りんこうじ 大円山林広寺(曹洞宗)の創立は,慶長3(1598)年,本尊は観音菩薩像,開基は下条(豊橋市下条西町〔五井〕)の郷士白井麦右衛門の支流白井治郎兵衛である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,柴屋村「大円山林広寺,豊川妙厳寺末寺,平僧,客殿六間・三 ...
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八所神社(豊橋市大村町横走) とは(豊橋百科事典より)
やところじんじゃ 大村町[沖木]の八所神社は,大宝2(702)年の創建であるが,天文9(1540)年の津波で旧記などは流失したという。大村郷4か村(沖木・住吉・柴屋・大磯)の産土神(うぶすながみ)として尊崇された。また,永禄10(1567)年松原用水を造った大村の8人をも ...
「三河国宝飯郡誌」(早川彦右衛門編) とは(豊橋百科事典より)
みかわのくにほいぐんし 「三河国宝飯郡誌」(著者自刊 明治24~26年)は,明治15(1882)年および同21(88)年に宝飯郡の各村が村名・分合・位置・地勢・神社・仏閣・官庁・鉄道・学校・戸口などを調査したものを基礎として著したものである。これらの村誌を早川彦右衛門 ...
松原用水 とは(豊橋百科事典より)
まつばらようすい 松原用水は,豊川(とよがわ)右岸の水田約800haを灌漑する農業用水で,豊川用水事業に併合されている。昭和43(1968)年に愛知用水公団の事業として完成した牟呂松原頭首工(新城市一鍬田(ひとくわだ))で豊川から取水し,牟呂松原幹線水路を5.3㎞流下した ...
正岡橋(豊川(とよがわ)放水路) とは(豊橋百科事典より)
まさおかばし 正岡橋は,豊橋豊川線(愛知県道400号豊川街道)が豊川放水路を横切るところに架けられた橋である。豊橋市大村町と豊川市正岡町間を結ぶ。豊川放水路の開鑿に伴い,昭和36(1961)年3月に橋長122.5m・幅員18.0mで完成した橋である。なお,豊川放水路は,昭和4 ...
北部中学校(豊橋市下地町長池) とは(豊橋百科事典より)
ほくぶちゅうがっこう 豊橋市立北部中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,下地小学校校舎を借用して,下地小学校・大村小学校・津田小学校を校区とする北部第一中学校として発足した。昭和23(1948)年9月,北部中学校と校名を変更した。昭和24(1949)年,豊 ...
変電所 とは(豊橋百科事典より)
へんでんしょ 電力は発電所から高圧で基幹変電所に送電し,配電用変電所から需用者に配電する。明治42(1909)年,見代(けんだい)発電所(南設楽郡作手村)から豊橋変電所(宝飯郡下地町)に1万Vの特別高圧で送電したものを2200Vに降圧して豊橋市内に配電した。明治45(1 ...
福谷元次 とは(豊橋百科事典より)
ふくたに・もとじ(1860~1943) 福谷元次は,安政7(1860)年2月18日,宝飯郡柴屋村(豊橋市大村町)の林勝蔵の2男に生まれた。明治15(1882)年,豊橋札木町の旅籠(はたご)丁字屋,福谷藤十郎の養嗣子となった。明治22(1889)年,豊橋町会議員,同34(1901)年,豊橋町 ...
機杼具池(民話) とは(豊橋百科事典より)
はたごいけ 大蚊里(おがさと)(豊橋市大村町)の農家に嫁入りした気立てのいい女がいた。ところが,姑は嫁の立居振るまいに目を光らせ,ことあるごとに口出しをしては,嫁いじめをしていた。ある時,嫁が機を織っていると,織り方が遅いとつらくあたり,意地悪く罵(ののし) ...
内藤弥太夫 とは(豊橋百科事典より)
ないとう・やだゆう(生没年不詳) 大村(豊橋市大村町)の庄屋であったといわれる内藤弥太夫は,元禄4(1691)年,豊川(とよがわ)が氾濫したので,橋尾(宝飯郡一宮町橋尾)にあった灌漑(かんがい)用水の井堰(いぜき)が取水不能となり,草ヶ部(宝飯郡一宮町豊津)に移設 ...
