ろうじんほけんしせつ 老人保健施設は,病状が安定しており入院による治療を必要としない寝たきり・認知症など日常生活の自立が困難な高齢者が,家庭復帰のためのリハビリ訓練や療養に必要な看護・介護および医療サービスを受ける施設である。・光生会介護老人保健施設赤岩 ...
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リス とは(豊橋百科事典より)
りす リス(ネズミ目リス科)は,頭胴長が18~20㎝の哺乳動物で,尾長が15㎝ほどである。木の洞や枝のところに小枝を集め球形の巣をつくる。昼行性で,早朝から活動を始め,木から木へ飛び回って生活し,ドングリやマツの種子など植物質のほかに,昆虫や小鳥の卵を食べる。 ...
頼朝ゆかりの長楽の桧(民話) とは(豊橋百科事典より)
よりともゆかりのながらのひのき 鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147~99)は,京の都へ上る時,鎌倉街道を豊橋市雲谷(うのや)町の普門寺から船形山を越え,豊橋市岩崎町・多米(ため)町・牛川町乗小路・石巻本町和田へと駒を進めた。豊橋市石巻本町長楽の集落にひときわ大きな桧 ...
米山伝説(民話) とは(豊橋百科事典より)
よねやまでんせつ むかし,源氏の兵が岩崎(豊橋市岩崎町)の砦(とりで)に立てこもって戦いをしていた時,周囲を敵に囲まれてしまった。川がせき止められ,飲み水や馬に飲ませる水もなくなってしまった。そこで源氏の大将は,多米(ため)村(豊橋市多米町)の徳合長者を訪ね ...
弓張山系 とは(豊橋百科事典より)
ゆみはりさんけい 弓張山系は,愛知県と静岡県の県境を北東から南西に連なる山並みで,八名(やな)弓張山地ともいい,北東部で赤石山脈(南アルプス)に連なっている。弓張山系の北部は鳶ノ巣(とびのす)山(標高669m)・城(じょう)山(657m)・弓張山(679m)・浅間(せん ...
有料道路 とは(豊橋百科事典より)
ゆうりょうどうろ 豊橋市域には,東名高速自動車道のほか,多米(ため)峠・本坂(ほんざか)トンネル・豊川橋(とよがわばし)・小坂井バイパスの4つの有料道路があった。 愛知・静岡県道4号(豊橋大知波線)は,昭和40(1965)年11月29日認定されて,翌41(66)年6月24日道路 ...
ヤマザクラ とは(豊橋百科事典より)
やまざくら ヤマザクラ(バラ科)は,落葉広葉樹で高木になる。野生のサクラであるが,植栽されることもある。花は5弁で薄い桃色で,花柄は長い。開花は新葉と同時であり,植栽されているソメイヨシノのように花が終わってから葉が開くのと異なり,華々しくはないが,新葉 ...
八名郡 とは(豊橋百科事典より)
やなぐん 八名郡は,「倭名類聚鈔」の三河8郡の1つで,「八名 也名」と表記される。多米(ため)・美和・八名・養父(やぶ)・和太・服部(はとり)・美夫の7郷がある。渥美郡とは朝倉川,宝飯郡とは豊川(とよがわ)で境し,遠江(とおとうみ)国とは赤石山脈の末端を境として,北 ...
森田光尋 とは(豊橋百科事典より)
もりた・みつひろ(1825頃~98) 森田光尋は,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂町)の八幡宮神主森田光義の子に生まれた。弘化2(1845)年,平田篤胤(あつたね)門に入る。嘉永期(1848~54)から明治5(1872)年まで,寺子屋を開いた。嘉永2(1849)年から数年の間に,「万葉長歌 ...
森緑翆 とは(豊橋百科事典より)
もり・りょくすい(1917~99) 森緑翆,本名博は,大正6(1917)年10月5日,森暁紅の子として東京で生まれた。昭和5(1930)年,中村岳陵に日本画を師事して蒼野社に入門した。昭和10(1935)年,日本美術院展試作展に入選,同12(37)年,新文展に入選した。昭和18(1943 ...
