わかみやむら 八名郡若宮村は,戦国末期吉田(豊橋)城の外郭拡張に伴い,飽海(あくみ)村の百姓によって開発され,若宮八幡社にちなんで名付けた村である。八名郡若宮村の村高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分137石余,若宮社領3石余とある。「吉田領戸数調 ...
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「炉辺閑話」(石川一美) とは(豊橋百科事典より)
ろへんかんわ 「炉辺閑話─古稀記念集─」(三遠文化協会 昭和51年)は,石川一美の七十の賀を記念して木下克己・野口剛が編集し三遠文化協会が発行したものである。 石川一美は大正13(1924)年に師範学校を卒業し,八名郡牛川尋常高等小学校に奉職,昭和36(1961)年定 ...
練兵場 とは(豊橋百科事典より)
れんぺいじょう 陸軍歩兵第18聯隊が豊橋に設置され,明治17(1884)年旧吉田(豊橋)城内3万2000坪の敷地に兵舎築造が開始された。また,附帯施設として練兵場用地に豊橋宮下町外五か町6万2990坪,射的場用地に八名郡牛川村田中4万2087坪,埋葬地として渥美郡東田村前山200 ...
竜雲寺(豊橋市忠興(ただこう)二丁目) とは(豊橋百科事典より)
りゅううんじ(うしかわ) 忠興山竜雲寺(臨済宗妙心寺派)は正保2(1645)年,正円寺住職竜雲が隠居地として創立した(「忠興村庵寺由緒書之事」元禄10年)。開山は秀村首座である。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,牛川村「忠興新田,庵,三間・弐間,浪ノ上正 ...
四警官殉職 とは(豊橋百科事典より)
よんけいかんじゅんしょく 四警官殉職は,昭和41(1966)年10月12日の豪雨(界雷豪雨)によって起こった。午後8時からの降水量は247㎜を記録し,朝倉川の氾濫によって孤立状態になった豊橋市牛川町ダーダー橋付近の住宅に豊橋警察署浪崎分隊が舟艇で出動した。5人の警官が ...
頼朝ゆかりの長楽の桧(民話) とは(豊橋百科事典より)
よりともゆかりのながらのひのき 鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147~99)は,京の都へ上る時,鎌倉街道を豊橋市雲谷(うのや)町の普門寺から船形山を越え,豊橋市岩崎町・多米(ため)町・牛川町乗小路・石巻本町和田へと駒を進めた。豊橋市石巻本町長楽の集落にひときわ大きな桧 ...
幼稚園 とは(豊橋百科事典より)
ようちえん 豊橋市内には31の幼稚園がある。学校法人曙幼稚園(昭和28年設立)牛川育英幼稚園(昭和50年設立)恵日(えにち)幼稚園(昭和23年保育園,同31年幼稚園設立)大清水幼稚園(昭和31年保育園,同43年幼稚園設立)希望が丘幼稚園(昭和53年設立)悟真寺幼稚園(昭和 ...
薬師寺(豊橋市牛川薬師町) とは(豊橋百科事典より)
やくしじ(うしかわ) 医王山薬師寺(天台宗)の創立は不明である。開山は元禄14(1701)年4月示寂(じじゃく)した栄信大徳と伝えられているが,本寺神宮寺の過去帳には栄信をもって中興と記されている。本尊は薬師如来像である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,牛 ...
牟呂用水 とは(豊橋百科事典より)
むろようすい 牟呂用水は,豊川(とよがわ)の牟呂松原頭首工(新城市一鍬田(ひとくわだ) 豊川河口から25㎞地点)から取水し,豊川の左岸を牟呂松原幹線水路として流れる。豊橋市に入って,牛川台地・東田台地の西端をかすめ,市街地を抜け,さらに,羽田(はだ)台地の南端を ...
