よりともゆかりのながらのひのき 鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147~99)は,京の都へ上る時,鎌倉街道を豊橋市雲谷(うのや)町の普門寺から船形山を越え,豊橋市岩崎町・多米(ため)町・牛川町乗小路・石巻本町和田へと駒を進めた。豊橋市石巻本町長楽の集落にひときわ大きな桧 ...
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吉田神社(豊橋市関屋町) とは(豊橋百科事典より)
よしだじんじゃ 吉田神社は,古くは天王社・牛頭(ごず)天王・吉田天王社と称した古社で,治承2(1178)年源頼朝が普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)に滞在したとき,戦勝祈願のため家臣を代参させ,三河守護安達藤九郎盛長も社殿を造営したという。天文16(1547)年今川義元 ...
文覚剥取(民話) とは(豊橋百科事典より)
もんがくはぎとり 昔,平家が隆盛であったころのこと,岩屋山(豊橋市岩屋町)に高足の庄司という山賊の頭目が手下をつれて住みつき,東海道を往来する旅人を襲っては金品を奪っていた。 治承4(1180)年7月のある日,源頼朝の命を受け,平家討伐の院宣を受けに伊豆から京 ...
「むかしはなし蟹猿奇談」(大須賀鬼卵) とは(豊橋百科事典より)
むかしはなしかいえんきだん 「むかしはなし蟹猿奇談」(尾州名古屋・風月孫助他 文化4年)は,猿蟹合戦(さるかにかっせん)と桃太郎を合わせた仇討小説である。舞台は三河の国吉田(豊橋)である。桓武天皇の時代,伊勢国鈴鹿山に棲(す)む鬼神阿黒王を将軍坂上田村麻呂が ...
源頼朝 とは(豊橋百科事典より)
みなもとの・よりとも(1147~99) 源頼朝は,久安3(1147)年4月8日,尾張熱田(名古屋市)で,源義朝の3男として生まれた。3男ではあるが,母が熱田神宮司藤原季範女であるため,嫡子とされた。治承4(1180)年の挙兵以来,建久元(1190)年と同6(95)年の2回上洛してい ...
万福寺(豊橋市小浜町) とは(豊橋百科事典より)
まんぷくじ(こはま) 宝樹山万福寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,寛治5(1091)年鎌倉時代以前の開創であり,本尊が大日如来坐像であることから往古は真言宗の寺院であったといわれている。その後,鎌倉建長寺派に転派し,天正年間(1573~92)京都妙心寺派に移って東観音 ...
「法華経普門品」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
ほけきょうふもんぼん 「紺紙金泥法華経普門品」1巻(東観音寺蔵)は,昭和62(1987)年3月20日,豊橋市有形文化財(文書・典籍)に指定された。 法華経は8巻にするのが一般的であるが,装飾経になると一品ずつ分けることがある。東観音寺(豊橋市小松原町)の「法華経普 ...
普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町ナベ山下) とは(豊橋百科事典より)
ふもんじ 船形山普門寺(高野山真言宗)の開基は,神亀4(727)年,諸国巡錫(じゅんしゃく)中の行基菩薩が霊気を感じ,聖観世音菩薩立像を刻み本尊としたといわれている。平安時代に真言宗となった。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,雲谷村「真言宗,船形山普門 ...
「不動明王・二童子各立像」(愛知県指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
ふどうみょうおう・にどうじかくりゅうぞう 「木造不動明王・二童子各立像」3躯(く)(普門寺蔵)は,平成3(1991)年3月29日,豊橋市有形文化財(彫刻),同5(1993)年2月26日,愛知県有形文化財(彫刻)に指定された。 普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の「不動明王立像 ...
日吉神社(豊橋市岩崎町坂尻) とは(豊橋百科事典より)
ひよしじんじゃ(てあらい) (手洗)日吉神社は,神亀4(727)年行基が大山咋命(おおやまくいのみこと)を祀ったと伝える。保元3(1158)年再建,その後天文17(1548)年今川義元が再興したという。なお,手洗の地名は,建久元(1190)年源頼朝が京に上る際,手洗井戸の清 ...
橋良神社(豊橋市橋良町元野) とは(豊橋百科事典より)
はしらじんじゃ 橋良神社の社伝によれば,建久5(1194)年源頼朝が元野社のために社領を寄進し,貞治2(1363)年社殿を造営したという。古来橋良御厨(みくりや)に奉祀された神明社であった。江戸時代の初期,以前から祀っていた神明社を小浜村(豊橋市小浜町)の産土神(う ...
東観音寺(豊橋市小松原町坪尻) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじ 小松原山東観音寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,天平5(733)年であり,開山は行基菩薩と伝えられる。創立縁起は,淳和天皇・後奈良天皇御宸翰(ごしんかん)・複数の縁起書(えんぎしょ)を編集した「東観音寺御由緒書」(延宝7年)によると「行基菩薩が紀州熊 ...
手洗村 とは(豊橋百科事典より)
てあらいむら 手洗の地名は,源頼朝が村内の小池で手を洗ったことに由来するという。渥美郡手洗村の村高は,「三河国村々高附」(寛政期)に50石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分59石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数7,人数32であった ...
高足ノ庄司 とは(豊橋百科事典より)
たかしのしょうじ(12世紀頃) 文覚(俗名遠藤盛遠)が,高師原で追いはぎに遭ったという。この追いはぎが高足ノ庄司である。「三河雀」に「昔高足の庄司と云盗人,此山(窟堂観音)に住,高雄の文覚,兵衛(源頼朝)変をすすめ,白川ノ法皇の院宣を乞にのぼりし時,此所に ...
