わにぐち(とうかんのんじ) 「東観音寺の鰐口」1口(東観音寺蔵)は,平成元(1989)年3月24日,豊橋市有形文化財(工芸)に指定された。 「東観音寺(豊橋市小松原町)の鰐口」は青銅製,「三州奥郡細谷住人九郎三郎,天文弐年癸巳九月吉日」の陰刻銘があり,天文2(153 ...
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陽光寺(豊橋市植田町池下) とは(豊橋百科事典より)
ようこうじ 天徳山陽光寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,天平11(739)年で,開山は行基菩薩であると伝えられている。往古は真言宗であったが,その後の沿革についてははっきりしていない。戦国時代に乾林虎和尚が陽光寺を再興し臨済宗に改宗し,東観音寺の末寺にしたと伝え ...
谷と沢 とは(豊橋百科事典より)
やとさわ 谷は,東日本ではヤ,西日本では「タニ」と発音する。豊橋は「ヤ」である。太平洋に面した渥美半島には谷がたくさんある。また,谷川を意味する沢もある。 豊橋市東細谷町には,22字中3谷(根木谷・十ヶ谷・広谷)。豊橋市細谷町は59字中8谷(広谷・滝ノ谷・臍ノ ...
牟呂村 とは(豊橋百科事典より)
むろむら 牟呂村は,柳生川河口の渥美湾に面している。牟呂の地名は熊野の「牟婁(むろ)」に由来するとされる。渥美郡牟呂村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に1844石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に上牟呂村豊橋藩領分610石余,中牟呂村豊橋藩領分474石余・坂 ...
木槿塚(豊橋市小松原町坪尻) とは(豊橋百科事典より)
むくげづか 木槿塚は,豊橋市小松原町の東観音寺にある松尾芭蕉の句碑である。「道のへの 木槿は馬に 喰れけり」と刻まれ,詞書6行も記されている。建立年月は寛政12(1800)年夏で,当時の住職万年和尚と京都の俳人柳後園が発起人となって建立したものである。以前は本 ...
水無川 とは(豊橋百科事典より)
みずなしがわ 水無川は,豊橋市街地南東部の幸(みゆき)小学校に隣接する豊橋市江島町の清水池を水源として西に流れ,市道(弥生町・畑ヶ田町49号線)の豊栄(ほうえい)橋(豊橋市弥生町)で内張川と改称する延長1130mの梅田川水系の普通河川である。流域一帯は,昭和20(194 ...
「三河文献集成」(久曽神昇・近藤恒次) とは(豊橋百科事典より)
みかわぶんけんしゅうせい 「三河文献集成」全4冊(愛知県宝飯地方史編纂委員会 昭和38~41年)は,宝飯地方史資料13~15巻として三河国関係の文献および一般編著中の三河国関係の記事など503の資料を集成して刊行されたものである。 「三河文献集成 上世編」(「宝飯地 ...
万福寺(豊橋市小浜町) とは(豊橋百科事典より)
まんぷくじ(こはま) 宝樹山万福寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,寛治5(1091)年鎌倉時代以前の開創であり,本尊が大日如来坐像であることから往古は真言宗の寺院であったといわれている。その後,鎌倉建長寺派に転派し,天正年間(1573~92)京都妙心寺派に移って東観音 ...
本馬静也 とは(豊橋百科事典より)
ほんま・しずや(1918~98) 本馬静也は,大正7(1918)年9月29日,渥美郡二川町小松原(豊橋市小松原町)で,本馬豪二の6男として生まれた。昭和8(1933)年,豊橋高等小学校を卒業し,豊田自動織機に勤めた。昭和16(1941)年,応召,南方・満州に出征し,同20(45)年, ...
細谷村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
ほそやむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡下細谷村・上細谷村・小島村・小松原村・寺沢村・東七根(ひがしななね)村・西七根村は合併して五並(いなみ)村と改称した。明治17(1884)年8月11日,五並村は分離して下細谷村・上細谷村・小島村・小松原 ...
