わたむつえき 渡津駅は,古代東海道の駅名で「延喜式」に参河国三駅の一つとして「渡津」の名が見え駅馬10疋が置かれた。宝飯郡小坂井町に置かれたと考えられている。飽海河(豊川の古名)に接するため,ここより渡船により対岸(豊橋市牟呂町坂津から飽海町付近)に渡った ...
タグ:牟呂
渡津橋(豊川(とよがわ)) とは(豊橋百科事典より)
わたつばし 渡津橋は,国道23号(蒲郡街道)・平井牟呂大岩線(愛知県道386号)が豊川(とよがわ)を横切るところに架けられた橋である。豊橋市高洲町と同清須町間を結ぶ。昭和3(1928)年1月に工事を開始した。昭和5(1930)年12月26日,橋長266m・幅員4.6m の5連アーチ式 ...
若宮社(豊橋市牟呂町若宮) とは(豊橋百科事典より)
わかみやしゃ 坂津(豊橋市牟呂町[坂津])の若宮社は,元禄14(1701)年の創建で,縁結びの大鷦鴒命(おおさざきのみこと)を祀る。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,牟呂村「若宮,無祠森有,祢宜八郎左衛門」とある。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことを ...
老人福祉センター とは(豊橋百科事典より)
ろうじんふくしせんたー 豊橋市老人福祉センターは,昭和41(1966)年から平成3(1991)年までに,市内6地域に開設された。地域高齢者に社会参加・健康相談・機能回復訓練等の場を提供している。・仁連木(にれんぎ)老人福祉センター(豊橋市仁連木町)は,昭和41(1966)年 ...
楽法寺(豊橋市東脇二丁目) とは(豊橋百科事典より)
らくほうじ 五願山楽法寺(曹洞宗)は,もと天台宗で,後に臨済寺院となったが,天正元(1573)年竜拈寺(りゅうねんじ)第6世雪雄宗継和尚が曹洞宗に改宗再興し,さらに竜拈寺第13世天岩州呉和尚(?~1645)が再興して山号を玉竜山と称したが,後に五願山と改めた。またか ...
吉田川渡船 とは(豊橋百科事典より)
よしだがわとせん 吉田川(豊川(とよがわ))に架かる吉田大橋の大規模な修理・架け替えは幕府直轄で行われた。江戸時代初期の吉田大橋の架け替えの際には,古い橋を通行しながら新しい橋の架橋工事が行われたが,正徳3(1713)年の大修理からは吉田宿の船町が渡船を運航し ...
吉田方村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
よしだがたむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚村・高須新田が合併して豊田村と改称したが,同17(84)年8月11日豊田村は分離して,東豊田村・西豊田村と改称した。明治11(1878)年12月20日の編成により,茅野新 ...
吉田方小学校(豊橋市吉川町) とは(豊橋百科事典より)
よしだがたしょうがっこう 豊橋市立吉田方小学校は,明治6(1873)年10月,第10中学区第5番小学吉川学校が三ッ相(みつあい)村・吉川村・野田村を通学区域として,吉川村の香福寺に発足し,同8(75)年8月,渥美郡第6番小学高洲学校(高洲新田・馬見塚村・青竹新田・富久縞 ...
吉前新田 とは(豊橋百科事典より)
よしざきしんでん 吉前新田は,豊川(とよがわ)河口左岸に位置する。明治25(1892)年,浅野喜七郎・青木平太郎・同和市・同重五郎・西土文八・藤井平三・伊庭(いば)喜市・中村兼四郎・小柳津(おやいづ)治郎右衛門・吉原裕太郎・宅間菊太郎の11名の土着資本家の手で,海面を ...
横田正臣 とは(豊橋百科事典より)
よこた・しょうしん(1925~2002) 横田正臣は,大正14(1925)年1月19日,海部郡七宝村役場に勤務していた横田常三の2男に生まれた。昭和7(1932)年,父の死去により豊橋市牟呂町に帰郷し,牟呂尋常高等小学校を卒業し,日本冷蔵に勤めた。18歳の時,逓信省興亜通信工学 ...
