ろうどうきじゅんかんとくしょ 豊橋労働基準監督署は,昭和22(1947)年9月,労働省設置法により,豊橋市中八町(旧歩兵第18聯隊兵舎)に開設された。当初の管轄区域は豊橋市・豊川市・宝飯郡・渥美郡・八名郡であった。その後,新城や蒲郡労働基準監督所の統合により,北 ...
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練兵場 とは(豊橋百科事典より)
れんぺいじょう 陸軍歩兵第18聯隊が豊橋に設置され,明治17(1884)年旧吉田(豊橋)城内3万2000坪の敷地に兵舎築造が開始された。また,附帯施設として練兵場用地に豊橋宮下町外五か町6万2990坪,射的場用地に八名郡牛川村田中4万2087坪,埋葬地として渥美郡東田村前山200 ...
陸軍墓地(豊橋市東田町西前山) とは(豊橋百科事典より)
りくぐんぼち 陸軍歩兵第18聯隊が豊橋に設置されると同時に,その付帯設備として練兵場・射的場・陸軍墓地が建設された。陸軍墓地は,渥美郡東田村前山(豊橋市東田町西前山)の臨済寺山といわれる旧藩時代の刑場跡2000坪を埋葬地とした。墓地開設以来の記録は臨済寺に保存 ...
陸軍病院 とは(豊橋百科事典より)
りくぐんびょういん 明治18(1885)年4月,歩兵第18聯隊が名古屋から豊橋に移駐して吉田(豊橋)城址(じょうし)に兵営が置かれ,豊橋衛戍(えいじゅ)病院が聯隊内に設置された。明治41(1908)年11月,第15師団が渥美郡高師村に設置され,師団衛戍病院が磯辺(豊橋市中野町 ...
陸軍教導学校 とは(豊橋百科事典より)
りくぐんきょうどうがっこう 豊橋陸軍教導学校は,昭和2(1927)年6月,歩兵第60聯隊(豊橋市町畑町)跡に設置された。この時,仙台・熊本にも設置され,豊橋陸軍教導学校は,近衛師団(東京)・第3師団(名古屋)・第16師団(京都)・第19師団(羅南)・第20師団(竜山) ...
吉田城(豊橋市今橋町) とは(豊橋百科事典より)
よしだじょう 吉田(豊橋)城は,現在の豊橋公園とその周辺をはじめ,東は飽海(あくみ)町から旭町,南は曲尺手(かねんて)町から呉服町,西は関屋町に達する広大な城であった。その縄張りは豊川(とよがわ)を背に,本丸を基点に二の丸,三の丸を前面,側面に配したもので,半 ...
野砲兵第21聯隊 とは(豊橋百科事典より)
やほうへいだい21れんたい 明治40(1907)年11月,豊橋に陸軍第15師団が設置されたとき,野砲兵第21聯隊が他の部隊とともに渥美郡高師村に置かれた。大正14(1925)年3月,陸軍は第15師団など4個師団を廃止し,野砲兵第21聯隊も廃止した。 大正14(1925)年5月,高射砲第 ...
牟呂発電所 とは(豊橋百科事典より)
むろはつでんしょ 牟呂発電所は,豊橋電燈株式会社が梅田川発電所の不安定供給を解消するために,明治29(1896)年4月に渥美郡牟呂村大西大海津(豊橋市牟呂町大海津)に設立した発電所である。当時,通水したばかりの牟呂用水を水源とした。水路の長さは約40m,幅約2.4m, ...
三浦碧水 とは(豊橋百科事典より)
みうら・へきすい(1841~1915) 三浦碧水は,天保12(1841)年11月29日,吉田(豊橋)藩札元三浦深右衛門の2男に生まれた。幼名を陽次郎といい,字(あざな)を温夫と称した。文久のころ(1861~64),江戸に出て幕臣高畠眉山について西洋流兵学・砲術を学ぶ。慶応4(1868) ...
