愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:札木

わかまつえん  若松園は,明治35(1902)年,豊橋札木の山田芳蔵(1872~1945)が,現在地で菓子司若松園を開業したことに始まる。昭和20(1945)年6月の空襲で被災したが,再建した。明治41(1908)年ごろ全国菓子博覧会に豊橋名産「ゆたかおこし」を出品した。「ゆたかお ...

るーとわん  ルート1は,第2次世界大戦後に国道1号に付けられた別名である。進駐軍のジープは,まだ舗装されていない岡崎から国府などを砂煙りをあげて走っていた。名古屋などでは,1st street,A avenue という街路標識をつけた。東海道のROUTE 1の道路標識は,東海道 ...

よみせ  夜店は,明治45(1912)年開通した新停車場通(広小路)で行われていたが,市内電車が敷設された大正14(1925)年に豊橋市西八町に移った。第2次世界大戦後は,広小路と萱町で,昭和52(1977)年から札木通りと松葉公園で行われた。平成7(1995)年から翌8(96)年 ...

よしだ24ちょう  東海道吉田の宿は,慶長6(1601)年,松平(竹谷)家清以来の譜代の城下町であった。また,慶長6(1601)年,徳川家康が東海道に伝馬の制を実施して以来の宿場町であり,吉田川(豊川)の河口を扼(やく)する湊町である。江戸時代を通じての町数は,24町であ ...

よしだつちにんぎょう  吉田土人形は,明治13(1880)年,地方歌舞伎の旅役者であった杉浦幸次郎(1834~98)が,豊橋札木町に窯を築き制作したことに始まる。杉浦幸次郎が人形を制作していた期間は10年ほどであり,天神,俵持童子,唐童子,鯛金時,達磨,狆(ちん),招き猫 ...

よしだじんじゃ  吉田神社は,古くは天王社・牛頭(ごず)天王・吉田天王社と称した古社で,治承2(1178)年源頼朝が普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)に滞在したとき,戦勝祈願のため家臣を代参させ,三河守護安達藤九郎盛長も社殿を造営したという。天文16(1547)年今川義元 ...

よしだしゅくほんじん  吉田(豊橋)宿本陣は,吉田の中心街札木に2軒あった。いずれも街道北側にあり,当初は清須屋こと中西与右衛門家1軒であったが,後に清須屋の東隣の江戸屋新右衛門家が脇本陣より本陣に昇格した。この昇格の時期については,古記録などから松平(大 ...

よしだしゅく  吉田(豊橋)宿は,江戸時代の東海道五十三次中,品川から数えて34番目の宿場町である。慶長6(1601)年の「伝馬朱印状」が残っていることから,東海道宿駅設置当初からの宿場であることがわかる。天保14(1843)年の「東海道宿村大概帳」によれば,東は二川 ...

ゆうかくのいてん  明治40(1907)年3月,第15師団の豊橋設置が正式に決定した。初代市長大口喜六は,陸軍省に師団誘致運動を展開する際に,条件として豊橋市上伝馬町と札木町の遊郭を適当な地に移転することを挙げていた。遊郭の移転は,市街地中心部の風紀だけでなく道路 ...

やすみくまのしゃ  安海熊野社は,保延2(1136)年,鳥羽上皇の命により,熊野から快円法印が下向して建立したと伝える。その後,紀伊の人・鈴木重胤(しげたね)が宝飯郡佐脇村(宝飯郡御津町)に上陸し,この地に住み熊野権現の神主となった。牧野古白は,明応4(1495)年社 ...

めいじしょきのとよはしのしょうがっこう  明治5(1872)年8月,学制が発布され,翌6(73)年10月,豊橋には第10中学区第1番小学関屋学校(関屋町悟真寺)・第2番小学[校名不詳](紺屋町神宮寺)・第3番小学立志学校(世古町竜拈寺(りゅうねんじ))が設立された。明治10 ...

むかしはなし  「昔はなし」(豊橋新聞社 昭和33年)は,豊橋市札木町の料亭「千歳楼」の主人・長坂理一郎(ながさかりいちろう)(1870~1961)が,昭和31(1956)年正月から翌32(1957)年暮まで2年間にわたって豊橋新聞に連載(豊橋新聞の渡辺登喜雄が口述筆記)したもの ...

まゆどんや  繭問屋は,養蚕農家から繭を買い上げて製糸業者へ売る仕事をする業者である。豊橋の繭問屋は,明治19(1886)年に豊橋札木町で柴田新吉・白井吉太郎が創立したのが最初とされている。製糸家は,はじめのころは直接,農家から繭を購入していたが,製糸業の発展に ...

