豊橋市議の長坂です。東京から、花火を何度か見に行きました。さて、静岡県熱海市で大規模な土砂災害が発生しました。私も何度か訪れたことがあり、心が痛みます。過去にこのブログで土砂災害・洪水のハザードマップをご紹介しました。そうだ、豊橋の洪水・土砂ハザードマッ ...
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六条潟 とは(豊橋百科事典より)
ろくじょうがた 六条潟は,三河湾沿岸部の豊川(とよがわ)を中心として,南は柳生川・梅田川,北は江川・佐奈川・音羽川の6河川が流入する河口一帯に広がる干潟・浅海域の総称で,6河川が流入することから吉田(豊橋)藩士(氏名不詳)が名付けたとされている。六条潟は,海 ...
吉原弥次右衛門 とは(豊橋百科事典より)
よしはら・やじえもん(?~1673) 吉原弥次右衛門は,遠江国敷知(ふち)郡利木(りき)村(湖西市利木)の人である。吉原弥次右衛門重次(初代)が,明暦2(1656)年,吉田(豊橋)藩主小笠原忠知に梅田川下流右岸の新田開発を願い出た。明暦3(1657)年,3代・吉原弥次右衛 ...
ヨシ群落 とは(豊橋百科事典より)
よしぐんらく ヨシ(イネ科)は,多年草で,アシともいう。ヨシ群落は,ヨシを優占種とした群落で,低層湿原に見られる。根元が水につかった特殊な環境に生え,純群落になることが多い。豊橋では豊川(とよがわ)や梅田川の河口近くや,多くのため池の岸辺に生える。水質の浄 ...
藻草騒動 とは(豊橋百科事典より)
もぐさそうどう 藻草騒動は,天保14(1843)年,大崎村と東植田村,西植田村,野依(のより)村,仏飼(ぶっしょう)村,切反ヶ谷(きったがや)村の5か村が藻草場入会(いりあい)の件で争った事件である。取調べの結果関係する文書がないことで,5か村の入会は認められないと決定 ...
牟呂発電所 とは(豊橋百科事典より)
むろはつでんしょ 牟呂発電所は,豊橋電燈株式会社が梅田川発電所の不安定供給を解消するために,明治29(1896)年4月に渥美郡牟呂村大西大海津(豊橋市牟呂町大海津)に設立した発電所である。当時,通水したばかりの牟呂用水を水源とした。水路の長さは約40m,幅約2.4m, ...
水無川 とは(豊橋百科事典より)
みずなしがわ 水無川は,豊橋市街地南東部の幸(みゆき)小学校に隣接する豊橋市江島町の清水池を水源として西に流れ,市道(弥生町・畑ヶ田町49号線)の豊栄(ほうえい)橋(豊橋市弥生町)で内張川と改称する延長1130mの梅田川水系の普通河川である。流域一帯は,昭和20(194 ...
松井新田 とは(豊橋百科事典より)
まついしんでん 松井新田は,寛文2(1662)年以前,梅田川下流右岸に開発された新田である。渥美郡松井新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分129石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数14,人数69であった。産土神(うぶすながみ)に伊勢 ...
本郷遺跡(豊橋市大岩町本郷) とは(豊橋百科事典より)
ほんごういせき 本郷遺跡は,豊橋市大岩町本郷に所在する古代から中世にかけての遺跡である。遺跡は梅田川と権茂川に挟まれた舌状台地の先端部近くに営まれた集落遺跡であり,古代の灰釉(かいゆう)陶器などを生産した二川古窯址(こようし)群の中心地区である苗畑支群に近接 ...
墓地 とは(豊橋百科事典より)
ぼち 墓地は,明治以前には,町方は寺院境内に,農村では村々に散在していた。明治以降は火葬が普及し,寺院境内に墓碑を建てることが多くなり,大規模な墓地が市営で造成された。平成17(2005)年,大規模墓地は,市営5か所,私営1か所である。 市営墓地は,飯村(いむれ ...