「法華経普門品」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
ほけきょうふもんぼん 「紺紙金泥法華経普門品」1巻(東観音寺蔵)は,昭和62(1987)年3月20日,豊橋市有形文化財(文書・典籍)に指定された。 法華経は8巻にするのが一般的であるが,装飾経になると一品ずつ分けることがある。東観音寺(豊橋市小松原町)の「法華経普 ...
二川郵便局(豊橋市大岩町東郷内) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわゆうびんきょく 明治5(1872)年渥美郡二川村に二川郵便局が設置された。明治10(1877)年,下細谷村・高足(たかし)村は高塚郵便局から二川郵便局管内となった。明治41(1908)年,高師村は二川郵便局から豊橋郵便局,翌42(09)年,二川町小島・小松原・寺沢は高 ...
「尾三測量日記」(大須賀初夫) とは(豊橋百科事典より)
びさんそくりょうにっき 「尾三測量日記」(愛知県郷土資料刊行会 昭和56年)は,享和3(1803)年,伊能忠敬(1745~1818)が第4次測量として江戸を出発し,駿河から三河,尾張,美濃,越前などを測量した日記から,三河,尾張の部分を抜き書きしたものである。 下細谷村 ...
東七根村 とは(豊橋百科事典より)
ひがしななねむら 七根村は,江戸幕府成立時は幕府領であったが,元和9(1623)年旗本戸田次郎九郎領(村高686石余)となり,寛永20(1643)年戸田忠次に300石を分知して東・西七根村となった。東七根村は,寛文8(1668)年幕府領となり,天和元(1681)年から44年間鳥羽藩 ...
「馬頭観音御正体」(国指定重要文化財) とは(豊橋百科事典より)
ばとうかんのんみしょうたい 「金銅馬頭観音御正体」「三河国小松原寺,文永八年大才辛未正月十五日」の籠字銘(かごじめい)がある1面(東観音寺蔵)は,昭和17(1942)年5月30日,国の重要美術品に認定され,同34(59)年6月27日,国の重要文化財(工芸品)に指定された。 ...
野依村 とは(豊橋百科事典より)
のよりむら 渥美郡野依村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に984石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分1179石余,八幡社領3石,嵩山寺(すざんじ)領5石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数143,人数751であった。「三州吉田領神社仏閣記」 ...
二の午の絵馬(民話) とは(豊橋百科事典より)
にのうまのえま 小松原(豊橋市小松原町)に,貧乏な男が住んでいた。男は毎日,野良仕事に励んだが,たくさんの子どもたちを養うのがやっとだった。そこで,男は家宝の品を畑仕事のできる馬と交換したが,この馬が暴れ馬で,つないでおいた綱を食いちぎり,畑や辺り一面を ...
「二天像」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
にてんぞう 「木造二天像」2躯(く)(東観音寺蔵)は,昭和55(1980)年1月16日,豊橋市有形文化財(彫刻)に指定された。 東観音寺(豊橋市小松原町)の「二天像」は,持国天と多聞天である。持国天の像高100㎝,邪鬼幅68㎝,多聞天の像高110㎝,邪鬼幅75㎝で,東観音寺 ...
西七根村 とは(豊橋百科事典より)
にしななねむら 七根村は,江戸幕府成立時は幕府領であった。しかし,元和9(1623)年,旗本戸田次郎九郎領(村高686石余)となり,寛永20(1643)年,旗本戸田忠次に東七根村300石を分知して,七根村は東・西七根村となった。渥美郡七根村の村高は,「三河国村々高附」( ...
七根村 とは(豊橋百科事典より)
ななねむら 七根村は,江戸幕府成立時は幕府領であった。元和9(1623)年旗本戸田次郎九郎領(村高686石余)となり,寛永20(1643)年旗本戸田忠次に東七根村300石を分知して,七根村は東・西七根村となった。 七根村の石高は,「三河国村々高附」(寛永期)に,七根村686 ...
