豊橋市議の長坂です。島ってなんか好きです。さて、先日見つけた資料「大崎島」から、豊橋航空隊の記述を抜粋します。大崎島ができた経緯はこちらに。「天橋立」と島が豊橋にあった。もしもブラタモリ番外編 - 愛知豊橋・長坂なおと のblog http://nagasakanaoto.blog.jp/180 ...
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「天橋立」と島が豊橋にあった。もしもブラタモリ番外編
豊橋市議の長坂です。8月1日は「島の日」です。さて、以前「大崎漁業協同組合史(S49)」にあるこちらの記載をご紹介しました。私は少年の頃、父に教えられて度々大崎古城址の高台に立って、満汐のとき、またのぞきして海をみた。田原湾の防波堤のような本島の松は東から西 ...
もうすぐ海の日。豊橋の海水浴場について。
豊橋市議の長坂です。2020年は祝日が移動するようです。さて、もうすぐ海の日です。海の日の豊橋と言えば「みなとフェスティバル」が恒例です。https://www.aichi-now.jp/spots/detail/1347/昨年の海の日、ふとこんなことを。「同じ三河湾の両隣、蒲郡と田原には海水浴場があ ...
若宮八幡社(豊橋市船渡町船渡) とは(豊橋百科事典より)
わかみやはちまんしゃ(ふなと) (船渡)若宮八幡社は,大崎(豊橋市大崎町)の領主中島与五郎が船渡を開拓し,寛永8(1631)年大崎の童浦神社を移して若宮八幡社としたものである。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 ...
竜源院(豊橋市船渡町城戸中) とは(豊橋百科事典より)
りゅうげんいん 海雲山竜源院(曹洞宗)の創立は,文亀3(1503)年で,開山は西尾長円寺第4世恵明英哲和尚,開基は不明である。もと大崎(豊橋市大崎町)の地下(じげ)にあったが,慶長6(1601)年旗本中島氏が大崎領主となり,城戸中に築城した際,大崎八幡社とともに城南 ...
吉田三名水 とは(豊橋百科事典より)
よしださんめいすい 吉田三名水は,山田宗へん(1627~1708)が愛用した「栄川の泉」「御坊の井」「呉竹の井」をいう。「栄川の泉」は,羽田(はだ)八幡宮(豊橋市花田町斉藤)の北側にあった。山本貞晨(ていしん)の「三河国吉田名蹤綜録」(文化3年)には「昔日,松平豊洲 ...
養鶏 とは(豊橋百科事典より)
ようけい 豊橋の養鶏は,明治24(1891)年,大崎(豊橋大崎町)の小柳津友治が500羽規模での飼育を開始したことに始まる。その後,豊橋へ進出し,採卵養鶏に徹して,明治30(1897)年には7000~8000羽規模に発展した。小柳津友治は,アメリカから白色レグホンを輸入し,年 ...
木炭自動車 とは(豊橋百科事典より)
もくたんじどうしゃ 木炭自動車は,公式には代燃車といった。バス・トラックなどに木炭ガス発生炉を取り付け,木炭または薪を不完全燃焼させて発生した一酸化炭素を燃料として走る自動車である。 昭和12(1937)年末には,石油消費規制が強化され,翌13(38)年には,ガソ ...
藻草騒動 とは(豊橋百科事典より)
もぐさそうどう 藻草騒動は,天保14(1843)年,大崎村と東植田村,西植田村,野依(のより)村,仏飼(ぶっしょう)村,切反ヶ谷(きったがや)村の5か村が藻草場入会(いりあい)の件で争った事件である。取調べの結果関係する文書がないことで,5か村の入会は認められないと決定 ...
牟呂用水 とは(豊橋百科事典より)
むろようすい 牟呂用水は,豊川(とよがわ)の牟呂松原頭首工(新城市一鍬田(ひとくわだ) 豊川河口から25㎞地点)から取水し,豊川の左岸を牟呂松原幹線水路として流れる。豊橋市に入って,牛川台地・東田台地の西端をかすめ,市街地を抜け,さらに,羽田(はだ)台地の南端を ...
