愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:松葉

よみせ  夜店は,明治45(1912)年開通した新停車場通(広小路)で行われていたが,市内電車が敷設された大正14(1925)年に豊橋市西八町に移った。第2次世界大戦後は,広小路と萱町で,昭和52(1977)年から札木通りと松葉公園で行われた。平成7(1995)年から翌8(96)年 ...

よしだがたしょうがっこう  豊橋市立吉田方小学校は,明治6(1873)年10月,第10中学区第5番小学吉川学校が三ッ相(みつあい)村・吉川村・野田村を通学区域として,吉川村の香福寺に発足し,同8(75)年8月,渥美郡第6番小学高洲学校(高洲新田・馬見塚村・青竹新田・富久縞 ...

めとろげきじょう  豊橋メトロ劇場は,昭和22(1947)年,豊橋市松葉町の豊橋大劇場の隣接地に洋画専門館として建設された。木造1階,400人収容で,昭和34(1959)年から,1年余り松竹映画を上映した。昭和36(1961)年,閉館し,パチンコ店に転業した。 - - 豊橋市議 ...

めいじしょきのとよはしのしょうがっこう  明治5(1872)年8月,学制が発布され,翌6(73)年10月,豊橋には第10中学区第1番小学関屋学校(関屋町悟真寺)・第2番小学[校名不詳](紺屋町神宮寺)・第3番小学立志学校(世古町竜拈寺(りゅうねんじ))が設立された。明治10 ...

まつやましょうがっこう  豊橋市立松山小学校は,明治45(1912)年,校舎を豊橋市花田町間田(はざまだ)に建設し,狭間尋常小学校区のうち,牟呂用水以西の豊橋市中柴町・新川町新銭,花田町のうち小田原・松山・石田を校区とし,松山尋常小学校として分離独立(高等科は八町 ...

まつばづか  「松葉塚 附標石1基」2基10㎡(聖眼寺(しょうげんじ))は,昭和59(1984)年2月24日,豊橋市史跡に指定された。 聖眼寺(豊橋市下地町)の「松葉塚」は,松尾芭蕉(1644~94)の句碑で,旧碑と新碑の2基があり,旧碑は「松葉を焚て 手ぬくひあふる 寒さ哉」 ...

まつばちょう  松葉町は,吉田(豊橋)藩の下級武士の西組屋敷町で,御籏(みはた)組・普請組などがあった。明治11(1878)年11月20日の郡区町村編制に際しての町村分合の豊橋市街の町名改称に,一~三盤町・六軒町・西中町・南町・三籏(みはた)町が合併して豊橋松葉町となり ...

まつばしょうがっこう  豊橋市立松葉小学校は,明治26(1893)年4月,豊橋町立豊橋第三尋常小学校として,本校を西八町,分教場を船町に設置し,豊橋町船町・湊町・上伝馬町・松葉町などを校区として開校したことに始まる。明治30(1897)年1月,校舎を豊橋町松葉町に新築・ ...

まつばこうえん  松葉公園は,豊橋市萱町の市民センター(カリオンビル)北,面積5700㎡で,地下駐車場が設けられた都心部の公園である。戦災復興土地区画整理事業の一環として,昭和27(1952)年3月,児童公園として整備された。開園後,夜店会場・メーデーや豊橋まつりな ...

まちうら10かしょ  町裏10か所というのは,江戸時代末期に吉田(豊橋)町地と仁連木(にれんぎ)村・花ヶ崎村・羽田(はだ)村などとの接点にできた新興住宅地10か所である。 談合宮と中世古は安久美神戸(あくみかんべ)神明社の氏子で,現在の豊橋市談合町・中世古町である。野 ...

ぼらんてぃあじょうほうせんたー  豊橋市ボランティア情報センターは,平成13(2001)年5月,豊橋市松葉町二丁目の豊橋市民センター(カリオンビル)2階に開設された。床面積243㎡,設備はミーティングスペース,印刷機,裁断機,メールボックス,情報検索用パソコン,掲示 ...

ほどうきょう  豊橋市初の歩道橋は,昭和40(1965)年3月,豊橋市絹田町の松葉小学校近くの国道247号(国道23号 蒲郡街道)に,地元の寄付で架設(平成12年4月架け替え)された絹田歩道橋である。昭和40(1965)年3月,八町通二丁目の国道1号に公会堂前歩道橋が架設(平成9 ...

