ひのき ヒノキ(ヒノキ科)は,常緑高木で,日本特産の樹木である。ヒノキの名の由来は「火の木」で,樹皮を細く裂いて,火口(ほくち)として利用したからだといわれている。材は緻密で硬く,建築材としてとくに柱などに重用される。江戸時代,幕府の御料林であった木曽で有 ...
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「光に向かって咲け」(栗津キヨ) とは(豊橋百科事典より)
ひかりにむかってさけ 「光に向かって咲け」(岩波書店 昭和61年)は,愛知県八名郡石巻村で明治24(1891)年に生まれた斎藤百合(1891~1947)(野口小つる)の生涯とその業績を,同じく盲人の女性栗津キヨ(1919~88)が綴ったものである。 著者の栗津キヨは,大正8(1 ...
早川延海 とは(豊橋百科事典より)
はやかわ・のぶみ(1902~91) 早川延海は,明治35(1902)年7月19日,八名郡玉川村(豊橋市石巻本町)に生まれた。昭和3(1928)年,同志社大学を卒業し,朝日新聞社(大阪)に入社した。昭和13(1938)年,朝日新聞社を退社して,粟村鉱業所(大阪)に入社し,満州国鞍山 ...
花火工場爆発 とは(豊橋百科事典より)
はなびこうじょうばくはつ 花火工場の爆発事故は,昭和29(1954)年10月2日の板倉煙火工場と平成2(1990)年6月29日の豊橋煙火工場の爆発がある。板倉煙火は,市内中心部の豊橋市中柴町で,家族・従業員の死者8人を出し,被害家屋は50戸を超えた。豊橋煙火は,豊橋市石巻平 ...
八景詩歌 とは(豊橋百科事典より)
はっけいしいか 「三河国二葉松」(元文5年)に,熊野大権現八景詩歌がある。豊川帰帆 今号吉田川三河也。星野落雁 今在行明村旧跡。石巻秋月 在八名郡名山也。本宮暮雪 号一宮本宮山。本野晴嵐 号本野原出名所。宮路名照 云赤坂駅後山。渡津夜雨 云小坂井前芝辺。 ...
八幡社(豊橋市下条東町北ヶ谷) とは(豊橋百科事典より)
はちまんしゃ(たけのうち) (竹ノ内)八幡社の創建は明らかでないが,「石巻神社誌」によると鎌倉時代の随神面十二面の内五面は下条竹ノ内にあると記すが,現在はない。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,竹之内村「八幡宮,無祢宜,村中支配」とある。境内社采宮 ...
ハチノコギセル とは(豊橋百科事典より)
はちのこぎせる ハチノコギセル(キセルガイ科)は,陸生巻貝で,殻径は5㎜前後,殻長18㎜前後の中型のキセルガイである。殻の巻数は10前後で左巻きである。殻の形はハチの子のように中央が太くなっているのが特徴で,この姿からハチノコギセルの名が付けられた。 腐葉や ...
萩平村 とは(豊橋百科事典より)
はぎひらむら 萩平村は,慶長9(1604)年ごろ,西郷村から分立したとみられる。八名郡萩平村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に150石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分386石余,日吉社領1石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数67,人 ...
萩平の不動滝(豊橋市石巻萩平町) とは(豊橋百科事典より)
はぎひらのふどうたき 萩平の不動滝は,豊橋市石巻萩平町の東部山間の沢にある滝で,全長約50mにわたり,落差50㎝前後の小さな滝が階段状に連なっている。沢への入り口に「荒沢不動」と記した木板があり,周囲にしめ縄が張られている。滝入り口への進入路は,豊川(とよがわ ...
萩平山城(豊橋市石巻萩平町城山) とは(豊橋百科事典より)
はぎひらさんじょう 萩平山城は,豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。西郷氏の本城の五本松城(豊橋市石巻中山町)は西を除く三方を連なる山に囲まれているが,開口部である西方にも山が一つあった。この山に築かれたのが萩平山城である。 遺構としては山 ...
