ろうどうきじゅんかんとくしょ 豊橋労働基準監督署は,昭和22(1947)年9月,労働省設置法により,豊橋市中八町(旧歩兵第18聯隊兵舎)に開設された。当初の管轄区域は豊橋市・豊川市・宝飯郡・渥美郡・八名郡であった。その後,新城や蒲郡労働基準監督所の統合により,北 ...
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吉田三名水 とは(豊橋百科事典より)
よしださんめいすい 吉田三名水は,山田宗へん(1627~1708)が愛用した「栄川の泉」「御坊の井」「呉竹の井」をいう。「栄川の泉」は,羽田(はだ)八幡宮(豊橋市花田町斉藤)の北側にあった。山本貞晨(ていしん)の「三河国吉田名蹤綜録」(文化3年)には「昔日,松平豊洲 ...
唯心寺(豊橋市東松山町) とは(豊橋百科事典より)
ゆいしんじ 久遠山唯心寺(真宗大谷派)の創立は,元和3(1617)年で,開山は尊誉法師である。寺伝によると尊誉法師は九州島原の城主(城主の弟,または城主家臣とも伝えられている)で,キリシタンであったために弾圧を受け,三河国深溝村(額田郡幸田町深溝)に逃れた。 ...
柳生橋駅(豊橋市南松山町) とは(豊橋百科事典より)
やぎゅうばしえき 豊橋鉄道渥美線柳生橋駅は,大正14(1925)年5月1日に,渥美電鉄高師口~新豊橋(花田)間の開業により,新豊橋~小池間(新豊橋起点1.0㎞)に開業した。昭和59(1984)年2月1日に,貨物取扱を廃止,12月20日に乗降場を改良(高さ1100㎜)・ホーム上屋 ...
明生会館(豊橋市東松山町) とは(豊橋百科事典より)
めいせいかいかん 明生会館は,昭和43(1968)年10月,社会福祉法人愛知県盲人福祉連合会によって,豊橋市東松山町の社会保険事務所跡に設立された。会館には,点字図書館と盲人ホームの2施設が設置されている。 点字図書館では,普通の活字本の0.5%しか点字化されていな ...
みなと大通り とは(豊橋百科事典より)
みなとおおどおり みなと大通りは,豊橋市が道路愛称「みなと大通り」として,平成2(1990)年に認定した道路である。豊橋市中柴町の国道259号(田原街道)から,豊橋市道(大国町・往完町1号線)で豊橋環状線(愛知県道502号)と交差して豊橋港線(愛知県道393号)となり ...
松山神社(豊橋市西松山町) とは(豊橋百科事典より)
まつやまじんじゃ 松山神社は,享禄元(1528)年,今川氏の三河十七騎の一人である渥美順慶がこの地(渥美郡花ヶ崎村東郷)に牛頭(ごず)天王を勧請したといわれる。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,花ヶ崎村「牛頭天王,祢宜清次郎」とある。明暦3(1657)年,この ...
松山小学校(豊橋市西松山町) とは(豊橋百科事典より)
まつやましょうがっこう 豊橋市立松山小学校は,明治45(1912)年,校舎を豊橋市花田町間田(はざまだ)に建設し,狭間尋常小学校区のうち,牟呂用水以西の豊橋市中柴町・新川町新銭,花田町のうち小田原・松山・石田を校区とし,松山尋常小学校として分離独立(高等科は八町 ...
捕虜収容所 とは(豊橋百科事典より)
ほりょしゅうようじょ 日清戦争の捕虜で内地収容の者は,将校以下1004人に及び,11か所に約100人ずつ収容した。豊橋では竜拈寺(りゅうねんじ)の羅漢堂に収容され,豊橋市民が弁髪の中国人を見物に行き,筆談したなどの記録がある。日清講和条約成立後,明治28(1895)年8月 ...
保健所(豊橋市富本町国隠(くにかくし)) とは(豊橋百科事典より)
ほけんじょ 豊橋市保健所は,昭和18(1943)年,愛知県豊橋保健所として,豊橋市花田町寺東に木造平屋建て495.87㎡の庁舎を建設し,愛知県豊橋健康相談所(豊橋市西新町)を合併して発足した。開設時の所管区域は東三河一円であったが,昭和19(1944)年,豊橋市を中心とし ...