船渡新田 とは(豊橋百科事典より)
ふなとしんでん 梅田川河口左岸の船渡新田は,大崎領主中島与五郎の領地拡張の意図から開発された。元和8(1622)年高柳治郎右衛門父子によって,高378石が船渡郷として開発された。このほかに大崎村内には,古新田(寛文2年)・鶴ヶ崎新田(宝暦7年)・伝六新田(文政2年 ...
フナ とは(豊橋百科事典より)
ふな フナ(コイ科)は淡水魚で,成魚の体長は20~40㎝で釣りの対象魚として,また,食用にもされてきた身近な魚である。フナの仲間は体形や体色の違いからいろいろな種類に分けられているが,豊橋市内にはギンブナとゲンゴロウブナが多い。豊橋市の南部を流れる梅田川,紙 ...
二川南小学校(豊橋市大岩町前荒田) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわみなみしょうがっこう 豊橋市立二川南小学校は,昭和63(1988)年4月,梅田川以南の二川小学校区の大岩町本郷・大岩町南・大岩町南丘・大岩町久保田,二川町南町,豊清(ほうせい)町・三弥(さんや)町・豊栄(ほうえい)町・細谷町一里山,谷川(たにがわ)小学校区の豊 ...
二川小学校(豊橋市二川町北裏) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわしょうがっこう 豊橋市立二川小学校は,明治6(1873)年,寛明学校を二川村の松音寺に設立,同6(73)年10月,大岩寺を校舎として第10中学区第8番小学大岩学校を設立したことに始まる。明治11(1878)年,第10中学区第8番小学大岩学校・第22番小学二川学校となり, ...
二川古窯址群(豊橋市大岩町など) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわこようしぐん 二川古窯址群は,松明峠(たいまつとうげ)南西麓を中心に分布する9~11世紀ごろの灰釉(かいゆう)陶器と緑釉(りょくゆう)陶器を生産した古窯址群である。尾張の猿投窯(さなげよう)からの技術導入によって,生産がはじめられたものであり,北は豊橋市多 ...
藤並新田 とは(豊橋百科事典より)
ふじなみしんでん 藤並新田は,寛文8(1668)年,梅田川中流右岸に高40石余で高足(たかし)村から分立した。渥美郡藤並新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分40石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数17,人数66であった。産土神(うぶす ...
彦坂新田 とは(豊橋百科事典より)
ひこさかしんでん 彦坂新田は娵取(よめとり)新田とともに,梅田川流域から離れた植田南部の乏水性の丘陵地に開発された新田である。この新田は,元禄13(1700)年吉田(豊橋)藩主久世重之の奥方女中縁家の者を百姓に取り立て,開発したものである。やせ地であったので,野 ...
ハゼ とは(豊橋百科事典より)
はぜ ハゼ(ハゼ科)は,海水魚で,マハゼ,チチブ(ダボハゼ)などがある。マハゼは,全長は15~20㎝,尾びれの小黒斑(くろふ)が破線状の縞(しま)に見える。左右の腹びれは合わさって吸盤状となっている。豊川(とよがわ)や梅田川の河口などの砂泥底や泥底に生息し,雑食性 ...
西山遺跡(豊橋市野依台一丁目) とは(豊橋百科事典より)
にしやまいせき 西山遺跡は,梅田川の支流である西ノ川によって形成された沖積地を望む標高30mの段丘上に所在した集落遺跡である。愛知県企業庁による土地造成事業に伴い,昭和58(1983)から同60(85)年に豊橋市遺跡調査会が発掘調査を行った。調査では45棟の竪穴住居址( ...
中瀬古館(豊橋市野依(のより)町中世古) とは(豊橋百科事典より)
なかぜこやかた 中瀬古館は,豊橋南部方面,主に梅田川流域で勢力を誇った畔田(くろだ)氏の城の一つである。天文・弘治年間(1532~58)に今川家臣畔田三郎兵衛尉が居住していたという。規模については明らかではない。城址(じょうし)は東雲寺(豊橋市野依町)とその周辺で ...
