よしだ24ちょう 東海道吉田の宿は,慶長6(1601)年,松平(竹谷)家清以来の譜代の城下町であった。また,慶長6(1601)年,徳川家康が東海道に伝馬の制を実施して以来の宿場町であり,吉田川(豊川)の河口を扼(やく)する湊町である。江戸時代を通じての町数は,24町であ ...
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吉田天神社(豊橋市広小路三丁目) とは(豊橋百科事典より)
よしだてんじんしゃ 吉田天神社は,往古,菅公の神像が鹿菅(しかすが)の海辺に漂っていたのを里人が石塚(豊橋市花田町)の辺りに小社を建てて祀っていたが,天文元(1532)年岩崎玄朝が奉祀したことに始まる。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村「新銭町,天 ...
吉田三名水 とは(豊橋百科事典より)
よしださんめいすい 吉田三名水は,山田宗へん(1627~1708)が愛用した「栄川の泉」「御坊の井」「呉竹の井」をいう。「栄川の泉」は,羽田(はだ)八幡宮(豊橋市花田町斉藤)の北側にあった。山本貞晨(ていしん)の「三河国吉田名蹤綜録」(文化3年)には「昔日,松平豊洲 ...
吉川村 とは(豊橋百科事典より)
よしかわむら 渥美郡の吉田方5か村は,寛永15(1638)年,羽田(はだ)村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚村に分立したという。渥美郡吉川村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)では吉田中3032石余である。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,吉川村豊橋藩領分297石余 ...
山本貞晨 とは(豊橋百科事典より)
やまもと・ていしん(1775頃~1821) 山本貞晨は,宝飯郡下地村(豊橋市下地町)の板屋の子に生まれた。通称を板平,須摩板琴と号した。享和3(1803)年,「三河大津名しょう綜録(めいしょうそうろく)」「羽田名蹤綜録」「三河国下地名蹤綜録」の3部を著わす。文化3(1806 ...
安海熊野社(豊橋市魚町) とは(豊橋百科事典より)
やすみくまのしゃ 安海熊野社は,保延2(1136)年,鳥羽上皇の命により,熊野から快円法印が下向して建立したと伝える。その後,紀伊の人・鈴木重胤(しげたね)が宝飯郡佐脇村(宝飯郡御津町)に上陸し,この地に住み熊野権現の神主となった。牧野古白は,明応4(1495)年社 ...
牟呂用水 とは(豊橋百科事典より)
むろようすい 牟呂用水は,豊川(とよがわ)の牟呂松原頭首工(新城市一鍬田(ひとくわだ) 豊川河口から25㎞地点)から取水し,豊川の左岸を牟呂松原幹線水路として流れる。豊橋市に入って,牛川台地・東田台地の西端をかすめ,市街地を抜け,さらに,羽田(はだ)台地の南端を ...
村松裕一 とは(豊橋百科事典より)
むらまつ・ゆういち(1926~2003) 村松裕一,本名良(はじめ)は,大正15(1926)年4月30日,八名郡石巻村小野田(豊橋市石巻小野田町)で生まれた。小学4年生の時に病気にかかり,長い闘病生活の後にクリーニング店を営む。そのかたわら,熊谷武至の短歌会で学び,また,大 ...
三ツ相村 とは(豊橋百科事典より)
みつあいむら 吉田方5か村は,寛永15(1638)年,羽田(はだ)村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚(まみづか)村に分立したという。渥美郡三ツ相村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)では吉田中3032石余である。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,三ツ相村豊橋藩領分2 ...
「三河国大津名蹤綜録」(山本貞晨) とは(豊橋百科事典より)
みかわのくにおおつめいしょうそうろく 「三河国大津名蹤綜録」(著者自筆,美濃本1冊,墨付39丁 享和3年)は,「豊橋市史々料叢書」四「三河国吉田名蹤綜録」の付録として平成9(1997)年翻刻・出版されている。下地村(豊橋市下地町)の商家山本貞晨(1775頃~1821)が ...