花田小学校(豊橋市西羽田(はだ)町) とは(豊橋百科事典より)
はなだしょうがっこう 豊橋市立花田小学校は,明治6(1873)年,羽田村・花ヶ崎村が共同で羽田村浄慈院に,第10中学区第4番小学幡太(はだ)学校として開校し,翌明治7(1874)年,校舎を長全寺に移転したことに始まる。明治13(1880)年,渥美郡第10番小学幡太学校・第11番 ...
花田跨線橋(東海道本線・渥美線) とは(豊橋百科事典より)
はなだこせんきょう 花田跨線橋は,豊橋市道(大国町・往完町1号線・みなと大通り)が豊橋市西松山町と同花田町大山塚間の東海道本線(東京起点293.0㎞)・豊橋鉄道渥美線(豊橋起点0.5㎞)に,昭和11(1936)年6月25日,道路幅員27m(上下4車線)で完成し,平成2(1990) ...
花ヶ崎村 とは(豊橋百科事典より)
はながさきむら 花ヶ崎の地名は,入り海に突き出た鼻ヶ崎を意味するという。渥美郡花ヶ崎村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に730石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分1004石余,正林寺領3石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数148,人 ...
狭間小学校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
はざましょうがっこう 豊橋市狭間尋常小学校は,明治42(1909)年4月,豊橋市花田町狭間に,花田尋常小学校区のうち東海道線以東(停車場・西宿・狭間・城海津・小田原・松山・石田),松葉尋常小学校区のうち松葉町(御旗・南町・栄町)・萱町・指笠(さしかさ)町・三浦町 ...
野田処理場(豊橋市野田町・三ッ相(みつあい)町) とは(豊橋百科事典より)
のだしょりじょう 豊橋市下水道野田処理場は,昭和6(1931)年6月,豊橋市議会が下水道築造事業を議決,4排水区(八町・松山・船町・北島)の汚水と雨水を処理するため,同8(33)年10月豊橋市野田町・三ッ相町に汚水処分場と併設ポンプ場の築造に着工した。昭和10(1935) ...
二宮金次郎像(豊橋市立前芝小学校) とは(豊橋百科事典より)
にのみやきんじろうぞう 第2次世界大戦前,多くの小学校には二宮金次郎(尊徳)像が建立された。豊橋市立前芝小学校の像は全国でその第1号といわれている。大正13(1924)年1月26日,皇太子の御成婚記念として,前芝村(豊橋市前芝町)の加藤六蔵が寄贈したものである。像 ...
豊橋鉄道(豊橋市南松山町) とは(豊橋百科事典より)
とよはしてつどう 豊橋鉄道株式会社は,豊橋電気軌道株式会社が豊橋乗合自動車株式会社・田口鉄道株式会社を合併し,渥美線を名古屋鉄道株式会社より譲受して成立した。 豊橋電気軌道は,大正13(1924)年3月17日会社創立,翌14(25)年7月14日豊橋駅前~赤門間開業,同14 ...
「豊橋市下水道誌」(豊橋市役所編) とは(豊橋百科事典より)
とよはししげすいどうし 「豊橋市下水道誌」(豊橋市役所 昭和11年)は,豊橋市下水道の昭和6(1931)年11月1日の起工式から同11(36)年3月25日の竣工式に至る豊橋市下水道築造の記録である。 豊橋市下水道は合流式下水道で,豊橋市街を八町・松山・船町・東田・花田・ ...
豊橋高等小学校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
とよはしこうとうしょうがっこう 高等小学豊橋学校は,明治14(1881)年10月,八町の旧藩校跡に創立された。明治19(1886)年4月の小学校令によって,尋常小学校4年(義務教育4年)・高等小学校4年となった。明治20(1887)年4月,渥美郡立渥美郡高等小学校と改称し,翌21 ...
豊鉄(とよてつ) とは(豊橋百科事典より)
⇒ 豊橋鉄道(豊橋市南松山町) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと の ...
常盤座 とは(豊橋百科事典より)
ときわざ 常盤座は,明治の後期,地元の有志により,豊橋市花田町東郷(南松山町)に建てられた劇場である。向かい側には門口の狭い茶店が4軒並んでいたということである。長続きせずに大正の初期に身売りし,建物は船で姫路へ運ばれたといわれている。 - - 豊橋市議の ...