まつばしょうがっこう  豊橋市立松葉小学校は,明治26(1893)年4月,豊橋町立豊橋第三尋常小学校として,本校を西八町,分教場を船町に設置し,豊橋町船町・湊町・上伝馬町・松葉町などを校区として開校したことに始まる。明治30(1897)年1月,校舎を豊橋町松葉町に新築・ ...

まつだいら・すけのり(1700~52)  松平(本庄)資訓は,元禄13(1700)年に生まれた。享保8(1723)年,松平(本庄)資俊の遺領浜松7万石を継ぎ,同14(29)年,松平(大河内)信祝(のぶとき)と交替して遠江(とおとうみ)国浜松から三河吉田(豊橋)7万石に入封した。松平 ...

ほそうどうろ  第2次世界大戦終了時の豊橋では,旧東海道の上伝馬・本町・札木・曲尺手(かねんて)・鍛冶町・下町・新町から瓦町までは幅員は3間(5.5m)のアスファルト舗装であった。昭和11(1936)年までに愛知県の道路改良工事が行われたのは,国道1号の二川東町~境川間 ...

ほうむきょく  名古屋法務局豊橋支局は,明治20(1887)年2月,豊橋札木町の豊橋治安裁判所に登記所を設置したことに始まる。大正4(1915)年3月,豊橋市中八町へ移転し,同11(22)年4月,名古屋供託局豊橋出張所を併置した。昭和20(1945)年,戦災で庁舎を焼失,豊橋市東 ...

へいわどおり  平和通りは,豊橋市駅前大通三丁目の「駅前大通り」より同中柴町の「みなと大通り」までの豊橋市道(駅前大通~中柴町8号線)の商店街の通称名である。 明治44(1911)年に道路大手線(豊橋市札木町~柳生橋間)が開通するまでは「田原街道」であり,豊橋市 ...

ふだぎちょう400ねんし  「郷土豊橋札木町四百年史」(札木町内会 平成元年)は,天正18(1590)年からの江戸時代,明治・大正・昭和と400年間栄えた豊橋市札木町の歴史書である。江戸時代には,吉田(豊橋)藩の高札場があり,問屋場・本陣・旅籠が立ち並んでいた。明治に ...

ふだぎちょう  豊橋市札木町は東海道沿いに造られた町で,吉田(豊橋)24町の1つである。天正18(1590)年,池田輝政(1564~1613)が吉田(豊橋)城を拡張し,町並みを整備した時に,安海(やすみ)熊野社を南に移し,外堀を造った。もと安海熊野社の境内地に,東西に走る東 ...

ふくたに・もとじ(1860~1943)  福谷元次は,安政7(1860)年2月18日,宝飯郡柴屋村(豊橋市大村町)の林勝蔵の2男に生まれた。明治15(1882)年,豊橋札木町の旅籠(はたご)丁字屋,福谷藤十郎の養嗣子となった。明治22(1889)年,豊橋町会議員,同34(1901)年,豊橋町 ...

ひがしあいちしんぶん  「東愛知新聞」は,昭和32(1957)年11月に豊橋市札木町で,川上義隆が創刊した「夕刊とよはし」に始まる。昭和33(1958)年3月,豊橋市前畑町に本社を移転し,自社印刷を開始した。翌昭和34(1959)年5月,「豊橋毎日新聞」と改題し,朝刊に切り替え ...

はくさんひめじんじゃ  白山比咩神社は,安海熊野社の脇宮として奉斎されたもので,往古は白山権現と称した。保延2(1136)年ごろ札木町に勧請,天正18(1590)年城地拡張に際して魚町に遷り,さらに南方に遷したものである。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村 ...

にほんきりすときょうだん  豊橋中部教会は,日本基督教団に所属する教会である。豊橋での布教は,明治29(1896)年,アメリカ南部長老派に所属する宣教師フルトンと牧師加藤虎彦によって豊橋湊町に講義所を開設したのが始まりである。明治35(1902)年豊橋曲尺手(かねんて) ...

ながさか・りいちろう(1870~1961)  長坂理一郎は,明治3(1870)年4月22日,豊橋札木町の料亭・千歳楼の長坂重次の子に生まれた。千歳楼の屋号は,原田圭岳がはじめ千歳舎とつけたものを,明治13(1880)年小野湖山が千歳楼と改めたものである。八町小学校を卒業,茶道を ...