ぼしほけんせんたー  豊橋市母子保健センターは,平成9(1997)年母子保健法の改正により,母子保健事業が市へ移譲されたことにより,豊橋市松葉町三丁目に開設された。建物は旧豊橋市民病院の建物の一部(6階建て)の1・2階を使用して,妊産婦・乳幼児の健康診査,保健相 ...

ほうじょうちゅうがっこう  豊橋市立豊城中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,豊橋市立女子商業学校の一部を借用し,翌23(48)年1月,吉田(豊橋)城内の旧陸軍中部第百部隊の兵舎を校舎に,松葉小学校・八町小学校を校区とする豊橋市立中部第二中学校とし ...

ふるいち・もくだ(1727頃~1810)  古市木朶は,吉田(豊橋)で生まれた。父・古市猪左衛門とは2歳の時,母・よしとは7歳の時,死別した。そのため親戚の世話になり,14歳の時,犬山へ行って生業を習ったといわれる。20歳の時,名古屋の五条坊木児に入門して楚笠と名乗り, ...

ふくたに・すいちく(1787頃~1850)  福谷水竹は,吉田西町(豊橋市松葉町)の油屋で,福谷藤左衛門世黄(よつぎ)という吉田藩の御用達であった。赤守の号で狂歌を作っていたが,文政4(1821)年ごろから,岡崎の鶴田卓池(1768~1846)に,師事して俳諧を学んだ。 嘉永元 ...

ふくたに・けいきち(1819~89)  福谷啓吉は,文政2(1819)年7月,吉田(豊橋)萱町の秤屋福谷喜久蔵の子として生まれた。弘化元(1844)年ごろ,吉田西町(豊橋市松葉町)の福谷藤左衛門に従って京都に上り,宿泊した旅館の身寄りの者と長崎へ同行した。煙火を製造するこ ...

はなだしょうがっこう  豊橋市立花田小学校は,明治6(1873)年,羽田村・花ヶ崎村が共同で羽田村浄慈院に,第10中学区第4番小学幡太(はだ)学校として開校し,翌明治7(1874)年,校舎を長全寺に移転したことに始まる。明治13(1880)年,渥美郡第10番小学幡太学校・第11番 ...

はだまつり  羽田八幡宮(豊橋市花田町斎藤)の例祭は,豊橋市花田町のうち旧羽田村および豊橋市松葉町など20か町の氏子により奉斎される。乙女の舞・浦安の舞が奉納され,花神輿(はなみこし)・獅子舞が祭りに彩りを添える。宵祭りは,手筒・大筒花火が揚げられる。 - - ...

ばしょうくひ  江戸時代の元禄期を代表する俳人松尾芭蕉(1644~94)は,各地を旅して多くの名句を残している。吉田(豊橋)へも貞享4(1687)年に訪れていて,「松葉を焼て」の句や,「寒けれど」の句を詠んでいる。豊橋市内には12基の芭蕉句碑が建立されている。 「松葉 ...

はざましょうがっこう  豊橋市狭間尋常小学校は,明治42(1909)年4月,豊橋市花田町狭間に,花田尋常小学校区のうち東海道線以東(停車場・西宿・狭間・城海津・小田原・松山・石田),松葉尋常小学校区のうち松葉町(御旗・南町・栄町)・萱町・指笠(さしかさ)町・三浦町 ...

のむら・りゅうぞう(1928~45)  野村竜三は,昭和3(1928)年10月,豊橋市松葉町の商家に生まれた。松葉小学校から愛知県豊橋中学校に進み,小学校・中学校を通じて剣道部の猛者(もさ)であった。昭和18(1943)年ガダルカナル島撤退など戦局が悪化すると,中学校3年生であ ...

ぬかびる  額田銀行ビルは,昭和2(1927)年12月,豊橋市松葉町に額田銀行豊橋支店として建設された。鉄筋コンクリート造り5階建ては,豊橋市最初の高層ビルで「額ビル」と呼ばれ,第2次世界大戦後は激動の昭和を語る建物として市民に親しまれた。 昭和7(1932)年3月,津 ...

にっせきしんりょうじょ  日本赤十字社愛知県支部豊橋診療所は,豊橋市の実費診療設置計画により,田中平六の寄付金1万円を基金として,昭和3(1928)年豊橋市松葉西町の元豊橋病院跡に開所された。所長は陸軍二等軍医正柳沼信太郎であった。しかし,軽費診療を主眼とする市 ...

とよはし29ちょう  豊橋29町(明治11年)は,明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡曲尺手(かねんて)町・呉服町・三浦町・魚町・札木町(利(とぎ)町を合併)・本町(御輿休(みこしやすみ)町を合併)・上伝馬町(天王町を合併)・吉屋町(元鍛冶町が世古町を ...

