愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:戦争

りくぐんぼち  陸軍歩兵第18聯隊が豊橋に設置されると同時に,その付帯設備として練兵場・射的場・陸軍墓地が建設された。陸軍墓地は,渥美郡東田村前山(豊橋市東田町西前山)の臨済寺山といわれる旧藩時代の刑場跡2000坪を埋葬地とした。墓地開設以来の記録は臨済寺に保存 ...

よしはし・とくさぶろう(1870~1920)  吉橋徳三郎は,明治3(1870)年11月13日に埼玉県に生まれ,陸軍士官学校(第2期生)を経て騎兵将校となった。日露戦争で吉橋徳三郎中佐は第3師団参謀として従軍し,黒溝台の会戦では秋山好古少将の率いる秋山支隊に第3師団所属の騎兵 ...

よこた・しのぶ(1883~1956)  横田忍は,明治16(1883)年9月8日,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂町)の横田源次郎の3男に生まれた。日露戦争に陸軍少尉として従軍する。明治40(1907)年,愛知県属となり,大正15(1926)年から昭和5(1930)年の間,田部井(ためがい)勝蔵豊橋 ...

やまだ・のぶお(1932~98)  山田信夫は,昭和7(1932)年7月11日,父の勤務地であった中国・上海で生まれた。昭和20(1945)年,豊橋に引き揚げ,豊橋工業高等学校電気科を卒業し,愛知大学および早稲田大学に進学した。その後,女子校教諭や業界紙記者などを経て,昭和34 ...

やなぎもと・じょうせい(1879頃~1964)  柳本城西,本名満之助は,明治12(1879)年,渥美郡豊橋町関屋の元吉田藩弓術指南の家に生まれた。私立中学豊橋時習館に学び,医術開業試験に合格して,豊橋病院外科の医局員となった。明治36(1903)年,「無花果(いちじく)短歌会 ...

やぎゅうがわうんが  柳生川の改修は,柳生川耕地整理組合連合会により,昭和8(1933)年1月に着手,同11(36)年2月工事が完了した。その中で東海道線柳生川鉄橋下から牟呂港まで4500mを,幅27m,干潮水面下1.8mとし,柳生川鉄橋下に360m四方の船溜を設け,牟呂港から200t ...

まつだいら・のぶひさ(1829~88)  松平(大河内)信古は,文政12(1829)年4月23日,越前国鯖江(鯖江市)藩主間部詮勝(まなべあきかつ)の2男に生まれた。嘉永2(1849)年7月27日,松平(大河内)信璋(のぶあき)の没後,末期養子として吉田(豊橋)藩主に迎えられた。嘉永 ...

ほりょしゅうようじょ  日清戦争の捕虜で内地収容の者は,将校以下1004人に及び,11か所に約100人ずつ収容した。豊橋では竜拈寺(りゅうねんじ)の羅漢堂に収容され,豊橋市民が弁髪の中国人を見物に行き,筆談したなどの記録がある。日清講和条約成立後,明治28(1895)年8月 ...

ほへいだい18れんたい  歩兵第18聯隊は,軍備拡張10か年計画によって,明治17(1884)年8月15日,名古屋鎮台歩兵第6聯隊内で創設された。明治18(1885)年にかけて豊橋吉田城址(じょうし)に移営,屯営とした。当初,三遠駿豆,のち主として三遠地区を徴兵管区として壮丁が徴 ...

ほうぎょういん  摩尼山宝形院(真言宗醍醐派)は,安永2(1773)年に阿闍梨諄慶法印により創建され,本尊は十一面観音像である。宝形院は吉田町裏(豊橋市中世古町)にあり,真言宗修験(しゅげん)派に属していたが,明治維新後,真言宗醍醐派となる。 第8世万通法印は,日 ...

へいわのとう  豊橋平和の塔は,終戦20周年記念事業として工兵作業場跡(豊橋市向山緑地公園)に,昭和40(1965)年建設された。日清戦争以後の戦没者と空襲犠牲者を追悼し,世界の恒久平和を念願して,豊橋遺族会を中心とした市民の浄財によって建設されたものである。隣接 ...

ふじなみ・かずや(生没年不詳)  藤波一哉は,渥美郡伊良湖岬村(渥美町)の出身で,本名を泰吉,別号を参洋といった。早稲田法律学校を卒業し,豊橋で弁護士を開業した。学生時代から俳句を好み,佐野蓬宇(ほうう)晩年の門人となり,蛙流(ありゅう)と号した。その後,明治 ...