三菱レイヨン(豊橋市牛川通四丁目) とは(豊橋百科事典より)
みつびしれいよん 三菱レイヨン株式会社は,昭和8(1933)年設立された新興人絹株式会社(広島県大竹市)に始まる。昭和17(1942)年に日本化成工業株式会社と合併,同19(44)年に旭硝子株式会社と合併し,三菱化成工業株式会社と改称した。昭和25(1950)年,三菱化成工 ...
丸地幸之助 とは(豊橋百科事典より)
まるち・こうのすけ(1886~1972) 丸地幸之助は,明治19(1886)年12月8日,渥美郡東田村(豊橋市東田(あずまだ)町)西郷に生まれた。古城と号した。大正3(1914)年から同10(21)年,名古屋新聞豊橋支局長を務め,同13(24)年,豊橋市会議員に当選した。昭和4(1929) ...
松坂重賜 とは(豊橋百科事典より)
まつざか・しげます(1805~70) 松坂重賜,字賚(たまう)は,文化2(1805)年4月20日,田中新田(豊橋市牛川町)5代松坂重(しげ)たねの子として生まれた。文化13(1816)年,父・松坂重たね没後6代を相続,分家した姉婿松坂忠慎が後見した。文政元(1818)年,吉田(豊橋) ...
松坂五百枝 とは(豊橋百科事典より)
まつざか・いほえ(1827~1903) 松坂重澄(初代五百枝)は,文政10(1827)年7月20日,6代松坂重賜(しげます)の子として生まれた。初名国光,字(あざな)光典,通称幸太郎・長四郎といった。文久2(1862)年,田中神明社神主を継ぎ,松坂越後と称した。明治2(1869)年,家 ...
宝珠寺(豊橋市多米(ため)東町一丁目) とは(豊橋百科事典より)
ほうじゅじ 光照山宝珠寺(曹洞宗)の創立は,天正年間(1573~1592)で,開山は,竜拈寺(りゅうねんじ)第10世安国厳盛和尚とされる。寺伝によれば,はじめは東方の南脇の内炮六郷と称する山腹にあったのを,後世豊橋市多米東町の現在地に移転したと伝えられている。「三州 ...
別所街道 とは(豊橋百科事典より)
べっしょかいどう 別所街道は,明治9(1876)年に,八名郡を縦貫する山手道・三ヶ日街道・川添道,大野(南設楽郡鳳来町大野)以北で金指街道を結んで,豊橋から本郷(北設楽郡東栄町本郷)へ通じる道が愛知県道として認定されたことに由来する。豊橋市西新町で東海道に別 ...
平野村 とは(豊橋百科事典より)
ひらのむら 平野村は,慶長9(1604)年ごろ,西郷村から分立したとされる。八名郡平野村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に301石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分519石余,日吉神社領1石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数88,人数 ...
八反ヶ谷村 とは(豊橋百科事典より)
はったがやむら 八名郡八反ヶ谷村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に299石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分271石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数26,人数105であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,八反ヶ谷村「天 ...
八幡社(豊橋市牛川町乗小路) とは(豊橋百科事典より)
はちまんしゃ(ただこう) (忠興)八幡社は,慶安2(1649)年忠興(ただこう)新田が開発され,「忠興村新切検地帳」に貞享3(1686)年の棟札が残る。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,牛川村「忠興新田,八幡宮,祢宜六兵衛」とある。昭和32(1957)年野川(豊橋市 ...
野川新田 とは(豊橋百科事典より)
のがわしんでん 野川新田は,元禄16(1703)年,朝倉川北方の台地に開発された新田である。八名郡野川新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分167石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数1,人数10であった。産土神(うぶすながみ)の神明社 ...
盗まれた観音様(民話) とは(豊橋百科事典より)
ぬすまれたかんのんさま 昔,牛川(豊橋市牛川町)に信心が深い男が住んでいた。男は,朝倉川の向こう岸にある太蓮寺(豊橋市東田町西脇)の三十三観音に日参を重ねていた。ある日,男は観音様を自分の家に持ち帰れば,毎日,寺に通わなくてすむと考え,観音様を背負って歩 ...