豊橋郵便局(豊橋市神明町) とは(豊橋百科事典より)
とよはしゆうびんきょく 豊橋郵便局は,明治4(1871)年4月,豊橋上伝馬町に豊橋郵便取扱所として開業し,同6(73)年7月,豊橋郵便役所と改称した。明治8(1875)年1月,豊橋郵便局(3等)に改称した。明治5(1872)年9月,豊橋電信分局を豊橋関屋町に開設,同20(87)年 ...
豊川の渡船 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのとせん 平安時代の承和2(835)年には,飽海河の渡船を従来の2隻から4隻に増加させる太政官符が出された。これを「飽海の渡し」という。西側は宝飯郡小坂井町平井辺り(柏木の浜)と考えられ,東側ははっきりせず豊橋市の飽海・関屋・城海津・坂津などが推定され ...
豊川の蛇行 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのだこう 蛇行は,川が連続してS字状にうねって流れる状態をいい,曲流またはメアンダーともいう。豊川は新城(しんしろ)市で三河山間部から豊橋平野に出ると蛇行し,沖積平野をつくり,三河湾に注いでいる。豊橋市内では,上流から豊橋市賀茂町,下条西町,牛川町 ...
東昌寺(豊橋市大村町高之城) とは(豊橋百科事典より)
とうしょうじ(おおむら) 神寿山東昌寺(曹洞宗)の創立は,「満光寺誌」・「宝飯郡誌」によると元禄13(1700)年,はじめ大蚊里(おがさと)村(豊橋市大村町)牛頭(ごず)天王社の境内に建てられていたのを,享保19(1734)年現在地に移したとある。 「三州吉田領神社仏閣 ...
「東三偉傑史伝綜合講座」(東三文化研究会編) とは(豊橋百科事典より)
とうさんいけつしでんそうごうこうざ 「東三偉傑史伝綜合講座」第1~9輯(東三文化研究会 昭和7~10年)は,江戸時代から明治時代の東三河地方16人の偉人略伝集である。 内容は「剣客金子健四郎」(市川光宣述),「大河戸晩翠」(細島昇一述)「村上専精」(舟橋水哉述 ...
恒川敏雄 とは(豊橋百科事典より)
つねかわ・としお(1907~85) 恒川敏雄は,明治40(1907)年9月22日,渥美町(田原市)に生まれた。旧姓を桑名という。豊橋中学校,愛知第一師範学校を卒業し,豊橋市内の小学校に勤め,大村小学校の校長で退職した。教員になった後,植物学に目覚め,鳥居喜一とともに調 ...
長松院(豊橋市大村町横走) とは(豊橋百科事典より)
ちょうしょういん 堀内山長松院(曹洞宗)の創立は,天文年間(1532~1555),開山は心状霊印和尚,開基は郷士白井麦右衛門である。長松院ははじめ八名郡堀ノ内村(豊橋市下条東町)にあったので,地名をそのまま山号とした。寛文元(1661)年白井麦右衛門の血筋で大村にい ...
長光寺(豊橋市大村町北川原) とは(豊橋百科事典より)
ちょうこうじ 天金山長光寺(曹洞宗)の創立は,寺伝によると永禄元(1558)年,開山は大心宗綱座元とあるが,「宝飯郡誌」には天文21(1552)年の創立とあり,いずれが正しいか不明である。開山は宗綱法印と名乗る元高野山真言の僧であることから,開創時は真言宗であった ...
「青春」(小栗風葉) とは(豊橋百科事典より)
せいしゅん 「青春」(読売新聞連載 明治39年)は,小栗風葉(1875~1926)の代表作である。明治38(1905)年3月15日読売新聞に第1回が掲載され,翌39(06)年11月12日完結した。「春の巻」「夏の巻」「秋の巻」からなり,夏目漱石の「三四郎」(1908),森鴎外の「青年 ...