ひとばしら  「人柱-工兵第三連隊の記録」(工兵第三連隊戦史研究室 昭和42年)は,前編(創設─満州事変),中篇(日支事変),後編(大東亜戦争─終戦)の3編にわかれているが,特に中篇の上海付近の会戦,南京攻略戦,徐州会戦などが詳しく書かれている。 明治41(190 ...

はりすとすせいきょうかい  ハリストス正教会の日本への布教は,文久元(1861)年に北海道箱館のロシア領事館の司祭として来日した聖ニコライが,明治5(1872)年,東京神田の駿河台に,ロシア語学校を開設し,同6(73)年,キリスト教禁教令が解除されたことにより,同駿河 ...

はせがわ・まき(1880~1961)  長谷川まきは,明治13(1880)年8月15日,南設楽郡千郷村(新城市豊島)に生まれた。明治31(1898)年18歳の時に医師平尾源吉と結婚したが,翌32(99)年夫に死別した。このことが医療の道へたずさわる契機となり,20歳の時に看護婦を志して ...

はくさい  白菜は,露地園芸野菜で原産地は中国で,日清戦争を契機として日本では愛知県で最初に栽培された。以後,改良を重ねて「愛知はくさい」として普及したとされている。豊橋の南部地域で主に作られ,11月から翌年の3月までが収穫期である。12月ごろ,白菜の頭部を稲 ...

ぬかびる  額田銀行ビルは,昭和2(1927)年12月,豊橋市松葉町に額田銀行豊橋支店として建設された。鉄筋コンクリート造り5階建ては,豊橋市最初の高層ビルで「額ビル」と呼ばれ,第2次世界大戦後は激動の昭和を語る建物として市民に親しまれた。 昭和7(1932)年3月,津 ...

にししんさくのあしあと  「西進策の足あと-或る地方記者の記録」(三河輿論(よろん)新聞社 昭和46年)は,河合陸郎(1902~76)が昭和5(1930)年から同14(39)年までの約10年間,郷土紙「新朝報」および「豊橋同盟新聞」の記者時代に「喫煙室」「一日一題」「独りごと ...

とよはしまる  豊橋丸は,日清戦争に際して,緊急購入されたイギリス船フリントシャー(4055t)を日本郵船の陸海軍御用船としたものである。明治30(1897)年水雷母艦に改装,「軍艦豊橋」と改称,同38(05)年第1潜水隊旗艦となった。大正3(1914)年軍艦から除籍され,潜 ...

とよはしくうしゅうたいけんき  「豊橋空襲体験記」(豊橋空襲を語りつぐ会 平成12年)は,平成2(1990)年から4年間毎年刊行された豊橋空襲を語りつぐ会の「豊橋空襲体験記」第1集~第4集に掲載された43人の原稿を加筆・訂正して,新たに12人の原稿を追加して総集編とし, ...

ちゅうぶちほうでんきじぎょうし  「中部地方電気事業史」(中部電力株式会社 平成7年)は平成元(1989)年,名古屋電燈会社の開業100年を契機として,「中部地方電気事業史」の編纂が企画された。電気事業に関する歴史資料が散逸し,往時の事業に従事した人々も数少なくな ...

たかまがはらせんそう  「高天原戦争」(KSS出版 平成10年)は,宗田理(1928~ )の作品で,平成10(1998)年にワンダーランド探検隊シリーズとしてKSS出版から刊行された。明鏡学園高校のワンダーランド探検クラブの梓ヒミコ部長を中心に,6人の高校生と1人の小学生が, ...

だい15しだんゆうち  第15師団の誘致は,明治40(1907)年3月に持ち上がった。市制施行直後の豊橋市の将来発展策を模索している時であり,大きな期待が寄せられた。陸軍省は,日露戦争(1904~05)後,4個師団を増設すると発表した。そのうち1個師団は東海道筋に設置すると ...

だい15しだん  第15師団は日露戦争中,東京において編成され,満州の戦野に赴き,第2軍の戦闘序列に編入されたが,戦いが終わると千葉県習志野に帰還した。第15師団の地方移駐の議が起り,豊橋・浜松・岐阜が候補に上ったが,最終的に豊橋に設置されることになった。明治41 ...