「日本人の骨」(鈴木尚) とは(豊橋百科事典より)
にほんじんのほね 「日本人の骨」(岩波書店 昭和38年)は,室町時代・鎌倉時代・江戸時代・縄文時代・弥生時代の頭蓋骨・鼻の高さ・身長などを比較して,短頭化・中頭化現象や縄文時代と弥生時代,江戸時代と現代でも大きな変化があったことに言及している。昭和24(1949 ...
浪之上村 とは(豊橋百科事典より)
なみのうえむら 八名郡浪之上村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に195石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分222石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数24,人数110であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,浪ノ上村「禅宗浪 ...
浪ノ上古屋敷(豊橋市牛川町浪ノ上) とは(豊橋百科事典より)
なみのうえふるやしき 浪ノ上古屋敷は,浪之上戸田氏の城館である。浪之上戸田氏は,天文16(1547)年田原の戸田氏滅亡後,今川氏に取り立てられ仁連木(にれんぎ)に入った実光,重光(東三河17騎の一人戸田惣兵衛)と続く系統をいう。城址(じょうし)は特定できないが正円寺 ...
中沢新田 とは(豊橋百科事典より)
なかざわしんでん 中沢新田は,貞享年間(1684~88)朝倉川北方の台地に開発された新田とされる。八名郡中沢新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分41石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数1,人数8であった。神明社があったが,明治25 ...
豊寿稲荷社 とは(豊橋百科事典より)
とよほぎいなりしゃ 豊寿稲荷社は,八名郡牛川村(豊橋市牛川町洗島)に嘉永4(1851)年3月,吉田(豊橋)領民たちが領主の武運長久と五穀豊穣を願って,江戸深川の松平(大河内)邸の深川稲荷を勧請したものである。羽田野敬雄の「万歳書留控」(「幕末三河国神主記録」) ...
豊橋東高等学校(豊橋市向山町西猿(にしざる)) とは(豊橋百科事典より)
とよはしひがしこうとうがっこう 昭和23(1948)年4月,6・3・3制移行に伴い,愛知県豊橋第二中学校は愛知県立青陵高等学校に,豊橋市立高等女学校は豊橋市立高等学校となった。昭和23(1948)年10月,愛知県立青陵高等学校と豊橋市立高等学校は統合して愛知県立豊橋東高等 ...
豊橋中学校 とは(豊橋百科事典より)
とよはしちゅうがっこう 愛知県豊橋中学校は,明治26(1893)年に開設された私立補習学校(豊橋町西八町)が,同28(95)年,豊橋町立豊橋尋常中学時習館となったことに始まる。明治29(1896)年,豊橋町新川の避病院跡に新築・移転した。明治33(1900)年,愛知県第四中学 ...
豊橋段丘面 とは(豊橋百科事典より)
とよはしだんきゅうめん 豊橋段丘面は,豊川(とよがわ)左岸の下流部に,更新世(およそ170万年前~1万年前)に形成された礫(れき)層と砂層からなる複数の段丘面のうち,最も下位にある段丘面をいう。この下位段丘上に永正2(1505)年,今橋(豊橋)城が築かれて城下町が形 ...
豊橋第二中学校 とは(豊橋百科事典より)
とよはしだいにちゅうがっこう 大正15(1926)年4月,愛知県豊橋第二中学校が設置され,豊橋市立商業学校(豊橋市東田(あずまだ)町堂前)の校舎を借用して授業を開始した。昭和6(1931)年6月,校舎を八名(やな)郡下川村牛川字洗島(豊橋市牛川町洗島)に新築・移転した。 ...
