖西東細谷線(愛知・静岡県道173号)が境川(三河国と遠江国の国境)を横切るところに架けられた橋である。古くから,境川・境橋は文書に登場し,「東海道名所記」に「境橋,これ三川・遠江のさかひ橋也,橋のしたハ小 ...
境川 とは(豊橋百科事典より)
さかいがわ 境川は,豊橋市東細谷町・湖西市白須賀町を起点とし,その名称のとおり三河国(愛知県)と遠江(とおとうみ)国(静岡県)の境界を北に向かって流れる川である。東海道本線新所原駅のすぐ西側で梅田川に合流する。延長は4.7㎞で,二級河川に属し,東海道(国道1 ...
「金剛般若経」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
こんごうはんにゃきょう 「高麗本紺紙金泥金剛般若経」1帖(太平寺蔵)は,昭和62(1987)年3月20日,豊橋市有形文化財(文書・典籍)に指定された。 太平寺(豊橋市老津町)の金剛般若経は,縦26㎝,横11㎝の折本で,紺紙に金泥で経文を書写した経典である。見返しに金 ...
御賓様(民話) とは(豊橋百科事典より)
ごひんさま 三河湾沿岸などに夜出没する火の玉のことを,昔の人々は御賓様とか狗賓(ぐひん)様と呼んで恐れていた。ある日,大津(豊橋市老津町)の海を漁師がモク(藻草のこと,老津や杉山の人々は,昭和の20年代まで海に出てモクを採り,牛糞(ぎゅうふん)や藁(わら)を混ぜ ...
国道259号 とは(豊橋百科事典より)
こくどう259ごう 国道259号は,豊橋市から渥美郡渥美町の伊良湖岬までは,通称「田原街道」で,奥郡(おくごおり)街道ともいわれた。さらに伊勢湾を海路で三重県鳥羽市に至る道路である。大正4(1915)年7月,豊橋市札木町から第15師団司令部前(豊橋市町畑町)までが国道61 ...