らくのう 酪農は,乳牛を飼育して牛乳を生産する畜産経営の一つである。飼育乳牛は,ホルスタイン種がほとんどである。豊橋に酪農が取り入れられた歴史は,昭和12(1937)年創立の中央製乳株式会社が,豊橋・渥美・八名(やな)・宝飯郡および湖西地方一帯に,乳牛飼育を積極 ...
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陽光寺(豊橋市植田町池下) とは(豊橋百科事典より)
ようこうじ 天徳山陽光寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,天平11(739)年で,開山は行基菩薩であると伝えられている。往古は真言宗であったが,その後の沿革についてははっきりしていない。戦国時代に乾林虎和尚が陽光寺を再興し臨済宗に改宗し,東観音寺の末寺にしたと伝え ...
ヤナギ とは(豊橋百科事典より)
やなぎ ヤナギ(ヤナギ科ヤナギ属)は,落葉高木または低木の総称で,北半球の温帯に広く分布する。雌雄異株で,葉は互生(交互に1枚ずつ方向を異にする)し,長楕円形である。花は早春に開き,花穂(穂のように散って枝につく)を形成する。日本には30種以上生育するが, ...
藻草騒動 とは(豊橋百科事典より)
もぐさそうどう 藻草騒動は,天保14(1843)年,大崎村と東植田村,西植田村,野依(のより)村,仏飼(ぶっしょう)村,切反ヶ谷(きったがや)村の5か村が藻草場入会(いりあい)の件で争った事件である。取調べの結果関係する文書がないことで,5か村の入会は認められないと決定 ...
武蔵精密工業(豊橋市植田町大膳) とは(豊橋百科事典より)
むさしせいみつこうぎょう 武蔵精密工業株式会社は,昭和13(1938)年大塚美春(1905~2001)が東京市品川区で大塚製作所として創業したことに始まる。昭和19(1944)年大塚航空工業株式会社に改組した。昭和21(1946)年豊橋市大崎町に移転,社名を武蔵産業株式会社とした ...
向ヶ丘駅(豊橋市植田町清水山) とは(豊橋百科事典より)
むこうがおかえき 豊橋鉄道渥美線向ヶ丘駅は,昭和34(1959)年1月16日に,豊橋鉄道渥美線植田~大清水間(新豊橋起点7.1㎞)に開業した。昭和52(1977)年4月18日にホームを延伸(4両編成列車対応),平成2(1990)年3月31日に乗降場を改良(高さ1100㎜),同7(95)年7月 ...
本多電子(豊橋市大岩町小山塚) とは(豊橋百科事典より)
ほんだでんし 本多電子株式会社は,昭和31(1956)年豊橋市新吉町で本多敬介(1929~97)が本多電子工業所を設立したことに始まる。昭和35(1960)年本多電子工業株式会社を設立,同47(72)年豊橋市植田町,同53(78)年豊橋市大岩町に本社・工場を移転した。 本多電子は ...
変電所 とは(豊橋百科事典より)
へんでんしょ 電力は発電所から高圧で基幹変電所に送電し,配電用変電所から需用者に配電する。明治42(1909)年,見代(けんだい)発電所(南設楽郡作手村)から豊橋変電所(宝飯郡下地町)に1万Vの特別高圧で送電したものを2200Vに降圧して豊橋市内に配電した。明治45(1 ...
富士見街道 とは(豊橋百科事典より)
ふじみかいどう 富士見街道は,豊橋市が平成2(1990)年に,道路愛称として公募して認定した道路である。この街道は,豊橋市植田町神戸坂の国道259号(田原街道)より同東赤沢町東横根の国道42号(表浜街道)までの東赤沢線(愛知県道409号)延長5.5㎞である。なお,「富士 ...
福岡村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
ふくおかむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡橋良村・小池村・小池村持地高足(たかし)分地・山田村・小松新田・佐藤村・小浜村は合併して福岡村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行された。明治39(1906)年9月10日,福岡村・高師 ...