馬見塚村 とは(豊橋百科事典より)
まみづかむら 永正2(1505)年,牧野古白が馬見塚と飽海(あくみ)の地に今橋城を築いたという。また,馬見塚のもとの地は,後の吉田(豊橋)城の地である。今川氏親は,馬見塚の替え地として,渡辺平内次に三ツ相村120貫文をあてがったという。吉田方5か村は,寛永15(1638 ...
松葉公園(豊橋市萱町) とは(豊橋百科事典より)
まつばこうえん 松葉公園は,豊橋市萱町の市民センター(カリオンビル)北,面積5700㎡で,地下駐車場が設けられた都心部の公園である。戦災復興土地区画整理事業の一環として,昭和27(1952)年3月,児童公園として整備された。開園後,夜店会場・メーデーや豊橋まつりな ...
町裏10か所 とは(豊橋百科事典より)
まちうら10かしょ 町裏10か所というのは,江戸時代末期に吉田(豊橋)町地と仁連木(にれんぎ)村・花ヶ崎村・羽田(はだ)村などとの接点にできた新興住宅地10か所である。 談合宮と中世古は安久美神戸(あくみかんべ)神明社の氏子で,現在の豊橋市談合町・中世古町である。野 ...
福谷水竹 とは(豊橋百科事典より)
ふくたに・すいちく(1787頃~1850) 福谷水竹は,吉田西町(豊橋市松葉町)の油屋で,福谷藤左衛門世黄(よつぎ)という吉田藩の御用達であった。赤守の号で狂歌を作っていたが,文政4(1821)年ごろから,岡崎の鶴田卓池(1768~1846)に,師事して俳諧を学んだ。 嘉永元 ...
「東三河の廃仏毀釈」(鈴木源一郎) とは(豊橋百科事典より)
ひがしみかわのはいぶつきしゃく 「東三河の廃仏毀釈」(豊川堂 昭和52年)は,平田神道の思想伝達者で,羽田八幡宮・湊町神明社の神主である羽田野敬雄に焦点をあてて,東三河の廃仏運動が論じられている。その論述は,羽田野敬雄の「幕末三河国神主記録」(「万歳書留控 ...
花田村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
はなだむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡花ヶ崎村・羽田(はだ)村は合併して花田村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行されたが,明治39(1906)年7月16日に,豊橋町・花田村・豊岡村は合併して豊橋町と改称した。 - - 豊橋市 ...
花田小学校(豊橋市西羽田(はだ)町) とは(豊橋百科事典より)
はなだしょうがっこう 豊橋市立花田小学校は,明治6(1873)年,羽田村・花ヶ崎村が共同で羽田村浄慈院に,第10中学区第4番小学幡太(はだ)学校として開校し,翌明治7(1874)年,校舎を長全寺に移転したことに始まる。明治13(1880)年,渥美郡第10番小学幡太学校・第11番 ...
花ヶ崎村 とは(豊橋百科事典より)
はながさきむら 花ヶ崎の地名は,入り海に突き出た鼻ヶ崎を意味するという。渥美郡花ヶ崎村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に730石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分1004石余,正林寺領3石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数148,人 ...
「羽田名蹤綜録」(山本貞晨) とは(豊橋百科事典より)
はだめいしょうそうろく 「羽田名蹤綜録」(著者自筆,美濃本1冊,墨付30丁 享和3年)は,「豊橋市史々料叢書」四 「三河国吉田名蹤綜録」の付録として平成9(1997)年翻刻・出版されている。下地村(豊橋市下地町)の山本貞晨が,当時流行した「名所図会」の形式になら ...
羽田村古城(豊橋市花田町百北・築地) とは(豊橋百科事典より)
はだむらこじょう 羽田村古城は,百度(ずんど)屋敷とも呼ばれ,石原百度兵衛の居城とされる。「三河国二葉松」(元文5年)に,「石原百度兵衛,酒井左衛門尉家人」とある。百度兵衛は酒井忠次の臣で,先代は東三河十七騎の一人,石原次郎兵衛である。 現在遺構はないが, ...
