豊橋市議の長坂です。図書館職員の本気です。さて、豊橋の図書館で大発見がありました。ライブドアニュース@livedoornews【本物と認定】信長、秀吉らの書状を確認 江戸時代の私設図書館が所蔵https://t.co/ygG9ij4SGL織田信長が家来の動向を探るよう命じた朱印状や、豊臣秀吉 ...
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吉田24町 とは(豊橋百科事典より)
よしだ24ちょう 東海道吉田の宿は,慶長6(1601)年,松平(竹谷)家清以来の譜代の城下町であった。また,慶長6(1601)年,徳川家康が東海道に伝馬の制を実施して以来の宿場町であり,吉田川(豊川)の河口を扼(やく)する湊町である。江戸時代を通じての町数は,24町であ ...
吉田神社(豊橋市関屋町) とは(豊橋百科事典より)
よしだじんじゃ 吉田神社は,古くは天王社・牛頭(ごず)天王・吉田天王社と称した古社で,治承2(1178)年源頼朝が普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)に滞在したとき,戦勝祈願のため家臣を代参させ,三河守護安達藤九郎盛長も社殿を造営したという。天文16(1547)年今川義元 ...
吉田城人質奪還 とは(豊橋百科事典より)
よしだじょうひとじちだっかん 吉田城人質奪還は,永禄7(1564)年5月12日,二連木(にれんぎ)城主戸田主殿介重貞が吉田城に人質となっていた母を奪還したできごとである。岡崎の松平家康は,西三河の一向一揆を平定した後,勢力を東三河へと侵攻させ「小坂井」「牛久保」を ...
吉田城(豊橋市今橋町) とは(豊橋百科事典より)
よしだじょう 吉田(豊橋)城は,現在の豊橋公園とその周辺をはじめ,東は飽海(あくみ)町から旭町,南は曲尺手(かねんて)町から呉服町,西は関屋町に達する広大な城であった。その縄張りは豊川(とよがわ)を背に,本丸を基点に二の丸,三の丸を前面,側面に配したもので,半 ...
妙立寺(湖西市吉美) とは(豊橋百科事典より)
みょうりゅうじ 延兼山妙立寺(日蓮宗)の創立は,元中3(1386)年2月で,開山は日什上人である。永禄11(1568)年,徳川家康は宇津山城(湖西市入出)に大原肥前守鎮実を攻めたとき,妙立寺に本陣をおき,寺の梵鐘(ぼんしょう)を合図に攻撃して大勝利をおさめたと伝えられ ...
松平(深溝)忠利 とは(豊橋百科事典より)
まつだいら・ただとし(1582~1632) 松平(深溝)忠利は,天正10(1582)年1月16日,松平家忠の子として,三河国深溝(額田郡幸田町)で生まれた。父・松平家忠は,慶長5(1600)年,徳川家康が奥州の上杉征討に出発した時,伏見城防備にあたっており,石田三成勢に攻めら ...
松平(竹谷)家清 とは(豊橋百科事典より)
まつだいら・いえきよ(1566~1610) 松平家清は,永禄9(1566)年,竹谷松平清宗の嫡男として三河竹谷(蒲郡市)に生まれた。天正9(1581)年,元服し,家康の一字を賜り家清と名乗った。妻は久松俊勝の息女・於きんの方で,妻の母は伝通院於大(おだい)の方,すなわち徳川 ...
牧野古白 とは(豊橋百科事典より)
まきの・こはく(?~1506) 牧野氏の祖は,長山(豊川市下長山町)の一色刑部の被官として讃岐国から来住して,牧野(豊川市牧野町)に城を築き,瀬木城(豊川市瀬木町)・一色城(豊川市牛久保町)を拠点とした。 牧野成時(法名古白)は,永正2(1505)年,今川氏親(1 ...
本興寺(湖西市鷲津) とは(豊橋百科事典より)
ほんこうじ 常霊山本興寺(法華宗)の創立は,明らかではないが,もとは真言宗寺院であったのを永徳3(1383)年,日乗上人が法華宗に改めたと伝えられる。本尊は,十界大曼荼羅である。江戸時代は,63石の朱印を受け,葵紋の使用を許され,10万石の格式を与えられた。間口 ...
平林寺(埼玉県新座市野火止三丁目) とは(豊橋百科事典より)
へいりんじ 金鳳山平林寺(臨済宗妙心寺派)は,埼玉県新座市野火止にある松平(大河内)三家(三河国吉田藩主・上野国高崎藩主・上総国大多喜藩主)の菩提寺である。はじめ永和元(1375)年太田道灌の父である太田道真によって岩槻(いわつき)(埼玉県岩槻市)に創建され, ...
