われらがせいしゅんのぼひめい 「われらが青春の墓碑銘」(豊中五十回・時習一回同期生誌編纂委員会 平成6年)は,昭和18(1943)年4月に豊橋中学校(時習館高等学校)に入学した生徒たちの内210人余によって投稿され,編集されたものである。豊中50回・時習1回生は,328 ...
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陸軍病院 とは(豊橋百科事典より)
りくぐんびょういん 明治18(1885)年4月,歩兵第18聯隊が名古屋から豊橋に移駐して吉田(豊橋)城址(じょうし)に兵営が置かれ,豊橋衛戍(えいじゅ)病院が聯隊内に設置された。明治41(1908)年11月,第15師団が渥美郡高師村に設置され,師団衛戍病院が磯辺(豊橋市中野町 ...
予科練 とは(豊橋百科事典より)
よかれん 「予科練」は第2次世界大戦当時の海軍飛行予科練習生(海軍少年飛行兵)の略称である。海軍は昭和17(1942)年のミッドウェー海戦の敗北と,ガダルカナル島争奪の消耗戦において,優秀な飛行機搭乗員の大半を失った。急遽(きゅうきょ)多数のパイロット養成と補充 ...
前芝小学校(豊橋市前芝町西堤) とは(豊橋百科事典より)
まえしばしょうがっこう 豊橋市立前芝小学校は,明治6(1973)年6月,第10中学区第35番小学巴水(はすい)学校を前芝村・日色野(ひしきの)村・平井村の3村連合で前芝村の西福寺に設立したことに始まる。梅薮村は第39番小学伊奈学校(伊奈村の永正寺)へ通学した。明治9(1876 ...
ボラ とは(豊橋百科事典より)
ぼら ボラ(ボラ科)は,沿岸域の浅場や内湾に生息する海水魚で,水面上に跳び上がる習性をもっている。泥の中の有機物,底生の小動物や藻類などを砂や泥と一緒に食べる。胃の一部に泥や砂をより分ける器官がある。これを一般に「ぼらのへそ」と呼んでいる。日本近海では秋 ...
平安寮(豊橋市大崎町柿ノ木) とは(豊橋百科事典より)
へいあんりょう 豊橋平安寮は,昭和24(1949)年,青山周蔵が豊橋市大崎町柿ノ木(旧海軍航空隊営外酒保建物)で,戦災孤児・浮浪児を収容する養護施設を開設したことに始まる。昭和30(1955)年2月,社会福祉法人の認可を得,2歳から18歳までの保護者のいない児童・生活困 ...
船井健一 とは(豊橋百科事典より)
ふない・けんいち(1900~85) 船井健一は,明治33(1900)年8月25日,渥美郡大崎村(豊橋市船渡町)の船井七蔵の5男に生まれた。大崎尋常小学校を卒業し,海苔の養殖とアサリの採取を業とした。昭和16(1941)年から,大崎漁業協同組合理事長,同28(53)年から同30(55) ...
藤川一秋 とは(豊橋百科事典より)
ふじかわ・いっしゅう(1914~92) 藤川一秋は,大正3(1914)年9月14日,額田郡豊富村鳥川(額田郡額田町)の松下房蔵の2男に生まれたが,同村の藤川家を継いだ。愛知県庁勤務の後,昭和10(1935)年に,上京して報知新聞社に入社した。昭和14(1939)年,東京シャリング ...
福谷啓吉 とは(豊橋百科事典より)
ふくたに・けいきち(1819~89) 福谷啓吉は,文政2(1819)年7月,吉田(豊橋)萱町の秤屋福谷喜久蔵の子として生まれた。弘化元(1844)年ごろ,吉田西町(豊橋市松葉町)の福谷藤左衛門に従って京都に上り,宿泊した旅館の身寄りの者と長崎へ同行した。煙火を製造するこ ...
林品次 とは(豊橋百科事典より)
はやし・しなじ(1890~1962) 林品次は,明治23(1890)年3月17日に渥美郡若戸村越戸(田原市)の網元・13代林七左衛門の2男として生まれた。明治42(1909)年,東京の私立高橋簿記学院で学んだ複式簿記で豊橋の繭問屋松本商店や豊橋倉庫,砂糖問屋福谷商店を近代的経営に ...