モグラ とは(豊橋百科事典より)
もぐら モグラ(食虫目モグラ科)は,体長15㎝ほどの小動物で,豊橋で生息が確認されているのはヒミズモグラとコウベモグラである。 ヒミズモグラは小型のモグラで,落葉や腐植土層の浅い部分で生活し,時には地表面にも出て活動する。ミミズやクモ類などのほかに植物の種 ...
民俗資料収蔵室(豊橋市多米(ため)町滝ノ谷) とは(豊橋百科事典より)
みんぞくしりょうしゅうぞうしつ 豊橋市民俗資料収蔵室は,旧多米小学校の校舎を利用して,昭和53(1978)年に設置された。収蔵展示品は,北設楽郡東栄町・豊根村の山村民俗資料や豊橋市海岸部での海苔養殖,糸の町豊橋を支えた養蚕・製糸や農耕などの民俗資料である。昭和 ...
美米村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
みこめむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,八名郡多米(ため)村(多米村・赤岩村が合併)・三輪村(金田村・神郷村が合併)と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制施行にあたって,多米村・三輪村は合併して美米村と改称した。明治25(1892)年12月2 ...
丸山薫 とは(豊橋百科事典より)
まるやま・かおる(1899~1974) 丸山薫は,明治32(1899)年6月8日,父の任地大分市で生まれた。父・重俊は熊本藩士の家に生まれ,内務省に勤務した。丸山薫の出生時は,大分県警察部長であった。その後,島根県知事となったが,明治44(1911)年,病気のため死去した。そ ...
丸茂藤平 とは(豊橋百科事典より)
まるも・とうへい(1882~1956) 丸茂藤平は,明治15(1882)年3月25日,長野県諏訪郡玉川村(茅野市玉川)に両角(もろずみ)彦五郎の2男に生まれたが,丸茂米作の養嗣子となった。明治41(1908)年,京都帝国大学を卒業し,高等文官試験に合格し,愛知県警察部長・京都府警 ...
本坂峠 とは(豊橋百科事典より)
ほんざかとうげ 本坂峠は,豊橋市嵩山(すせ)町から愛知・静岡の県境になっている弓張山系の鞍部を越えて静岡県引佐郡三ヶ日町本坂へ通じる標高380mの峠である。近世には本坂道(姫街道)が通り,東海道の脇往還になっていたが,曲がりくねった急坂は,明治維新後も改修され ...
宝珠堂の子守地蔵(民話) とは(豊橋百科事典より)
ほうじゅどうのこもりじぞう 今から100年ほど前のこと,大知波(おおちば)(湖西市)に住む百姓が,子が生まれるので吉田(豊橋)へ買いものに来た。遅くなったので多米(ため)峠の下の宝珠堂(豊橋市多米東町)に泊めてもらった。草鞋(わらじ)を脱ぎ,お地蔵様に手を合わせ ...
宝珠寺(豊橋市多米(ため)東町一丁目) とは(豊橋百科事典より)
ほうじゅじ 光照山宝珠寺(曹洞宗)の創立は,天正年間(1573~1592)で,開山は,竜拈寺(りゅうねんじ)第10世安国厳盛和尚とされる。寺伝によれば,はじめは東方の南脇の内炮六郷と称する山腹にあったのを,後世豊橋市多米東町の現在地に移転したと伝えられている。「三州 ...
プラタナス とは(豊橋百科事典より)
ぷらたなす プラタナス(スズカケノキ科)は,高さ約10mの落葉高木である。特にスズカケノキとモミジスズカケノキをいう。小アジアの原産で,樹皮は大きく斑状(まだらじょう)にはげ,葉は大きく掌状(しょうじょう)である。果実は球状で,数個ずつ長い柄に垂れ下がる。その ...
船形山城(豊橋市雲谷町上ノ山) とは(豊橋百科事典より)
ふながたさんじょう 船形山城は,三河と遠江(とおとうみ)の境に位置し,築城時期は明らかではないが,今川氏が三河方面への侵攻の拠点とするために築いたものとされる。 城址(じょうし)は普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の裏山にあたり,現在は東海自然歩道のルートとなっ ...