横田忍 とは(豊橋百科事典より)
よこた・しのぶ(1883~1956) 横田忍は,明治16(1883)年9月8日,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂町)の横田源次郎の3男に生まれた。日露戦争に陸軍少尉として従軍する。明治40(1907)年,愛知県属となり,大正15(1926)年から昭和5(1930)年の間,田部井(ためがい)勝蔵豊橋 ...
養鰻漁業協同組合 とは(豊橋百科事典より)
ようまんぎょぎょうきょうどうくみあい 豊橋養鰻漁業協同組合は,第2次世界大戦後,政府による水産業協同組合法が施行されたのに伴い,昭和25(1950)年に設立された。組合の前身は,任意団体の神野養魚組合であり,事務所を豊橋市牟呂町松島に置き,餌(えさ)の確保・供給 ...
養鶏 とは(豊橋百科事典より)
ようけい 豊橋の養鶏は,明治24(1891)年,大崎(豊橋大崎町)の小柳津友治が500羽規模での飼育を開始したことに始まる。その後,豊橋へ進出し,採卵養鶏に徹して,明治30(1897)年には7000~8000羽規模に発展した。小柳津友治は,アメリカから白色レグホンを輸入し,年 ...
八所社(豊橋市牟呂町八王子) とは(豊橋百科事典より)
やところしゃ 外神(とがみ)(豊橋市牟呂町[外神])の八所社は,寛文年間(1661~73)の創建という。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,牟呂村「八王子,祢宜八郎右衛門」とある。江戸時代には八王子社と称していたが,明治初年に八所社と改められた。 - - 豊橋 ...
柳生川沿線土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
やぎゅうがわえんせんとちくかくせいり 柳生川沿線土地区画整理事業は,豊橋市花田町・牟呂町の80haにわたって,昭和33(1958)年度から同47(72)年度に施行された。昭和47(1972)年7月11日,豊橋市羽根井西町・東脇一~四丁目,市場一丁目の町名が設定された。 - - ...
柳生川運河 とは(豊橋百科事典より)
やぎゅうがわうんが 柳生川の改修は,柳生川耕地整理組合連合会により,昭和8(1933)年1月に着手,同11(36)年2月工事が完了した。その中で東海道線柳生川鉄橋下から牟呂港まで4500mを,幅27m,干潮水面下1.8mとし,柳生川鉄橋下に360m四方の船溜を設け,牟呂港から200t ...
柳生川 とは(豊橋百科事典より)
やぎゅうがわ 柳生川は,柳生川水系の基幹をなす二級河川で,かつては薫瀬(くんぜ)川といわれた。豊橋市の東部,豊橋市岩崎町[手洗]から流れ出す内山川が宮前池・利兵池を経て,葦毛(いもう)湿原(豊橋市岩崎町)から流れ出す地蔵川(延長560m)を合流し,影岩池・上庄池 ...
夜学会 とは(豊橋百科事典より)
やがくかい 夜学会は,明治25(1892)年9月,牟呂青年学術研究会が発足したことに始まる。次に,明治32(1899)年2月,雲谷(うのや)青年夜学会が,年齢15歳以上25歳以下の者を会員として設立された。これ以前の,明治27(1894)年ごろから,有志夜学会が設けられた。この会 ...
森田光尋 とは(豊橋百科事典より)
もりた・みつひろ(1825頃~98) 森田光尋は,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂町)の八幡宮神主森田光義の子に生まれた。弘化2(1845)年,平田篤胤(あつたね)門に入る。嘉永期(1848~54)から明治5(1872)年まで,寺子屋を開いた。嘉永2(1849)年から数年の間に,「万葉長歌 ...