武蔵精密工業(豊橋市植田町大膳) とは(豊橋百科事典より)
むさしせいみつこうぎょう 武蔵精密工業株式会社は,昭和13(1938)年大塚美春(1905~2001)が東京市品川区で大塚製作所として創業したことに始まる。昭和19(1944)年大塚航空工業株式会社に改組した。昭和21(1946)年豊橋市大崎町に移転,社名を武蔵産業株式会社とした ...
向山 とは(豊橋百科事典より)
むかいやま 豊橋市向山町は,江戸期の仁連木(にれんぎ)村分地である。仁連木村の中央の東海道に沿った所に瓦町村が成立したのは,寛文4(1664)年で,その時,仁連木村分地となったものとされる。 仁連木村の村高は寛永期(1624~44)「三河国村々高附」に1096石余とある ...
三宅敏 とは(豊橋百科事典より)
みやけ・とし(1888~1966) 三宅敏は,明治21(1888)年3月30日,岡山県児島郡大崎村(玉野市八浜町大崎)で,三宅藤四郎の長男として生まれた。東京帝国大学医科大学医学科を卒業し,大正3(1914)年,伝染病院研究所技師を経て,大正5(1916)年,愛知県渥美郡田原病院 ...
三河港 とは(豊橋百科事典より)
みかわこう 三河港は,昭和37(1962)年5月,港湾法による豊橋港(昭和11年3月に豊川河港・前芝港・大崎港を統合して国の指定港となった),蒲郡港,田原港および西浦港が統一され,愛知県の管理港として誕生した港である。昭和39(1964)年4月に重要港に昇格した。 豊橋 ...
三河県 とは(豊橋百科事典より)
みかわけん 三河県は,三河裁判所の後を受けて明治元(1868)年6月から翌2(69)年6月まで,政府の直轄県として設置された。管轄は三河国内の旧三河裁判所管轄地(旧天領)および旗本知行地・寺社領であった。旗本知行地や寺社領の県域編入を進める過程で,静岡藩および重 ...
牧野古白 とは(豊橋百科事典より)
まきの・こはく(?~1506) 牧野氏の祖は,長山(豊川市下長山町)の一色刑部の被官として讃岐国から来住して,牧野(豊川市牧野町)に城を築き,瀬木城(豊川市瀬木町)・一色城(豊川市牛久保町)を拠点とした。 牧野成時(法名古白)は,永正2(1505)年,今川氏親(1 ...
ボラ とは(豊橋百科事典より)
ぼら ボラ(ボラ科)は,沿岸域の浅場や内湾に生息する海水魚で,水面上に跳び上がる習性をもっている。泥の中の有機物,底生の小動物や藻類などを砂や泥と一緒に食べる。胃の一部に泥や砂をより分ける器官がある。これを一般に「ぼらのへそ」と呼んでいる。日本近海では秋 ...
平安寮(豊橋市大崎町柿ノ木) とは(豊橋百科事典より)
へいあんりょう 豊橋平安寮は,昭和24(1949)年,青山周蔵が豊橋市大崎町柿ノ木(旧海軍航空隊営外酒保建物)で,戦災孤児・浮浪児を収容する養護施設を開設したことに始まる。昭和30(1955)年2月,社会福祉法人の認可を得,2歳から18歳までの保護者のいない児童・生活困 ...
船渡新田 とは(豊橋百科事典より)
ふなとしんでん 梅田川河口左岸の船渡新田は,大崎領主中島与五郎の領地拡張の意図から開発された。元和8(1622)年高柳治郎右衛門父子によって,高378石が船渡郷として開発された。このほかに大崎村内には,古新田(寛文2年)・鶴ヶ崎新田(宝暦7年)・伝六新田(文政2年 ...
船井健一 とは(豊橋百科事典より)
ふない・けんいち(1900~85) 船井健一は,明治33(1900)年8月25日,渥美郡大崎村(豊橋市船渡町)の船井七蔵の5男に生まれた。大崎尋常小学校を卒業し,海苔の養殖とアサリの採取を業とした。昭和16(1941)年から,大崎漁業協同組合理事長,同28(53)年から同30(55) ...