船形山(豊橋市岩崎町・雲谷(うのや)町) とは(豊橋百科事典より)
ふながたさん 船形山は,豊橋市の東部,弓張山系の南端近くにある標高276mの山で,山頂は北東部から南西部にかけてなだらかなカーブをえがいているので,東側山麓から仰ぐと山容が船底型に見える。山頂には,戦国時代に今川方により城が築かれ,現在も土塁の一部が残ってい ...
二俣線 とは(豊橋百科事典より)
ふたまたせん 二俣線は,遠美線(掛川~大井)のうち掛川~二俣間(二俣東線)と,二俣~豊橋間(二俣西線)を連結して建設されたものである。昭和9(1934)年,大井(恵那)~明知間,翌10(35)年,掛川~遠江森間が開通した。昭和11(1936)年12月1日,豊橋~新所原~三 ...
二川古窯址群(豊橋市大岩町など) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわこようしぐん 二川古窯址群は,松明峠(たいまつとうげ)南西麓を中心に分布する9~11世紀ごろの灰釉(かいゆう)陶器と緑釉(りょくゆう)陶器を生産した古窯址群である。尾張の猿投窯(さなげよう)からの技術導入によって,生産がはじめられたものであり,北は豊橋市多 ...
火打坂(豊橋市大岩町) とは(豊橋百科事典より)
ひうちざか 火打坂は,二川宿の西側で町並みを抜けた東海道が北に向かって大きくカーブした所(豊橋市大岩町)にある坂で,この火打坂のすぐ西にある岩屋山(標高78.2m)で火打石(チャート)が産出されたことが名称の由来である。ここの火打石は「三河国二葉松」(元文5年 ...
豊橋郵便局(豊橋市神明町) とは(豊橋百科事典より)
とよはしゆうびんきょく 豊橋郵便局は,明治4(1871)年4月,豊橋上伝馬町に豊橋郵便取扱所として開業し,同6(73)年7月,豊橋郵便役所と改称した。明治8(1875)年1月,豊橋郵便局(3等)に改称した。明治5(1872)年9月,豊橋電信分局を豊橋関屋町に開設,同20(87)年 ...
豊橋市(市制施行) とは(豊橋百科事典より)
とよはしし 明治22(1889)年10月1日の町村制施行により豊橋市街23町が渥美郡豊橋町となった。明治28(1895)年2月25日,豊橋町(25大字)は豊橋村(9大字)を合併した。明治39(1906)年7月16日,豊橋町(34大字)・花田村(1大字)・豊岡村(6大字)は合併して豊橋町(41 ...
豊岡中学校(豊橋市中岩田一丁目) とは(豊橋百科事典より)
とよおかちゅうがっこう 豊橋市立豊岡中学校は,昭和25(1950)年4月,青陵中学校から分離して,豊橋市岩田町中郷中の田尻八幡社境内に,岩田小学校・多米(ため)小学校を校区として設立され,同26(51)年,岩西小学校を校区とした。昭和26(1951)年,木造校舎が落成,同3 ...
「とよおか誌」(豊橋市立豊岡中学校職員会) とは(豊橋百科事典より)
とよおかし 「とよおか誌」(豊橋市立豊岡中学校 昭和57年)は,昭和25(1950)年青陵中学校(東部中学校と北部第二中学校の合併校)から分離独立した豊岡中学校から同57(82)年東部中学校が分離独立するに際しての記念誌である。豊岡中学校の呼称は,明治22(1889)年市 ...
土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
とちくかくせいり 土地区画整理は,大正8(1919)年の都市計画法に規定され,宅地としての利用増進を目的とした。東部土地区画整理(昭和5~13年,16万坪)では,豊橋市仲ノ町・伝馬町・池見町・大井町・住吉町・瓦町(字なし)・老松町が設定された。南部土地区画整理・仁 ...