森清治郎 とは(豊橋百科事典より)
もり・せいじろう(1921~2004) 森清治郎は,大正10(1921)年1月1日,渥美郡牟呂吉田村神野新田三号(豊橋市神野新田町)の森清一の長男として生まれた。昭和13(1938)年,豊橋中学校を卒業し,川端画学校に通いデッサンを学ぶ。昭和14(1939)年,東京美術学校図画師範 ...
藻草騒動 とは(豊橋百科事典より)
もぐさそうどう 藻草騒動は,天保14(1843)年,大崎村と東植田村,西植田村,野依(のより)村,仏飼(ぶっしょう)村,切反ヶ谷(きったがや)村の5か村が藻草場入会(いりあい)の件で争った事件である。取調べの結果関係する文書がないことで,5か村の入会は認められないと決定 ...
毛利祥久 とは(豊橋百科事典より)
もうり・よしひさ(1860~1941) 毛利祥久は,安政7(1860)年3月6日,周防国佐波郡上右田(かみみぎた)村(山口県防府市)に毛利元亮の子として生まれた。明治18(1885)年,姉婿・毛利内匠藤内死去後家督を相続し,百十国立銀行頭取となった。明治12(1879)年から同13(8 ...
明治新田 とは(豊橋百科事典より)
めいじしんでん 文政3(1820)年,吉田(豊橋)藩が,福島献吉を牟呂沖新開惣奉行に任命して築成した富士見新田は,大風と高浪によって,堤防が決壊して荒廃していた。西富士見新田は,文政4(1821)年に,修復されて富久縞新田となった。しかし,中富士見新田・東富士見新 ...
牟呂吉田村(明治39年合併) とは(豊橋百科事典より)
むろよしだむら 明治39(1906)年7月16日,渥美郡牟呂村・吉田方村は合併して牟呂吉田村と改称した。昭和7(1932)年9月1日,牟呂吉田村は豊橋市に合併した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12 ...
「牟呂吉田村誌」(白井梅里編輯) とは(豊橋百科事典より)
むろよしだそんし 「牟呂吉田村誌」(白井梅里 昭和8年)は,渥美郡牟呂吉田村村誌編纂を企画したが発行されず,10年前の資料を取捨補足して昭和8(1933)年発行されたものである。牟呂吉田村の起源・沿革を前半に記し,「牟呂村由来記」(1860)に次ぐ牟呂町の郷土史であ ...
牟呂村の由来(民話) とは(豊橋百科事典より)
むろむらのゆらい 和銅元(708)年春3月,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂町)の海岸に打ち寄せられた1艘(そう)の船があった。5人の男女が乗っていた。都から追われた開元親王とその乳母人(めのと),官女,従者2人であった。村人は一行を助け上げ,新しい御殿を建てて住まわせ, ...
牟呂村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
むろむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡上牟呂村・中牟呂村・下牟呂村・松島新田・富田新田・上ノ原新田・草間村・向草間村・松井新田は合併して磯辺村と改称した。明治17(1884)年8月11日,磯辺村は分離して牟呂村(上牟呂村・中牟呂村・下牟呂 ...
牟呂村 とは(豊橋百科事典より)
むろむら 牟呂村は,柳生川河口の渥美湾に面している。牟呂の地名は熊野の「牟婁(むろ)」に由来するとされる。渥美郡牟呂村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に1844石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に上牟呂村豊橋藩領分610石余,中牟呂村豊橋藩領分474石余・坂 ...
牟呂発電所 とは(豊橋百科事典より)
むろはつでんしょ 牟呂発電所は,豊橋電燈株式会社が梅田川発電所の不安定供給を解消するために,明治29(1896)年4月に渥美郡牟呂村大西大海津(豊橋市牟呂町大海津)に設立した発電所である。当時,通水したばかりの牟呂用水を水源とした。水路の長さは約40m,幅約2.4m, ...
牟呂八幡の鐘(民話) とは(豊橋百科事典より)
むろはちまんのかね 昔むかし,牟呂に一人の漁師が住んでいた。ある日,船を漕ぎ出して釣りに出ていた。天気も良く,潮も悪くないのに釣れないので何度も場所を変えた。ここで駄目なら帰ろうと糸を垂らしたら,近くで烏の群がムロハチマン,ムロハチマンと鳴いている。よく ...