戸田宣成 とは(豊橋百科事典より)
とだ・のぶなり(?~1546) 戸田宣成は,戸田憲光の2男で,戸田金七郎宣成と考えられる。生年は不詳である。永正3(1506)年父・戸田憲光とともに今橋(豊橋)城主牧野古白を滅ぼし,今橋城主となった。大永(1521~28)初年に牧野古白の子・牧野成三に追われて大崎(豊橋 ...
道路愛称 とは(豊橋百科事典より)
どうろあいしょう 豊橋市の道路愛称は,豊橋市土木部道路維持課が平成2(1990)年に幹線道路の愛称を公募し,認定したものである。通称名がそのまま道路愛称となったのは13路線で,姫街道(国道362号の豊橋市石巻本町~嵩山(すせ)町7.0㎞),豊川街道(愛知県道豊橋豊川線 ...
「銅鐸鈕」(国指定重要文化財) とは(豊橋百科事典より)
どうたくちゅう 「銅鐸鈕」1口(東観音寺蔵)は,昭和9(1934)年7月31日,国の重要美術品(考古学資料)に認定され,同61(86)年3月28日,豊橋市有形文化財(考古資料)に指定された。 昭和9(1934)年7月31日の告示に「袈裟襷(けさだすき)文銅鐸鈕」伝静岡県浜名郡白須 ...
冬至に冬瓜 とは(豊橋百科事典より)
とうじにとうがん 「冬至南瓜」という言葉が辞書に出ているが,五並(いなみ)周辺(豊橋市東細谷町・細谷町・小島町・小松原町・寺沢町)には,冬至まで冬瓜を保存しておいて食べる習慣がある。「ふるさと細谷」に「冬至南瓜,とうがんを食べ風呂に柚子の実を入れてあたたま ...
「東観音寺中世文書」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじちゅうせいもんじょ 「東観音寺中世文書」2巻(東観音寺蔵)は,昭和62(1987)年3月20日,豊橋市有形文化財(歴史資料)に指定された。 東観音寺(豊橋市小松原町)は,中世には多くの所領を持ち,寺伝では,3か村1000石の所領を持ったという。天文5(1536 ...
「東観音寺多宝塔」(国指定重要文化財) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじたほうとう 「東観音寺多宝塔」3間2層塔婆,屋根柿葺(こけらぶき)(東観音寺)は,明治40(1907)年5月27日特別保護建造物(昭和25年5月30日に国の重要文化財)に指定された。 「東観音寺多宝塔」は,昭和33(1958)年1月解体修理に着工し,翌34(59)年6月 ...
「東観音寺古境内図」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじこけいだいず 「東観音寺古境内図」1幅(東観音寺蔵)は,昭和58(1983)年3月15日,豊橋市有形文化財(絵画)に指定された。 「東観音寺古境内図」は,紙本着色,掛幅,縦166㎝,横145㎝で,作者は不明であるが,巻止めに「当山応永已前於旧跡鎮座之図」と ...
東観音寺旧伽藍址(豊橋市小松原町東ノ谷) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじきゅうがらんし 東観音寺(豊橋市小松原町)は,天平5(733)年に行基によって創建されたと伝わるが,実際にその存在が確認できるのは,現存する仏像の制作推定年代である11~12世紀ごろである。現在,東観音寺は国道42号線より北側の内陸部に位置しているが ...
東観音寺(豊橋市小松原町坪尻) とは(豊橋百科事典より)
とうかんのんじ 小松原山東観音寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,天平5(733)年であり,開山は行基菩薩と伝えられる。創立縁起は,淳和天皇・後奈良天皇御宸翰(ごしんかん)・複数の縁起書(えんぎしょ)を編集した「東観音寺御由緒書」(延宝7年)によると「行基菩薩が紀州熊 ...