彦坂新田 とは(豊橋百科事典より)
ひこさかしんでん 彦坂新田は娵取(よめとり)新田とともに,梅田川流域から離れた植田南部の乏水性の丘陵地に開発された新田である。この新田は,元禄13(1700)年吉田(豊橋)藩主久世重之の奥方女中縁家の者を百姓に取り立て,開発したものである。やせ地であったので,野 ...
東三河農業研究所(豊橋市飯村町高山) とは(豊橋百科事典より)
ひがしみかわのうぎょうけんきゅうじょ 愛知県農業総合試験場東三河農業研究所は,昭和8(1933)年,豊橋市植田町に愛知県農事試験場小麦原種圃として発足したことに始まる。昭和15(1940)年,愛知県農業試験場豊橋市試験地に,同28(53)年,愛知県農業試験場豊橋分場と ...
東三河環状線跨道橋 とは(豊橋百科事典より)
ひがしみかわかんじょうせんこどうきょう 東三河環状線跨道橋は,東三河環状線(愛知県道31号)の開鑿(かいさく)に伴い,平成8(1996)年5月24日,豊橋鉄道渥美線の芦原~植田間(新豊橋起点5.629km)豊橋市芦原町東に供用を開始した単線の跨道橋(ガード)である。なお, ...
東植田村 とは(豊橋百科事典より)
ひがしうえたむら 渥美郡東植田村の村高は「三河国村々高附」(寛永期)に197石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に405石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数52,人数179であった。元禄6(1693)年,「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,東植田村「 ...
八幡社(豊橋市野依(のより)町八幡) とは(豊橋百科事典より)
はちまんしゃ(のより) (野依)八幡社は,慶雲元(704)年豊前国宇佐八幡宮からの勧請で,康和2(1100)年平忠朝が再建,神田を寄付したという。競馬・歩射神事は,野依および高塚・伊古部(いこべ)・植田・仏餉(ぶっしょう)で務めた。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年 ...
農協 とは(豊橋百科事典より)
のうきょう 農業協同組合(以下農協)は,昭和23(1948)年,それまでの農業会が解散して農業協同組合法に基づき,信用・購買・販売・加工・共同施設・福利厚生施設・技術指導などを主な事業内容として発足した。豊橋市内には27の農協と14の開拓農協があったが,昭和42(19 ...
西植田村 とは(豊橋百科事典より)
にしうえたむら 渥美郡西植田村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に140石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分361石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数81,人数413であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,西植田村「車大明 ...
南稜中学校(豊橋市植田町的場) とは(豊橋百科事典より)
なんりょうちゅうがっこう 豊橋市立南稜中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,本部を植田小学校に置き,植田教場(植田小学校)・大清水教場(植田小学校大清水分教場)・大崎教場(大崎小学校)・野依(のより)教場(野依小学校)に分散して,大崎小学校・植 ...
南部中学校(豊橋市北山町東浦) とは(豊橋百科事典より)
なんぶちゅうがっこう 豊橋市立南部中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,福岡教場(福岡小学校)・高師教場(高師小学校)・磯辺教場(磯辺小学校)に分散して,南部第一中学校として発足し,校地を豊橋兵器支廠(ししょう)跡(豊橋市北山町東浦)に求めて校 ...
「豊橋市埋蔵文化財調査報告書」(豊橋市教育委員会編) とは(豊橋百科事典より)
とよはししまいぞうぶんかざいちょうさほうこくしょ 「豊橋市埋蔵文化財調査報告書」(豊橋市教育委員会 昭和43年~ )は,文化財保護法に基づく発掘調査の報告書である。平成17(2005)年現在,豊橋市内には埋蔵文化財包蔵地(遺跡)の数は,1396か所ある。こうした遺跡 ...
