りひょういけ 利兵池は,豊橋市岩田町にある水面積3.6ha,貯水量3万9000立方メートルの農業用ため池である。この一帯は,17世紀に新田が開発され,ため池を造った開発者の名をとって命名された。この池は,豊川(とよがわ)用水の補給池の役割を有している。また,周辺一帯0. ...
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酪農 とは(豊橋百科事典より)
らくのう 酪農は,乳牛を飼育して牛乳を生産する畜産経営の一つである。飼育乳牛は,ホルスタイン種がほとんどである。豊橋に酪農が取り入れられた歴史は,昭和12(1937)年創立の中央製乳株式会社が,豊橋・渥美・八名(やな)・宝飯郡および湖西地方一帯に,乳牛飼育を積極 ...
豊小学校(豊橋市西岩田五丁目) とは(豊橋百科事典より)
ゆたかしょうがっこう 豊橋市立豊小学校は,昭和54(1979)年4月,豊橋市西岩田五丁目に,岩田小学校区の西岩田町・三ノ輪町・春日町を校区として新設された。平成17(2005)年度,児童数473(16学級)。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありが ...
豊丘高等学校(豊橋市豊岡町) とは(豊橋百科事典より)
ゆたかがおかこうとうがっこう 愛知県立豊丘高等学校は,昭和38(1963)年4月,豊橋市岩田町野添に普通科・家政科の高等学校として発足した。昭和48(1973)年度より同63(88)年度まで,普通科は豊橋東高等学校と豊橋学校群第2群となり,平成元(1989)年3月より,複合選 ...
「三河地方知識人史料」(田﨑哲郎) とは(豊橋百科事典より)
みかわちほうちしきじんしりょう 「三河地方知識人史料」(岩田書院 平成15年)は,田﨑哲郎が三河地方を調査した江戸時代後期から明治時代前期の地方知識人関係の史料集である。 人名史料により三河地方知識人を概観的に触れ,鈴木梁満・五束斎木朶・佐野蓬宇・豊田鉉鋼 ...
窓口センター とは(豊橋百科事典より)
まどぐちせんたー 窓口センターは,昭和57(1982)年5月,豊橋市内9か所に設置された。業務は住民の身近な場所での行政サービスである。①届出書受付(戸籍・住民基本台帳・印鑑登録・国民健康保険・国民年金・福祉・学校各関係) ②証明交付(戸籍・住民基本台帳・公的年 ...
平山甚太 とは(豊橋百科事典より)
ひらやま・じんた(1840~1900) 平山甚太は,天保11(1840)年1月13日,吉田(豊橋)藩士中村哲兵衛の2男として生まれたが,吉田藩士平山清助の養嗣子となった。第八国立銀行を設立した中村道太の弟である。 明治3(1870)年,横浜ではじめて花火を打ち上げたといわれる ...
平川本町土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
ひらかわほんまちとちくかくせいり 平川本町土地区画整理事業(組合施行)は,豊橋市平川町・岩田町の41haにわたって,昭和48(1973)年度から56(81)年度に施行された。昭和55(1980)年11月8日,豊橋市平川本町一~三丁目・中岩田四丁目の町名が設定された。 - - 豊 ...
平川新田 とは(豊橋百科事典より)
ひらかわしんでん 平川新田65町余は,寛文7(1667)年,篠田村(一宮町篠田)の弥兵衛と吉田(豊橋)榎河岸の利兵衛が田尻原を開発したものである。渥美郡平川新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分670石余とある。溜池として岩崎村地内に利兵衛(りひょ ...
火打坂(豊橋市大岩町) とは(豊橋百科事典より)
ひうちざか 火打坂は,二川宿の西側で町並みを抜けた東海道が北に向かって大きくカーブした所(豊橋市大岩町)にある坂で,この火打坂のすぐ西にある岩屋山(標高78.2m)で火打石(チャート)が産出されたことが名称の由来である。ここの火打石は「三河国二葉松」(元文5年 ...