野村竜三 とは(豊橋百科事典より)
のむら・りゅうぞう(1928~45) 野村竜三は,昭和3(1928)年10月,豊橋市松葉町の商家に生まれた。松葉小学校から愛知県豊橋中学校に進み,小学校・中学校を通じて剣道部の猛者(もさ)であった。昭和18(1943)年ガダルカナル島撤退など戦局が悪化すると,中学校3年生であ ...
南陽通り とは(豊橋百科事典より)
なんようどおり 南陽通りは,豊橋市が平成2(1990)年に道路愛称として公募して認定した道路で,大山豊橋停車場線(愛知県道388号)の豊橋市中郷町の豊橋市道(大国町・往完町1号線・みなと大通り)から同大山町の豊橋渥美線(愛知県道2号 大崎街道)までの延長4.1㎞の道 ...
「豊橋めぐり」(吉川利明) とは(豊橋百科事典より)
とよはしめぐり 「豊橋めぐり」(東三文化会 昭和57年)は,100項目の史跡と都市施設について,その歴史と現況をそれぞれの関連写真を付して紹介したものである。 記述の方法は豊橋を東部,石巻・賀茂,北部,西部,南部,二川・高豊,中央部(吉田城址(じょうし)・大橋 ...
豊橋丸 とは(豊橋百科事典より)
とよはしまる 豊橋丸は,日清戦争に際して,緊急購入されたイギリス船フリントシャー(4055t)を日本郵船の陸海軍御用船としたものである。明治30(1897)年水雷母艦に改装,「軍艦豊橋」と改称,同38(05)年第1潜水隊旗艦となった。大正3(1914)年軍艦から除籍され,潜 ...
豊橋中学校 とは(豊橋百科事典より)
とよはしちゅうがっこう 愛知県豊橋中学校は,明治26(1893)年に開設された私立補習学校(豊橋町西八町)が,同28(95)年,豊橋町立豊橋尋常中学時習館となったことに始まる。明治29(1896)年,豊橋町新川の避病院跡に新築・移転した。明治33(1900)年,愛知県第四中学 ...
豊橋第二中学校 とは(豊橋百科事典より)
とよはしだいにちゅうがっこう 大正15(1926)年4月,愛知県豊橋第二中学校が設置され,豊橋市立商業学校(豊橋市東田(あずまだ)町堂前)の校舎を借用して授業を開始した。昭和6(1931)年6月,校舎を八名(やな)郡下川村牛川字洗島(豊橋市牛川町洗島)に新築・移転した。 ...
豊橋女子商業学校 とは(豊橋百科事典より)
とよはしじょししょうぎょうがっこう 大正12(1923)年4月,豊橋市立実業補習学校(男女,昼間)が豊橋高等小学校(豊橋市舟原町)を校舎として開校された。昭和2(1927)年4月,豊橋市立女子商業専習学校(昼間)となり,同13(38)年4月,豊橋市立女子商業学校と校名を変 ...
豊橋商業学校(市立) とは(豊橋百科事典より)
とよはししょうぎょうがっこう(いちりつ) 豊橋市立商業学校は,大正12(1923)年4月,豊橋市立図書館(豊橋市花田町守下)を仮校舎として設立された。大正13(1924)年4月,校舎を豊橋市東田(あずまだ)町堂前(昭和22年豊橋市仁連木(にれんぎ)町と所在地名変更)に新築・ ...
豊橋高等女学校 とは(豊橋百科事典より)
とよはしこうとうじょがっこう 豊橋町立高等女学校は,明治35(1902)年4月,豊橋町西八町に創設し,同40(07)年4月,豊橋市立高等女学校と改称した。明治44(1911)年,豊橋市旭町に校舎を新築・移転し,昭和13(1938)年,豊橋市向山町西猿に校舎を新築・移転した。昭和 ...
豊橋工業学校 とは(豊橋百科事典より)
とよはしこうぎょうがっこう 昭和19(1944)年4月,豊橋市立豊橋工業学校は教育非常措置令により,豊橋商業学校1・2年生全員を工業学校に転換することによって発足(3・4・5年生は豊橋商業学校として継続)した。昭和19(1944)年4月,豊橋工業学校電気科・電気通信科・機 ...