とよはしちょう  豊橋町は,明治22(1889)年10月1日,町村制が施行され,船町・湊町・上伝馬町・八町・関屋町・本町・札木町・呉服町・曲尺手(かねんて)町・下町・鍛冶町・松葉町・萱町・花園町・三浦町・指笠町・新銭町・魚町・紺屋町・神明町・清水町・手間町・吉屋町の2 ...

とよはししりつかんごせんもんがっこう  豊橋市立看護専門学校は,大正14(1925)年4月,社団法人豊橋病院により開設された豊橋看護婦講習所に始まる。昭和7(1932)年6月豊橋病院が豊橋市に移管され,看護婦講習所も引き継がれた。昭和12(1937)年8月,豊橋市立豊橋病院附 ...

とよはしこうとうしょうがっこう  高等小学豊橋学校は,明治14(1881)年10月,八町の旧藩校跡に創立された。明治19(1886)年4月の小学校令によって,尋常小学校4年(義務教育4年)・高等小学校4年となった。明治20(1887)年4月,渥美郡立渥美郡高等小学校と改称し,翌21 ...

とよはしいくじいん  豊橋育児院は,明治28(1895)年,渥美郡花田村稗田に開設した東海育児院を端緒に始まる。明治33(1900)年12月,経営難のため東三河仏教会に委任し,16人の児童は称名院に移った。明治38(1905)年5月,青山衝天が経営に参加し,豊橋市が補助金を交付 ...

とくていゆうびんきょく  特定郵便局は,「全国郵便局沿革録」明治篇・「三河三等局長会沿革誌」「東海地方特定郵便局長会史」によれば,二川(明治4年)・高塚(明治9年,同42年高豊と改称)・大津(明治9年,同14年老津と改称),高井(明治9年,同12年玉川と改称,同42年石 ...

ときわぱれっと  ときわパレットは,株式会社豊橋まちなか活性化センターが,平成13(2001)年度から開始した商業インキュベータ事業である。この事業は,豊橋市松葉町のときわアーケードの空き店舗を同センターが借り上げ,改装費や家賃などの負担を軽減させてテナントに転 ...

ときわどおりのかさい  ときわ通りの火災は,昭和42(1967)年5月4日午後1時15分ごろ,パチンコ店「豊橋ゲームセンター」を火元として起きた。火は,同店を焼いて2階づたいに喫茶店「三鈴」と「精文館書店」へと延焼し,さらに「ワルツ商会」「第一ホール」「パチンコ八千 ...

ときわどおり  常盤通りは,豊橋市広小路一丁目の「広小路」より同松葉町一丁目(城海津跨線橋の延長道路)までの豊橋市道(松葉町・広小路8号線)の商店街の通りである。 明治21(1888)年9月1日,東海道線豊橋停車場の開業により豊橋上伝馬町から停車場までの延長330間・ ...

ちゅうぶちゅうがっこう  豊橋市立中部中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,豊橋市立中部第一中学校として豊橋国民学校(単独高等科)の校舎を引き継いで,新川小学校・松山小学校・狭間小学校(昭和24年12月廃止され,城海津を松葉小学校区としたほかは松山 ...

ちゅうしゃじょう  公共駐車場は,急激な交通量の増加で市街地の駐車場需要量増加に伴い建設された。昭和44(1969)年8月,豊橋市駅前大通の地下に豊橋市公共駐車場(「第1駐車場」80台収容,昭和53年73台増設,「第2駐車場」144台)を建設した。昭和47(1972)年10月,豊橋 ...

たいようこうべぎんこう  昭和24(1949)年6月,日本無尽株式会社が飯田支店豊橋会場を豊橋市花田町守下に設置し,翌25(50)年3月豊橋支店とした。昭和26(1951)年6月豊橋市松葉町の額田ビルに移転した。昭和26(1951)年10月に日本相互銀行と商号を変更し,同41(66)年 ...

だいしょうじ  明王山大聖寺(真言宗醍醐派)の創立は,阿遮羅院栄伝法印である。永正元(1504)年で,開山は宝飯郡篠束村(宝飯郡小坂井町)にあったが,天正4(1576)年吉田(豊橋)守上(豊橋市松葉町称名院門前の道路を隔てた東側の丘稜地)に移転した。 大聖寺ははじ ...

