愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:杉山

やくしじ(すぎやま)  瑠璃山薬師寺(曹洞宗)の創立は不明であるが,「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,杉山村「薬師堂,弐間半・弐間,右永福寺支配」とある。薬師堂開山は岡崎竜海院第13世深岸宗雪和尚と伝えられ,元禄13(1700)年・文化9(1812)年再建された。 ...

もり・ぎょうすけ(1825~98)  森暁助は,文政8(1825)年11月20日,渥美郡越戸村(田原市越戸町)の農業孫兵衛の2男に生まれた。吉田(豊橋)の鍛冶屋に奉公したが,天保8(1837)年12歳の時,吉田藩神道無念流師範亀井六五左衛門の弟子となった。天保12(1841)年,江戸 ...

むかいやま  豊橋市向山町は,江戸期の仁連木(にれんぎ)村分地である。仁連木村の中央の東海道に沿った所に瓦町村が成立したのは,寛文4(1664)年で,その時,仁連木村分地となったものとされる。 仁連木村の村高は寛永期(1624~44)「三河国村々高附」に1096石余とある ...

みかわこうおおはし  三河港大橋は,豊橋渥美線(愛知県道2号)の豊橋市杉山町と田原市緑が浜間の田原湾(汐川河口)に,昭和57(1982)年7月15日,橋長1780m・各幅員10.0m(上下4車線)で完成した橋である。この橋の完成により,豊橋市街地と田原および渥美各地域との通行 ...

ほうりんじ  大徳山宝林寺(曹洞宗)の創立は,応永3(1396)年で後方の山上にあったと伝わる。元来は六連(むつれ)(田原市)の長仙寺末の真言寺院であったが,後に元今川家家臣一乾徳公座元が開基として再興改宗したものとされる。元禄16(1703)年庸山仲公和尚の時,法地 ...

ふゆのひづか  冬の日塚は,豊橋市杉山町の宝林寺にある芭蕉の句碑で,「冬の日や 馬上に氷る 影法師」と刻まれている。昭和56(1981)年10月に建立されたもので,碑は高さ111㎝・幅155㎝の自然石である。句は,貞享4(1687)年,芭蕉44歳,天津縄手(豊橋市杉山町)で詠 ...

びさんそくりょうにっき  「尾三測量日記」(愛知県郷土資料刊行会 昭和56年)は,享和3(1803)年,伊能忠敬(1745~1818)が第4次測量として江戸を出発し,駿河から三河,尾張,美濃,越前などを測量した日記から,三河,尾張の部分を抜き書きしたものである。 下細谷村 ...

はちまんしゃ(すぎやま)  (杉山)八幡社は,元久2(1205)年の創建で,杉山郷七村の総氏神である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,杉山村「八幡宮,神主市太夫」とある。「三河国二葉松」(元文5年)に,「杉山村八幡,社領三石,神主中神市太郎,同村,除地五 ...

ばしょうくひ  江戸時代の元禄期を代表する俳人松尾芭蕉(1644~94)は,各地を旅して多くの名句を残している。吉田(豊橋)へも貞享4(1687)年に訪れていて,「松葉を焼て」の句や,「寒けれど」の句を詠んでいる。豊橋市内には12基の芭蕉句碑が建立されている。 「松葉 ...

のうきょう  農業協同組合(以下農協)は,昭和23(1948)年,それまでの農業会が解散して農業協同組合法に基づき,信用・購買・販売・加工・共同施設・福利厚生施設・技術指導などを主な事業内容として発足した。豊橋市内には27の農協と14の開拓農協があったが,昭和42(19 ...

にしなんだいいせき  西南代遺跡は,豊橋市杉山町西南代にあった縄文時代早期から中世までに断続的に営まれた遺跡である。遺跡は紙田川と蜆川に挟まれ,渥美湾に向かって伸びる台地の先端に位置している。標高は23mで,台地下の水田面とは約17mの比高差がある。平成10(1998 ...

にしおか・てんしん(?~1817)  西岡天津は,天津新田(豊橋市杉山町)に生まれた。通称を善助,名を淵,字(あざな)を於菟といった。学才を見込まれて,吉田(豊橋)藩山方同心西岡谷八の養子となり,郷同心を勤め,そのかたわら藩校時習館教授飯野柏山に従って学問に励ん ...

