やまだむら 山田村は,寛永4(1627)年の開発で,村高188石余で高足(たかし)村から分立したとされる。渥美郡山田村の村高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分228石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数18,人数99であった。「三州吉田領神社仏 ...
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幸公園(豊橋市佐藤町・高師町・東幸町) とは(豊橋百科事典より)
みゆきこうえん 幸公園は,東海道本線二川駅と豊橋駅の中間北側の豊橋市佐藤町池下・江島にまたがる長三池を中心に,昭和58(1983)年3月に開設された都市公園面積12.8haの総合公園である。 豊橋市福岡東部区画整理事業に伴い「人と水と緑」をテーマに農業用ため池の長三 ...
「南栄町物語」(水口源彦) とは(豊橋百科事典より)
みなみさかえちょうものがたり 「南栄町物語─軍隊の街から学園の街へ─」(水口源彦 平成8年)は,高師村の空池,福岡村の蟹原,磯辺村の東山という3地区が南栄町として成立したことを記したものである。田原街道が野依街道と分岐する辺りに,明治25(1892)年村づくりが ...
南栄町 とは(豊橋百科事典より)
みなみさかえちょう 豊橋市南栄町は,昭和7(1932)年,渥美郡高師村が豊橋市に合併した際,高師村大字福岡(橋良)字蟹原,大字高師字空池(からいけ),大字磯辺(草間)字東山で編成された町である。明治40(1907)年,高師村に陸軍第15師団が置かれ,大正13(1924)年, ...
福岡村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
ふくおかむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡橋良村・小池村・小池村持地高足(たかし)分地・山田村・小松新田・佐藤村・小浜村は合併して福岡村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行された。明治39(1906)年9月10日,福岡村・高師 ...
「福岡のむかしと今」(豊橋市立福岡小学校校区誌編集委員会) とは(豊橋百科事典より)
ふくおかのむかしといま 「福岡のむかしと今」(豊橋市立福岡小学校 昭和60年)は,豊橋市立中野小学校の新設分離を記念して,豊橋市立福岡小学校校区誌編集委員会によって編集発行された。 本書の内容は,福岡の自然から書き起こし,大昔の福岡の様子,鎌倉から戦国・江 ...
福岡東部土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
ふくおかとうぶとちくかくせいり 福岡東部土地区画整理事業(組合施行)は,豊橋市佐藤町・山田町の139haにわたって,昭和51(1976)年度から平成9(1997)年度に施行された。平成8(1996)年9月7日,豊橋市佐藤一~五丁目・つつじが丘一~三丁目の町名が設定された。 ...
福岡小学校(豊橋市橋良町平野) とは(豊橋百科事典より)
ふくおかしょうがっこう 豊橋市立福岡小学校は,明治7(1874)年3月,橋良(はしら)村の正光寺に,小池・橋良・小浜村を学区とする第10中学区第10番小学高足(たかし)学校出張所橋良学校が発足したことに始まる。明治9(1876)年4月,高足学校から独立し,第10中学区第29番小 ...
彦坂幸太郎 とは(豊橋百科事典より)
ひこさか・こうたろう(1873~1907) 彦坂幸太郎は,明治6(1873)年2月22日,渥美郡西七根(にしななね)村(豊橋市七根町)の高橋喜重郎の長男に生まれたが,同28(95)年渥美郡高師村本郷(豊橋市高師本郷町)の彦坂栄作の養嗣子となった。明治28(1895)年愛知県第一師範 ...
橋良村 とは(豊橋百科事典より)
はしらむら 渥美郡橋良村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に557石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分656石余,正光寺領2石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数110,人数458であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,橋良村「 ...
南部中学校(豊橋市北山町東浦) とは(豊橋百科事典より)
なんぶちゅうがっこう 豊橋市立南部中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,福岡教場(福岡小学校)・高師教場(高師小学校)・磯辺教場(磯辺小学校)に分散して,南部第一中学校として発足し,校地を豊橋兵器支廠(ししょう)跡(豊橋市北山町東浦)に求めて校 ...
中野小学校(豊橋市橋良町向山) とは(豊橋百科事典より)
なかのしょうがっこう 豊橋市立中野小学校は,昭和60(1985)年4月,豊橋市橋良町向山の旧愛知県立豊橋盲学校(昭和56年3月廃止)跡地に福岡小学校区の小浜町・中野町・中野草間町,磯辺小学校区の二六(にろく)町・王ヶ崎(おがさき)団地・草間三区,栄小学校区の新草間町を ...