「東海道人物志」(大須賀鬼卵(おおすかきらん)編) とは(豊橋百科事典より)
とうかいどうじんぶつし 「東海道人物志」(三都書林 享和3年)は,東海道五十三次各宿場とその周辺に住む文人などを紹介したいわゆる「姓名録」である。大須賀鬼卵は,安永8(1779)年妻夜燕(やえん)とともに吉田(豊橋)に移り住んだが,天明3(1783)年妻を亡くしてか ...
電話局番 とは(豊橋百科事典より)
でんわきょくばん 豊橋の電話が自動開局(4桁のダイヤル式)したのは,昭和6(1931)年3月29日である。大正15(1926)年,東京・横浜,昭和3(1928)年,大阪・京都・神戸・名古屋に自動交換式の電話が登場した。豊橋と姫路が軍都として選ばれた。しかし,自動改式は豊橋だ ...
津田新田 とは(豊橋百科事典より)
つだしんでん 津田新田は,寛文6(1666)年,梅田川下流左岸に伊川津村(渥美町伊川津)の作兵衛が開発した。当初は高63石余であった。渥美郡津田新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分74石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数1,人数8 ...
高師村(明治39年合併) とは(豊橋百科事典より)
たかしむら 明治39(1906)年9月10日,渥美郡高師村・福岡村・磯辺村・野依村・植田村・大崎村は合併して高師村と改称した。昭和7(1932)年9月1日,高師村は豊橋市に合併した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このペ ...
高師村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
たかしむら 明治11(1878)年12月20日,郡区町村編制により,渥美郡高足(たかし)村・芦原新田・森田新田・藤並新田・高足原尾先新田・高足新新田は合併して高師村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行された。明治39(1906)年9月10日,高師村・福岡村・磯辺 ...
高師小学校(豊橋市上野町上原) とは(豊橋百科事典より)
たかししょうがっこう 豊橋市立高師小学校は,明治6(1873)年7月,第10中学区第10番小学脩徳学校として,高足(たかし)村の高林寺に,高足村・森田新田・藤並新田・小松新田・山田村・佐藤村・小池村・橋良(はしら)村・小浜村を校区とし,橋良に分場(小池・小松・橋良・小 ...
大膳古窯(豊橋市植田町大膳) とは(豊橋百科事典より)
だいぜんこよう 大膳古窯は,豊橋市植田町の東西を谷にはさまれて伸びる段丘の北東向き斜面に築かれた,中世陶器・山茶碗(やまぢゃわん)の窯址群(かまあとぐん)である。最低でも8基の窯址があったと推定される。工場用地造成のための採土工事に先立ち,1・2号窯の2基の窯体 ...
素盞嗚神社(豊橋市植田町西ノ山) とは(豊橋百科事典より)
すさのおじんじゃ(ひがしうえた) (東植田)素盞嗚神社は,宝亀元(770)年山城国祇園天王を勧請し,長治元(1104)年社地を洪水の害から移したという。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,東植田村「天王,祢宜五太夫」とある。昭和12(1937)年進雄社を素盞嗚神社 ...
周伊勢湾要素 とは(豊橋百科事典より)
しゅういせわんようそ 周伊勢湾要素は,東海地方に特徴的な植物をまとめて呼ぶ用語として井波一雄により提唱された。その後,植田邦彦により,鈴鹿山系東麓から名古屋東部丘陵,下伊那,渥美半島,浜松周辺にかけての地域を「周伊勢湾」と定義された。また,周伊勢湾地域に ...
市営住宅 とは(豊橋百科事典より)
しえいじゅうたく 豊橋市営住宅は,第2次世界大戦後の応急住宅として,昭和22(1947)年ごろ豊橋市南栄町・向山町・新八町など旧軍用地に木造平屋建ての住宅が建設されたが,同28(53)年から同50(75)年ごろまでに払い下げが行われた。豊橋市営住宅として最初は平屋建て ...