とよはしのきょくてん  極点とは,これ以上は先がない一番端の地点で,豊橋市域の陸地における東・西・南・北の端の地点と,最高地点・最低地点がある。豊橋市の最東地点は豊橋市石巻中山町大沢の北緯34°49′10″・東経137°30′17″(静岡県三ヶ日町との境)の地点,最西 ...

とよはしじいんし  「豊橋寺院誌」(豊橋仏教会 昭和34年)は,昭和28(1953)年豊橋仏教会総会において企画され,同34(59)年に刊行された。内容は,豊橋市内に現存する200か寺と廃寺61か寺についての創立・沿革・文化財(宝物),事業(幼稚園)などを,さまざまな資料 ...

とよはしし  明治22(1889)年10月1日の町村制施行により豊橋市街23町が渥美郡豊橋町となった。明治28(1895)年2月25日,豊橋町(25大字)は豊橋村(9大字)を合併した。明治39(1906)年7月16日,豊橋町(34大字)・花田村(1大字)・豊岡村(6大字)は合併して豊橋町(41 ...

でんわきょくばん  豊橋の電話が自動開局(4桁のダイヤル式)したのは,昭和6(1931)年3月29日である。大正15(1926)年,東京・横浜,昭和3(1928)年,大阪・京都・神戸・名古屋に自動交換式の電話が登場した。豊橋と姫路が軍都として選ばれた。しかし,自動改式は豊橋だ ...

ちょうそんがっぺい  明治以後の市町村の歴史は合併の歴史である。明治11(1878)年12月20日郡区町村編制が行われ,戸長を置いた。明治11(1878)年12月28日町村分合を行った。明治9(1876)年2月14日愛知県令の通達は,一定の行政水準を維持するに足る費用負担と地租改正の ...

ちょうけいじ  布金山長慶寺(曹洞宗)の開基は,第83代土御門天皇(在位1198~1210)の皇子弘仁太子で,貞応元(1222)年杉山で亡くなったので,陵墓を守護するために開創されたと伝わる。六連(田原市)長仙寺末の真言宗ではなかったかとされる。その後,今川氏の代官杉浦 ...

ちくしみんかん  豊橋市地区市民館は,昭和47(1972)年3月,豊橋市社会教育審議会が行った「豊橋市における社会教育施設の適正な配置・規模および望ましい運営について」の建議を受け,年次計画で各中学校区に地区市民館(各小学校区には校区市民館)の建設を決定着工した ...

だいねんぶつ  嵩山(すせ)の大念仏は,豊橋市嵩山町のうち旧嵩山村であった藤薮・中村・市場・湯巻の各地区に伝承された念仏踊りである。旧盆の14日または15日の夜,集落内で初盆を迎える家を訪れて庭先で念仏踊りを供養し,16日に檀那寺(だんなでら)の正宗寺本堂前で興行す ...

だいこんながし  江戸時代,吉田(豊橋)の宿に真田麻紐(さなだあさひも)づくりで生計をたてる男が住んでいた。男はひどい喘息(ぜんそく)に悩まされていた。ある年の12月12日の夜,真田幸村公が夢枕に立ち,「天水と地水が交わり,その川が真北に流れ,橋が二か所あって海に ...

そうごうかいはつきこう  総合開発機構は,昭和43(1968)年8月,開発ビルに愛知県・豊橋市・中部電力・名古屋鉄道などが出資し,第三セクターとして設立された。その主な事業は,埠頭(ふとう)・港湾諸施設の運営・臨海工業団地の分譲・住宅用地の造成分譲およびビル管理運 ...

ぜんぷくじ  竜香山全福寺(曹洞宗)は,もと六連(むつれ)(田原市)長仙寺末の真言寺院で,北方200mあまりの山麓にあったが,岡崎竜海院の開山模外惟俊和尚(?~1541)が,曹洞宗に改宗再興して末寺とした。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,杉山村「竜香山全福寺 ...

すずがも  スズガモ(カモ科)は,海ガモの一種で,翼長は20㎝ほどあり,漢字で書くと「鈴鴨」である。水面からいっせいに飛び立つとき,羽音が鈴を振るような音に聞こえるところから,スズガモと名づけられたという。オスは,頭は緑色光沢のある黒で,胸と尾も黒い。背は白 ...

すぎやまむら  明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡杉山村・神吉新田・谷熊村は合併して杉谷村と改称した。明治17(1884)年8月11日,杉谷村は分離して杉山村・谷熊村となり,同22(89)年10月1日,町村制が施行された。明治39(1906)年9月10日,杉山村 ...