豊岡村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
とよおかむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡上岩崎村・手洗村・下岩崎村・田尻村・平川新田は合併して岩田村となったが,同17(84)年8月11日,岩田村は分離して岩崎村・岩田村となった。明治11(1878)年の郡区町村編制により,渥美郡仁連木村・ ...
豊岡中学校(豊橋市中岩田一丁目) とは(豊橋百科事典より)
とよおかちゅうがっこう 豊橋市立豊岡中学校は,昭和25(1950)年4月,青陵中学校から分離して,豊橋市岩田町中郷中の田尻八幡社境内に,岩田小学校・多米(ため)小学校を校区として設立され,同26(51)年,岩西小学校を校区とした。昭和26(1951)年,木造校舎が落成,同3 ...
「とよおか誌」(豊橋市立豊岡中学校職員会) とは(豊橋百科事典より)
とよおかし 「とよおか誌」(豊橋市立豊岡中学校 昭和57年)は,昭和25(1950)年青陵中学校(東部中学校と北部第二中学校の合併校)から分離独立した豊岡中学校から同57(82)年東部中学校が分離独立するに際しての記念誌である。豊岡中学校の呼称は,明治22(1889)年市 ...
冨安風生 とは(豊橋百科事典より)
とみやす・ふうせい(1885~1979) 冨安風生,本名謙次は,明治18(1885)年4月16日,愛知県八名郡金沢村(宝飯郡一宮町)で冨安三郎の4男として生まれた。明治43(1910)年東京帝国大学法科大学を卒業後,逓信省へ入省した。大正7(1918)年福岡為替貯金支局長として福岡 ...
土木維持事務所 とは(豊橋百科事典より)
どぼくいじじむしょ 豊橋市土木維持事務所は,昭和43(1968)年4月,豊橋市前芝町に開設した前芝建設基地に始まる。昭和52(1977)年9月,道路維持課(第12係),河川土木課(河川係)の現業部門が結集,同54(79)年4月,建設基地を前芝から豊橋市西幸(にしみゆき)町へ移 ...
土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
とちくかくせいり 土地区画整理は,大正8(1919)年の都市計画法に規定され,宅地としての利用増進を目的とした。東部土地区画整理(昭和5~13年,16万坪)では,豊橋市仲ノ町・伝馬町・池見町・大井町・住吉町・瓦町(字なし)・老松町が設定された。南部土地区画整理・仁 ...
ドーナツ化現象 とは(豊橋百科事典より)
どーなつかげんしょう 豊橋市は都市の規模が大きくなり,広小路や駅前大通にビルが立ち並び,中心業務地区(CBD)らしくなってきた。ところが,商店主や会社の社長たちは,中心部に居住せず,牛川や岩田,あるいは高師方面の閑静な土地に住宅を建てて移り住むようになった ...
東陽中学校(豊橋市岩崎町野田) とは(豊橋百科事典より)
とうようちゅうがっこう 豊橋市立東陽中学校は,昭和63(1988)年4月,豊橋市岩崎町野田に,多米(ため)小学校区・岩田小学校区のうち北岩田・東岩田を校区として設立された。平成17(2005)年度,生徒数468(16学級)。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べく ...
東部中学校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
とうぶちゅうがっこう (旧)東部中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,豊橋市向山町中畑の工兵隊跡に本部を置き,東田(あずまだ)教場(豊橋女子商業学校)・向山教場(豊橋高等女学校)・岩田教場(岩田小学校)などで,東田小学校・岩田小学校・多米(ため) ...
東三自治研究会 とは(豊橋百科事典より)
とうさんじちけんきゅうかい 東三自治研究会は,昭和3(1928)年8月17日,豊橋の新聞記者を中心に結成された。主な構成員は,委員長広田喜平(水平社豊橋支部),書記長岩田潔(参陽新報),常任幹事河合陸郎(新朝報),常任幹事浅井秀雄(豊橋日日新聞),常任幹事内田駿 ...