トンガリササノハガイ とは(豊橋百科事典より)
とんがりささのはがい トンガリササノハガイは,ササノの葉に似た殻を持つ中型のイシガイ科の二枚貝である。大きいものでは殻長が15㎝に達する。殻の表面は黒色から褐色で,内面は真珠質で光沢がある。殻頂から後端へ稜が伸びている。生息場所は川や池などで,殻の尖ってい ...
豊橋電燈 とは(豊橋百科事典より)
とよはしでんとう 豊橋電燈株式会社は,明治26(1893)年,豊橋商業会議所が創設された折の電気燈設立気運の高まりにより,翌27(94)年3月に,三浦碧水・福谷元次・佐藤弥吉ら8人が発起人となり,資本金1万5000円で創立された。全国で14番目,愛知県内では名古屋電燈につ ...
豊橋段丘面 とは(豊橋百科事典より)
とよはしだんきゅうめん 豊橋段丘面は,豊川(とよがわ)左岸の下流部に,更新世(およそ170万年前~1万年前)に形成された礫(れき)層と砂層からなる複数の段丘面のうち,最も下位にある段丘面をいう。この下位段丘上に永正2(1505)年,今橋(豊橋)城が築かれて城下町が形 ...
都市計画 とは(豊橋百科事典より)
としけいかく 都市計画法が大正8(1919)年に施行され,豊橋市は同12(23)年7月1日都市計画法の適用を受けることが決定した。大正14(1925)年1月8日,豊橋市,宝飯郡下地町,渥美郡牟呂吉田村,高師村福岡・磯辺・高師(梅田川以北)・大崎,二川町大岩・二川(梅田川以 ...
電話局番 とは(豊橋百科事典より)
でんわきょくばん 豊橋の電話が自動開局(4桁のダイヤル式)したのは,昭和6(1931)年3月29日である。大正15(1926)年,東京・横浜,昭和3(1928)年,大阪・京都・神戸・名古屋に自動交換式の電話が登場した。豊橋と姫路が軍都として選ばれた。しかし,自動改式は豊橋だ ...
天伯原 とは(豊橋百科事典より)
てんぱくばら 天伯原は,豊橋市の南部,梅田川以南から太平洋岸まで広がる洪積台地で,渥美半島の基部にあたる。標高は太平洋岸が80m~60mと高く,北西の三河湾に向かって低くなり,標高20mほどになる。天伯原の形成は,梅田川以北の高師原よりも古く,原型面はほとんど侵 ...
津田新田 とは(豊橋百科事典より)
つだしんでん 津田新田は,寛文6(1666)年,梅田川下流左岸に伊川津村(渥美町伊川津)の作兵衛が開発した。当初は高63石余であった。渥美郡津田新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分74石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数1,人数8 ...
畜産農業協同組合 とは(豊橋百科事典より)
ちくさんのうぎょうきょうどうくみあい 豊橋市畜産農業協同組合は,第2次世界大戦後の昭和23(1948)年12月25日に,青木宅治を初代組合長として,豊橋市中八町官有地に設立された。当時は豚や牛・馬・乳牛・山羊などの畜種があり,それぞれの代表が集まった寄り合い世帯で ...
高足村 とは(豊橋百科事典より)
たかしむら 「和名類聚鈔」の渥美郡6郷中の高芦(たかし)(多加之)は,渥美郡高足村とされる。ただ,古代の高芦郷の地は梅田川下流域のみではなく,広く太平洋岸に至る地をも包含し,鎌倉時代以後多数の村が分立して今日に至っている。渥美郡高足村の村高は,「三河国村々 ...
高師原・天伯原の開拓 とは(豊橋百科事典より)
たかしばら・てんぱくばらのかいたく 高師原・天伯原の開拓は,第2次世界大戦後の深刻な食糧事情を解決するためと戦災・復員・引揚者の就農のために,軍用地4825haを民間へ解放することにより始められた。JR東海道線・豊橋鉄道渥美線・梅田川に囲まれた高師原は,標高20~3 ...