千体骨地蔵(民話) とは(豊橋百科事典より)
せんたいこつじぞう 筑前芦屋(福岡県遠賀郡芦屋)で源平の戦いが繰り広げられた。戦いは源氏の勝利に終わり,平家の大将・原田次郎種猶は捕らえられ,鎌倉に送られ土牢(つちろう)に閉じ込められていた。原田種猶の妻・栄燿尼は,逃げのびた先で男の子,花若丸を産んだ。13 ...
赤岩寺(豊橋市多米町赤岩山) とは(豊橋百科事典より)
せきがんじ 赤岩山赤岩寺(高野山真言宗)の創立は寺伝によると聖武天皇の勅願により神亀3(726)年行基菩薩が開創したとある。本尊は阿弥陀如来像で室町期の仏像である。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,多米村「真言宗,赤岩山法言寺,高野平等院末寺,法印, ...
素盞嗚神社(豊橋市新本町) とは(豊橋百科事典より)
すさのおじんじゃ(みこしやすみ) 治承2(1178)年源頼朝が雲谷(うのや)の普門寺に在泊,天王社(吉田神社)に祈願した。(御輿休(みこしやすみ))素盞嗚神社は,その後文治2(1186)年天王社の分霊を建立し,天王社の別宮としたことに始まる。天文16(1547)年今川義元は ...
駒止めの桜(民話) とは(豊橋百科事典より)
こまどめのさくら 建久元(1190)年のこと,源頼朝(1147~99)が京の都にのぼる時,途中米山大明神(豊橋市岩崎町)に参詣,武運長久を祈願し,軍馬の鞍を奉納したという。それ以来,鞍掛神社(豊橋市岩崎町森下)と名を改めたと伝えられている。また,源頼朝は鞍掛神社の ...
駒止めの石(民話) とは(豊橋百科事典より)
こまどめのいし 源頼朝(1147~99)は逆戈(さかほこ)神社(豊橋市浜道町)を崇敬(すうけい)していた。文治4(1188)年に神領を寄進した時,お墨付きに八遅戈(やちほこ)大明神と記した。神社は後に,石巻神社の分霊を祀り,逆戈神社と改名したという。源頼朝が鎌倉より京へ ...
化積上人 とは(豊橋百科事典より)
けしゃくしょうにん(生没年不詳) 普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の化積上人は,源義朝の弟,源頼朝の叔父といわれる人物である。源頼朝は,建久元(1190)年上洛の途次普門寺に宿泊し,多年にわたる平家追討の祈祷を修してきた功績に報いるために,雲谷(うのや)・岩崎両 ...
鞍掛神社(豊橋市岩崎町森下) とは(豊橋百科事典より)
くらかけじんじゃ 鞍掛神社は,社伝によると米山(よねやま)大明神または鞍馬大明神と称して米山に祀られていたが,文治4(1188)年現在地(豊橋市岩崎町森下)に遷座したとある。駒止めの桜とともに,源頼朝伝説がある。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,上岩崎村「 ...
吉祥寺(豊橋市飯村北四丁目) とは(豊橋百科事典より)
きちじょうじ 庚申山吉祥寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,天正2(1574)年であり,開山は大円光覚禅師雲竜和尚である。雲竜和尚ははじめ,嵩山(すせ)(豊橋市嵩山町)正宗寺に住み,後,大津(豊橋市老津町)太平寺の中興となり,天正2(1574)年吉祥寺を興して開山となった ...
祇園祭(吉田神社) とは(豊橋百科事典より)
ぎおんまつり 吉田神社の祇園祭は,天治元(1124)年,この地に疫病が流行したので,天王を勧請し,祇園会を行ったことが起源であるといわれる。吉田神社の祭礼は,旧暦6月13~15日(現在は新暦7月)に行われ,花火のほかに,今川義元が寄進したという神輿渡御(みこしとぎ ...
上岩崎村 とは(豊橋百科事典より)
かみいわさきむら 延宝3(1675)年の,検地によって岩崎村は上岩崎村と下岩崎村に分立した。渥美郡上岩崎村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に328石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分409石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数47,人 ...
雲谷村 とは(豊橋百科事典より)
うのやむら 渥美郡雲谷村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に497石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分400石余,普門寺領100石とあり,「吉田領戸数調」(安政5年)によれば家数58,人数280であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,雲谷村「真 ...
葦毛と手洗(民話) とは(豊橋百科事典より)
いもうとてあらい 葦毛(豊橋市岩崎町)は,源頼朝(1147~99)が鎌倉街道を通って京都にのぼった時,険しい山越えであったためか,乗っていた葦毛(あしげ)の愛馬が急に苦しみ,死んでしまったのを悼み,この地に葬った。亡骸を葬った所を「葦毛(いもう)」と呼ぶようになっ ...
石巻神社(豊橋市石巻町金割) とは(豊橋百科事典より)
いしまきじんじゃ(いしまき ) 石巻神社の創建は,社伝によれば孝安天皇(在位前392~291)のころとも,推古天皇(在位592~628)のころともいわれ,大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る。「延喜式神名帳」(延喜5~延長5年)に,「八名郡一座,石巻神社」とあり,「三河 ...
安達盛長 とは(豊橋百科事典より)
あだち・もりなが(1135~1200) 安達盛長は,保延元(1135)年,小野田兼広(藤原北家魚名流)の子に生まれたと伝えられる。幼名を藤九郎と称した。文治元(1185)年,源頼朝が諸国に守護・地頭を補任した時,三河国守護となったとされる。文治2(1186)年には,安達盛長 ...