トウカエデ とは(豊橋百科事典より)
とうかえで トウカエデ(カエデ科)は,落葉小高木。中国原産なので漢字では「唐楓」と書く。マンサク科のフウに似ているが,トウカエデはカエデ科である。春の芽吹き,夏の緑陰,秋の黄葉・紅葉と街路樹の条件をそろえており,多く使われ,豊橋には2000本以上が植えられて ...
手洗村 とは(豊橋百科事典より)
てあらいむら 手洗の地名は,源頼朝が村内の小池で手を洗ったことに由来するという。渥美郡手洗村の村高は,「三河国村々高附」(寛政期)に50石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分59石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数7,人数32であった ...
多米土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
ためとちくかくせいり 多米土地区画整理(組合施行)は,豊橋市多米町の156haにわたって,昭和44年(1969)年度から同60(85)年度に施行された。昭和58(1983)年10月1日,豊橋市多米中町一~四丁目・多米東町一~三丁目・多米西町一~三丁目・北岩田一~二丁目の町名が設 ...
多米小学校(豊橋市多米中町二丁目) とは(豊橋百科事典より)
ためしょうがっこう 豊橋市立多米小学校は,明治6(1873)年6月,多米村の宝珠寺に義校が設置されて,翌7(74)年1月,牛川学校出張所となり,同10(77)年,多米村・赤岩村を学区とする第9中学区第85番小学多米学校となったことに始まる。明治12(1879)年,八名(やな)郡 ...
田中梅甫 とは(豊橋百科事典より)
たなか・ばいほ(1873~1942) 田中梅甫は,明治6(1873)年1月3日,旧田原藩刀匠田中正道の2男として田原に生まれた。本名雄吉,俳号梅甫。青山英和学校に学んだ。そのころ,俳諧を其角堂機一に師事した。明治27(1894)年三重県で小学校教員となり,同35(1902)年岩田小 ...
田尻村 とは(豊橋百科事典より)
たじりむら 田尻村は,寛永4(1627)年,吉田城主松平忠利によって開発された。渥美郡田尻村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に552石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分722石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数71,人数313であった ...
高足原尾先新田 とは(豊橋百科事典より)
たかしばらおさきしんでん 渥美郡高足原尾先新田は,慶応3(1867)年の開発である。高は明らかでない。明治9(1876)年の合併願では家数25,人数108である。産土神(うぶすながみ)に大山津美神社を勧請した。明治11(1878)年,高足村・芦原新田・藤並新田・森田新田・高足 ...
体育協会 とは(豊橋百科事典より)
たいいくきょうかい 財団法人豊橋市体育協会は,昭和4(1929)年4月陸上競技,野球,水泳,卓球の関係者が中心となって創立された。記念事業として豊橋蒲郡間駅伝競走大会を挙行した。昭和6(1931)年3月に理事会を開催,名称を豊橋市体育協会と改め会長に丸茂藤平市長を選 ...
ソフトボール協会 とは(豊橋百科事典より)
そふとぼーるきょうかい 豊橋ソフトボール協会は,昭和25(1950)年4月創立された。会長に小島寿女を選び、豊橋市体育協会にも加盟した。当初は学生生徒を中心に運営,昭和31(1956)年に子ども会が校区対抗大会を開催したのを機に,ソフトボールが普及した。 昭和40年代 ...
青陵中学校(豊橋市牛川町洗島) とは(豊橋百科事典より)
せいりょうちゅうがっこう 豊橋市立青陵中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴って,豊橋市立北部第二中学校として,本部を牛川小学校に置き,牛川教場(牛川小学校)・下条(げじょう)教場(下条小学校)に分散して,牛川小学校・下条小学校を校区として発足した ...
水神池(豊橋市岩田町) とは(豊橋百科事典より)
すいじんいけ 水神池は,岩田運動公園(豊橋市岩田町)の中にあり,灌漑(かんがい)用として造られた溜池である。江戸時代,豊橋市域の東北部に平川新田をはじめ多くの新田が開発された。この地域は,洪積台地上であるため水が乏しく,新田の用水を確保するために平川地内に ...