歩兵第229聯隊 とは(豊橋百科事典より)
ほへいだい229れんたい 歩兵第229聯隊(第38師団)は,昭和14(1939)年8月7日,豊橋で編成され,同14(39)年10月13日征途についた。南支那に転戦の後,香港攻略,スマトラ作戦,ガダルカナル島の戦を含むニューギニア作戦,ラバウルを戦場とするソロモン・ビスマルク群島 ...
「歩兵第196聯隊史」(小柳敏夫編) とは(豊橋百科事典より)
ほへいだい196れんたいし 「歩兵第196聯隊史」は,第2次世界大戦末期,本土防衛の東三河方面の主力部隊である第73師団(怒)に属した聯隊の記録である。編者は歩兵第196聯隊の聯隊旗手で,本土防衛隊の実態をうかがい知ることができる。歩兵隊196聯隊は,昭和19(1944)年7 ...
歩兵第118聯隊 とは(豊橋百科事典より)
ほへいだい118れんたい 歩兵第118聯隊(中部第62部隊)は,昭和16(1941)年4月1日,豊橋(旧歩兵第18聯隊)において編成された。昭和18(1943)年7月6日,静岡に移駐した。昭和19(1944)年5月30日,第43師団(静岡・名古屋・岐阜で編成された歩兵第118聯隊・第135聯隊・ ...
歩兵第60聯隊 とは(豊橋百科事典より)
ほへいだい60れんたい 歩兵第60聯隊は,明治41(1908)年11月,陸軍第15師団が設置された時,渥美郡高師村(豊橋市町畑町)の師団司令部の北に田原街道(国道259号)に沿って兵舎が建設された。新兵徴集は飯田聯隊区であった。 大正14(1925)年4月,第15師団が解団され, ...
歩兵第18聯隊の歌 とは(豊橋百科事典より)
ほへいだい18れんたいのうた 第18聯隊の歌「創立」 そもそも18聯隊は 明治17年の夏 はじめて名古屋に設けられ 其年8月15日 我らの守る大み旗 宮城内にて授けられ 汝ら協力同心し 益々威武を宣揚し 国家を守れの詔 受けて帰りし19日 そのときよろこびいかんぞや ...
「歩兵第18聯隊史」(兵東政夫) とは(豊橋百科事典より)
ほへいだい18れんたいし 「歩兵第18聯隊史」(歩兵第18聯隊史刊行会 昭和39年)は,歩兵第18聯隊の創設から,サイパン,グアムで玉砕した郷土部隊の栄光と太平洋の防波堤として消えた最後を記したものである。 平成6(1994)年,改訂版が出版された。著者は改訂版のあと ...
歩兵第18聯隊 とは(豊橋百科事典より)
ほへいだい18れんたい 歩兵第18聯隊は,軍備拡張10か年計画によって,明治17(1884)年8月15日,名古屋鎮台歩兵第6聯隊内で創設された。明治18(1885)年にかけて豊橋吉田城址(じょうし)に移営,屯営とした。当初,三遠駿豆,のち主として三遠地区を徴兵管区として壮丁が徴 ...
藤波一哉 とは(豊橋百科事典より)
ふじなみ・かずや(生没年不詳) 藤波一哉は,渥美郡伊良湖岬村(渥美町)の出身で,本名を泰吉,別号を参洋といった。早稲田法律学校を卒業し,豊橋で弁護士を開業した。学生時代から俳句を好み,佐野蓬宇(ほうう)晩年の門人となり,蛙流(ありゅう)と号した。その後,明治 ...
八町 とは(豊橋百科事典より)
はっちょう 八町は,東八町から西八町の間が約8丁(870m)あったことから名付けられた地名であり,吉田(豊橋)藩の侍屋敷があった地域である。侍屋敷は,豊橋警察署の隣に1軒だけ残っている。吉田城の中堀と外堀の間の八町通は,豊橋鉄道市内線の軌道が走り,国道1号線 ...