羽田村 とは(豊橋百科事典より)
はだむら 羽田の地名は,「倭名類聚鈔」(承平年間)三河国渥美郡6郷の1である幡太郷とする説と,渥美郡渥美町福江の旧称畠を幡太(はだ)郷とする説がある。吉田方5か村は,寛永15(1638)年,吉田町地および羽田村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚(まみづか)村に分立し ...
羽田祭(羽田八幡宮) とは(豊橋百科事典より)
はだまつり 羽田八幡宮(豊橋市花田町斎藤)の例祭は,豊橋市花田町のうち旧羽田村および豊橋市松葉町など20か町の氏子により奉斎される。乙女の舞・浦安の舞が奉納され,花神輿(はなみこし)・獅子舞が祭りに彩りを添える。宵祭りは,手筒・大筒花火が揚げられる。 - - ...
「羽田八幡宮門」(国登録文化財) とは(豊橋百科事典より)
はだはちまんぐうもん 「羽田八幡宮門(旧羽田八幡宮文庫正門)」木造・瓦葺(かわらぶき)・間口3mは,平成12(2000)年12月4日,国の文化財登録原簿に登録された。 「羽田八幡宮門」は,羽田八幡宮文庫の正門として羽田八幡宮参道に西面して建てられ,桟瓦葺きの切妻屋根 ...
羽田八幡宮文庫 とは(豊橋百科事典より)
はだはちまんぐうぶんこ 羽田八幡宮文庫は,嘉永元(1848)年15人の発起によって創設された。羽田野敬雄の「蔵書の多さを誇るのでなく,困窮にて書籍購入のできない人たちへ公開」を方針とした公共図書館の先駆けであった。文庫は,2間と3間(20㎡)の土蔵造りの書庫と松陰 ...
「羽田八幡宮社務所離れ」(国登録文化財) とは(豊橋百科事典より)
はだはちまんぐうしゃむしょはなれ 「羽田八幡宮社務所離れ(旧羽田野家住宅主屋)」木造平屋建・瓦葺(かわらぶき)・建築面積94㎡は,平成12(2000)年12月4日,国の文化財登録原簿に登録された。 「羽田八幡宮社務所離れ」は,羽田八幡宮神主・羽田野敬雄の住宅主屋で, ...
「羽田八幡宮蔵」(国登録文化財) とは(豊橋百科事典より)
はだはちまんぐうくら 「羽田八幡宮蔵(旧羽田八幡宮文庫)」土蔵造り平屋建・瓦葺(かわらぶき)・建築面積20㎡は,平成12(2000)年12月4日,国の文化財登録原簿に登録された。 「羽田八幡宮蔵」は,羽田八幡宮文庫の書庫として,南面に小窓をしつらえ,東面に1間幅の戸 ...
羽田八幡宮(豊橋市花田町斎藤) とは(豊橋百科事典より)
はだはちまんぐう 羽田八幡宮(豊橋市花田町[羽田])は,社伝によると白鳳元(672)年の創立と伝えられる。永禄4(1561)年今川氏真は東三河地方平定に際して社領13貫700文ならびに神主屋敷・高畑500歩を寄進したという。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村 ...
羽田中学校(豊橋市西羽田町) とは(豊橋百科事典より)
はだちゅうがっこう 豊橋市立羽田中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,花田小学校・羽根井小学校を校区として,羽根井小学校の校舎を使用し,西部第一中学校として設立された。昭和23(1948)年9月,羽田中学校と校名を変更し,同25(50)年,豊橋市花田町堀 ...
羽田上神社(豊橋市花田二番町) とは(豊橋百科事典より)
はだかみじんじゃ 羽田上神社は,寛政10(1798)年焼失し,再建のため由緒は不詳であるが,素盞嗚(すさのお)命を祀り,羽田八幡社の御旅所となっている。花田町(羽田)稲場地区の産土神(うぶすながみ)である。昭和6(1931)年社号を改めた。旧暦6月30日には茅(ち)の輪の神 ...