祥雲寺(豊橋市東岩田一丁目) とは(豊橋百科事典より)
しょううんじ(ひがしいわた) 如意山祥雲寺(曹洞宗)の創立は,寛永4(1627)年に開墾された田尻村に,庵真宅公座元が小庵を結んだのが始まりである。その後,寛永14(1637)年に公称寺院となった。全久院の隠居寺となり,全久院第24世郁応憲鳳和尚が開闢(かいびゃく)開 ...
十王堂 とは(豊橋百科事典より)
じゅうおうどう 十王堂とは,死後亡者の罪業(ざいごう)を裁く10人の冥界(めいかい)の王を祀る堂をいう。すなわち,秦広王,初江王,宋帝王,伍官王,閻魔王,変成王,泰山王,平等王,都市王,五道転輪王である。「十王教」に基づく考え方で,中国で成立した。亡者がその死 ...
下岩崎村 とは(豊橋百科事典より)
しもいわさきむら 延宝3(1675)年の検地によって岩崎村は上岩崎村と下岩崎村に分立した。渥美郡下岩崎村の村高は「三河国村々高附」(寛永期)に215石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分258石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数18,人数69 ...
歯科医師会(豊橋市三ノ輪町三丁目) とは(豊橋百科事典より)
しかいしかい 豊橋市歯科医師会は,大正8(1919)年9月,愛知県歯科医師会豊橋支部として発足,翌9(20)年9月,独立して豊橋歯科会(会員30)となった。昭和6(1931)年6月,学校歯科医制度発足,同18(43)年1月,国民医療法により,愛知県歯科医師会豊橋支部(会員58) ...
西福寺(豊橋市岩田町居村) とは(豊橋百科事典より)
さいふくじ(いわた) 田流山西福寺(曹洞宗)は,天文9(1540)年の創立で,開山は竜拈寺(りゅうねんじ)第4世休屋宗官和尚と伝えられる。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,下岩崎村「禅宗,田流山西福寺,吉田悟真寺末寺,平僧,客殿六間・四間,右寺内鎮守白山権 ...
琴平神社(豊橋市中岩田町一丁目) とは(豊橋百科事典より)
ことひらじんじゃ 琴平神社は,寛永4(1627)年田尻村(豊橋市岩田町[田尻])開発のとき,同7(30)年法印善立が源立寺を開創し,寺内に琴平神を勧請して鎮守としたものである。明治初年神仏分離により,社名を琴平神社と改めた。大正13(1924)年本殿・拝殿・社務所など ...
公衆便所 とは(豊橋百科事典より)
こうしゅうべんじょ 豊橋市の公衆便所は,昭和後期から本格的に整備された。第2次世界大戦以前は,豊橋市札木町の東海銀行豊橋支店裏に最初の公衆便所がつくられ,戦後は,公園などに多数設置された。昭和48(1973)年から同52(77)年まで4か所,同53(78)年から同63(88 ...
公園 とは(豊橋百科事典より)
こうえん 豊橋市は,公園と街路樹が多いことから「緑の街」と呼ばれている。平成16(2004)年度末,都市公園355か所,総面積352万4600㎡,市民1人当たり9.33㎡である。これは,1人当たりの愛知県平均面積6.62㎡を大幅に上回っている。 この緑の街豊橋の形成は,第2次世 ...
源立寺(豊橋市中岩田一丁目) とは(豊橋百科事典より)
げんりゅうじ 勝林山源立寺(浄土宗)の創立は,寛永4(1627)年で,開山は光誉善立上人,本尊は阿弥陀如来像である。善立上人については,「悟真寺古記」(寛永4年の項)に「田尻村源立寺,開基住僧満蓮社光誉和室善立和尚,元普門山ニ住職ノ由,開基四年ノ後田尻村住,落 ...