すぎやまむら  渥美郡杉山村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に1736石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分1820石余,八幡社領3石,長慶寺領3石,全福寺領3石,中野弥治右衛門除地5石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数256,人数1252であ ...

すぎやまぶんこう  杉山分校は,昭和24(1949)年2月,愛知県立成章高等学校定時制課程(普通課程)の分校として,杉山村立杉山中学校内に設置された。昭和27(1952)年3月,生徒数減少のため閉校した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがと ...

すぎやまちゅうがっこう  杉山村立杉山中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴って,旧杉山青年学校の校舎を使って,杉山小学校を校区として開校(六連(むつれ)分校は六連小学校の校舎を使って,六連小学校を校区として発足,昭和36年田原町東部中学校に合併)した ...

すぎやましょうがっこう  豊橋市立杉山小学校は,明治6(1873)年10月,第10中学区第16番小学杉山学校として杉山村松岡の宝林寺に,杉山村を校区として発足したことに始まる。明治14(1881)年,杉谷村孝仁の長慶寺に移転した。明治21(1888)年7月,杉山村立杉山尋常小学校 ...

すぎやまじょう  杉山城は,位置が特定できない城の一つである。「杉山村誌」などから宝林寺(豊橋市杉山町)とその付近が城址(じょうし)で,規模は約55m×45m程度とされている。また,殿村,城山などの地名を今に残している。築城時期は不明である。「三河国二葉松」(元 ...

すぎやまえき  豊橋鉄道渥美線杉山駅は,大正13(1924)年1月22日に,渥美電鉄高師~豊島(としま)間の開業により,老津~谷熊(やぐま)間(新豊橋起点12.7㎞)に開業した。昭和42(1967)年10月1日に貨物取扱を廃止,同44(69)年4月20日に無人化となる。平成4(1992)年12月 ...

しょうなんちゅうがっこう  豊橋市立章南中学校は,昭和35(1960)年4月,老津中学校・杉山中学校を統合して,老津小学校・杉山小学校を校区として発足した。昭和36(1961)年4月,杉山校舎は老津校舎に統合し,同36(61)年11月,校舎の鉄筋化が完成した。平成17(2005)年 ...

じょうしんじ  一葉山常心寺(曹洞宗)の創立は,寛文3(1663)年で,開基は天津(あまづ)新田(豊橋市杉山町)の開発者牧野氏で,はじめは杉山長慶寺の支配であったが,後に竜拈寺(りゅうねんじ)末となり,竜拈寺第18世法運義官和尚(?~1731)を開山に請した。「三州吉田 ...

しでこぶし  シデコブシ(モクレン科)は,落葉中木である。高さは3~4m程度で,つぼみは白い毛皮状の苞(ほう)に包まれている。花は3月末に咲き,直径10㎝程度あり,花弁が多数出るが,その枚数は決まっていない。色は多様で白からピンクまである。庭に植栽し,ヒメコブシと ...

さつじゅんいん  古杉山察順院(浄土宗)の創立は,大正7(1918)年で,開山は豊橋市花田町石塚(豊橋市大橋通一丁目)清源寺住職察順上人,本尊は阿弥陀如来像である。はじめ浄土宗の一私庵であったが,その後,額田郡河合村古部(こぶ)(岡崎市古部町)より明善尼を迎え庵 ...

さかいばし  境橋は,東海道(旧国道1号)で,現在の湖西東細谷線(愛知・静岡県道173号)が境川(三河国と遠江国の国境)を横切るところに架けられた橋である。古くから,境川・境橋は文書に登場し,「東海道名所記」に「境橋,これ三川・遠江のさかひ橋也,橋のしたハ小 ...

ごひんさま  三河湾沿岸などに夜出没する火の玉のことを,昔の人々は御賓様とか狗賓(ぐひん)様と呼んで恐れていた。ある日,大津(豊橋市老津町)の海を漁師がモク(藻草のこと,老津や杉山の人々は,昭和の20年代まで海に出てモクを採り,牛糞(ぎゅうふん)や藁(わら)を混ぜ ...

こうせきだいち  洪積台地は,更新世(約170万年前~1万年前)に形成された地層からなる台地である。一般的には沖積平野または海と山地との中間に分布する。豊橋では,豊川(とよがわ)左岸に河岸段丘として広く分布している。その下位段丘は豊橋段丘と称され,豊橋市街地の ...