とよはしゆうびんきょく  豊橋郵便局は,明治4(1871)年4月,豊橋上伝馬町に豊橋郵便取扱所として開業し,同6(73)年7月,豊橋郵便役所と改称した。明治8(1875)年1月,豊橋郵便局(3等)に改称した。明治5(1872)年9月,豊橋電信分局を豊橋関屋町に開設,同20(87)年 ...

とよはしもうあがっこう  明治31(1898)年2月,宝飯(ほい)郡塩津村拾石(ひろいし)に拾石訓唖義塾(塾長成瀬文吾)が設立され,翌32(99)年4月,豊橋へ移転した。明治33(1900)年3月,豊橋訓盲院が豊橋に設立された。明治33(1900)年4月合併して,7月豊橋盲唖学校(校主 ...

とよはし29ちょう  豊橋29町(明治11年)は,明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡曲尺手(かねんて)町・呉服町・三浦町・魚町・札木町(利(とぎ)町を合併)・本町(御輿休(みこしやすみ)町を合併)・上伝馬町(天王町を合併)・吉屋町(元鍛冶町が世古町を ...

とよはしどうめいしんぶん  「豊橋同盟新聞」は,戦時下の国策に従い,昭和13(1938)年11月1日に,豊橋市内の日刊6紙(参陽新報・新朝報・豊橋日日新聞・大衆新聞・東海朝日新聞・あさひ新聞)が合併して創刊された。西八町の参陽新報社跡に本社を置き,後に豊橋市札木町に ...

とよはしちょうやくば  豊橋町役場は,明治22(1889)年10月,町村制実施により,吉田(豊橋)宿の23か町が豊橋町に移行したため,仮役場として八町に開設された。豊橋町は人口1万2339,選挙人(制限選挙)722,町会議員24,初代町長は三浦碧水であった。町吏員は書記10,使 ...

とよはしちょう  豊橋町は,明治22(1889)年10月1日,町村制が施行され,船町・湊町・上伝馬町・八町・関屋町・本町・札木町・呉服町・曲尺手(かねんて)町・下町・鍛冶町・松葉町・萱町・花園町・三浦町・指笠町・新銭町・魚町・紺屋町・神明町・清水町・手間町・吉屋町の2 ...

どうろげんぴょう  道路元標は,大正11(1922)年,道路法施行令により,各市町村に1か所設置することが義務付けられた。豊橋市札木町の角の東海道(国道1号)と田原街道(国道30号)の分岐点に,豊橋市道路元標が設置された。当時の各市町村(高師村・二川町など)に道路元 ...

とうかいぎんこう  東海銀行は,金融統制が戦時態勢(非常時)一色に塗り替えられようとしているとき,昭和16(1941)年6月9日,名古屋地区が本店銀行である愛知銀行・名古屋銀行・伊藤銀行の3行が合併して設立された。 愛知銀行は,明治28(1895)年3月8日,第十一国立銀 ...

でんわきょく  豊橋電話局は,明治5(1872)年9月,吉田(豊橋)駅関屋に豊橋電信分局として開設された。明治20(1887)年3月,豊橋電信局となり,同33(1900)年3月,豊橋郵便電信局に統合,局舎を豊橋町札木町に移転,同36(03)年4月,豊橋郵便局と改称した。明治39(190 ...

ちょうりしせんもんがっこう  豊橋調理師学校は,昭和48(1973)年3月,豊橋市札木町に設立された。昭和56(1981)年,専修学校として認可され,豊橋調理師専修学校と改称した。昭和59(1984)年,各種学校として認可され,豊橋調理師専門学校と改名した。平成6(1994)年, ...

ちゅうぶびゅーてぃ・でざいんかれっじ  平成5(1993)年学校法人利幸学園専門学校中部ビジネス・デザインカレッジとして豊橋市札木町に発足した。平成12(2000)年,美容科を設置して,専門学校中部ビューティ・デザインカレッジと改称した。医療事務,ペットトリマー・動 ...

ちゅうぶこんぴゅーた・ぱてぃしえせんもんがっこう  学校法人利幸学園中部コンピュータ専門学校は,昭和63(1988)年開校された。平成10(1998)年に建築系学科を設置し,中部コンピュータアンドテクノロジー専門学校と改称した。平成15(2003)年,パティシエベーカリー科 ...