廃仏毀釈 とは(豊橋百科事典より)
はいぶつきしゃく 廃仏毀釈は,慶応4(1868)年3月,太政官から達せられた「神仏分離令」を契機に全国に巻き起こった反仏教運動であった。神仏分離令は,神社から仏教色を排除するため,明治新政府が慶応4(1868)年以降に出した一連の法令である。まず慶応4(1868)年3月1 ...
箆矢神社(豊橋市石巻本町東屋敷) とは(豊橋百科事典より)
のやじんじゃ 神ヶ谷(かみがや)(豊橋市石巻本町[神ヶ谷])の箆矢神社は,武雷神(たけいかづちのかみ)を祀るが,「三河国内神明名帳」の「従五位下野屋天神,坐八名郡」といわれる。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,神ヶ谷村「箆矢大明神,祢宜権右衛門」「天神 ...
ネズミ とは(豊橋百科事典より)
ねずみ ネズミ(ネズミ目ネズミ科)は哺乳類で,体長5~30㎝,体毛は灰色・黒褐色などである。門歯が上下に2枚ずつあり,生涯伸び続け,物をかじるのに適する。繁殖力が旺盛で,環境への適応力もあり,農作物・食料品を食い荒らし,家財を破損し,病原菌の仲介をすることも ...
「二本松古墳群」(愛知県営開拓パイロット事業石巻地区埋蔵文化財調査団編) とは(豊橋百科事典より)
にほんまつこふんぐん 「二本松古墳群」(愛知県営開拓パイロット事業石巻地区埋蔵文化財調査団 昭和51年)は,芳賀陽を調査団長とした調査団によって発行された発掘報告書である。 渥美半島の先端までも豊川の水を供給する目的で計画された豊川用水建設工事の進展に伴い ...
二本松古墳群(豊橋市石巻平野町・豊橋市石巻小野田町) とは(豊橋百科事典より)
にほんまつこふんぐん 二本松古墳群は,石巻北部の独立丘陵上に分布する各古墳群の総称である。農業基盤整備事業に先がけて昭和44(1969)年から同47(72)年に発掘調査が行われた。調査古墳数は17基におよび,豊橋市内だけではなく,群集墳の調査事例が乏しい三河地域にお ...
西野石灰焼窯跡(豊橋市石巻本町西野) とは(豊橋百科事典より)
にしのいしばいやきがまあと 西野石灰焼窯跡は,豊橋市石巻本町西野に所在した板倉家所有の石灰生産用の窯である。創業は江戸時代末の板倉文右衛門(英光)と伝わる。平成13(2001)年に豊橋市教育委員会が発掘調査を行い,江戸時代末から明治33(1900)年まで順次操業を続 ...
西島正雄 とは(豊橋百科事典より)
にしじま・まさお(1925~95) 西島正雄,本名吉太郎は,大正14(1925)年5月13日,三重県志摩郡阿児町安乗で,父・吉三郎の長男として生まれた。昭和7(1932)年鉄工所を経営していた父とともに,牟呂吉田村(豊橋市牟呂市場町)へ転居した。横浜専門学校工業経営科を卒業 ...
西島(豊橋市石巻西川町大原) とは(豊橋百科事典より)
にしじま 西島株式会社は,大正13(1924)年西島吉太郎が鳥羽で発動機の製造工場として西島鉄工所を創立したことに始まる。昭和9(1934)年豊橋市牟呂町に工場を建設し移転した。昭和11(1936)年には全国発動機性能審査会で第1位を獲得した。昭和20(1945)年,西島正雄( ...
西川村 とは(豊橋百科事典より)
にしがわむら 八名郡西川村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に404石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分790石余,日吉社領1石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数101,人数393であった。永正年間(1504~21)西郷氏が築いたと伝える西 ...
西川城(豊橋市石巻西川町城山) とは(豊橋百科事典より)
にしがわじょう 西川城は,豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。数ある西郷氏の城砦群の中にあって西川城は最も西,五本松城方面から連なる丘陵先端部に位置している。「三河国二葉松」(元文5年)に,「西郷西川村古城,天文年中西郷孫三郎種員,永禄年中 ...