けいせいづか  杉山村(豊橋市杉山町)の地先海面の新田開拓,堤塘(ていとう)工事を尾張藩士竹腰三信が行っていた。最終の澪止(みおど)めに失敗を重ね,竹腰三信も途方にくれていた。そのころ,この地に身分の賤(いや)しい中年の美女・傾城がいて,「澪の保たざる所,人の柱 ...

けいさつしょ  愛知県豊橋警察署は,明治5(1872)年11月に額田県が愛知県に合併した時,豊橋支庁に邏卒(らそつ)(巡査)など132人が配置されたことに始まる。明治6(1873)年,邏卒を番人に改称した。翌明治7(1874)年,豊橋駅札木町に屯所(とんしょ)を設置,警史1人,番 ...

かみよししんでん  神吉新田は,延宝(1673~81)以降,石塚新田を再開発したものとされる。石塚新田は,寛文6(1666)年,田原湾の紙田川河口左岸に尾張藩付家老竹腰三信が開発(約3000石)した。しかし,延宝年間(1673~81)に,堤防が決壊して海没した。石塚新田の跡地 ...

かみたがわ  紙田川は,紙田川水系の基幹をなす二級河川(愛知県管理)である。表浜海岸の豊橋市東赤沢町から流れ出す橋詰川(延長2370m)が,細田川(延長1200m)と庄兵衛川(延長1230m)を合流して紙田川となり,豊橋市老津町と杉山町の境を北流し,途中で神出川(延長600 ...

かねこ・たけしろう(1814頃~64)  金子健四郎は,文化11(1814)年(文化13年説もある),吉田(豊橋)魚町の魚商金子平四郎の4男に生まれた。幼名を利平あるいは武四郎といい,名を直通,号を豊水といった。吉田本町の薬舗鈴木孝本に剣を学んだ。江戸に出て,杉山東七郎 ...

かげぼうしづか  影法師塚は,愛知県経済農業協同組合連合会営農支援センター(豊橋市杉山町新々田)にある芭蕉の句碑で,「すくみ行くや 馬上に氷る 影法師」と刻まれている。平成4(1992)年10月に営農支援センターが建立したもので,碑は高さ150㎝・幅118㎝の御影石, ...

かいちゅうのあざのはいし  田原湾の梅田川・汐川の河口には,海面下の土地が存在していた。このような場合,公有水面埋立地が土地となるためには,①海面下の土地の滅失による「海中の字の廃止」②「新たに土地が生じたことの確認」 ③「公有水面埋立地の編入または町・字 ...

かいぐんこうくうたいぼうくうごう  豊橋海軍航空隊基地の隧道(ずいどう)式倉庫は,第2次世界大戦中,本土決戦に備えて掘鑿されたものである。豊橋海軍航空隊基地でも対策がはかられた。基地の対岸にあたる豊橋市大崎町城戸中では,海に面した丘陵西縁の崖面に隧道式倉庫, ...

おおさきじょう  大崎城は「三河国二葉松」(元文5年)に,「大崎村古城,伊庭藤太,後戸田三左衛門,仁連木戸田別,後池田武蔵守内伊庭藤太トテ弓勢人也」とある。 戸田氏は,永正年間(1504~1521)には,牧野氏と今橋城の争奪を繰り返していた。今橋城を奪われた戸田氏 ...

おおさきじま・おおつじま  田原湾の海面の寄州(よりす)に,大崎村(豊橋市大崎町・船渡町)に属する本島・平島・長松島(一部)と大津村(豊橋市老津町)に属する大津島・蜷島(になじま)・仏島・長松島などがあった。江戸期にはこの海域に,野依村・西植田村・東植田村・切 ...

おいつゆうびんきょく  老津郵便局は,明治9(1876)年,渥美郡老津村に開設された。老津村・大崎村・植田村・杉山村・谷熊(やぐま)村を郵便局管内とした。明治25(1892)年,野依(のより)村が高豊郵便局から,老津郵便局管内になる。昭和7(1932)年,大崎・植田・野依は豊 ...

おいつちゅうがっこう  老津村立老津中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴って,老津村の老津小学校内に老津村を校区として開校した。昭和22(1947)年11月,旧老津演習廠舎(しょうしゃ)を移築した新校舎が老津村宮脇に完成する。昭和30(1955)年,豊橋市立老津 ...

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