豊川鉄道 とは(豊橋百科事典より)
とよかわてつどう 明治29(1896)年1月24日,豊川鉄道株式会社に私設鉄道敷設免許状が下付され,同29(96)年2月1日,豊川鉄道株式会社創立,取締役社長横山孫一郎(1846~1911),同29(96)年,起点を下地から花田村に変更(資本金を50万円とする),豊橋停車場(明治32 ...
豊川海軍工廠の爆撃 とは(豊橋百科事典より)
とよかわかいぐんこうしょうのばくげき 豊川海軍工廠は,昭和14(1939)年12月15日,宝飯郡豊川町・牛久保町・八幡村にまたがる姫街道の北側約300haの土地に設立された。機銃部で陸用・空用の機銃,火工部で弾丸を製造した。その後,光学部と指揮兵器部が増設された。付帯 ...
戸塚環海 とは(豊橋百科事典より)
とつか・かんかい(1854~1932) 戸塚環海は,嘉永7(1854)年9月15日,八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)の林九一郎の長男に生まれた。幼名芳太郎。明治2(1869)年,一宮砥鹿神社神官草鹿砥宣隆(くさかどのぶたか)が皇学所講官に任ぜられた際,供をして上京したが,草鹿砥宣 ...
都市計画 とは(豊橋百科事典より)
としけいかく 都市計画法が大正8(1919)年に施行され,豊橋市は同12(23)年7月1日都市計画法の適用を受けることが決定した。大正14(1925)年1月8日,豊橋市,宝飯郡下地町,渥美郡牟呂吉田村,高師村福岡・磯辺・高師(梅田川以北)・大崎,二川町大岩・二川(梅田川以 ...
都築伊七 とは(豊橋百科事典より)
つづき・いしち(1888~1974) 都築伊七は,明治21(1888)年1月10日,幡豆郡一色村(一色町)で生まれた。家族が毛利新田(神野新田)に入植したので,牟呂尋常高等小学校を卒業し,愛知県第四中学校に入学した。中学校4年生で,舞鶴の海軍機関学校に進んだ。艦船勤務の後 ...
中部第100部隊 とは(豊橋百科事典より)
ちゅうぶだい100ぶたい 陸軍は南太平洋における厳しい戦訓から,昭和18(1943)年2月,陸軍航空本部直轄の陸軍飛行場設定練習部を豊橋に設置した。飛行場設定練習部は中部第100部隊と称して,旧歩兵第18聯隊(吉田城址(じょうし))におかれ,本部・研究部・教育部・練習隊 ...
「高橋清舫日記・画帳」(高橋正次郎) とは(豊橋百科事典より)
たかはしせいぼうにっき・がちょう 「高橋清舫日記・画帳」(高橋六良 平成8年)は,高橋正次郎(1893~1959)の昭和19(1944)年11月から同27(52)年5月までに記した日記である。昭和20(1945)年8月15日の第2次世界大戦終戦をはさんで,その前後にわたる克明な記録であ ...
太陽航空工業 とは(豊橋百科事典より)
たいようこうくうこうぎょう 太陽航空工業株式会社は,昭和15(1940)年,林品次・坂神馨らによって,豊橋市小浜町に設立された。はじめ川西航空機などの板金加工を受注生産したが,昭和16(1941)年になると海軍航空技術廠(しょう)の双発低翼単葉艦上爆撃機「銀河」のフラ ...
第二商業学校 とは(豊橋百科事典より)
だいにしょうぎょうがっこう 昭和2(1927)年4月,豊橋市立商業専修学校(小学校高等科卒業を入学資格とする)が豊橋市立商業学校に併置(2か年の夜間課程)された。昭和16(1941)年4月,豊橋市立第二商業学校に組織変更された。昭和19(44)年3月,教育非常措置令により ...
第二工業学校 とは(豊橋百科事典より)
だいにこうぎょうがっこう 豊橋市立第二商業学校は,昭和19(1944)年3月,教育非常措置令により,豊橋市立第二工業学校に組織変更し,機械科・電気科を設けた。昭和20(1945)年6月,空襲により校舎(豊橋市立商業学校)が全焼した。また,その年の8月7日,豊川海軍工廠( ...