藤川一秋 とは(豊橋百科事典より)
ふじかわ・いっしゅう(1914~92) 藤川一秋は,大正3(1914)年9月14日,額田郡豊富村鳥川(額田郡額田町)の松下房蔵の2男に生まれたが,同村の藤川家を継いだ。愛知県庁勤務の後,昭和10(1935)年に,上京して報知新聞社に入社した。昭和14(1939)年,東京シャリング ...
富慶院(豊橋市大崎町地下) とは(豊橋百科事典より)
ふけいいん 見海山富慶院(曹洞宗)の創立は,慶長年間(1596~1615)で,開山は竜拈寺(りゅうねんじ)第13世天巌州呉和尚(?~1645),開基は田原城主戸田氏の一族で,大崎の郷士高柳長秀(?~1628)と伝えられる。 慶応元(1865)年独雄大衆和尚の時,法地に転格し竜拈 ...
福岡村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
ふくおかむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡橋良村・小池村・小池村持地高足(たかし)分地・山田村・小松新田・佐藤村・小浜村は合併して福岡村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行された。明治39(1906)年9月10日,福岡村・高師 ...
「尾三測量日記」(大須賀初夫) とは(豊橋百科事典より)
びさんそくりょうにっき 「尾三測量日記」(愛知県郷土資料刊行会 昭和56年)は,享和3(1803)年,伊能忠敬(1745~1818)が第4次測量として江戸を出発し,駿河から三河,尾張,美濃,越前などを測量した日記から,三河,尾張の部分を抜き書きしたものである。 下細谷村 ...
東三河臨海道路 とは(豊橋百科事典より)
ひがしみかわりんかいどうろ 東三河臨海道路は,御津(みと)・神野・大崎・田原地区を結ぶ道路である。昭和37(1962)年5月,西浦・蒲郡・豊橋・田原の4港が統合され「三河港」(愛知県管理港)となり,同39(64)年,重要港湾に昇格した。昭和56(1981)年3月,港大橋(神 ...
八幡社(豊橋市大崎町平地) とは(豊橋百科事典より)
はちまんしゃ(おおさき) (大崎)八幡社の勧請は天文以前であるが,天文10(1541)年願主戸田宣成,神主辻村彦太郎ならびに高柳幸太夫・彦坂藤右衛門などが建立した棟札がある。「三河国二葉松」(元文5年)に,「大崎村八幡,社領七石,神主辻村宮内」とある。 - - ...
廃藩置県 とは(豊橋百科事典より)
はいはんちけん 廃藩置県は,全国の知藩事(旧藩主)を解任し藩を政府直轄の府県とする改革であった。明治4(1871)年の廃藩置県により,全国は3府302県に区分され,三河国では豊橋,田原,半原,岡崎,西大平,西尾,西端,刈谷,重原,挙母(ころも)の10藩がそれぞれ県と ...
農協 とは(豊橋百科事典より)
のうきょう 農業協同組合(以下農協)は,昭和23(1948)年,それまでの農業会が解散して農業協同組合法に基づき,信用・購買・販売・加工・共同施設・福利厚生施設・技術指導などを主な事業内容として発足した。豊橋市内には27の農協と14の開拓農協があったが,昭和42(19 ...
日東電工(豊橋市中原町平山) とは(豊橋百科事典より)
にっとうでんこう 日東電工株式会社は,大正7(1918)年に東京大崎に電気絶縁材料製造の日東電気工業株式会社(昭和63年社名変更)が設立されたことに始まる。昭和20(1945)年5月の空襲によって大崎工場を焼失し,同21(46)年本社を大阪の茨木に移した。昭和37(1962)年 ...
南稜中学校(豊橋市植田町的場) とは(豊橋百科事典より)
なんりょうちゅうがっこう 豊橋市立南稜中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,本部を植田小学校に置き,植田教場(植田小学校)・大清水教場(植田小学校大清水分教場)・大崎教場(大崎小学校)・野依(のより)教場(野依小学校)に分散して,大崎小学校・植 ...