せんとうぼうのちゅうがくせい  「戦闘帽の中学生」(豊中47回文集編集委員会 平成12年)は,昭和16(1941)年4月に愛知県豊橋中学校へ入学し,昭和20(1945)年3月に卒業するまで,第2次世界大戦の中に生きた47回生自らが,体験を風化させないために,思い出やエピソード ...

せいかしじょう  一星青物市場は,明治41(1908)年,豊橋市花田町に開設された。明治42(1909)年,大丸青乾物問屋が設立された。大正7(1918)年,両者は合併し豊橋青果株式会社が発足した。大正8(1919)年,生産者に青物市場会社を起こす動きがあり,翌9(20)年,それ ...

すずき・えつ(1886~1933)  鈴木悦は,明治19(1886)年10月17日,渥美郡老津村(豊橋市老津町)で鈴木浅吉の長男として生まれた。成城中学校,東京外国語学校,早稲田大学を卒業後,明治43(1910)年「万朝報」に入社した。「早稲田文学」に「家なき人」「解放」「幻影」 ...

じんむてんのうぞう  神武天皇像は,日清戦争後の明治32(1899)年3月,歩兵第18聯隊兵営の東に広がる八町練兵場南正面に軍人記念碑として建立された。神武天皇像の作者は,岡崎雪声というが,実作者は松田鹿三である。この軍人記念碑は,大正5(1916)年練兵場北中央に南面 ...

しゅぞう  酒造業は,味噌・醤油などと並んで明治期から,豊橋の代表的な食料品工業であった。明治34(1901)年に,永井仙十が中心となって,宝飯・渥美・南設楽(したら)3郡の酒造業者25人を集めて,東三酒造組合を設立した。東三酒造組合は,当初事務所を宝飯郡下地町(豊 ...

じゆうみんけんうんどう  自由民権運動は,明治7(1874)年1月に元参議板垣退助,後藤象二郎ら8人が「民撰議院設立建白書」を政府に提出したことにはじまったが,その後しばらくは,士族の反乱,農民騒動など実力行使の風潮に押され伸び悩んだ。明治10(1877)年の西南戦争 ...

しばた・よしお(1905~83)  柴田芳男は,明治38(1905)年7月8日,渥美郡福江町畠(渥美郡渥美町福江)の柴田常吉の2男として生まれた。愛知県第四中学校を4年修了で,上京,連合通信・同盟通信記者を経て,昭和17(1942)年松竹株式会社に入社した。統制により社団法人映 ...

じつぎょうほしゅうがっこう  実業補習学校は,明治26(1893)年,文部省の「実業補習学校規程」により,小学校の尋常科または高等科を卒業した人の学習補充と農工商などの就業者に,職業に関係ある知識を学べるように開設されたものである。 明治35(1902)年に,規程が改 ...

しせいしこう  豊橋町が市制を施行したのは,明治39(1906)年8月1日であった。全国で62番目,県内で名古屋に次ぐ2番目の市であった。市制施行の動きは,明治34(1901)年2月,福谷元次町長の時代に町政刷新に関する委員会が設置され,同34(01)年9月に「市制に関する調査 ...

しずおかはん  静岡藩(駿河府中藩・駿府藩を明治2年6月改称)は,明治元(1868)年5月,徳川宗家を相続した田安亀之助(徳川家達)が駿府城主に任ぜられ,70万石を与えられたことに始まる。当初の所領は,駿河国一円と遠江(とおとうみ),陸奥両国とされた。しかし,陸奥国 ...

さんえんたまいとせいぞうどうぎょうくみあい  三遠玉糸製造同業組合は,明治34(1901)年,豊橋・渥美・八名(やな)・宝飯・浜名郡の同業者の組合として豊橋指笠町(豊橋市新本町)に設置された。 玉糸製糸業が発達してからは,蒸気機関の導入や日清戦争後の好景気を背景と ...

⇒ 歩兵第18聯隊 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog http://na ...

さいがじ  分明山西河寺(臨済宗妙心寺派)の創立は不明であるが,開山認得性公首座の示寂(じじゃく)は文禄3(1594)年であるので,戦国末期の創立と推測される。古来正宗寺末松寿派に属していた。西河寺の本尊は聖観世音菩薩像であるが,ただ脇壇安置の薬師如来像は西川村 ...