国道259号 とは(豊橋百科事典より)
こくどう259ごう 国道259号は,豊橋市から渥美郡渥美町の伊良湖岬までは,通称「田原街道」で,奥郡(おくごおり)街道ともいわれた。さらに伊勢湾を海路で三重県鳥羽市に至る道路である。大正4(1915)年7月,豊橋市札木町から第15師団司令部前(豊橋市町畑町)までが国道61 ...
校区市民館 とは(豊橋百科事典より)
こうくしみんかん 校区市民館は,昭和47(1972)年,豊橋市社会教育審議会の社会教育施設の適正な配置と規模に関する建議を受け,地区市民館に次いで年次計画(昭和49年)で建設着工された。昭和55(1980)年,東田(あずまだ)・松葉・津田・磯辺・大崎・鷹丘・下条・多米( ...
県営住宅 とは(豊橋百科事典より)
けんえいじゅうたく 愛知県は,名古屋市・一宮市などに続いて豊橋市にも昭和27(1952)年度から,鉄筋コンクリート4階建ての愛知県営住宅の建設を進めた。豊橋市内で最初に建設されたのは,瓦町住宅 4階建て3棟72戸(昭和27年入居開始)で,次いで三ノ輪住宅 4階建て2棟4 ...
「車神社出土品」(愛知県指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
くるまじんじゃしゅつどひん 「車神社出土品」は,昭和34(1959)年10月10日,愛知県有形文化財(考古資料)に指定された。 車神社(豊橋市植田町)は,古墳の上に建てられているが,その古墳は,梅田川の河口部に築かれた6世紀中葉の前方後円墳である。この墳丘上に車神 ...
車神社古墳(豊橋市植田町八尻) とは(豊橋百科事典より)
くるまじんじゃこふん 車神社古墳は,梅田川左岸の段丘端部に位置する。そこはかつて河口が深く湾入していたところである。明治18(1885)年に古墳の上に社殿が造営されたときに石槨(せっかく)から遺物が出土したと伝わり,出土品の一部は愛知県指定文化財になっている。ま ...
車神社(豊橋市植田町八尻) とは(豊橋百科事典より)
くるまじんじゃ 西植田(豊橋市植田町)の車神社は,神亀2(725)年の創建である。社記によれば,貴人(正仁明神)がうつぼ舟に乗ってこの地に上陸したという。この貴人の霊を奉祀し,車を埋めた所を車塚という。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,西植田村「車大明 ...
貨物専用線 とは(豊橋百科事典より)
かもつせんようせん 豊橋駅では,旧豊川鉄道船町貨物線が第2次世界大戦中増強され,昭和41(1966)年10月1日,豊橋貨物コンテナ基地となった。この間,昭和29(1954)年,豊橋駅経由飯田線で送られる佐久間ダム工事用資材輸送のため,豊橋駅に貨物引込線11本が増設された ...
強飯鉢(民話) とは(豊橋百科事典より)
おしいばち 神代のこと,天照大神の命を受け,武甕槌命(たけみかづちのみこと)らは,東国の悪賊を討伐(とうばつ)に,船で東へ東へと海路を進撃していた。ある日,激しい暴風雨に見舞われ,船は大破し海中に放り出され海上を漂い,命からがら植田(豊橋市植田町)の浜に流れ ...
大塚美春 とは(豊橋百科事典より)
おおつか・よしはる(1905~2001) 大塚美春は,明治38(1905)年2月23日,渥美郡大崎村(豊橋市大崎町)で生まれた。大正8(1919)年14歳で東京に出て,大崎機械製作所に就職した。昭和13(1938)年大塚製作所を創立し,同19(44)年に大塚航空工業株式会社に改組し,代表 ...