牟呂八幡社(豊橋市牟呂町郷社) とは(豊橋百科事典より)
むろはちまんしゃ 牟呂八幡社は,文武天皇元(697)年の創建という。「三河国国内神名帳」に,「従五位牟留天神」と見え,文治2(1186)年佐々木某の知行所であったとき,牟呂天神境内に武神として八幡宮を併祀したものという。貞応元(1222)年鎌倉将軍の命により,鎌倉鶴 ...
「牟呂の方言」(杉浦久雄) とは(豊橋百科事典より)
むろのほうげん 「牟呂の方言 ことばとくらし」(杉浦久雄 昭和63年)は,著者が大正10(1921)年渥美郡牟呂吉田村(豊橋市牟呂町)に生まれてから現在に至るまでの豊橋市南西部の海に近い町の人々の言葉と暮らし536項目を方言・俚諺(りげん)・方言語彙(ごい)集・年中行 ...
牟呂土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
むろとちくかくせいり 牟呂土地区画整理事業は,豊橋市牟呂町の81haにわたって,昭和54(1979)年度から平成12(2000)年度に施行された。平成12(2000)年11月18日,豊橋市牟呂市場町・牟呂中村町・牟呂大西町・牟呂公文(くもん)町・牟呂水神町・牟呂外神町の町名が設定さ ...
牟呂中学校(豊橋市神野新田町イノ割) とは(豊橋百科事典より)
むろちゅうがっこう 豊橋市立牟呂中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,牟呂小学校を使用して開校し,牟呂小学校を校区とする豊橋市立西部第二中学校として発足した。昭和23(1948)年10月,牟呂中学校と校名を変更し,豊橋市神野新田町イノ割の旧農林省水産 ...
牟呂小学校(豊橋市牟呂中村町) とは(豊橋百科事典より)
むろしょうがっこう 豊橋市立牟呂小学校は,明治6(1873)年9月,第10中学区第11番小学牟呂学校として,渥美郡牟呂村の普仙寺に開校し,通学区域は牟呂村・富田新田・松島新田としたことに始まる。明治9(1876)年,第10中学区第31・32番小学牟呂学校と改称した。明治11(1 ...
牟呂城(豊橋市牟呂公文町) とは(豊橋百科事典より)
むろじょう 牟呂城は,西ノ郡(蒲郡市)方面で勢力を誇った鵜殿氏の城とされる。「三河国二葉松」(元文5年)に,「牟呂村古屋鋪,鷲津村本光寺棟札,牟呂城主鵜殿兵庫頭,牟呂兵庫頭正茂」とある。また,土塁上に建つ石碑が示すように「鵜殿兵庫之城」ともいう。「三河国 ...
「牟呂史」(牟呂史編纂委員会編) とは(豊橋百科事典より)
むろし 「牟呂史」(牟呂校区総代会・汐田校区総代会・牟呂史編纂委員会 平成8年)は,牟呂中学校区(おおむね江戸期の牟呂村)を対象に編集された校区史・郷土史である。牟呂地区は,縄文期,弥生,古墳,中世,戦国と多くの埋蔵文化財を有するとともに江戸末期に全国に ...
牟呂高齢者活動センター とは(豊橋百科事典より)
⇒ 高齢者活動センター - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog htt ...
牟呂港 とは(豊橋百科事典より)
むろこう 牟呂港は,「磯辺村誌」(明治14年)に,「渡船場 田原渡 豊橋往環ニ属シテ字市場ニアリ,渡船弐拾八艘,伹私渡ニ属ス」とある。牟呂市場から田原船倉への通船が定期的に行われるようになったのは,明治6(1873)年と伝えられている。明治31(1898)年には渥美 ...