ちゅうきょうぎんこう  中京銀行は,昭和22(1947)年12月に宝無尽(昭和5年8月名古屋で設立)豊橋出張所が豊橋市西八町に開設されたことに始まる。昭和23(1948)年7月太道無尽(昭和2年10月三重殖産無尽設立,同16年10月八紘無尽,同23年1月太道無尽と商号変更)から営業 ...

たはらかいどう  田原街道は,東海道吉田(豊橋)の札木町と御輿休(みこしやすみ)町(豊橋市新本町)の境の横町から魚町へ通じ,魚町から東に移って,垉六(ほうろく)町・下リ町(花園町)を通り,新銭町・中柴町(平和通り)から柳生橋を経て田原へ通じる街道で,奥郡(おく ...

だい15しだん  第15師団は日露戦争中,東京において編成され,満州の戦野に赴き,第2軍の戦闘序列に編入されたが,戦いが終わると千葉県習志野に帰還した。第15師団の地方移駐の議が起り,豊橋・浜松・岐阜が候補に上ったが,最終的に豊橋に設置されることになった。明治41 ...

そうじゅんかじ  宗淳火事は,江戸時代の吉田(豊橋)で起こった最も大規模な火災である。安永8(1779)年11月3日の明け方,吉田本町の医師藤井宗淳方から出火,折からの強風にあおられて,宿内中心部の本町・札木町・呉服町・曲尺手(かねんて)町・鍛冶町・下町・元新町と東 ...

せいだんえんぜつかい  明治14(1881)年2月10日から3夜連続して,自由党を標榜(ひょうぼう)する政談演説会が豊橋札木町(寄席「貸浮」)で開かれた。豊橋での自由民権運動はこれを契機に始まった。豊橋で最初といわれる政談演説会がどのような経緯で開かれたかについては不 ...

すぎうら・けんいちろう(1926~2005)  杉浦建一郎は,大正15(1926)年4月2日,豊橋市札木町の山幸呉服店の子に生まれた。昭和19(1944)年12月豊橋市立商業学校を卒業して就職したが,間もなく豊橋は空襲を受け,第2次世界大戦は終戦となった。昭和26(1951)年豊橋芸術 ...

しんかわしょうがっこう  豊橋市立新川小学校は,明治34(1901)年4月,豊橋町新川字市南の竜拈寺(りゅうねんじ)前に豊橋町立南部尋常小学校(高等科は八町高等小学校に通学)として新設された。豊橋町呉服町・吉屋町・手間町・魚町・紺屋町・中世古町・神明町・清水町・花 ...

しらい・なおじ(1849頃~1918)  白井直次は,八名郡金沢村(宝飯郡一宮町)の佐久間家に生まれたが,豊橋札木町の白井家の養嗣子となった。明治22(1889)年豊橋町収入役に就任,同26(93)年豊橋商業会議所の創立委員,翌27(94)年豊橋米麦取引所設立発起人・理事となっ ...

しょうてんがい  商店街は,商業や地域の活性化のため,商業者などが共同して活動する組織である。豊橋市内の商店街の多くは,市内中心部に集中していて,商店街の中で,法人格をもつ商店街は14,任意組織の商店街(発展会)は51ある。法人格をもつ商店街は,札木商店街振興 ...

しょうこうかいぎしょ  豊橋商工会議所は,明治26(1893)年3月,豊橋商業会議所として全国で20番目に設立された。豊橋商業会議所は,豊橋町札木町豊橋銀行内に事務所を設置し,以後30年間に関屋,西八町,上伝馬など12回事務所を移転した。大正15(1926)年,豊橋市花田町 ...

しものしんでん  下野新田は,天和2(1682)年ごろ,吉田(豊橋)札木町の問屋久兵衛が馬見塚(まみづか)村の堀割に堤を築き,その両岸を開発して問屋新切と称したものである。元禄16(1703)年,下五井村の権左衛門・野田村の弥惣左衛門が整備して下野新田と称した。渥美郡 ...

しでんのていりゅうじょ  豊橋鉄道市内線の停留所は,大正14(1925)年の開業から現在まで,路線の廃止などにより,多くの停留所が開業,廃止された。市民病院前(昭和27年 開業,同44年 休止,同48年 廃止)城海津(昭和27年 開業,同44年 休止,同48年 廃止)駅前(大正14 ...

じつぎょうは  実業派は,第2次世界大戦前の豊橋政界を同志派と2分した政治勢力であった。実業派は,明治31(1898)年に遠藤安太郎が組織した実業談話会に源を発している。当初実業談話会は,実業界の組織として政治とは一線を画して活動していた。しかし,制限選挙のため実 ...

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