徳合長者(民話) とは(豊橋百科事典より)
とくごうちょうじゃ 6世紀のころ,滝蔵人正時清(たきくらんどのしょうとききよ)という人が多米(ため)(豊橋市多米町)の東に住んでいて,「滝山長者」と名のっていた。時清は河内の国に行き,聖徳太子の説法を聞き,太子から徳合長者の名を賜(たまわ)り,太子の作った大日 ...
道路愛称 とは(豊橋百科事典より)
どうろあいしょう 豊橋市の道路愛称は,豊橋市土木部道路維持課が平成2(1990)年に幹線道路の愛称を公募し,認定したものである。通称名がそのまま道路愛称となったのは13路線で,姫街道(国道362号の豊橋市石巻本町~嵩山(すせ)町7.0㎞),豊川街道(愛知県道豊橋豊川線 ...
東陽中学校(豊橋市岩崎町野田) とは(豊橋百科事典より)
とうようちゅうがっこう 豊橋市立東陽中学校は,昭和63(1988)年4月,豊橋市岩崎町野田に,多米(ため)小学校区・岩田小学校区のうち北岩田・東岩田を校区として設立された。平成17(2005)年度,生徒数468(16学級)。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べく ...
東部中学校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
とうぶちゅうがっこう (旧)東部中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,豊橋市向山町中畑の工兵隊跡に本部を置き,東田(あずまだ)教場(豊橋女子商業学校)・向山教場(豊橋高等女学校)・岩田教場(岩田小学校)などで,東田小学校・岩田小学校・多米(ため) ...
町村合併 とは(豊橋百科事典より)
ちょうそんがっぺい 明治以後の市町村の歴史は合併の歴史である。明治11(1878)年12月20日郡区町村編制が行われ,戸長を置いた。明治11(1878)年12月28日町村分合を行った。明治9(1876)年2月14日愛知県令の通達は,一定の行政水準を維持するに足る費用負担と地租改正の ...
多米村 とは(豊橋百科事典より)
ためむら 多米村の地名は,「和名類聚鈔」(承平年間)三河国八名郡七郷の一つで「東急本」には「多木」とあり,滝に由来するともされる。しかし,平城京跡出土の和銅6(713)年,木簡に「八名郡多米里多米部麿雇米五斗」とあり,「多木」は誤りとされる。八名郡多米村の村 ...
多米の滝(豊橋市多米町) とは(豊橋百科事典より)
ためのたき 多米の滝は,豊橋市の東部,多米峠の麓にある高さは約6m,幅は数10㎝の滝である。その滝の上の小さな堂内に不動明王(体長約50㎝),および周辺の岩上に数体の石仏が祀られている。そのため,多米不動滝とも呼ばれている。赤岩口から豊橋大知波線(愛知・静岡県 ...
多米土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
ためとちくかくせいり 多米土地区画整理(組合施行)は,豊橋市多米町の156haにわたって,昭和44年(1969)年度から同60(85)年度に施行された。昭和58(1983)年10月1日,豊橋市多米中町一~四丁目・多米東町一~三丁目・多米西町一~三丁目・北岩田一~二丁目の町名が設 ...
多米峠有料道路 とは(豊橋百科事典より)
ためとうげゆうりょうどうろ 多米峠有料道路は,愛知・静岡県道路公社が管理した県境の多米トンネル(全長525m)を中心にした延長2.85㎞の道路である。昭和40(1965)年11月29日,豊橋大知波線(愛知・静岡県道4号)となった。多米峠は,昭和39年(1964)年12月に自動車通 ...
多米峠(豊橋市多米町・湖西市大知波(おおちば)) とは(豊橋百科事典より)
ためとうげ 多米峠は,豊橋市多米東町と湖西市大知波を結ぶ標高265mの峠である。弓張山系を越えて愛知県と静岡県を結ぶ峠のうち最も南に位置する。多米峠には,長い間徒歩道しかなかったが,昭和41(1966)年に多米峠有料道路が開通し,同62(87)年に豊橋側にあった料金所 ...