南陽通り とは(豊橋百科事典より)
なんようどおり 南陽通りは,豊橋市が平成2(1990)年に道路愛称として公募して認定した道路で,大山豊橋停車場線(愛知県道388号)の豊橋市中郷町の豊橋市道(大国町・往完町1号線・みなと大通り)から同大山町の豊橋渥美線(愛知県道2号 大崎街道)までの延長4.1㎞の道 ...
南部中学校(豊橋市北山町東浦) とは(豊橋百科事典より)
なんぶちゅうがっこう 豊橋市立南部中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,福岡教場(福岡小学校)・高師教場(高師小学校)・磯辺教場(磯辺小学校)に分散して,南部第一中学校として発足し,校地を豊橋兵器支廠(ししょう)跡(豊橋市北山町東浦)に求めて校 ...
中島隆功 とは(豊橋百科事典より)
なかじま・たかこと(1806~58) 中島隆功は,文化3(1806)年12月2日,備中松山(岡山県高梁(たかはし)市)藩主板倉勝政の子として生まれたが,中島勝邦の養嗣子となり,文政3(1820)年家督を継いだ。本居大平(もとおりおおひら)に国学・和歌を学び,中山美石(うまし)・ ...
豊橋乗合自動車 とは(豊橋百科事典より)
とよはしのりあいじどうしゃ 豊橋乗合自動車株式会社は,昭和18(1943)年11月1日,陸上交通事業調整法によって,東三河地方の7社が合同して,資本金70万円で設立されたものである(三谷自動車は名鉄自動車に統合し,省営自動車は統合の対象とならなかった)。豊橋乗合自動 ...
戸田宣成 とは(豊橋百科事典より)
とだ・のぶなり(?~1546) 戸田宣成は,戸田憲光の2男で,戸田金七郎宣成と考えられる。生年は不詳である。永正3(1506)年父・戸田憲光とともに今橋(豊橋)城主牧野古白を滅ぼし,今橋城主となった。大永(1521~28)初年に牧野古白の子・牧野成三に追われて大崎(豊橋 ...
都市計画 とは(豊橋百科事典より)
としけいかく 都市計画法が大正8(1919)年に施行され,豊橋市は同12(23)年7月1日都市計画法の適用を受けることが決定した。大正14(1925)年1月8日,豊橋市,宝飯郡下地町,渥美郡牟呂吉田村,高師村福岡・磯辺・高師(梅田川以北)・大崎,二川町大岩・二川(梅田川以 ...
道路愛称 とは(豊橋百科事典より)
どうろあいしょう 豊橋市の道路愛称は,豊橋市土木部道路維持課が平成2(1990)年に幹線道路の愛称を公募し,認定したものである。通称名がそのまま道路愛称となったのは13路線で,姫街道(国道362号の豊橋市石巻本町~嵩山(すせ)町7.0㎞),豊川街道(愛知県道豊橋豊川線 ...
朝鮮初中級学校(豊橋市柳生町) とは(豊橋百科事典より)
ちょうせんしょちゅうきゅうがっこう 豊橋朝鮮初・中級学校は,昭和20(1945)年10月,大崎・向山・小坂井地域に国語講習所を開設したことに始まる。昭和21(1946)年2月,大崎朝鮮人小学校を設立した。続いて豊橋市往完町に,花田朝鮮人小学校,宝飯郡小坂井町に,小坂井 ...
竜巻 とは(豊橋百科事典より)
たつまき 豊橋周辺では,地形などの関係からか,竜巻の発生が多い。昭和16(1941)年11月28日豊橋市大崎町付近から前田町方面に向かって発生した竜巻で死者が12人も出ている。 平成11(1999)年9月24日,午前11時から午後1時の間に豊橋市や蒲郡市,宝飯郡小坂井町などで4 ...
高師村(明治39年合併) とは(豊橋百科事典より)
たかしむら 明治39(1906)年9月10日,渥美郡高師村・福岡村・磯辺村・野依村・植田村・大崎村は合併して高師村と改称した。昭和7(1932)年9月1日,高師村は豊橋市に合併した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このペ ...