八幡社(赤門) とは(豊橋百科事典より)
はちまんしゃ(あかもん) (赤門)八幡社の創建は天智天皇10(671)年と伝えられる。吉田(豊橋)城築城後は城内若宮八幡といわれた。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,飽海(あくみ)村「八幡宮,社人久太夫,社領三石目」とある。「三河国二葉松」(元文5年)に, ...
二・二六事件 とは(豊橋百科事典より)
ににろくじけん 二・二六事件は,昭和11(1936)年2月26日,東京でおきた陸軍のクーデター未遂事件であった。皇道派青年将校安藤輝三大尉,栗原安秀中尉らに率いられた歩兵第1聯隊・歩兵第3聯隊約1500人が,内閣総理大臣岡田啓介・大蔵大臣高橋是清・教育総監渡辺錠太郎・ ...
中村風声 とは(豊橋百科事典より)
なかむら・ふうせい(1884~1923) 中村風声は,本名を幸三郎といい,明治17(1884)年10月,渥美郡東豊田村(豊橋市野田町)に生まれた。小学校を卒業し,素修学校に学ぶ。その後,上京して苦学の日々を送ったが,徴兵により帰郷し歩兵第18聯隊に入隊した。 3か年の兵役 ...
「豊橋陸軍教導学校史」(浪崎敏武稿) とは(豊橋百科事典より)
とよはしりくぐんきょうどうがっこうし 「豊橋陸軍教導学校史」(稿本 平成2年)は,昭和2(1927)年7月,渥美郡高師村の旧歩兵第60聯隊跡(豊橋市町畑町)に創設された下士官養成の学校の歴史を記したものである。教導学校は大正末期の軍縮ののち,陸軍の近代化がすすめ ...
豊橋公園(豊橋市今橋町) とは(豊橋百科事典より)
とよはしこうえん 豊橋公園は,吉田(豊橋)城址を主体に成立している。城址は,明治18(1885)年から昭和20(1945)年の終戦まで,歩兵第18聯隊や新設部隊の営舎として使われており,城の東側にあった武家屋敷町は練兵場となった。軍都時代の残象は,豊橋公園入り口の営門 ...
豊橋球場(豊橋市今橋町) とは(豊橋百科事典より)
とよはしきゅうじょう 豊橋球場は,旧歩兵18聯隊練兵場跡に造成中の豊橋公園内に,昭和23(1948)年8月,完成して開場した。戦災復興事業の施設第1号で,工事費は840万円であった。焼野原となった市街地には膨大な瓦礫(がれき)がまだ堆積していた。豊橋市では瓦礫処分地と ...
豊城神社(豊橋市東田(あずまだ)町北蓮田) とは(豊橋百科事典より)
とよきじんじゃ 豊城神社は,正徳2(1712)年松平信祝(のぶとき)が下総古河からの転封に際して,先祖の霊を吉田(豊橋)城二の丸に移したもので,藩祖源頼政を祀ったものである。廃藩の際宮下町(豊橋市今橋町)の秋葉神社に合祀したが,明治18(1885)年陸軍豊橋分営(歩 ...
「東日新聞」(新聞) とは(豊橋百科事典より)
とうにちしんぶん 東日新聞は,昭和23(1948)年8月15日第2次世界大戦後の豊橋地方最初の日刊新聞「東三新聞」として,杉田英一郎(有窓子・杉八代表取締役)により創刊された。タブロイド判2ページだった。中部100部隊(歩兵第18聯隊)兵舎の一隅を借りてスタートしたが, ...
停車場事件 とは(豊橋百科事典より)
ていしゃばじけん 停車場事件は,明治22(1889)年2月20日,豊橋駅で突発的に起きた。東海道本線の開通により,明治21(1888)年9月に開設された豊橋駅は,機関車,客車,貨車などの見物に地元住民はもとより,歩兵第18聯隊の兵士たちもつめかけて連日にぎわっていた。 明 ...