住吉村 とは(豊橋百科事典より)
すみよしむら 住吉村は,延宝4(1676)年,大村から分村したとされる。宝飯郡住吉村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に,大村柴屋・沖木・大磯・住吉2113石余とある。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,住吉村豊橋藩領分550石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年 ...
鈴木亨市 とは(豊橋百科事典より)
すずき・きょういち(1894~1969) 鈴木亨市は,明治27(1894)年5月24日,宝飯郡大村(豊橋市大村町)で生まれた。大正8(1919)年東京帝国大学法学部を卒業し,日本銀行へ入行した。昭和18(1943)年日本銀行名古屋支店長から東海銀行頭取に転じ,同44(69)年まで頭取, ...
素盞嗚社(豊橋市大村町高之城) とは(豊橋百科事典より)
すさのおしゃ(おがさと) (大蚊里(おがさと))素盞嗚社は,享禄4(1531)年牛頭(ごず)天王を勧請して鎮守とした。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,大蚊里村「牛頭天王,祢宜七太夫,右境内薬師堂」「正八幡宮,祢宜七太夫,観音堂」とある。明治5(1872)年素盞 ...
「神社を中心としたる宝飯郡史」(宝飯郡神職会) とは(豊橋百科事典より)
じんじゃをちゅうしんとしたるほいぐんし 「神社を中心としたる 宝飯郡史」(愛知県宝飯郡神職会 昭和5年)には,その当時宝飯郡に属していた現在の豊橋市大村町・長瀬町・下地町・川崎町・横須賀町・清須町・下五井町・瓜郷町・前芝町・日色野町・梅薮町も含まれている。 ...
浄円寺(豊橋市大村町黒下) とは(豊橋百科事典より)
じょうえんじ 方鏡山浄円寺(真宗大谷派)の創立は,天文3(1534)年,開山は釈了証法師,本尊は寛永9(1632)年造立の阿弥陀如来像である。天文3(1534)年はじめて一個公称寺院方鏡山浄円寺の許可を受け,天正2(1574)年吉田(豊橋)城東川毛より下リ町(豊橋市花園町) ...
珠光院(豊橋市大村町下河原) とは(豊橋百科事典より)
しゅこういん 住吉山珠光院(曹洞宗)の創立は,不明であるが,元は真言寺院で,八名(やな)郡の吉祥山の麓(新城市)にあった。兵火のため焼失したので,時の住持大心宗綱法印は,高野山救聞院(和歌山県)から伝恵心僧都作の不動明王を勧請して,天文11(1542)年現在の地 ...
下地村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
しもじむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制,同22(89)年10月1日,町村制施行の宝飯郡下地村は,同24(91)年10月16日,下地町となった。明治39(1906)年7月1日,下地町・大村・鹿菅(しかすが)村は合併して下地町と改称した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊 ...
下地町(明治39年合併) とは(豊橋百科事典より)
しもじちょう 明治39(1906)年7月1日,宝飯郡下地町・大村・鹿菅(しかすが)村は合併して下地町と改称した。昭和7(1932)年9月1日,下地町は豊橋市に合併した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006 ...
下地小学校(豊橋市下地町宮前) とは(豊橋百科事典より)
しもじしょうがっこう 豊橋市立下地小学校は,明治6(1873)年10月,第10中学区第36番小学豊麻(とよあさ)学校が開校したことに始まる。聖眼寺(しょうげんじ)を校舎とし,下地村・大村・長瀬村・行明(ぎょうめい)村を校区として発足した。明治9(1876)年8月,第10中学区第1 ...
芝屋村古屋敷(豊橋市大村町) とは(豊橋百科事典より)
しばやむらふるやしき 芝屋村古屋敷は,位置が特定できない城の一つである。豊橋市大村町地ノ神付近が城址(じょうし)と考えられているが,その西方には高ノ城という地名も残っている。「三河国二葉松」(元文5年)は,「芝屋村古屋鋪,山県三郎兵衛,暫忍居ト云」とある。 ...