「東日新聞」(新聞) とは(豊橋百科事典より)
とうにちしんぶん 東日新聞は,昭和23(1948)年8月15日第2次世界大戦後の豊橋地方最初の日刊新聞「東三新聞」として,杉田英一郎(有窓子・杉八代表取締役)により創刊された。タブロイド判2ページだった。中部100部隊(歩兵第18聯隊)兵舎の一隅を借りてスタートしたが, ...
つつじが丘小学校(豊橋市佐藤五丁目) とは(豊橋百科事典より)
つつじがおかしょうがっこう 豊橋市立つつじが丘小学校は,平成7(1995)年4月,豊橋市佐藤町東谷に岩西小学校校区の佐藤町・東三ノ輪町・雇用促進佐藤団地,栄小学校区の山田町(東海道線以北),松山小学校区の花田町土亀,向山小学校校区の佐藤町の才ノ神団地を校区とし ...
中部中学校(豊橋市舟原町) とは(豊橋百科事典より)
ちゅうぶちゅうがっこう 豊橋市立中部中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,豊橋市立中部第一中学校として豊橋国民学校(単独高等科)の校舎を引き継いで,新川小学校・松山小学校・狭間小学校(昭和24年12月廃止され,城海津を松葉小学校区としたほかは松山 ...
千体骨地蔵(民話) とは(豊橋百科事典より)
せんたいこつじぞう 筑前芦屋(福岡県遠賀郡芦屋)で源平の戦いが繰り広げられた。戦いは源氏の勝利に終わり,平家の大将・原田次郎種猶は捕らえられ,鎌倉に送られ土牢(つちろう)に閉じ込められていた。原田種猶の妻・栄燿尼は,逃げのびた先で男の子,花若丸を産んだ。13 ...
新川小学校(豊橋市前田中町) とは(豊橋百科事典より)
しんかわしょうがっこう 豊橋市立新川小学校は,明治34(1901)年4月,豊橋町新川字市南の竜拈寺(りゅうねんじ)前に豊橋町立南部尋常小学校(高等科は八町高等小学校に通学)として新設された。豊橋町呉服町・吉屋町・手間町・魚町・紺屋町・中世古町・神明町・清水町・花 ...
白井鉄造 とは(豊橋百科事典より)
しらい・てつぞう(1900~83) 白井鉄造は,明治33(1900)年4月6日,静岡県周智郡犬居村(周智郡春野町)に生まれた。父親は豊橋市松山町の住人であった。本名虎太郎といい,小学校を卒業し,大正2(1913)年浜松市船越町にある会社に入社した。大正5(1916)年上京して, ...
正林寺(豊橋市南松山町) とは(豊橋百科事典より)
しょうりんじ(まつやま) 飽海山(橋北山)正林寺(曹洞宗)の創立は,弘長2(1262)年平重盛の養女栄耀尼(えいように)により創建された臨済宗寺院である。千体骨地蔵尊を本尊とする。正林寺の縁起(えんぎ)には「栄耀尼は,筑紫の地頭原田種猶に嫁し,一子花若丸を得た。 ...
松操女学校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
しょうそうじょがっこう 豊橋松操裁縫女学校は,明治40(1907)年9月,中野彦助が豊橋市花田字松山に設立(本科2年・実科1年・師範科2年)された。昭和15(1940)年4月,財団法人松操高等女学校を設立し,高等女学校,裁縫女学校の二本立てとし,同15(40)年11月,豊橋市 ...
17人の郷士 とは(豊橋百科事典より)
17にんのごうし 戦国時代には多くの郷士が東三河に土着し,多くの郷村が成立した。林自見「三州吉田記」に「是時東三河有十七人郷士」とあり,今橋城を守る今川方の17人の郷士がいたことを記している。① 戸田惣兵衛は,二連木(にれんぎ)にいた。② 石田式部は代々,吉田 ...
社会保険事務所(豊橋市菰口町三丁目) とは(豊橋百科事典より)
しゃかいほけんじむしょ 愛知県豊橋社会保険事務所は,昭和10(1935)年5月1日に,豊橋市松葉町のエビスヤ百貨店跡に豊橋健康保険出張所として,三河部を管轄区域に発足した。昭和11(1936)年には,豊橋市花田町松山に庁舎を新築移転した。昭和14(1939)年には,西三河 ...