東雲寺(豊橋市野依町中瀬古) とは(豊橋百科事典より)
とううんじ 陽光山東雲寺(臨済宗妙心寺派)は,永正9(1512)年の創立と伝えられているが,開基開山は不明である。永禄7(1564)年,野依(のより)村の彦坂惣兵衛経逸が寺の荒廃を惜しんで再興し,尾州下津(おりづ)村(稲沢市)正眼寺15世日山樹林和尚を請じて中興開山とし ...
寺沢村 とは(豊橋百科事典より)
てらさわむら 寺沢郷は,文永4(1267)年,高芦(たかし)庄(豊橋市高師町)から分立したという。渥美郡寺沢村の村高は,「三河国村々高附」(寛政期)に174石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に中泉支配所177石余とある。昭和4(1929)年の家数は78,人数は870であった ...
長栄寺(豊橋市一色町天獏) とは(豊橋百科事典より)
ちょうえいじ 天獏山長栄寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,行基(667~749)の足跡から見て和銅,天平(708~749)年代に駒形の地に一草庵として存在したと推測される。文治元(1185)年源平の乱に焼失した。その後,天正11(1583)年東観音寺4世玉岫和尚が本宮神社(豊橋市 ...
タブノキ とは(豊橋百科事典より)
たぶのき タブノキ(クスノキ科)は,高さ15mあまりの大木になる常緑広葉樹である。葉は有柄で葉身も大きく,10㎝を超える。その表面に光沢がある照葉樹である。冬芽は枝先にあり,赤色を帯びた芽鱗(がりん)からできており,大きくよく目立つ。木肌は灰白色で,滑らかであ ...
高根村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
たかねむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡下細谷村・上細谷村・小島村・小松原村・寺沢村・東七根村・西七根村は合併して五並(いなみ)村となった。しかし,明治17(1884)年8月11日,五並村は分離して下細谷村・上細谷村・小島村・小松原村・寺沢 ...
高豊郵便局(豊橋市高塚町西石神) とは(豊橋百科事典より)
たかとよゆうびんきょく 高豊郵便局は,明治9(1876)年,高塚郵便局として開設され,下細谷村・上細谷村・小島村・小松原村・寺沢村・東七根(ななね)村・西七根村・高塚村・東伊古部村・西伊古部村・赤沢村・城下(しろした)村・野依(のより)村・高足(たかし)村を管内にし ...
高足村 とは(豊橋百科事典より)
たかしむら 「和名類聚鈔」の渥美郡6郷中の高芦(たかし)(多加之)は,渥美郡高足村とされる。ただ,古代の高芦郷の地は梅田川下流域のみではなく,広く太平洋岸に至る地をも包含し,鎌倉時代以後多数の村が分立して今日に至っている。渥美郡高足村の村高は,「三河国村々 ...
高芦神明社(豊橋市高師本郷町本郷) とは(豊橋百科事典より)
たかししんめいしゃ 「和名類聚抄」に見える渥美郡高芦(たかし)郷,「神鳳抄」の高足(たかし)御厨はこの地で,高芦神明社は白鳳3(674)年伊勢内宮を勧請したと伝える。配祀する須勢理比売命(すせりひめのみこと)は「三河国内神明帳」の従五位上伊久佐女天神である。「三州 ...
嵩山寺(豊橋市野依(のより)町中瀬古) とは(豊橋百科事典より)
すざんじ 少林山嵩山寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,養老2(718)年とされる。寛文7(1667)年文律和尚が吉田(豊橋)奉行所へ宛てた書上(嵩山寺蔵)によると,開創以来600年余は不明なるも,寺伝によれば,建武元(1334)年夢窓国師が当地に来訪した際,現在地(豊橋市野 ...
進雄社(豊橋市小松原町今西) とは(豊橋百科事典より)
すさのおしゃ(こまつばら) (小松原)進雄社の創建は明らかでないが,口碑によれば垂仁天皇30年海岸の地に奉祀したという。その後,数度の津波によって天平5(733)年東山に奉遷,宝永4(1707)年の地震・津波によって現在の地に鎮座された。享保12(1727)年社殿を造営 ...