柴屋村 とは(豊橋百科事典より)
しばやむら 柴屋の村名は,連歌師柴屋軒(さいおくけん)宗長が居住したことに由来するという。延宝4(1676)年,大村から分立したという。宝飯郡柴屋村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に,大村柴屋・沖木・大磯・住吉2113石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に柴 ...
柴屋神社(豊橋市大村町地ノ神) とは(豊橋百科事典より)
しばやじんじゃ 柴屋神社は,慶安3(1650)年創建され,牛頭(ごず)天王と称してきたが,明治5(1872)年素盞嗚(すさのお)社と改め,神明社を合祀した。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,柴屋村「天王,祢宜助太夫」「神明,祢宜助太夫」とある。昭和35(1960)年柴 ...
鹿菅村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
しかすがむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,宝飯郡横須賀村・薮下新田が合併して津田村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制の施行にあたって,津田村・下五井村・瓜郷村・清須新田が合併して鹿菅村と改称した。明治39(1906)年7月1日,鹿菅村 ...
シイ群落 とは(豊橋百科事典より)
しいぐんらく シイ群落は,シイ(スダジイ,コジイ)を優占種とする群落で,いわゆるシイの森を形成している。この森にはタブノキやヤブニッケイのような常緑広葉樹が生えることが多い。これらの葉の表面がテカテカ光るために,この林を照葉樹林という。低木にはヒサカキ・ ...
雇用促進住宅 とは(豊橋百科事典より)
こようそくしんじゅうたく 雇用促進事業団は,昭和36(1961)年設立され,全国各地に炭鉱離職者対策として住宅を建設した。豊橋市内には6か所ある。大村住宅 80戸(昭和39年建設)津田住宅 80戸(昭和41年建設)大岩住宅 80戸(昭和42年建設)下五井住宅 80戸(昭和43 ...
五貫森貝塚(豊橋市大村町五貫森) とは(豊橋百科事典より)
ごかんもりかいづか 五貫森貝塚は,豊橋市大村町五貫森に所在する縄文時代晩期の貝塚である。豊川(とよがわ)流域の自然堤防上(標高約2m)に形成され,A~Cの3か所の貝塚がある。明治大学により,昭和24(1949)年にA貝塚が,翌25(50)年にはB貝塚が発掘調査されている。 ...
光道神社(豊橋市大村町松浦) とは(豊橋百科事典より)
こうどうじんじゃ 光道神社(香道神社)は,慶安5(1652)年道祖神を祀り,住吉村(豊橋市大村町[住吉])の氏神としたものである。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,住吉村「住吉大明神,祢宜作兵衛」「香道子,祢宜作兵衛」とある。 - - 豊橋市議の長坂です ...
カブトエビ とは(豊橋百科事典より)
かぶとえび 甲殻類葉脚目のカブトエビは,ヒトよりもかなり昔から地球上に生息していたといわれている。カブトエビは水の底を泳ぎまわり泥を足でかき回す。草取り虫などともいわれ,形状がカブトガニを小さくしたものに似ている。 ホウネンエビは体長15~20㎜で,背を下に ...
金山社(豊橋市大村町金山) とは(豊橋百科事典より)
かなやましゃ 金山社は,貞享2(1685)年,金山彦命を祀り,大磯村(豊橋市大村町[為金])の氏神としたものである。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,大磯村「金山宮,祢宜孫兵衛」とある。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとう ...
霞堤 とは(豊橋百科事典より)
かすみてい 霞堤は,河川における洪水の被害を最小限におさえるため,堤防の一部にわざと切れ目(差し口)をつくっておき,河川が増水した時にそこから水を導き,請堤(控堤・二重堤)との間の遊水地(主として農地)に一時的に河水をプールさせて(差し水)下流部の洪水を ...
沖木村 とは(豊橋百科事典より)
おきぎむら 沖木村は,延宝4(1676)年,大村から分かれて成立したとされる。宝飯郡沖木村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に大村沖木・柴屋・大磯・住吉2113石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に沖木村豊橋藩領分513石余とあり,「吉田領戸数調」(安政5年)に ...