土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
とちくかくせいり 土地区画整理は,大正8(1919)年の都市計画法に規定され,宅地としての利用増進を目的とした。東部土地区画整理(昭和5~13年,16万坪)では,豊橋市仲ノ町・伝馬町・池見町・大井町・住吉町・瓦町(字なし)・老松町が設定された。南部土地区画整理・仁 ...
つつじが丘小学校(豊橋市佐藤五丁目) とは(豊橋百科事典より)
つつじがおかしょうがっこう 豊橋市立つつじが丘小学校は,平成7(1995)年4月,豊橋市佐藤町東谷に岩西小学校校区の佐藤町・東三ノ輪町・雇用促進佐藤団地,栄小学校区の山田町(東海道線以北),松山小学校区の花田町土亀,向山小学校校区の佐藤町の才ノ神団地を校区とし ...
高師村(明治39年合併) とは(豊橋百科事典より)
たかしむら 明治39(1906)年9月10日,渥美郡高師村・福岡村・磯辺村・野依村・植田村・大崎村は合併して高師村と改称した。昭和7(1932)年9月1日,高師村は豊橋市に合併した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このペ ...
高師村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
たかしむら 明治11(1878)年12月20日,郡区町村編制により,渥美郡高足(たかし)村・芦原新田・森田新田・藤並新田・高足原尾先新田・高足新新田は合併して高師村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行された。明治39(1906)年9月10日,高師村・福岡村・磯辺 ...
高足村 とは(豊橋百科事典より)
たかしむら 「和名類聚鈔」の渥美郡6郷中の高芦(たかし)(多加之)は,渥美郡高足村とされる。ただ,古代の高芦郷の地は梅田川下流域のみではなく,広く太平洋岸に至る地をも包含し,鎌倉時代以後多数の村が分立して今日に至っている。渥美郡高足村の村高は,「三河国村々 ...
高師小学校(豊橋市上野町上原) とは(豊橋百科事典より)
たかししょうがっこう 豊橋市立高師小学校は,明治6(1873)年7月,第10中学区第10番小学脩徳学校として,高足(たかし)村の高林寺に,高足村・森田新田・藤並新田・小松新田・山田村・佐藤村・小池村・橋良(はしら)村・小浜村を校区とし,橋良に分場(小池・小松・橋良・小 ...
スポーツ少年団 とは(豊橋百科事典より)
すぽーつしょうねんだん 豊橋市スポーツ少年団は,昭和48(1973)年豊橋福岡サッカースポーツ少年団が誕生したことから発足した。昭和51(1976)年に剣道,以後空手道,野球など31団が登録された。スポーツ少年団を豊橋体育協会加盟団体のジュニア一部として位置付けていた ...
実修女学校 とは(豊橋百科事典より)
じっしゅうじょがっこう 大正13(1924)年10月,南設楽郡新城町(新城市)の下山嘉一郎が愛知和洋裁縫女学校を設立し,大正15(1926)年,渥美郡高師村福岡字鍵田(豊橋市鍵田町)に移転し,愛知高等和洋裁縫女学校と改称した。昭和2(1927)年,高等実科を新設して愛知高 ...
佐藤村 とは(豊橋百科事典より)
さとうむら 渥美郡佐藤村は,寛文7(1667)年,吉田(豊橋)の佐藤氏によって開発された。高足(たかし)村から分立し,村高は236石余であった。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分247石余とあり,「吉田領戸数調」(安政5年)によれば家数30,人数172であった。「 ...
栄小学校(豊橋市北山町東浦) とは(豊橋百科事典より)
さかえしょうがっこう 豊橋市立栄小学校は,昭和27(1952)年,旧陸軍兵器支廠(ししょう)跡(豊橋市北山町東浦)に福岡小学校区の山田石塚町・南栄町・小松町・北山町・牧野町・栄生町・空池町・東栄町・弥生町,岩西小学校区の江島町を校区として新設された。昭和30(1955 ...
小松新田 とは(豊橋百科事典より)
こまつしんでん 小松新田は,万治2(1659)年,柳生川左岸に開発された新田で,高39石余で高足(たかし)村から分立した。渥美郡小松新田の高は,明治2(1869)年,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分39石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば家数15,人 ...
小浜村 とは(豊橋百科事典より)
こはまむら 渥美郡小浜村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に418石余,明治2(1869)年,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分529石余,万福寺領3石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数60,人数307であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6 ...