大清水小学校(豊橋市南大清水町元町) とは(豊橋百科事典より)
おおしみずしょうがっこう 豊橋市立大清水小学校は,昭和21(1946)年9月,旧陸軍大清水飛行場の跡地(豊橋市大清水町大清水)に大清水町を校区とした植田国民学校大清水分教場が開設され,同24(49)年,植田小学校大清水分校として認可されたことに始まる。昭和29(1954 ...
大清水駅(豊橋市大清水町大清水) とは(豊橋百科事典より)
おおしみずえき 豊橋鉄道渥美線大清水駅は,大正13(1924)年1月22日に,渥美電鉄高師~豊島(としま)間の開業により,植田~老津間(新豊橋起点8.5㎞)に開業した。昭和10(1935)年3月8日に,大清水駅構外の相模紡績(豊橋紡績)豊橋工場の貨物引き込み線を敷設した。昭和 ...
大崎村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
おおさきむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制,同22(89)年10月1日,町村制施行の渥美郡大崎村は,同39(1906)年9月10日,磯辺村・高師村・野依村・植田村と合併して高師村と改称した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうご ...
大崎島・大津島 とは(豊橋百科事典より)
おおさきじま・おおつじま 田原湾の海面の寄州(よりす)に,大崎村(豊橋市大崎町・船渡町)に属する本島・平島・長松島(一部)と大津村(豊橋市老津町)に属する大津島・蜷島(になじま)・仏島・長松島などがあった。江戸期にはこの海域に,野依村・西植田村・東植田村・切 ...
オオクチバス とは(豊橋百科事典より)
おおくちばす オオクチバス(バス科)は,北アメリカ東南部原産で,成長すると全長30~50㎝になる外来種の淡水魚で,ブラックバスとも呼ばれている。体色は,暗灰色で口は大きく,上下のあごの歯がするどく肉食性である。在来の小型魚をはじめエビ類・水生昆虫など待ち伏せ ...
老津郵便局(豊橋市老津町今下(こんげ)) とは(豊橋百科事典より)
おいつゆうびんきょく 老津郵便局は,明治9(1876)年,渥美郡老津村に開設された。老津村・大崎村・植田村・杉山村・谷熊(やぐま)村を郵便局管内とした。明治25(1892)年,野依(のより)村が高豊郵便局から,老津郵便局管内になる。昭和7(1932)年,大崎・植田・野依は豊 ...
老津飛行場の飛行機用掩体 とは(豊橋百科事典より)
おいつひこうじょうのひこうきようえんたい 飛行機用掩体とは,飛行機置き場のことである。陸軍老津飛行場は,豊橋市南大清水町にあった。敷地は,北東-南西1000m,北北西-南南東1000mの逆L字形をしている。昭和18(1943)年1月,航空本部直轄で飛行場構築のための研究と ...
梅田川 とは(豊橋百科事典より)
うめだがわ 梅田川は,梅田川水系の基幹をなす二級河川(愛知県管理)である。静岡県境に近い豊橋市雲谷(うのや)町から流れ出した半尻川(豊橋市域の延長1400m)が,静岡県湖西市梅田で梅田川と改称し(静岡県内延長1320m),豊橋市中原町で南方から流れて来た境川(延長47 ...
植野村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
うえのむら 明治11(1878)年12月20日,郡区町村編制により,渥美郡西植田村・東植田村・津田新田は合併して植田村と改称し,野依村・切反ヶ谷(きったがや)村・仏餉(ぶっしょう)村は合併して野依村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制の施行にあたって,植田村・ ...
植田橋(梅田川) とは(豊橋百科事典より)
うえたばし 植田橋は,国道259号(田原街道)が梅田川を横切るところに架けられた橋である。豊橋市磯辺下地町と豊橋市植田町を結ぶ。明治13(1880)年8月に完成し,「植田の渡し」は廃止された。明治43(1910)年4月と昭和30(1955)年6月に改築した。さらに,昭和63(1988 ...
植田の渡し とは(豊橋百科事典より)
⇒ 植田橋(梅田川) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog http: ...