多米小学校(豊橋市多米中町二丁目) とは(豊橋百科事典より)
ためしょうがっこう 豊橋市立多米小学校は,明治6(1873)年6月,多米村の宝珠寺に義校が設置されて,翌7(74)年1月,牛川学校出張所となり,同10(77)年,多米村・赤岩村を学区とする第9中学区第85番小学多米学校となったことに始まる。明治12(1879)年,八名(やな)郡 ...
多米城(豊橋市多米町寺門) とは(豊橋百科事典より)
ためじょう 多米城は,「三河国古今城塁地理誌」によれば,多米元益の城である。元益城ともいう。城址(じょうし)は豊橋市民俗資料収蔵室から豊橋大知波線(多米街道)を東へ300mほど進んだ辺りである。遺構など城址を示す形跡はなく,規模,時期も不明である。 - - 豊 ...
多米街道 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 愛知・静岡県道4号(豊橋大知波線) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂な ...
玉川村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
たまがわむら 明治11(1878)年12月20日の,郡区町村編制により,八名郡神ヶ谷村(明治8年7月神ヶ谷村は森岡新田を合併)・高井村・長楽村・和田村は合併して玉川村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制施行,同39(06)年7月1日,多米(ため)村・三輪村・玉川村・ ...
滝ノ谷廃寺 とは(豊橋百科事典より)
たきのやはいじ 滝ノ谷廃寺は,豊橋市多米町滝ノ谷にある中世から近世ごろの寺院跡である。多米峠北側の谷の奥にあり,頂上に近いところから中腹にかけて遺構が見られる。遺構は平らに造成された平場が13か所あり,石垣で囲まれたものも見られる。滝ノ谷廃寺は,坊舎6院を ...
高山学園(豊橋市多米(ため)町野中) とは(豊橋百科事典より)
たかやまがくえん 豊橋市高山学園は,昭和35(1960)年5月,豊橋市飯村(いむれ)町高山に知的障害児の通園施設として開園した。昭和46(1971)年3月,木造園舎の老朽化と入園児の状況から,敷地の広い豊橋市多米町野中の旧老人ホーム跡へ新築・移転した。昭和48(1973)年, ...
総合老人ホームつつじ荘(豊橋市飯村(いむれ)町高山) とは(豊橋百科事典より)
そうごうろうじんほーむつつじそう 豊橋市総合老人ホームは,つつじ荘と称し,昭和27(1952)年3月,豊橋市養老院として,豊橋市多米(ため)町地内に建設されたことに始まる。昭和38(1963)年8月,豊橋市養護老人ホームに名称を変更,同45(70)年4月,豊橋市飯村町高山へ ...
赤岩寺(豊橋市多米町赤岩山) とは(豊橋百科事典より)
せきがんじ 赤岩山赤岩寺(高野山真言宗)の創立は寺伝によると聖武天皇の勅願により神亀3(726)年行基菩薩が開創したとある。本尊は阿弥陀如来像で室町期の仏像である。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,多米村「真言宗,赤岩山法言寺,高野平等院末寺,法印, ...
青陵中学校(豊橋市牛川町洗島) とは(豊橋百科事典より)
せいりょうちゅうがっこう 豊橋市立青陵中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴って,豊橋市立北部第二中学校として,本部を牛川小学校に置き,牛川教場(牛川小学校)・下条(げじょう)教場(下条小学校)に分散して,牛川小学校・下条小学校を校区として発足した ...
晴雲寺(廃寺) とは(豊橋百科事典より)
せいうんじ(はいじ) 屏風山晴雲寺の創立,開山などは不明である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,多米村「浄土宗屏風山清雲寺,境内百九十八間・二百八十二間,御津大恩寺支配」とある。明治維新前までは,木版尊像を頒布していたが,大恩寺(宝飯郡御津町)に ...
嵩山村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
すせむら 明治11(1878)年12月20日の,郡区町村編制により,八名郡嵩山村・長彦村・月ヶ谷(わちがや)村は合併して嵩山村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制施行,同39(1906)年7月1日,多米(ため)村・三輪村・玉川村・嵩山村・西郷村は合併して石巻村と改称し ...