西川芸能練習場(豊橋市石巻西川町安川下(やすかわした)) とは(豊橋百科事典より)
にしがわげいのうれんしゅうじょう 豊橋市西川芸能練習場は,豊橋市民文化会館の付属施設である。昭和61(1986)年4月,主に北部地区市民の演劇・舞踊など各種芸能の練習発表および諸会合の場として開設された。設備は,敷地面積1155㎡,延べ床面積300㎡,鉄骨造り平屋建て ...
成沢村 とは(豊橋百科事典より)
なるさわむら 成沢村は,慶長9(1604)年ごろ,西郷村から分立したとされる。八名郡成沢村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に47石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分57石余とある。「吉田藩戸数調」(安政5年)によれば,家数12,人数44であった。神社 ...
長楽村 とは(豊橋百科事典より)
ながらむら 八名郡長楽村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に332石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分390石余,八幡社領3石,長楽寺領3石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数66,人数260であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年) ...
「長楽の桧」(豊橋市指定天然記念物) とは(豊橋百科事典より)
ながらのひのき 「長楽の桧」(豊橋市石巻本町[長楽寺管理])は,昭和50(1975)年1月21日,豊橋市天然記念物に指定された。 「長楽の桧」は,長楽寺(豊橋市石巻本町板取)の東500mほどの草地に生育し,目通り5.2m・樹高10m・樹齢300年である。北部に地蔵などが安置さ ...
中山村 とは(豊橋百科事典より)
なかやまむら 中山村は,慶長9(1604)年ごろ,西郷村から分立したとみられる。八名郡中山村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に「西郷村今ハ中山ト云」156石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分231石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家 ...
中山峠 とは(豊橋百科事典より)
なかやまとうげ 中山峠は,豊橋市石巻中山町から愛知・静岡県境にいたる弓張山系を越えて,静岡県引佐郡三ヶ日町に抜ける標高350mの鞍部にある峠で,古くはここを遠州街道が通り,三河と遠江(とおとうみ)を結ぶ主要な街道であった。昭和47(1972)年に,弓張山系を縦走する ...
中野田新田 とは(豊橋百科事典より)
なかのだしんでん 中野田新田は,元禄15(1702)年,豊川(とよがわ)左岸に平野村庄屋庄兵衛・萩平村庄屋仁平・中山村庄屋作太夫により開発された。八名郡中野田新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分55石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば ...
「豊橋めぐり」(吉川利明) とは(豊橋百科事典より)
とよはしめぐり 「豊橋めぐり」(東三文化会 昭和57年)は,100項目の史跡と都市施設について,その歴史と現況をそれぞれの関連写真を付して紹介したものである。 記述の方法は豊橋を東部,石巻・賀茂,北部,西部,南部,二川・高豊,中央部(吉田城址(じょうし)・大橋 ...
豊橋東高等学校(豊橋市向山町西猿(にしざる)) とは(豊橋百科事典より)
とよはしひがしこうとうがっこう 昭和23(1948)年4月,6・3・3制移行に伴い,愛知県豊橋第二中学校は愛知県立青陵高等学校に,豊橋市立高等女学校は豊橋市立高等学校となった。昭和23(1948)年10月,愛知県立青陵高等学校と豊橋市立高等学校は統合して愛知県立豊橋東高等 ...
豊橋の極点 とは(豊橋百科事典より)
とよはしのきょくてん 極点とは,これ以上は先がない一番端の地点で,豊橋市域の陸地における東・西・南・北の端の地点と,最高地点・最低地点がある。豊橋市の最東地点は豊橋市石巻中山町大沢の北緯34°49′10″・東経137°30′17″(静岡県三ヶ日町との境)の地点,最西 ...
豊橋段丘面 とは(豊橋百科事典より)
とよはしだんきゅうめん 豊橋段丘面は,豊川(とよがわ)左岸の下流部に,更新世(およそ170万年前~1万年前)に形成された礫(れき)層と砂層からなる複数の段丘面のうち,最も下位にある段丘面をいう。この下位段丘上に永正2(1505)年,今橋(豊橋)城が築かれて城下町が形 ...