ごしんじ  孤峰山悟真寺(浄土宗)の創立は,貞治5(1366)年で,開山は善忠寂翁上人である。善忠上人は浄土宗藤田派4代唱名上人の高弟,仏法を広めるため関東から三州今橋(豊橋)に来て奇瑞(きずい)があってその地に一寺を建立し,浄業院悟真寺と称した。建立地は現在の吉 ...

こじま・わしろう(1926~2004)  小嶋和四郎は,大正15(1926)年9月7日,豊橋市下地町の小嶋和四郎の長男として生まれた。東京大学農学部,同大学大学院でアルコール連続発酵を研究した。昭和33(1958)年,社団法人中部産業連盟(名古屋市)に入社し経営コンサルタントと ...

こうへいたい  明治40(1907)年11月,渥美郡高師村に陸軍第15師団が設置されると,工兵第15大隊が豊橋市向山に開隊した。大正14(1925)年4月,軍縮により第15師団が解団すると工兵第15大隊も廃止された。その間,工兵第15大隊は第1次世界大戦に参加し,中国青島に出動し ...

げんぶもん1ばんのり  明治27(1894)年8月1日,日清開戦し,8月4日第3師団に動員令が発せられた。歩兵第18聯隊は第5師団の指揮下に入り,元山支隊として元山に上陸し,9月14日平壌の背後に迫った。明治27(1894)年9月15日の玄武門破りは,原田十吉が扉を開き,平壌を占 ...

ぐんじゅさんぎょう  日本政府は,日中戦争の長期化と拡大に伴う戦時統制の一環として,昭和15(1940)年,「経済の新体制確立要綱」に基づき,軍需産業への転換促進のための中小企業の整理統合を行った。豊橋市でも企業統合が進み,紡績業をはじめ製材・木製品工業,卸小売 ...

くものはて  「雲の涯」(角川書店 平成3年)は,宗田理(1928~ )の作品である。第2次世界大戦末期,豊川海軍工廠(こうしょう)へ学徒勤労動員された豊橋中学校の浅井克人という創作上のモデルを中心に,物語は進行する。東洋一を誇った豊川海軍工廠は,昭和20(1945)年 ...

くうしゅうをかたりつぐかい  豊橋空襲を語りつぐ会は,平成元(1989)年,戦争と空襲体験を語りつぐことで,ふたたび惨禍を繰り返さないという決意を込めて結成された。豊橋が空襲された6月20日には毎年,豊橋市湊町公園で豊橋空襲犠牲者を追悼し,「平和を誓うつどい」を ...

⇒ 歩兵第18聯隊 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog http://na ...

きんせいのこうつうとちほうぶんか  「近世の交通と地方文化」(名著出版 昭和61年)は,愛知大学綜合郷土研究所所員の近藤恒次によって,著述された。 近世から近代にかけての東三河を中心とした古記録を広く読み精査した筆者が,陸上交通の宿場問題・遠州灘の海難事故・ ...

きへいだい4りょだん  騎兵第4旅団は,明治42(1909)年7月,渥美郡高師村に,第15師団と隣接して設置された。日本の騎兵軍団は秋山好古が創設育成し,日露戦争中,騎兵第1旅団と同第2旅団は満州の戦野で活躍し,陸戦における日露戦争勝利の一因となった。戦後,陸軍はロシ ...

おがわ・げんきち(1875~1946)  小川元吉は,明治8(1875)年9月28日,静岡県富士郡原田村(富士市原田)の小川長平の5男に生まれた。明治27(1894)年歩兵第18聯隊に入営した。日露戦争に際しては軍曹にすすみ,軍旗護衛兵に選ばれた。明治37(1904)年5月26日南山の戦い ...

おおぐち・きろく(1870~1957)  大口喜六は,明治3(1870)年5月25日,豊橋船町の大口為蔵の子として生まれた。幼名理一郎,号を蓊山と称した。児島閑窓の門で漢籍,穂積清軒の好問社で英書を学んだ。のちに東京帝国大学選科で薬学を修めた。帰郷後薬局を開業したが,政治 ...

いまはし・そんしょう(1871~1909)  今橋尊勝は,明治4(1871)年1月8日,大阪府渋川郡久宝寺村(大阪府八尾市)の顕証寺住職,近沢含師の3男に生まれた。明治30(1897)年,下地(豊橋市下地町)の聖眼寺30世を継いだ。日露戦争後の出征軍人遺家族困窮者および傷痍軍人 ...

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