県営住宅 とは(豊橋百科事典より)
けんえいじゅうたく 愛知県は,名古屋市・一宮市などに続いて豊橋市にも昭和27(1952)年度から,鉄筋コンクリート4階建ての愛知県営住宅の建設を進めた。豊橋市内で最初に建設されたのは,瓦町住宅 4階建て3棟72戸(昭和27年入居開始)で,次いで三ノ輪住宅 4階建て2棟4 ...
上岩崎村 とは(豊橋百科事典より)
かみいわさきむら 延宝3(1675)年の,検地によって岩崎村は上岩崎村と下岩崎村に分立した。渥美郡上岩崎村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に328石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分409石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数47,人 ...
運動公園通り とは(豊橋百科事典より)
うんどうこうえんどおり 運動公園通りは,豊橋市が平成2(1990)年に道路愛称として公募して認定した道路である。東三河環状線(愛知県道31号)の豊橋市牛川通三丁目から豊橋市道(牛川通・飯村(いむれ)町1号)で,豊橋市飯村南二丁目の東三河環状線までの延長4.0㎞の道路 ...
「うたの友」(雑誌) とは(豊橋百科事典より)
うたのとも 「うたの友」は,大正14(1925)年4月,中野正人によって豊橋市岩田町の歌之友社から創刊された旧派の短歌雑誌である。大正14(1925)年10月第7号で休刊後,富田良穂の「さとのひかり」に吸収合併されたが,昭和4(1929)年3月独立した。その後,紆余曲折(うよ ...
岩西小学校(豊橋市西口町西ノ口) とは(豊橋百科事典より)
いわにししょうがっこう 豊橋市立岩西小学校は,昭和25(1950)年9月,旧陸軍豊橋第二予備士官学校の一部(豊橋市西口町西ノ口)を校舎として,岩田小学校分校として開設された。翌昭和26(1951)年,岩田小学校区の飯村(いむれ)町・岩西町・西口町・東幸(ひがしみゆき)町 ...
岩田八幡宮(豊橋市中岩田一丁目) とは(豊橋百科事典より)
いわたはちまんぐう 岩田八幡宮は,寛永4(1627)年田尻村(豊橋市岩田町[田尻])開村のとき吉田城内八幡社を勧請して産土神(うぶすながみ)としたものである。昭和24(1949)年社地を豊岡中学校建設に提供し,琴平神社に合祀されたが,同36(61)年分祀,同61(86)年新 ...
岩田第二土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
いわただいにとちくかくせいり 岩田第二土地区画整理(組合施行)は,豊橋市岩田町の111haにわたって,昭和45(1970)年度から同57(82)年度に施行された。昭和57(1982)年2月20日,豊橋市中岩田二~三・五~六丁目・東岩田一~四丁目の町名が設定された。 - - 豊橋 ...
岩田第一土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
いわただいいちとちくかくせいり 岩田第一土地区画整理事業(組合施行)は,豊橋市岩田町の51haにわたって,昭和43(1968)年度から同51(76)年度に施行された。昭和50(1975)年9月26日,豊橋市西岩田一~六丁目・中岩田一丁目の町名が設定された。 - - 豊橋市議の長 ...
岩田小学校(豊橋市中岩田四丁目) とは(豊橋百科事典より)
いわたしょうがっこう 豊橋市立岩田小学校は,明治6(1873)年,第10中学区第7番小学田尻学校として,田尻(豊橋市岩田町)の祥雲寺に勧善館が,第6番小学三ノ輪学校として三ノ輪(豊橋市三ノ輪町)の士族屋敷に至誠館が設立され,翌明治7(74)年に,勧善館分校が仁連木( ...
岩田運動公園(豊橋市岩田町) とは(豊橋百科事典より)
いわたうんどうこうえん 岩田運動公園は,昭和50(1975)年4月,豊橋市岩田町の水神池を中心とする13.8haの土地に開設された。南側部分には,スポーツ施設,北側は池周辺の散歩道と樹木のある親水公園として市民から親しまれている。 豊橋市民球場は,昭和55(1980)年6月 ...