高師原 とは(豊橋百科事典より)
たかしばら 高師原は,豊橋市街地南部の柳生川と梅田川の間に広がる東西約6㎞・南北約4㎞の洪積層の台地である。「たかし」の地名は,平安時代の「倭名類聚鈔」にある「渥美郡高芦(たかし)」によるものとされる。それは,古来から歌にも詠まれてきた。高師原は,南接する天 ...
シバナ とは(豊橋百科事典より)
しばな シバナ(ヒルムシロ科)は,多年生草本で,塩場菜の意である。草丈は20~30㎝で,細長い葉が多数出て,株をつくる。夏には株の間から穂状の花茎を出すが,花は目立たない。生育地は岸よりの海で,川の下流部,干潟の周辺,海岸線の泥地である。そこは,満潮時には海 ...
座頭崖(民話) とは(豊橋百科事典より)
ざとうがけ 二川中学校の東(豊橋市二川町道賢田)辺りは,梅田川に流れ込む落合川に沿って300mほど崖になっているところがある。この横を通る細い道が,昔は二川と細谷(豊橋市細谷町)をつなぐ大切な道であった。樹木や笹が生い茂り,昼でも暗く,狐や狸が住みついており ...
境川 とは(豊橋百科事典より)
さかいがわ 境川は,豊橋市東細谷町・湖西市白須賀町を起点とし,その名称のとおり三河国(愛知県)と遠江(とおとうみ)国(静岡県)の境界を北に向かって流れる川である。東海道本線新所原駅のすぐ西側で梅田川に合流する。延長は4.7㎞で,二級河川に属し,東海道(国道1 ...
駒止めの石(民話) とは(豊橋百科事典より)
こまどめのいし 源頼朝(1147~99)は逆戈(さかほこ)神社(豊橋市浜道町)を崇敬(すうけい)していた。文治4(1188)年に神領を寄進した時,お墨付きに八遅戈(やちほこ)大明神と記した。神社は後に,石巻神社の分霊を祀り,逆戈神社と改名したという。源頼朝が鎌倉より京へ ...
国道259号 とは(豊橋百科事典より)
こくどう259ごう 国道259号は,豊橋市から渥美郡渥美町の伊良湖岬までは,通称「田原街道」で,奥郡(おくごおり)街道ともいわれた。さらに伊勢湾を海路で三重県鳥羽市に至る道路である。大正4(1915)年7月,豊橋市札木町から第15師団司令部前(豊橋市町畑町)までが国道61 ...
国道1号 とは(豊橋百科事典より)
こくどう1ごう 国道1号は,明治18(1885)年,国道2号(東京~大阪港)となった道路を大正9(1920)年4月1日,国道1号(東京~伊勢神宮)と改称した。昭和27(1952)年12月4日,東京から大阪までに変更された国道である。豊橋市の区間は,潮見バイパスの豊橋市東細谷町 ...
畔田城(豊橋市城下町築地ノ内・恵下) とは(豊橋百科事典より)
くろだじょう 畔田城は,豊橋南部の梅田川流域で勢力を誇った畔田氏の本城である。赤沢城ともいう。築城時期,規模などは不明だが,東観音寺の古文書によれば寛正2(1461)年以前には畔田氏はこの地域にいたようである。 畔田城は昭和40(1965)年ごろまでは,海岸浸食な ...
「車神社出土品」(愛知県指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
くるまじんじゃしゅつどひん 「車神社出土品」は,昭和34(1959)年10月10日,愛知県有形文化財(考古資料)に指定された。 車神社(豊橋市植田町)は,古墳の上に建てられているが,その古墳は,梅田川の河口部に築かれた6世紀中葉の前方後円墳である。この墳丘上に車神 ...
車神社古墳(豊橋市植田町八尻) とは(豊橋百科事典より)
くるまじんじゃこふん 車神社古墳は,梅田川左岸の段丘端部に位置する。そこはかつて河口が深く湾入していたところである。明治18(1885)年に古墳の上に社殿が造営されたときに石槨(せっかく)から遺物が出土したと伝わり,出土品の一部は愛知県指定文化財になっている。ま ...