「東三河の戦国時代」(横尾義貫) とは(豊橋百科事典より)
ひがしみかわのせんごくじだい 「東三河の戦国時代」(「東三河の戦国時代」刊行会 昭和60年)は,豊橋技術科学大学教授の横尾義貫が,地域計画は地域固有の風土と歴史に対する配慮がなければならないとの観点から,大名領国制が成立する東三河の歴史を書いたものである。 ...
戸田宗光 とは(豊橋百科事典より)
とだ・むねみつ(?~1508) 碧海郡上野荘(豊田市)にいた土豪の戸田宗光は,文明7(1475)年ごろ,渥美郡大津(豊橋市老津町)に入り,同12(1480)年ごろ田原(田原市田原町)に移った,明応2(1493)年ごろ牧野氏と今川氏に対峙するために,朝倉川左岸に仁連木(にれん ...
東光寺(豊橋市新栄町新田中) とは(豊橋百科事典より)
とうこうじ(しんさかえ) 明照山東光寺(浄土宗)の創立は,天文19(1550)年であり,開山は林誉恵休上人で,当初吉田指笠町(豊橋市新本町)に建立された。本尊は岡崎源空寺より寄進された阿弥陀如来立像である。江戸時代黒印2石を受けており,「三州吉田領神社仏閣記」 ...
東観音寺(豊橋市小松原町坪尻) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじ 小松原山東観音寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,天平5(733)年であり,開山は行基菩薩と伝えられる。創立縁起は,淳和天皇・後奈良天皇御宸翰(ごしんかん)・複数の縁起書(えんぎしょ)を編集した「東観音寺御由緒書」(延宝7年)によると「行基菩薩が紀州熊 ...
太平寺(豊橋市老津町東高縄) とは(豊橋百科事典より)
たいへいじ 長松山太平寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,嘉応年中(1169~1171)であり,開山は峯翁祖一禅師である。真言宗の寺であったが,延元年中(1336~1340)大暁正宗国師峯翁祖一和尚が再興し臨済宗となった。寛永年中(1624~1644)大円光覚禅師雲竜善祥和尚が中興と ...
全福寺(豊橋市杉山町久古) とは(豊橋百科事典より)
ぜんぷくじ 竜香山全福寺(曹洞宗)は,もと六連(むつれ)(田原市)長仙寺末の真言寺院で,北方200mあまりの山麓にあったが,岡崎竜海院の開山模外惟俊和尚(?~1541)が,曹洞宗に改宗再興して末寺とした。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,杉山村「竜香山全福寺 ...
十三本塚悲話(民話) とは(豊橋百科事典より)
じゅうさんぼんづかひわ 今川義元(1519~60)は,桶狭間で織田信長の急襲にあって戦死した。今川氏真(いまがわうじざね)(1538~1614)が後を継いだが,勢力は衰え,それまで味方であった松平元康(徳川家康)は織田信長側につき,それに同調するかのように東三河の武士た ...
三遠南信 とは(豊橋百科事典より)
さんえんなんしん 愛知県の東三河,静岡県の西遠,長野県の南信は,中心に豊橋・浜松・飯田の各都市があるが,いずれもその属する愛知県・静岡県・長野県のはずれにある。東三河の地域性は,東西に東海道が通り,南北に中央構造線が走ることによって規定されている。大きく ...
酒井忠次 とは(豊橋百科事典より)
さかい・ただつぐ(1527~96) 酒井忠次は,大永7(1527)年,額田郡井田(岡崎市井田町)に,酒井忠親の子として生まれた。徳川家康が人質として駿府にあった時代には,酒井忠次は岡崎にあって,今川氏から派遣された城代のもとで城を守っていた。酒井忠次夫人は,徳川家 ...
西郷局 とは(豊橋百科事典より)
さいごうのつぼね(?~1589) 西郷局は,名前をお愛といい,母は西郷正勝の女(むすめ)で,父は戸塚忠春といわれる。西郷局は従兄弟の西郷義勝に嫁したが,元亀2(1571)年西郷義勝は戦死したので,伯父の西郷清員(きよかず)のもとに身を寄せていた。天正6(1578)年西郷局 ...
西郷清員 とは(豊橋百科事典より)
さいごう・きよかず(?~1594) 西郷清員は,西郷正勝の子として生まれた。西郷氏は,肥前高来(たかき)郡西郷(長崎県南高来郡瑞穂町西郷)が発祥の地である。足利尊氏の将仁木義永が三河の守護であったときの守護代であったと伝えられる。 大永3(1523)年祖父の西郷正 ...