「幕末三河国神主記録」(羽田野敬雄) とは(豊橋百科事典より)
ばくまつみかわのくにかんぬしきろく 「幕末三河国神主記録」(清文堂 平成6年)は,羽田村(豊橋市花田町)の羽田八幡宮・田町(豊橋市湊町)の神明社の神主であった羽田野敬雄(1798~1882)の文化8(1811)年から明治12(1879)年までの記録で,原本は「万歳書留控」8 ...
白山比咩神社(豊橋市広小路三丁目) とは(豊橋百科事典より)
はくさんひめじんじゃ 白山比咩神社は,安海熊野社の脇宮として奉斎されたもので,往古は白山権現と称した。保延2(1136)年ごろ札木町に勧請,天正18(1590)年城地拡張に際して魚町に遷り,さらに南方に遷したものである。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村 ...
廃仏毀釈 とは(豊橋百科事典より)
はいぶつきしゃく 廃仏毀釈は,慶応4(1868)年3月,太政官から達せられた「神仏分離令」を契機に全国に巻き起こった反仏教運動であった。神仏分離令は,神社から仏教色を排除するため,明治新政府が慶応4(1868)年以降に出した一連の法令である。まず慶応4(1868)年3月1 ...
野田村 とは(豊橋百科事典より)
のだむら 吉田方5か村は,寛永15(1638)年,羽田(はだ)村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚(まみづか)村に分立したという。渥美郡野田村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)では吉田中3032石余である。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,野田村豊橋藩領分689石余, ...
「野菊」(大和田建樹) とは(豊橋百科事典より)
のぎく 「野菊」(大和田建樹 明治42年)は,国文学者で詩人の大和田建樹(1857~1910)が刊行した474ページの書物で,大和田建樹が暮らしの中で経験したこと,紀行文,短歌,詩などのエッセー集である。東三河を旅した時に羽田八幡宮文庫(この中では羽田野文庫となって ...
人形劇団ばんび とは(豊橋百科事典より)
にんぎょうげきだんばんび 人形劇団ばんびは,昭和40(1965)年4月大久保一康ら6人によって発足した。劇団誕生の揺籃(ようらん)期として,昭和28(1953)年から同37(62)年にいたる豊橋市立牟呂中学校および豊橋市立羽田(はだ)中学校の人形劇クラブの活動があった。 昭和 ...
豊寿稲荷社 とは(豊橋百科事典より)
とよほぎいなりしゃ 豊寿稲荷社は,八名郡牛川村(豊橋市牛川町洗島)に嘉永4(1851)年3月,吉田(豊橋)領民たちが領主の武運長久と五穀豊穣を願って,江戸深川の松平(大河内)邸の深川稲荷を勧請したものである。羽田野敬雄の「万歳書留控」(「幕末三河国神主記録」) ...
豊橋別院(豊橋市花園町) とは(豊橋百科事典より)
とよはしべついん 豊橋別院(真宗大谷派)の創立については,天文3(1534)年説(「三州吉田記」)と寛永初年説(「豊橋及其附近」)など諸説があるが,現存している文献によると文禄4(1595)年ごろ,本願寺の教如上人(1558~1614)が現在地に吉田惣道場を創立して誓念寺 ...
「豊橋市立図書館50年の歩み」(豊橋市立図書館編) とは(豊橋百科事典より)
とよはししりつとしょかん50ねんのあゆみ 「豊橋市立図書館50年の歩み」(豊橋市立図書館 昭和37年)は,豊橋市立図書館の設立50周年を記念して発行された。羽田八幡宮文庫を母体として,明治45(1912)年4月1日豊橋市立図書館が発足した。以来50年にわたる経過を簡略にま ...
図書館(豊橋市羽根井町) とは(豊橋百科事典より)
としょかん 豊橋市中央図書館は,嘉永元(1848)年,羽田八幡宮の神官であった羽田野敬雄(たかお)が設立した羽田八幡宮文庫の蔵書の大部分を引き継いで設立された。豊橋市は,明治44(1911)年,愛知県下で最初の公立図書館を計画(豊橋市花田町守下)し,大正2(1913)年1 ...