清水製糸 とは(豊橋百科事典より)
しみずせいし 清水製糸は,明治33(1900)年に清水熊太郎(1875~1960)が親戚筋と共同で始めた製糸場である。清水熊太郎は明治37(1904)年に神戸村(田原市)に敷地300坪(後に3000坪となる)・44釜の玉糸工場をつくったが,大正3(1914)年豊橋へも進出し,豊橋市花田町 ...
清水熊太郎 とは(豊橋百科事典より)
しみず・くまたろう(1875~1960) 清水熊太郎は,明治8(1875)年4月25日,渥美郡田原村(田原市田原町)の清水梅助の長男として生まれた。明治30(1897)年海産物商を開業,同33(1900)年神戸村(田原市神戸町)に玉糸製糸業を開業した。大正3(1914)年豊橋市花田町( ...
市電の停留所 とは(豊橋百科事典より)
しでんのていりゅうじょ 豊橋鉄道市内線の停留所は,大正14(1925)年の開業から現在まで,路線の廃止などにより,多くの停留所が開業,廃止された。市民病院前(昭和27年 開業,同44年 休止,同48年 廃止)城海津(昭和27年 開業,同44年 休止,同48年 廃止)駅前(大正14 ...
時習館高等学校(豊橋市富本町国隠(くにかくし)) とは(豊橋百科事典より)
じしゅうかんこうとうがっこう 愛知県豊橋中学校は,昭和23(1948)年4月,6・3・3制移行に伴い,愛知県立豊橋高等学校となる。昭和23(1948)年10月,愛知県立豊橋時習館高等学校と改称した。昭和24(1949)年4月,男女共学・小学区制・総合制の高等学校再統合が行われた ...
西光寺(豊橋市大手町) とは(豊橋百科事典より)
さいこうじ 日東山西光寺(曹洞宗)は慶長6(1601)年,竜拈寺(りゅうねんじ)2世祖庵英彭和尚の開創と伝えられている。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,馬見塚村「禅宗,手間町,日東山西光寺,吉田竜拈寺末寺,平僧,客殿五間・四間,寺領三石目,伊奈備前守様御 ...
寿座 とは(豊橋百科事典より)
ことぶきざ 寿座は,明治44(1911)年,松山(豊橋市松山町)の牧野米作によって豊橋市清水町(広小路)に設立された。建坪40坪で,落語・漫才・曲芸など大衆娯楽の場として市民に親しまれた。設立以来,経営者は次々と代わった。大正13(1924)年には,蝶春座と改称された ...
黒福公園(豊橋市東松山町) とは(豊橋百科事典より)
くろふくこうえん 黒福公園は,昭和27(1952)年3月1日,東松山町に0.4haの面積を持つ公園として開設された。平成10(1998)年3月に,豊橋市の緑のリニューアル事業で計画段階から地域住民が参加する「市民参加型」の公園として再整備した。周囲のフェンスを取り除き景観を ...
火葬場(豊橋市飯村町北池上) とは(豊橋百科事典より)
かそうば 豊橋の火葬場は,江戸時代には渥美郡花ヶ崎村寺東(豊橋市東松山町)にあった。明治28(1895)年ごろ,花田村妙立寺(豊橋市前田南町)に移転した。明治39(1906)年,若葉式火炉10基を備えた豊橋市営火葬場が向山町西猿に設置された。昭和7(1932)年11月には, ...
岩西小学校(豊橋市西口町西ノ口) とは(豊橋百科事典より)
いわにししょうがっこう 豊橋市立岩西小学校は,昭和25(1950)年9月,旧陸軍豊橋第二予備士官学校の一部(豊橋市西口町西ノ口)を校舎として,岩田小学校分校として開設された。翌昭和26(1951)年,岩田小学校区の飯村(いむれ)町・岩西町・西口町・東幸(ひがしみゆき)町 ...
朝市 とは(豊橋百科事典より)
あさいち 豊橋の朝市は,大正13(1924)年に豊橋市農会が豊橋別院裏の萱町線に農産物販売斡旋(あっせん)所を開設したのが始まりである。昭和6(1931)年東田(あずまだ)の前畑通りに三八(さんぱち)の市(毎月3と8の日),翌7(32)年から羽田八幡社境内の一五の市(毎月1と ...