セーラー服 とは(豊橋百科事典より)
せーらーふく 女学校の制服が和服から洋装になるのは大正末期である。大正11(1922)年秋,豊橋高等女学校の制服に洋装が採用され,1年生から順次実施された。新城高等女学校は大正13(1924)年の1年生から,国府高等女学校は大正15(1926)年の1年生からであった。豊橋女 ...
震洋艇基地 とは(豊橋百科事典より)
しんようていきち 昭和20(1945)年になると,米軍の日本本土上陸は必至の情勢となり,東三河も第73師団(怒部隊)を中心に防衛体勢がとられた。海軍も第4特攻戦隊を編成し,約50隻の特攻艇を三河湾および浜名湖の要地に分散配置した(司令部は鳥羽)。その基地の一つが豊 ...
松操女学校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
しょうそうじょがっこう 豊橋松操裁縫女学校は,明治40(1907)年9月,中野彦助が豊橋市花田字松山に設立(本科2年・実科1年・師範科2年)された。昭和15(1940)年4月,財団法人松操高等女学校を設立し,高等女学校,裁縫女学校の二本立てとし,同15(40)年11月,豊橋市 ...
祥雲寺(豊橋市老津町波入江) とは(豊橋百科事典より)
しょううんじ(おいつ) 呑江山祥雲寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,延応元(1239)年ごろとされる。当初真言宗であった。その後寛永年間(1624~1644)に太平寺中興雲竜和尚を勧請開山として再興,妙心寺派に改宗したと伝えられる。本尊は釈迦如来坐像であり,勢至堂(せい ...
「社史・中部瓦斯株式会社」(中部瓦斯株式会社社史編纂委員会) とは(豊橋百科事典より)
しゃし・ちゅうぶがすかぶしきがいしゃ 「社史・中部瓦斯株式会社」(中部瓦斯株式会社社史編纂委員会 昭和51年)は,中部瓦斯株式会社の70年に及ぶ歴史を記したものである。 豊橋瓦斯株式会社は,明治42(1909)年10月10日に設立された。ガスの用途は,照明用・熱用・動 ...
実践女学校 とは(豊橋百科事典より)
じっせんじょがっこう 明治42(1909)年1月,満田樹吉・オリガ夫妻がキリスト教精神を基調とし,社会奉仕事業として豊橋市西八町に裁縫塾を開いた。大正13(1924)年4月,豊橋裁縫実習女学院と改称した。大正15(1926)年1月,豊橋市東田(あずまだ)町東郷に移転し,豊橋 ...
実修女学校 とは(豊橋百科事典より)
じっしゅうじょがっこう 大正13(1924)年10月,南設楽郡新城町(新城市)の下山嘉一郎が愛知和洋裁縫女学校を設立し,大正15(1926)年,渥美郡高師村福岡字鍵田(豊橋市鍵田町)に移転し,愛知高等和洋裁縫女学校と改称した。昭和2(1927)年,高等実科を新設して愛知高 ...
市制施行から100年 とは(豊橋百科事典より)
しせいしこうから100ねん 豊橋が全国62番目の市として市制を施行したのは明治39(1906)年8月1日である。明治21(1888)年,東海道線大府~浜松間の開通に伴い,豊橋駅が開業した。明治30(1897)年,豊川鉄道(飯田線),大正14(1925)年,渥美電鉄(豊橋鉄道渥美線), ...
「三州の野に」(JJ会) とは(豊橋百科事典より)
さんしゅうのやに 「三州の野に」(愛知県立時習館高校2回生 平成12年)は,JJ会(愛知県立時習館高校2回生の会)の卒業50年記念文集である。 この年代は,第2次世界大戦末期の学徒勤労動員のうち最年少に属し,また戦後の学制改革,とりわけ学区制に翻弄されてきた世代 ...
財務局 とは(豊橋百科事典より)
ざいむきょく 名古屋財務局豊橋出張所は,昭和24(1949)年6月,豊橋市新銭町(広小路)のNHK豊橋分局に隣接して開設された。東三河全部と西三河の一部(6市7郡)を管轄区域とし,国有地の普通財産(各省庁の行政財産を除く)の管理・処分などを行った。発足当時は,大崎の ...