真福寺(豊橋市牟呂水神町) とは(豊橋百科事典より)
しんぷくじ 瑞雲山真福寺(臨済宗妙心寺派)は,由来記によれば,開元王が虚舟(うつろぶね)に乗って漂着し,この地に堂宇(どうう)を建て,行基作の聖観音像を安置したものである。古くは,天台宗であったが,貞治3(1364)年大寂常照禅師が再興し,臨済宗に改めた。開山は ...
正法寺(豊橋市小松原町坪尻) とは(豊橋百科事典より)
しょうぼうじ 正法寺(臨済宗妙心寺派)の創立年代は不明である。東観音寺の塔頭(たっちゅう)の一つとして,総門右手に位置する。東観音寺6世仲山和尚の隠寮大安軒を改めて「正法院」と称し,同じく塔頭海福院(廃寺)の黙隠文守和尚を開山とした。本尊は薬師如来坐像であ ...
下細谷村 とは(豊橋百科事典より)
しもほそやむら 細谷郷は,建久元(1190)年,高芦(たかし)の庄(豊橋市高師町)から分立したといわれる。渥美郡下細谷村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に560石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に中泉支配所634石とある。明治7(1874)年の家数134,人数688で ...
紫雲寺(豊橋市高師本郷町榎) とは(豊橋百科事典より)
しうんじ 高足山紫雲寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,文安5(1448)年で開山は不詳,明治3(1870)年の書上に「開山村中,行基勧請開山」とあるが,本寺東観音寺開山が行基であるため,後世創立の紫雲寺もこれにならって行基の名を付したものである。紫雲寺過去帳歴代住持の ...
小松原村 とは(豊橋百科事典より)
こまつばらむら 小松原の地名は,天平4(732)年,行基が創建したと伝えられる東観音寺の山号が小松原山であったことによる。しかし,永正3(1506)年「小松原山寄進状」が初見である。高芦(たかし)庄(豊橋市高師町)からの分立は,寺沢村(文永4年)や小島村(暦応4年) ...
小松原街道 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 愛知県道405号(小松原街道) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと ...
「古版木」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
こはんぎ 「古版木」2面(東観音寺蔵)は,昭和62(1987)年3月20日,豊橋市有形文化財(歴史資料)に指定された。 東観音寺(豊橋市小松原町)の馬頭観音版木は,大永6(1526)年東観音寺本尊の馬頭観音を刻したものである。縦21㎝,幅12㎝で,銘文に「願主貞意大姉寄附 ...
小浜村 とは(豊橋百科事典より)
こはまむら 渥美郡小浜村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に418石余,明治2(1869)年,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分529石余,万福寺領3石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数60,人数307であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6 ...
小島村 とは(豊橋百科事典より)
こじまむら 小島郷は,暦応4(1341)年,高芦(たかし)の庄(豊橋市高師町)から分立したとされる。渥美郡小島村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に392石余,明治2(1869)年「旧高旧領取調帳」(明治元年)に中泉支配所391石余とある。明治4(1871)年の家数167,人 ...
小沢村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
こさわむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡下細谷村・上細谷村・小島村・小松原村・寺沢村・東七根村・西七根村は合併して五並(いなみ)村と改称した。明治17(1884)年8月11日,五並村は分離して下細谷村・上細谷村・小島村・小松原村・寺沢村・七 ...
「玉岫和尚画像」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
ぎょくしゅうおしょうがぞう 「玉岫和尚画像」1幅(東観音寺蔵)は,昭和58(1983)年3月15日,豊橋市有形文化財(絵画)に指定された。 東観音寺(豊橋市小松原町)の「玉岫和尚画像」は,麻地着色,掛幅,縦91㎝,横44㎝で,永禄10(1567)年に東観音寺が妙心寺末にな ...