牟呂神富神明社(豊橋市神野新田町ソノ割) とは(豊橋百科事典より)
むろかんとみしんめいしゃ 牟呂神富神明社は,神野新田(豊橋市神野新田町)開墾と同時に,明治28(1895)年伊勢神宮の御分霊を奉祀したものである。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊 ...
牟呂王塚古墳(豊橋市牟呂市場町) とは(豊橋百科事典より)
むろおおづかこふん 牟呂王塚古墳は,柳生川の河口を臨む段丘の南端に立地する。古くからその存在が知られ,明治12(1879)年に村人が主体部を発掘した際に金銅装製品が多数出土し,東京帝室博物館(東京国立博物館)に収蔵された。また昭和63(1988)から平成9(97)年の ...
向草間村 とは(豊橋百科事典より)
むこうくさまむら 向草間村は,江戸時代初期に草間村より分立した。渥美郡向草間村の村高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分216石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数37,人数148であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,向草間村 ...
三ツ山古墳(豊橋市牟呂町坂津) とは(豊橋百科事典より)
みつやまこふん 三ツ山古墳は,豊橋市牟呂町坂津の段丘の端に位置する。三ツ山古墳は全長38mの前方後円墳で,前方部が発達した形状である。墳丘には葺石(ふきいし)は見られず,2段に築成されている。下段のテラス面には埴輪(はにわ)列があり,さらに墳丘の周囲には前方後円 ...
「三河男児の歌」(彦坂幸太郎作詞) とは(豊橋百科事典より)
みかわだんじのうた 「三河男児の歌」は,渥美郡西七根村(豊橋市西七根町)出身の彦坂幸太郎(1873~1907)が,愛知県第一師範学校の教員時代に,「渥美範友会」(渥美郡出身の在校生の親睦会)の求めに応じて明治38(1905)年ごろに作詞したものである。歌詞は10番からな ...
丸茂藤平 とは(豊橋百科事典より)
まるも・とうへい(1882~1956) 丸茂藤平は,明治15(1882)年3月25日,長野県諏訪郡玉川村(茅野市玉川)に両角(もろずみ)彦五郎の2男に生まれたが,丸茂米作の養嗣子となった。明治41(1908)年,京都帝国大学を卒業し,高等文官試験に合格し,愛知県警察部長・京都府警 ...
幻の馬車鉄道 とは(豊橋百科事典より)
まぼろしのばしゃてつどう 明治15(1882)年,東京で馬車鉄道の営業が始まり,愛知県では愛知馬車鉄道が,明治27(1894)年,名古屋で営業を始めた。馬車鉄道は,軌道を敷設し,動力を馬によって客貨車を引いて旅客または貨物を運搬するものである。このころ牟呂~田原間に ...
松島新田 とは(豊橋百科事典より)
まつしましんでん 松島新田は,寛文7(1667)年,柳生川河口右岸に吉田(豊橋)藩士野部与次右衛門・堀惣助,馬見塚村孫平次によって開発された新田である。渥美郡松島新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分287石余とある。「吉田藩領戸数調」(安政5年 ...
松島社(豊橋市牟呂町松島) とは(豊橋百科事典より)
まつしましゃ 松島社の創建は明らかでないが,寛文7(1667)年開発された松島新田(豊橋市牟呂町松島)の産土神(うぶすながみ)として水の神・罔(みず)象女命(はのめのみこと)を勧請したものである。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとう ...
松井新田 とは(豊橋百科事典より)
まついしんでん 松井新田は,寛文2(1662)年以前,梅田川下流右岸に開発された新田である。渥美郡松井新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分129石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数14,人数69であった。産土神(うぶすながみ)に伊勢 ...
牧野伝蔵 とは(豊橋百科事典より)
まきの・でんぞう(1776頃~1854) 牧野伝蔵は,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂町)に生まれた。名を佑之といい,也足と号した。寛政6(1794)年,斎藤一握に入門,和算の奥義を究めた。享和2(1802)年「算術当用記」,文政7(1824)年「関流算術問答集」を著した。嘉永7(1854 ...