中部第100部隊 とは(豊橋百科事典より)
ちゅうぶだい100ぶたい 陸軍は南太平洋における厳しい戦訓から,昭和18(1943)年2月,陸軍航空本部直轄の陸軍飛行場設定練習部を豊橋に設置した。飛行場設定練習部は中部第100部隊と称して,旧歩兵第18聯隊(吉田城址(じょうし))におかれ,本部・研究部・教育部・練習隊 ...
「第15師団司令部庁舎」(国登録文化財) とは(豊橋百科事典より)
だい15しだんしれいぶちょうしゃ 「愛知大学旧本館(旧陸軍第15師団司令部庁舎)」木造2階建て,瓦葺(かわらぶ)き,建築面積1859㎡(豊橋市町畑町町畑)は,平成10(1998)年1月16日,国の文化財登録原簿に登録された。 明治41(1908)年「陸軍第15師団司令部庁舎」は,歩 ...
第15師団 とは(豊橋百科事典より)
だい15しだん 第15師団は日露戦争中,東京において編成され,満州の戦野に赴き,第2軍の戦闘序列に編入されたが,戦いが終わると千葉県習志野に帰還した。第15師団の地方移駐の議が起り,豊橋・浜松・岐阜が候補に上ったが,最終的に豊橋に設置されることになった。明治41 ...
嵩山鉱山 とは(豊橋百科事典より)
すせこうざん 嵩山鉱山(豊橋市嵩山町)は,豊橋で最も歴史の古い鉱山であった。嵩山鉱山では,元禄以前から石灰が焼かれていたことが差出帳などに記されている。その業態は家内工業的であり,寛政年間(1789~1801)には15人の石灰焼きの株仲間があった。明治維新になると ...
神武天皇像 とは(豊橋百科事典より)
じんむてんのうぞう 神武天皇像は,日清戦争後の明治32(1899)年3月,歩兵第18聯隊兵営の東に広がる八町練兵場南正面に軍人記念碑として建立された。神武天皇像の作者は,岡崎雪声というが,実作者は松田鹿三である。この軍人記念碑は,大正5(1916)年練兵場北中央に南面 ...
市役所(豊橋市今橋町) とは(豊橋百科事典より)
しやくしょ 豊橋市は,明治39(1906)年8月1日,市制を施行した。仮役所を中八町の旧豊橋町役場跡に開いた。明治45(1912)年7月1日,豊橋市西八町に洋風2階建て,構内661坪の庁舎が落成した。この庁舎は,昭和3(1928)年11月26日に焼失,同年12月10日,渥美郡役所跡に移 ...
社会保険事務所(豊橋市菰口町三丁目) とは(豊橋百科事典より)
しゃかいほけんじむしょ 愛知県豊橋社会保険事務所は,昭和10(1935)年5月1日に,豊橋市松葉町のエビスヤ百貨店跡に豊橋健康保険出張所として,三河部を管轄区域に発足した。昭和11(1936)年には,豊橋市花田町松山に庁舎を新築移転した。昭和14(1939)年には,西三河 ...
輜重兵第15大隊 とは(豊橋百科事典より)
しちょうへいだい15だいたい 明治40(1907)年11月,豊橋に陸軍第15師団が設置され,輜重兵第15大隊が豊橋郊外高師村草間(豊橋市草間町)に置かれた。輜重とは,荷物をのせる車の意であるが,第15師団にはほかに兵器支廠(ししょう)(北山町)が設置されているので,糧秣( ...
サイパン玉砕 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 歩兵第18聯隊 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog http://na ...
米騒動 とは(豊橋百科事典より)
こめそうどう 米騒動は,米価騰貴を契機に発生した民衆の暴動である。明治以降大規模な米騒動は3回起こっているが,全国的な規模で展開したのは,大正7(1918)年7月から9月にかけての騒動であった。第1次世界大戦中の好景気は,インフレと物価高をもたらし,米価は第1次 ...