豊橋市歌 とは(豊橋百科事典より)
とよはししか 豊橋市制実施5周年祝賀の歌(明治44年8月1日)1 今橋城は昔にて 吉田の里も夢なれや 名を豊橋とよびてより 四十余年は過ぎにけり2 市制布かれて五星霜 戸数一万五千あり 人口五万の余を数ふ 県下第二の大都会3 十五師団を迎へては ...
「豊橋寺院誌」(豊橋寺院誌編纂委員会編) とは(豊橋百科事典より)
とよはしじいんし 「豊橋寺院誌」(豊橋仏教会 昭和34年)は,昭和28(1953)年豊橋仏教会総会において企画され,同34(59)年に刊行された。内容は,豊橋市内に現存する200か寺と廃寺61か寺についての創立・沿革・文化財(宝物),事業(幼稚園)などを,さまざまな資料 ...
豊橋市(市制施行) とは(豊橋百科事典より)
とよはしし 明治22(1889)年10月1日の町村制施行により豊橋市街23町が渥美郡豊橋町となった。明治28(1895)年2月25日,豊橋町(25大字)は豊橋村(9大字)を合併した。明治39(1906)年7月16日,豊橋町(34大字)・花田村(1大字)・豊岡村(6大字)は合併して豊橋町(41 ...
豊川の渡船 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのとせん 平安時代の承和2(835)年には,飽海河の渡船を従来の2隻から4隻に増加させる太政官符が出された。これを「飽海の渡し」という。西側は宝飯郡小坂井町平井辺り(柏木の浜)と考えられ,東側ははっきりせず豊橋市の飽海・関屋・城海津・坂津などが推定され ...
特定郵便局 とは(豊橋百科事典より)
とくていゆうびんきょく 特定郵便局は,「全国郵便局沿革録」明治篇・「三河三等局長会沿革誌」「東海地方特定郵便局長会史」によれば,二川(明治4年)・高塚(明治9年,同42年高豊と改称)・大津(明治9年,同14年老津と改称),高井(明治9年,同12年玉川と改称,同42年石 ...
堂山砦(豊橋市石巻中山町太陽寺跡) とは(豊橋百科事典より)
どうやまとりで 堂山砦は,豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。医(くすし)神社(豊橋市石巻中山町)の北東に,三段の削平地が確認できるが,これは大永2(1522)年に焼失した太陽寺の跡である。「八名郡誌」によれば,堂山城はこの太陽寺跡とされるが定か ...
東名高速道路 とは(豊橋百科事典より)
とうめいこうそくどうろ 東名高速道路は,正式路線名を「第一東海自動車道」という。昭和44(1969)年5月26日に東京インターチェンジと小牧インターチェンジ間(346.7㎞)が全通した。日本道路公団管理の全国の高速道路のうちで最も通行量が多い。また,東京インターチェン ...
東頭神社(豊橋市石巻町東頭) とは(豊橋百科事典より)
とうずじんじゃ 金田(かなだ)(豊橋市石巻町[金田])の東頭神社は,素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀り,その創建は口碑では天智天皇元(662)年というが,確証はない。明治39(1906)年火災により社殿・拝殿ことごとく焼失したが,棟札写によれば,「天文十六(1547)年 ...
当古橋(豊川) とは(豊橋百科事典より)
とうごばし 当古橋は,国道362号(姫街道)が豊川(とよがわ)を横切るところに架けられた橋である。豊橋市石巻本町と豊川市当古町を結ぶ。昭和9(1934)年3月26日,3連アーチ式鉄橋を含む橋長304.7m・幅員5.5mが完成し,「当古の渡し」は廃止された。昭和61(1986)年10月24 ...
当古の渡し とは(豊橋百科事典より)
とうごのわたし 当古の渡しは,国道362号(姫街道)の豊橋市石巻本町と豊川市当古町を結ぶ豊川(とよがわ)の渡船である。始まりは明らかでないが,慶長5(1600)年に,創設したとされる。文化13(1816)年に,当古村と中山家の共同経営となり,安政6(1859)年に,当古村営 ...