豊橋創造大学(豊橋市牛川町松下) とは(豊橋百科事典より)
とよはしそうぞうだいがく 藤ノ花学園は総合学園化の一環として,昭和58(1983)年4月,豊橋市牛川町松下に豊橋短期大学を開学し,幼児教育科・秘書科を設置した。平成3(1991)年4月,経営情報科(男女共学)を開設した。平成8(1996)年4月,豊橋創造大学を開学して経営 ...
「豊橋市下水道50年史」(豊橋市下水道50年史編さん委員会編) とは(豊橋百科事典より)
とよはししげすいどう50ねんし 「豊橋市下水道50年史」(豊橋市下水道局 昭和60年)は,昭和11(1936)年に築造された下水道が第2次世界大戦後,4次にわたって拡張され,昭和54(1979)年の中島処理場の完成までを記述したものである。この間,6か所の地域下水道が整備さ ...
豊川の渡船 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのとせん 平安時代の承和2(835)年には,飽海河の渡船を従来の2隻から4隻に増加させる太政官符が出された。これを「飽海の渡し」という。西側は宝飯郡小坂井町平井辺り(柏木の浜)と考えられ,東側ははっきりせず豊橋市の飽海・関屋・城海津・坂津などが推定され ...
豊川の蛇行 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのだこう 蛇行は,川が連続してS字状にうねって流れる状態をいい,曲流またはメアンダーともいう。豊川は新城(しんしろ)市で三河山間部から豊橋平野に出ると蛇行し,沖積平野をつくり,三河湾に注いでいる。豊橋市内では,上流から豊橋市賀茂町,下条西町,牛川町 ...
土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
とちくかくせいり 土地区画整理は,大正8(1919)年の都市計画法に規定され,宅地としての利用増進を目的とした。東部土地区画整理(昭和5~13年,16万坪)では,豊橋市仲ノ町・伝馬町・池見町・大井町・住吉町・瓦町(字なし)・老松町が設定された。南部土地区画整理・仁 ...
戸田宗光 とは(豊橋百科事典より)
とだ・むねみつ(?~1508) 碧海郡上野荘(豊田市)にいた土豪の戸田宗光は,文明7(1475)年ごろ,渥美郡大津(豊橋市老津町)に入り,同12(1480)年ごろ田原(田原市田原町)に移った,明応2(1493)年ごろ牧野氏と今川氏に対峙するために,朝倉川左岸に仁連木(にれん ...
都市計画 とは(豊橋百科事典より)
としけいかく 都市計画法が大正8(1919)年に施行され,豊橋市は同12(23)年7月1日都市計画法の適用を受けることが決定した。大正14(1925)年1月8日,豊橋市,宝飯郡下地町,渥美郡牟呂吉田村,高師村福岡・磯辺・高師(梅田川以北)・大崎,二川町大岩・二川(梅田川以 ...
ドーナツ化現象 とは(豊橋百科事典より)
どーなつかげんしょう 豊橋市は都市の規模が大きくなり,広小路や駅前大通にビルが立ち並び,中心業務地区(CBD)らしくなってきた。ところが,商店主や会社の社長たちは,中心部に居住せず,牛川や岩田,あるいは高師方面の閑静な土地に住宅を建てて移り住むようになった ...
桃林寺(豊橋市牛川町西側) とは(豊橋百科事典より)
とうりんじ 牛河山桃林寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,牛川村開発ごろと推察される。往古は天台宗であったのを,永和年中(1375~79),悦奈和尚が再興し,正宗寺5世陽岩禅師を請じて開山とし,正宗寺の末寺となった。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,牛川村「牛 ...
東陵中学校(豊橋市牛川町乗小路(のりこうじ)) とは(豊橋百科事典より)
とうりょうちゅうがっこう 豊橋市立東陵中学校は,平成9(1997)年4月,豊橋市牛川町乗小路に,鷹丘小学校を校区として設立された。平成17(2005)年度,生徒数432(12学級)。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このペ ...