「最後の女学生」(豊橋市立高等女学校四五会編) とは(豊橋百科事典より)
さいごのじょがくせい 「最後の女学生」(豊橋市立高等女学校 四五会編 平成6年)は,戦時体制下,豊橋市立高等女学校に進学し,半年後には豊川海軍工廠(こうしょう)へ学徒勤労動員となり,昭和20(1945)年8月7日豊川海軍工廠が爆撃されたことを記録したものである。第2 ...
近藤恒次 とは(豊橋百科事典より)
こんどう・つねじ(1910~78) 近藤恒次は,明治43(1910)年8月22日,近藤宇一の長男として豊橋市中柴町に生まれた。東洋大学専門部を卒業し,豊橋市立商業学校,豊橋工業学校,愛知県立時習館高等学校教諭を歴任した。昭和15(1940)年「明治初期に於ける豊橋地方の初 ...
権現山砲台 とは(豊橋百科事典より)
ごんげんやまほうだい 権現山砲台は,豊橋市石巻本町と豊川市三上町の間にある権現山に,豊川海軍工廠(こうしょう)の防衛のために構築された砲台である。砲台は,昭和19(1944)年の秋ないしは初冬から工事が開始され,第2次世界大戦終戦直前の同20(45)年8月7日の豊川海 ...
国立豊橋病院(豊橋市飯村(いむれ)町高山) とは(豊橋百科事典より)
こくりつとよはしびょういん 国立豊橋病院は,明治41(1908)年,陸軍第15師団設置とともに磯辺(豊橋市中野町中原)に師団衛戍(えいじゅ)病院として開設され,後に豊橋陸軍病院と改称した。大正14(1925)年4月,第15師団の解団後も陸軍病院として続いた。昭和12(1937) ...
憲兵隊 とは(豊橋百科事典より)
けんぺいたい 憲兵は,軍事警察(軍隊規律の維持)と治安警察(社会の安寧(あんねい)秩序の維持)の2つの任務を有していたが,後には思想警察,防衛,防諜(ぼうちょう),生産増強,国民生活の監視にまでおよぶようになった。 明治22(1889)年2月,陸海軍の20重大事件の一 ...
芸術劇団 とは(豊橋百科事典より)
げいじゅつげきだん 豊橋芸術劇団は,昭和22(1947)年12月に豊橋青年演劇クラブとして発足した。豊橋青年劇場を経て,昭和24(1949)年,豊橋芸術劇団となった。42回の公演を記録して,昭和40(1965)年10月の公演を最後に幕を閉じた。 結成当初は,土屋隆夫作「いのちあ ...
「雲の涯」(宗田理) とは(豊橋百科事典より)
くものはて 「雲の涯」(角川書店 平成3年)は,宗田理(1928~ )の作品である。第2次世界大戦末期,豊川海軍工廠(こうしょう)へ学徒勤労動員された豊橋中学校の浅井克人という創作上のモデルを中心に,物語は進行する。東洋一を誇った豊川海軍工廠は,昭和20(1945)年 ...
貨物専用線 とは(豊橋百科事典より)
かもつせんようせん 豊橋駅では,旧豊川鉄道船町貨物線が第2次世界大戦中増強され,昭和41(1966)年10月1日,豊橋貨物コンテナ基地となった。この間,昭和29(1954)年,豊橋駅経由飯田線で送られる佐久間ダム工事用資材輸送のため,豊橋駅に貨物引込線11本が増設された ...
家政女学校 とは(豊橋百科事典より)
かせいじょがっこう 家政女学校は,明治35(1902)年4月,伊藤卯一により豊橋町中八町に豊橋裁縫女学校が創立され,明治37(1904)年7月,校舎を東八町に移転したのに始まる。昭和6(1931)年9月,豊橋高等裁縫女学校と改称した。翌昭和7(1932)年9月,校舎を豊橋市瓦町臨 ...
「学徒勤労動員と豊川海軍工廠」(近藤恒次) とは(豊橋百科事典より)
がくときんろうどういんととよかわかいぐんこうしょう 「学徒勤労動員と豊川海軍工廠」(豊橋文化協会 昭和52年)は,豊橋市立工業学校の勤労動員学徒付添教官として豊川海軍工廠(こうしょう)の爆撃に遭った近藤恒次が「本書を豊川海軍工廠戦没学徒の霊前に捧ぐ」として刊 ...