手筒花火 とは(豊橋百科事典より)
てづつはなび 手筒花火は,東三河の伝統行事として,毎年夏吉田神社の祇園祭や秋の羽田祭などで祭の呼び物として若衆により奉納されている。 吉田神社の「三河国古老伝」では,「永禄元年天王祭礼祀ノ花火ト云ウ事始メル」とあり,「吉田神社略記」に「花火ノ創始ハ羽田吉 ...
長全寺(豊橋市花田町斉藤) とは(豊橋百科事典より)
ちょうぜんじ(はなだ) 万年山長全寺(曹洞宗)は,永禄3(1560)年,竜拈寺(りゅうねんじ)5世悟慶宗鶴和尚により開かれた。開基は羽田村の羽田野九郎右衛門尉と伝えられている。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村「禅宗,万年山長全寺,吉田竜拈寺末寺,平 ...
中部日本南画院 とは(豊橋百科事典より)
ちゅうぶにほんなんがいん 中部日本南画院は,田原藩出身の渡辺崋山(1793~1841),渡辺小華(1835~87)の伝統的画風を継承して発足した。後に伝統を生かしつつも,個人の創作趣味を発揮し得る日本画の研鑚に努めることを目標に,昭和30(1955)年4月1日結成された。以前 ...
清源寺(豊橋市大橋通一丁目) とは(豊橋百科事典より)
せいげんじ 石塚山清源寺(浄土宗)の創立は,天文3(1534)年で,開山は宅誉全賀上人,本尊は阿弥陀如来像である。「三河国吉田名蹤綜録」によると境内地は,石塚清助という人のいた古城址である。戦国時代今川義元の寄進を受けた。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年) ...
百度(ずんど)屋敷 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 羽田村古城(豊橋市花田町百北・築地) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長 ...
諏訪神社(豊橋市中柴町) とは(豊橋百科事典より)
すわじんじゃ(なかしば) (中柴)諏訪神社は,永仁元(1293)年信濃国諏訪大社から勧請して中柴(豊橋市中柴町)の鎮守とした。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村「中柴,諏訪明神,祢宜吉太夫」とある。天正2(1574)年吉田(豊橋)城主酒井忠次が社殿を造 ...
「鈴木真重歌集」(鈴木真重) とは(豊橋百科事典より)
すずきましげかしゅう 「鈴木真重歌集」(写半紙本一冊,墨付全54丁 明治13年)は,吉田天王社(吉田神社)神官,鈴木若狭真重(1750~1811)の歌集である。明治13(1880)年11月の序によれば,孫の鈴木石見磐根が子孫に伝え,また羽田八幡宮文庫に奉納するため編したもの ...
鈴木真重 とは(豊橋百科事典より)
すずき・ましげ(1750~1811) 鈴木真重は,寛延3(1750)年5月,吉田天王社(吉田神社)の祢宜(ねぎ)の家に生まれた。通称を若狭といい,のち周防と改名した。寛政5(1793)年本居宣長(もとおりのりなが)門に入り,享和元(1801)年本居宣長没後は本居大平(おおひら)に師 ...
神明社(湊町) とは(豊橋百科事典より)
しんめいしゃ(みなとまち) (湊町)神明社は,古くは田町神明社(明治11年田町と坂下町が合併して湊町となる)といい,白鳳元(672)年の鎮座で,皇大神宮の湊御厨(みなとみくりや)または吉田御園(よしだみその)に祀られたもので,船町・田町・坂下町の氏神であった。元 ...
神明社(豊橋市大手町) とは(豊橋百科事典より)
しんめいしゃ(のぐち) (野口)神明社は,天正11(1583)年の創建で,吉田町裏野口村(豊橋市神明町)の鎮守である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村「紺屋町裏,神明,祢宜野口三右衛門」とある。昭和20(1945)年6月戦災にあい,戦災復興土地区画整理に ...
新制中学校 とは(豊橋百科事典より)
しんせいちゅうがっこう 新制中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制の新学制として発足した。従来の学制では国民学校初等科6年の義務教育に続いて,国民学校高等科または中等学校(中学校・高等女学校・実業学校)という複線型であったのが,国民学校高等科の2年制を改め ...