東光寺(豊橋市石巻町門前) とは(豊橋百科事典より)
とうこうじ(じんごう) 湯王山東光寺(臨済宗妙心寺派)は,後白河法皇の勅願により,承安年中(1171~75)に創立された天台宗の寺院といわれる。後世焼失して廃寺となっていたのを,永正・大永(1504~28)のころ繁室玄茂和尚が再興し,臨済宗に改宗した。以後正宗寺末陽 ...
「東街便覧図略」(高力猿猴庵) とは(豊橋百科事典より)
とうかいべんらんずりゃく 「東街便覧図略」(稿本 寛政7年)は,熱田から江戸にいたる東海道の名所・名物・風景を詳細な解説付きで描いた肉筆草稿本である。筆者は尾張藩士高力猿猴庵(こうりきえんこうあん),本名高力種信(1756~1831)である。天明6(1786)年,藩命に ...
電話局番 とは(豊橋百科事典より)
でんわきょくばん 豊橋の電話が自動開局(4桁のダイヤル式)したのは,昭和6(1931)年3月29日である。大正15(1926)年,東京・横浜,昭和3(1928)年,大阪・京都・神戸・名古屋に自動交換式の電話が登場した。豊橋と姫路が軍都として選ばれた。しかし,自動改式は豊橋だ ...
積石塚古墳(豊橋市石巻平野町) とは(豊橋百科事典より)
つみいしづかこふん 積石塚古墳は,土ではなく石を主に使用して墳丘を築いた古墳である。中国東北部および朝鮮半島に存在することから,日本国内にあるものは渡来系氏族の墓制とする説が有力である。東三河地域では豊橋市北部の吉祥山塊を中心に積石塚古墳が分布しており, ...
長楽寺(豊橋市石巻本町立石) とは(豊橋百科事典より)
ちょうらくじ 竜尾山長楽寺(臨済宗妙心寺派)は,正宗寺の祥叔和尚が延文2(1357)年,長楽(ながら)村(豊橋市石巻本町)の東北瀬戸山の山腹に創立した。山形が竜尾に似ていたことから山号にしたといわれる。正宗寺2世蒲済和尚を請じて開山と仰ぎ,浄蔭派に属していたが, ...
町村合併 とは(豊橋百科事典より)
ちょうそんがっぺい 明治以後の市町村の歴史は合併の歴史である。明治11(1878)年12月20日郡区町村編制が行われ,戸長を置いた。明治11(1878)年12月28日町村分合を行った。明治9(1876)年2月14日愛知県令の通達は,一定の行政水準を維持するに足る費用負担と地租改正の ...
長谷寺(豊橋市石巻本町野添) とは(豊橋百科事典より)
ちょうこくじ 紫雲山長谷寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,永徳2(1382)年正宗寺3世蒲済和尚を勧請開山としている。開基は祥嶺和尚であり,古来正宗寺末浄蔭派に属していた。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,高井村「柴雲山長谷寺,嵩山村正宗寺末寺,平僧,客殿 ...
秩父帯堆積岩 とは(豊橋百科事典より)
ちちぶたいたいせきがん 秩父帯堆積岩は,関東地方南西部の秩父山地に多くみられる古生層の岩石で,この名がある。この地層は日本列島の骨格をなし,西南日本の外帯に多い。3.5億年~1.3億年前の時代の海底の堆積物が,砂岩・粘板岩・チャート・石灰岩などになり,小さな生 ...
地区体育館 とは(豊橋百科事典より)
ちくたいいくかん 豊橋市地区体育館は,昭和49(1974)年から平成6(1994)年にかけ,市内10地域に順次開設された。昭和49(1974)年前田南地区体育館(豊橋市前田南町二丁目),翌50(75)年新栄地区体育館(豊橋市新栄町大溝),同57(82)年牛川地区体育館(豊橋市牛川 ...