悟真寺(豊橋市関屋町) とは(豊橋百科事典より)
ごしんじ 孤峰山悟真寺(浄土宗)の創立は,貞治5(1366)年で,開山は善忠寂翁上人である。善忠上人は浄土宗藤田派4代唱名上人の高弟,仏法を広めるため関東から三州今橋(豊橋)に来て奇瑞(きずい)があってその地に一寺を建立し,浄業院悟真寺と称した。建立地は現在の吉 ...
「華陽夫人画像」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
けようふじんがぞう 「華陽夫人画像」1幅(竜拈寺(りゅうねんじ)蔵)は,昭和55(1980)年1月16日,豊橋市有形文化財(絵画)に指定された。 竜拈寺(豊橋市新吉町)の華陽夫人画像は,絹本着色,掛幅,縦76㎝,横35㎝で,酒井忠次が吉田(豊橋)城主となった時,その正 ...
教如光寿 とは(豊橋百科事典より)
きょうにょこうじゅ(1558~1614) 教如光寿は,永禄元(1558)年9月16日,本願寺第11世顕如上人の長男として生まれた。天正8(1580)年,教如22歳のとき,10年間続いた石山合戦(織田信長と石山本願寺との戦)の和議が成立し,本願寺(後の西本願寺)を再興した。顕如の没 ...
喜見寺砦(豊橋市花園町) とは(豊橋百科事典より)
きけんじとりで 喜見寺砦は,永禄7(1564)年6月,徳川家康が今川方の吉田(豊橋)城を攻める際に臨時的に寺院地を陣所として利用したものである。遺構はなく規模も不明であるが,砦としての築城時期は,永禄7(1564)年である。 「三河国吉田名蹤綜録」には,松平主殿介 ...
川合伸旺(1932~2006) とは(豊橋百科事典より)
かわい・のぶお 川合伸旺は,昭和7(1932)年4月18日,豊橋市で生まれた。豊橋時習館高等学校,舞台芸術学院を卒業,昭和27(1952)年劇団青俳に入団,「反応工程」「モンセラ」などに出演,同41(66)年劇団NLTに移り,同46(71)年フリーに。テレビ創設期のメロドラマ・丹 ...
賀茂神社(豊橋市賀茂町神山) とは(豊橋百科事典より)
かもじんじゃ 賀茂神社は,天平元(729)年,山城国賀茂別雷(かもわけいかずち)神社を勧請したといわれる。天文12(1543)年,今川氏親が神領として298貫を寄進,慶長8(1603)年,徳川家康より朱印100石を寄せられた。「三河国内神明名帳」に,「正四位下大伴明神,坐八名 ...
大口公園(豊橋市仁連木(にれんぎ)町) とは(豊橋百科事典より)
おおぐちこうえん 大口公園は,昭和60(1985)年3月30日,豊橋市仁連木町に開園(敷地面積約9066㎡)した。公園内には,初代豊橋市長・豊橋市名誉市民である大口喜六の筆による「二連木城址」の碑(大正15年)や妻栄子をたたえて建立した「大口栄子碑」(大正12年)がある ...
「一里山の一里塚」(豊橋市指定史跡) とは(豊橋百科事典より)
いちりやまのいちりづか 「一里山の一里塚」1基は,昭和50(1975)年11月8日,豊橋市史跡に指定された。 一里塚は慶長9(1604)年に徳川家康が徳川秀忠に命じて1里(約3.9㎞)ごとに築かせたものである。豊橋市域の東海道には,東から細谷・二川・飯村・下地の4か所に一 ...
一里塚 とは(豊橋百科事典より)
いちりづか 一里塚は,街道の両側に1里(約3.9㎞)ごとに木を植えた塚のことで,旅人が道程や目的地への目印としたり,馬や駕籠(かご)の賃銭を支払う目安ともした。慶長9(1604)年徳川家康の命により徳川秀忠が江戸日本橋を起点として東海道をはじめ各街道に一里塚を築き ...
池田輝政 とは(豊橋百科事典より)
いけだ・てるまさ(1564~1613) 池田輝政は,永禄7(1564)年12月29日,池田恒興の2男として清洲に生まれた。天正18(1590)年,徳川家康の関東移封によって下総臼井(千葉県佐倉市)に転封した酒井家次にかわって,東三河4郡等15万2000石を領する吉田(豊橋)城主となっ ...
葵祭(賀茂神社) とは(豊橋百科事典より)
あおいまつり 賀茂神社の大祭は,御生(みあれ)祭とか葵祭りと呼ばれ,5月に行われる。京都の賀茂別雷社(がもわけいかずち)を勧請したので,競馬をはじめ祭礼に葵を使うことは京都と同様である。 徳川家康の危機を救い,その保護を受けた故事により始まったのが,大幡(おお ...