憲兵隊 とは(豊橋百科事典より)
けんぺいたい 憲兵は,軍事警察(軍隊規律の維持)と治安警察(社会の安寧(あんねい)秩序の維持)の2つの任務を有していたが,後には思想警察,防衛,防諜(ぼうちょう),生産増強,国民生活の監視にまでおよぶようになった。 明治22(1889)年2月,陸海軍の20重大事件の一 ...
玄武門1番乗り とは(豊橋百科事典より)
げんぶもん1ばんのり 明治27(1894)年8月1日,日清開戦し,8月4日第3師団に動員令が発せられた。歩兵第18聯隊は第5師団の指揮下に入り,元山支隊として元山に上陸し,9月14日平壌の背後に迫った。明治27(1894)年9月15日の玄武門破りは,原田十吉が扉を開き,平壌を占 ...
グアム玉砕 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 歩兵第18聯隊 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog http://na ...
小川元吉 とは(豊橋百科事典より)
おがわ・げんきち(1875~1946) 小川元吉は,明治8(1875)年9月28日,静岡県富士郡原田村(富士市原田)の小川長平の5男に生まれた。明治27(1894)年歩兵第18聯隊に入営した。日露戦争に際しては軍曹にすすみ,軍旗護衛兵に選ばれた。明治37(1904)年5月26日南山の戦い ...
牛川遊歩公園(豊橋市南牛川二丁目・西小鷹野四丁目) とは(豊橋百科事典より)
うしかわゆうほこうえん 牛川遊歩公園は,通称1キロ公園といい,昭和49(1974)年4月に,開設された。豊橋市南牛川二丁目から西小鷹野(おだかの)四丁目までの長さ約1㎞,幅40m,面積3.7haの細長い地区公園である。明治18(1885)年に建設された歩兵第18聯隊の射撃練習場 ...
今橋町 とは(豊橋百科事典より)
いまはしちょう 今橋とは,牧野古白が,永正2(1505)年,豊川(とよがわ)と朝倉川の合流点の河岸段丘上に築いた城名である。今橋城は,大永2(1522)年,吉田(豊橋)城と改められたという。昭和38(1963)年1月1日,豊橋市中八町・東八町のうち旧吉田城(旧陸軍歩兵第18聯 ...
「一兵卒」(田山花袋) とは(豊橋百科事典より)
いっぺいそつ 「一兵卒」(早稲田文学 明治41年)は,田山花袋の短編小説である。この作品は日露戦争を背景としたもので,野戦病院から原隊の後を追う途中,満州の荒野の一集落で脚気衡心(かっけしょうしん)のため,孤独のうちに悶死(もんし)した兵士の物語である。 この ...
怒部隊 とは(豊橋百科事典より)
いかりぶたい 怒部隊は,正式名称を第73師団,通称号を「怒」といった。怒部隊は昭和19(1944)年末ごろから,米軍の上陸が予想された豊橋の高師原・天伯原および浜名湖以西の海浜に陣地構築し,本土防衛の任についていた。第73師団は昭和19(1944)年7月,警備師団として ...
安久美神戸神明社(豊橋市八町通三丁目) とは(豊橋百科事典より)
あくみかんべしんめいしゃ 天慶3(940)年,平将門の乱が平定されたので,朱雀天皇により伊勢神宮へ安久美郷を神領として寄進された(三河国新神戸)。社伝によれば安久美神戸神明社は,この時,大宮司頼基の庶流藤原基守は磯部・河野・清水らを伴い神戸の司となり,この地 ...
秋山助六郎 とは(豊橋百科事典より)
あきやま・すけろくろう(?~1904) 歩兵第18聯隊(豊橋)第8中隊長秋山大尉は,明治37(1904)年8月31日,日露戦争の遼陽での首山保争奪戦で,突撃を前にして,遺書をしたためた。助六郎ハ余カ長男今茲甲辰征露ノ役戦死ス行年三十六其最後決死ノ際寄スル所ノ書左ノ如シ八 ...