大蚊里貝塚(豊橋市大村町大蚊里) とは(豊橋百科事典より)
おがさとかいづか 大蚊里貝塚は,(大蚊里)素盞嗚(すさのお)神社一帯に所在する縄文時代晩期の貝塚である。大正15(1926)年に伊藤法一によって発見された。昭和23(1948)年に瓜郷遺跡調査会,同38(63)年に明治大学,平成8(1996)年に豊橋市教育委員会によって発掘調 ...
「大村八所神社と松原用水」(八所神社昇格記念誌発行委員会編) とは(豊橋百科事典より)
おおむらやところじんじゃとまつばらようすい 「大村八所神社と松原用水」(八所神社昇格記念奉賛会 昭和57年)は,八所神社の社格が八級(旧郷社)になったのを記念して刊行されたもので,八所神社祭神8柱,水の開鑿(かいさく)の犠牲となった8人の庄屋の霊を併せて祭祀す ...
「大村のシイ」(豊橋市指定天然記念物) とは(豊橋百科事典より)
おおむらのしい 「大村のシイ」1本(豊橋市大村町小見堂)は,昭和42(1967)年2月17日,豊橋市天然記念物に指定されたが,平成12(2000)年4月10日,指定が解除された。 シイは,ブナ科の常緑広葉樹である。高木,大木になるが木の質がもろく,腐りやすいため古木は珍し ...
大村小学校(豊橋市大村町地ノ神) とは(豊橋百科事典より)
おおむらしょうがっこう 豊橋市立大村小学校は,明治6(1873)年10月,下地村・大村で下地(しもじ)村の聖眼寺に第10中学区第36番小学豊麻(とよあさ)学校を設立(大蚊里(おがさと)村は瓜郷村満光寺に開設された鹿菅(しかすが)学校へ,長瀬村は海蔵寺へ通学)されたことに始 ...
大村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
おおむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,宝飯郡柴屋村・大磯村・沖木村・住吉村が合併して,大村と改称した。明治17(1884)年8月11日,大村と大蚊里村は合併して大村と改称した。明治22(1889)年10月1日の町村制施行にあたって,大村・長瀬村は合併して ...
大苅村 とは(豊橋百科事典より)
おおがりむら 大苅村は,「三河国村々高附」(寛永期)では大苅村,「三河国八郡村名附」では大賀利(おがり)である。「大蚊里」と記して「オガサト」と呼称するようになったのは近年である。宝飯郡大苅村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に大苅村234石余,「旧高旧 ...
大磯村 とは(豊橋百科事典より)
おおいそむら 大磯村は,延宝4(1676)年,大村から分かれて成立したとされる。宝飯郡大磯村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に,大村柴屋・沖木・大磯・住吉2113石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に大磯村豊橋藩領分547石余とあり,「吉田領戸数調」(安政5年 ...
牛川の渡し とは(豊橋百科事典より)
うしかわのわたし 牛川の渡しは,豊橋市牛川町洗島と同大村町高山を結ぶ豊川(とよがわ)の渡船で,豊橋市道の一部である。渡船料は無料である。始まりは,平安末期のころと考えられるが,詳細は不明である。明治末期に,八名(やな)郡下川村(豊橋市牛川町)の村営となり,昭 ...
今西卓 とは(豊橋百科事典より)
いまにし・たく(1883~1933) 今西卓は,明治16(1883)年8月7日,岐阜県揖斐郡池田村(岐阜県池田町)の今西文造の長男として生まれた。京都帝国大学電気工学科卒業後,豊橋電気株式会社の主任技術者となり,大正11(1922)年寒狭川水系の横川発電所建設に従事した。横川 ...
イチョウ とは(豊橋百科事典より)
いちょう イチョウ(イチョウ科)は,落葉高木で,高さは約30mに達し,葉は扇形であるが針葉樹の仲間である。葉は秋に黄変し,また黄色の種を結び,内に核がある。これを「ぎんなん」といい食用にする。雌雄異株で,雄の枝は上に向かって伸び,雌はやや横に張り出す。漢字 ...