草間城(豊橋市向草間町向西) とは(豊橋百科事典より)
くさまじょう 草間城は,豊橋南部の梅田川流域で勢力を誇った畔田(くろだ)氏の城で,畔田氏関連の城跡群の中では最も北に位置している。築城時期などは不明。規模については地籍図から150m×100mほどと考えられている。「三河国二葉松」三州古城記(元文5年)に,「草間村 ...
雉子山城(豊橋市畑ヶ田町雉山) とは(豊橋百科事典より)
きじやまじょう 雉子山城は,豊橋南部方面,主に梅田川流域で勢力を誇った畔田(くろだ)氏の城の一つである。寛正年間(1460~66)に,この地の地頭富田弾正が居城とし,後に畔田氏が居城にしたとされる。規模については地籍図から150m×100mほどとされている。 城址は, ...
カマツカ とは(豊橋百科事典より)
かまつか カマツカ(コイ科)は,河川や池沼の砂底に生息している淡水魚で,成魚の体長は約25㎝である。頭部は吻部(ふんぶ)がやや長く,口は吻の下面に開き,左右一対の口ひげがあり,口の周囲は乳頭(にゅうとう)突起(とっき)で覆われ,味覚器を備えている。この特色をもつ ...
海中の字の廃止 とは(豊橋百科事典より)
かいちゅうのあざのはいし 田原湾の梅田川・汐川の河口には,海面下の土地が存在していた。このような場合,公有水面埋立地が土地となるためには,①海面下の土地の滅失による「海中の字の廃止」②「新たに土地が生じたことの確認」 ③「公有水面埋立地の編入または町・字 ...
オオヨシキリ とは(豊橋百科事典より)
おおよしきり オオヨシキリ(ヒタキ科)は,漢字で書くと「大葦切」で,葦の茎に止まったり,葦原で風を切って飛んでいる全長約20㎝の鳥である。ヨシの茂った河川敷や休耕田などの葦の草原に渡って来る夏鳥で,九州から北海道までの全国で繁殖している。豊橋では,梅田川河 ...
大崎橋(梅田川) とは(豊橋百科事典より)
おおさきばし 大崎橋は,豊橋渥美線(愛知県道県道2号)が梅田川を横切るところに架けられた橋である。豊橋市大山町と豊橋市船渡町を結ぶ。大正4(1915)年8月10日に完成した。昭和13(1938)年10月に改築した。さらに,昭和34(1959)年1月11日に橋長175m・幅員7.0mに改築 ...
大崎街道 とは(豊橋百科事典より)
おおさきかいどう 大崎街道は,豊橋渥美線(愛知県道2号)の一部区間である。豊橋市富本町の国道259号(田原街道)より分岐し,豊橋市大崎町の愛知県道2号・豊橋渥美線(ベイブリッジウェイ)までの延長5.0㎞の通称名である。愛知県道2号は,昭和57(1982)年7月14日に,豊 ...
梅田橋(梅田川) とは(豊橋百科事典より)
うめだばし 梅田橋は,国道1号(東京起点290.1㎞)が豊橋市大岩町の梅田川を横切るところに架けられた橋である。最初の架設は,昭和16(1941)年ごろとされる。昭和56(1981)年3月,下り車線を橋長70.0m・幅員10.9mで改築し,翌57(82)年9月,上り車線が橋長70.0m・幅員1 ...
梅田川発電所 とは(豊橋百科事典より)
うめだがわはつでんしょ 梅田川発電所は,豊橋電燈株式会社が明治27(1894)年に渥美郡高師村車(豊橋市浜道町車)に設立,同年4月1日から運転を開始した水力による発電所である。水路の長さ226m,幅1.8m,落差3mを有し,出力15kW,16燭光300燈で,水力発電では自家用を含 ...
梅田川 とは(豊橋百科事典より)
うめだがわ 梅田川は,梅田川水系の基幹をなす二級河川(愛知県管理)である。静岡県境に近い豊橋市雲谷(うのや)町から流れ出した半尻川(豊橋市域の延長1400m)が,静岡県湖西市梅田で梅田川と改称し(静岡県内延長1320m),豊橋市中原町で南方から流れて来た境川(延長47 ...