高師村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
たかしむら 明治11(1878)年12月20日,郡区町村編制により,渥美郡高足(たかし)村・芦原新田・森田新田・藤並新田・高足原尾先新田・高足新新田は合併して高師村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行された。明治39(1906)年9月10日,高師村・福岡村・磯辺 ...
「大地は語る」(池田芳雄) とは(豊橋百科事典より)
だいちはかたる 「大地は語る」(池田芳雄 昭和60年)は,池田芳雄が昭和37(1962)年の「新城市誌」に掲載した地学関係著作・論文50編と,愛知県農地林務部自然保護課の自然環境保全に関する調査報告書を加えた合計100編以上の著作の中から,東三河にしぼって「東愛知新 ...
大雲寺(豊橋市老津町大津中) とは(豊橋百科事典より)
だいうんじ 金福山大雲寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,文保元(1317)年で,開山は桂昌寺(豊橋市老津町)2世少林快哉禅師と伝え,往古は臨済宗建長寺派であったが,天文年中(1532~55)に妙心寺派に改めた。創立以後,中興開山梅谷禅師を経て,徳川初期の快天悦公首座が ...
税関(豊橋市神野ふ頭町) とは(豊橋百科事典より)
ぜいかん 豊橋税関支署は,昭和47(1972)年5月,豊橋市大崎町に名古屋税関豊橋出張所として設置された。昭和56(1981)年,豊橋市神野ふ頭町にある豊橋港湾合同庁舎内に移る。平成11(1999)年,豊橋税関支署と改称する。 豊橋税関支署は,管轄区域の三河港における税務 ...
神野新田 とは(豊橋百科事典より)
じんのしんでん 牟呂村地先の富久縞(ふくしま)新田・明治新田の前面に広がる広大な寄州(よりす)は,干拓の適地として早くから注目されていた。明治18(1885)年,愛知県令として赴任した勝間田稔は,旧山口藩老で第百十国立銀行(赤間関銀行)頭取の毛利祥久に,この干拓事 ...
シバナ とは(豊橋百科事典より)
しばな シバナ(ヒルムシロ科)は,多年生草本で,塩場菜の意である。草丈は20~30㎝で,細長い葉が多数出て,株をつくる。夏には株の間から穂状の花茎を出すが,花は目立たない。生育地は岸よりの海で,川の下流部,干潟の周辺,海岸線の泥地である。そこは,満潮時には海 ...
静岡藩 とは(豊橋百科事典より)
しずおかはん 静岡藩(駿河府中藩・駿府藩を明治2年6月改称)は,明治元(1868)年5月,徳川宗家を相続した田安亀之助(徳川家達)が駿府城主に任ぜられ,70万石を与えられたことに始まる。当初の所領は,駿河国一円と遠江(とおとうみ),陸奥両国とされた。しかし,陸奥国 ...
潮干狩 とは(豊橋百科事典より)
しおひがり 渥美湾に面した豊橋市梅薮町から杉山町に至る海岸は干潮の時には干潟になる。春の大潮などに際してアサリが採れる。和船でハゼなどを釣るのはかまわないが,沿岸の漁業組合が稚貝を蒔くので,入漁料が必要である。豊橋市前芝町・牟呂町の海苔養殖,牟呂町のむき ...
「三州吉田領神社仏閣記」(筆者不詳) とは(豊橋百科事典より)
さんしゅうよしだりょうじんじゃぶっかくき 「三州吉田領神社仏閣記」(筆者不詳 写半紙本仮綴1冊,墨付60丁 元禄6年)は,元文3(1738)年,戊午ノ五月吉日に書き写された写本が豊橋中央図書館に所蔵されており,昭和53(1978)年に刊行された「豊橋市史」第7巻に所載 ...
境川 とは(豊橋百科事典より)
さかいがわ 境川は,豊橋市東細谷町・湖西市白須賀町を起点とし,その名称のとおり三河国(愛知県)と遠江(とおとうみ)国(静岡県)の境界を北に向かって流れる川である。東海道本線新所原駅のすぐ西側で梅田川に合流する。延長は4.7㎞で,二級河川に属し,東海道(国道1 ...