「古今和歌集への道」(久曽神昇(きゅうそじんひたく)) とは(豊橋百科事典より)
こきんわかしゅうへのみち 「古今和歌集への道-国文学研究七十七年」(思文閣 平成16年)は,「古今和歌集成立論」をはじめとして,古今集に関する数々の書物を著した久曽神昇文学博士の回想録である。 久曽神昇は,明治42(1909)年5月31日,渥美郡牟呂吉田村高須(豊 ...
小池村 とは(豊橋百科事典より)
こいけむら 渥美郡小池村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に449石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分494石余,悟真寺領7石余とある。ほかに小池村持地高足分地101石がある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数69,人数297であった。「三州吉田 ...
空襲 とは(豊橋百科事典より)
くうしゅう 第2次世界大戦の末期,戦局が悪化するなかで,マリアナ基地から発進するアメリカ軍B29爆撃機によって,昭和19(1944)年11月24日から日本本土への本格的な空爆が始まった。 B29による戦略爆撃の第1期は,兵器工場に対する集中攻撃,第2期は大都市に対する無差 ...
騎兵第19聯隊 とは(豊橋百科事典より)
きへいだい19れんたい 騎兵第19聯隊は,明治41(1908)年11月,豊橋に陸軍第15師団が設置された時,他の部隊とともに,渥美郡高師村福岡に置かれた。大正14(1925)年3月,陸軍は第15師団を廃止し,騎兵第19聯隊も廃止された。廃止された騎兵第19聯隊跡地は,昭和6(1931) ...
萱町線 とは(豊橋百科事典より)
かやまちせん 豊橋市道萱町線は,大正9(1920)年9月,豊橋市上伝馬町の東海道から花田町稗田(駅前大通一丁目)の牟呂用水(萱町橋)まで完成した豊橋市道(上伝馬町・西小田原1号線)で,通称「萱町通り」である。大正11(1922)年7月,渥美郡高師村福岡(豊橋市堂浦町 ...
大手通り とは(豊橋百科事典より)
おおてどおり 大手通りは,豊橋市札木町の東海道から,渥美郡髙師村福岡(豊橋市堂浦町)の柳生橋まで開通した道路大手線の通称名であったが,平成17(2005)年,豊橋市八町通二丁目の国道1号から同魚町の国道259号までの豊橋市道区間が,商店街の通称名「大手通り」となっ ...
大字 とは(豊橋百科事典より)
おおあざ 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編成に際して合併された江戸期からの村名・新田名は,自治体内の慣行の集落名となり,公式の地名としては存在しなくなった(江戸期の村名の大部分は町内会名として存続している)。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行され ...
植野村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
うえのむら 明治11(1878)年12月20日,郡区町村編制により,渥美郡西植田村・東植田村・津田新田は合併して植田村と改称し,野依村・切反ヶ谷(きったがや)村・仏餉(ぶっしょう)村は合併して野依村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制の施行にあたって,植田村・ ...
岩西小学校(豊橋市西口町西ノ口) とは(豊橋百科事典より)
いわにししょうがっこう 豊橋市立岩西小学校は,昭和25(1950)年9月,旧陸軍豊橋第二予備士官学校の一部(豊橋市西口町西ノ口)を校舎として,岩田小学校分校として開設された。翌昭和26(1951)年,岩田小学校区の飯村(いむれ)町・岩西町・西口町・東幸(ひがしみゆき)町 ...
岩田小学校(豊橋市中岩田四丁目) とは(豊橋百科事典より)
いわたしょうがっこう 豊橋市立岩田小学校は,明治6(1873)年,第10中学区第7番小学田尻学校として,田尻(豊橋市岩田町)の祥雲寺に勧善館が,第6番小学三ノ輪学校として三ノ輪(豊橋市三ノ輪町)の士族屋敷に至誠館が設立され,翌明治7(74)年に,勧善館分校が仁連木( ...
磯辺村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
いそべむら 磯辺村は,明治11(1878)年12月20日,郡区町村編制により,渥美郡上牟呂村・中牟呂村・下牟呂村・松島新田・富田新田・上ノ原新田・草間村・向草間村・松井新田が合併して磯辺村と改称したものである。明治17(1884)年8月11日,磯辺村は分離して,磯辺村・牟 ...
磯辺小学校(豊橋市駒形町丸山) とは(豊橋百科事典より)
いそべしょうがっこう 豊橋市立磯辺小学校は,明治6(1873)年9月,第10中学区第13番小学草間学校として,長栄寺に開校したことに始まる。明治12(1879)年,磯辺村駒形字丸山(豊橋市駒形町丸山)に新築・移転する。明治20(1887)年,福岡学校磯辺分教場となる。明治22( ...