東部中学校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
とうぶちゅうがっこう (旧)東部中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,豊橋市向山町中畑の工兵隊跡に本部を置き,東田(あずまだ)教場(豊橋女子商業学校)・向山教場(豊橋高等女学校)・岩田教場(岩田小学校)などで,東田小学校・岩田小学校・多米(ため) ...
天王村 とは(豊橋百科事典より)
てんのうむら 八名郡天王村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に357石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分376石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数53,人数269であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に「禅宗竜心山江楽寺」と ...
地区体育館 とは(豊橋百科事典より)
ちくたいいくかん 豊橋市地区体育館は,昭和49(1974)年から平成6(1994)年にかけ,市内10地域に順次開設された。昭和49(1974)年前田南地区体育館(豊橋市前田南町二丁目),翌50(75)年新栄地区体育館(豊橋市新栄町大溝),同57(82)年牛川地区体育館(豊橋市牛川 ...
多米小学校(豊橋市多米中町二丁目) とは(豊橋百科事典より)
ためしょうがっこう 豊橋市立多米小学校は,明治6(1873)年6月,多米村の宝珠寺に義校が設置されて,翌7(74)年1月,牛川学校出張所となり,同10(77)年,多米村・赤岩村を学区とする第9中学区第85番小学多米学校となったことに始まる。明治12(1879)年,八名(やな)郡 ...
田中新田 とは(豊橋百科事典より)
たなかしんでん 田中新田は,宝永5(1708)年,朝倉川右岸に開発された。八名郡田中新田の高は「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分24石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数6,人数18であった。産土神(うぶすながみ)に神明社がある。明治11(1878 ...
忠興新田 とは(豊橋百科事典より)
ただこうしんでん 忠興新田は,慶安2(1649)年,朝倉川の北方の台地に開発された新田であると伝えられる。八名郡忠興新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分83石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数13,人数46であった。産土神(うぶす ...
鷹丘小学校(豊橋市西小鷹野(おだかの)三丁目) とは(豊橋百科事典より)
たかおかしょうがっこう 豊橋市立鷹丘小学校は,昭和53(1978)年4月,豊橋市西小鷹野三丁目に,牛川小学校区の忠興(ただこう)・東小鷹野・西小鷹野・緑ヶ丘を校区として新設された。平成17(2005)年度,児童数917(27学級)。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことを ...
ダーダー橋(牟呂用水・朝倉川) とは(豊橋百科事典より)
だーだーばし ダーダー橋は,牟呂用水が豊橋市東田町と同牛川町間の朝倉川と立体交差する地点で,朝倉川懸樋(かけひ)と,牟呂用水側道である豊橋鳳来線(愛知県道69号)に架かる境橋の俗称名である。牟呂用水は,明治21(1888)年4月完成した。大正3(1914)年6月,朝倉川 ...
石灰 とは(豊橋百科事典より)
せっかい 豊橋地方での石灰製造は,石灰岩を産出する石巻山を中心とする八 名(やな)郡嵩山(すせ)村(豊橋市嵩山町)と牛川村(豊橋市牛川町)で,江戸時代から焼製されていた。石灰岩は,石垣用材や石灰,セメント,肥料など用途は広い。近代化が進むにしたがって,セメン ...
青陵中学校(豊橋市牛川町洗島) とは(豊橋百科事典より)
せいりょうちゅうがっこう 豊橋市立青陵中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴って,豊橋市立北部第二中学校として,本部を牛川小学校に置き,牛川教場(牛川小学校)・下条(げじょう)教場(下条小学校)に分散して,牛川小学校・下条小学校を校区として発足した ...
「青春」(小栗風葉) とは(豊橋百科事典より)
せいしゅん 「青春」(読売新聞連載 明治39年)は,小栗風葉(1875~1926)の代表作である。明治38(1905)年3月15日読売新聞に第1回が掲載され,翌39(06)年11月12日完結した。「春の巻」「夏の巻」「秋の巻」からなり,夏目漱石の「三四郎」(1908),森鴎外の「青年 ...