たいしゅうげきじょう  大衆劇場は,大正10(1921)年,広小路(豊橋市松葉町)に錦正館(大正15年錦館と改称)が設立されたことに始まる。昭和12(1937)年,大衆新聞社主高崎信吉が経営者となり,大衆劇場と改称し,洋画専門館となった。昭和20(1945)年6月の空襲によっ ...

だいげき  大劇は,昭和21(1946)年,豊橋市松葉町に映画と実演が可能な娯楽施設として足木興業によって建設された。木造2階建て800人収容の大劇場で,有名歌手のショー,女剣劇などの実演も行われた。昭和28(1953)年から映画上映のみの営業で,洋画が主体で,隣接するメ ...

しんちょうほう  「新朝報」は,明治35(1902)年9月28日に豊橋で発刊された日刊紙で,4ページだて。購読料は1部1銭,月ぎめは1か月15銭であった。新朝報の前身は,明治33(1900)年11月に朝倉幾太郎が発行した「めざまし新聞」であった。毎月3回の発行であったが,明治34( ...

しらい・ばくせい(1907~2004)  白井麦生,本名一二は,明治40(1907)年5月4日,豊橋市船町の白井倉吉の末子に生まれた。生後すぐに,父の弟・白井卯一の養嗣子となった。昭和4(1929)年東洋大学専門部文学科を卒業し,豊橋商業学校・松葉尋常小学校・豊橋高等家政女学 ...

しょうみょういん  三社山称名院(浄土宗)の創立は,寛永19(1642)年で,開山は悟真寺第24世典誉上人,本尊は阿弥陀如来像である。境内は吉田神社の神職石田式部屋敷の一部で,山号三社山は,神明,白山,天満天神の三社によっての命名で,この三社は創立当初から祀られて ...

しょうこうひんちんれつかん  豊橋商工品陳列館は,明治33(1900)年6月,豊橋実業談話会会頭遠藤安太郎が設立を企画,同35(02)年5月完成,館長遠藤安太郎の名で竣工式案内状を送り,資本金2万円で商工品陳列所と集会場を併設したことに始まる。 明治35(1902)年6月,株 ...

しょうこうちゅうきん  商工組合中央金庫は,昭和11(1936)年11月,商工組合中央金庫法によって,政府が中小企業の組合とともに共同出資して設立された政府系金融機関である。昭和46(1971)年5月,豊橋支店が豊橋市松葉町三丁目に開設された。 - - 豊橋市議の長坂です ...

しょうげんじ  聖霊山聖眼寺(真宗高田派)は,平安時代に慈覚大師の創立した天台宗の寺で八名郡八名井郷吉祥山麓(新城市)にあった。嘉禎元(1235)年住持行円が浄土真宗の開祖親鸞聖人に面謁(めんえつ)し,真宗に改宗し,下地(豊橋市下地町北村)の地に寺を移し,慶長9 ...

しゅぞう  酒造業は,味噌・醤油などと並んで明治期から,豊橋の代表的な食料品工業であった。明治34(1901)年に,永井仙十が中心となって,宝飯・渥美・南設楽(したら)3郡の酒造業者25人を集めて,東三酒造組合を設立した。東三酒造組合は,当初事務所を宝飯郡下地町(豊 ...

しゃかいほけんじむしょ  愛知県豊橋社会保険事務所は,昭和10(1935)年5月1日に,豊橋市松葉町のエビスヤ百貨店跡に豊橋健康保険出張所として,三河部を管轄区域に発足した。昭和11(1936)年には,豊橋市花田町松山に庁舎を新築移転した。昭和14(1939)年には,西三河 ...

しもじむら  下地はもと下河地と称したが,応永年間(1394~1427)に下地と改めたとされる。宝飯郡下地村の村高は「三河国村々高附」(寛永期)に1179石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分1127石余,聖眼寺領15石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば ...

しみんびょういん  豊橋市民病院は,明治21(1888)年6月,豊橋松葉町地内に開院した私立豊橋慈善病院に始まる。明治35(1902)年6月,社団法人豊橋市民病院に改称した。昭和7(1932)年6月,豊橋市が豊橋病院を買収(敷地面積4400坪,建物面積1600坪,買収費19万5000円)し ...

しでんのていりゅうじょ  豊橋鉄道市内線の停留所は,大正14(1925)年の開業から現在まで,路線の廃止などにより,多くの停留所が開業,廃止された。市民病院前(昭和27年 開業,同44年 休止,同48年 廃止)城海津(昭和27年 開業,同44年 休止,同48年 廃止)駅前(大正14 ...

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