愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:吉田藩

りんざいじのきょうもん  「臨済寺の経文」8点(臨済寺蔵)は,昭和39(1964)年5月19日,豊橋市有形文化財(文書・典籍)に指定された。 「臨済寺の経文」は,吉田(豊橋)藩主小笠原家から菩堤寺臨済寺(豊橋市東田町西郷)に奉納されたもので,経文8点は,吉田藩主小笠 ...

⇒ 「諸国風俗問状三河国吉田領答書」(中山美石) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知 ...

よしだはんふしんぶぎょうにっき  「吉田藩普請奉行日記」(豊橋市 平成14年)は,豊橋市史々料叢書の第5集として刊行された。原本は,豊橋市美術博物館蔵で,天保14(1843)年から弘化4(1847)年までの5年間で,9冊に構成されている。「吉田藩普請奉行日記」は,吉田(豊 ...

よしだはんにっきるい  「吉田藩日記類」115冊(豊城神社蔵)は,平成9(1997)年6月24日,豊橋市有形文化財に指定された。 豊城(とよき)神社(豊橋市東田町北蓮田)蔵「吉田藩日記」類115冊中には,江戸後期の吉田藩政にかかわる覚書留が66冊ある。文化期の14年間が欠けて ...

よしだはんにっき  「吉田藩日記」(豊橋市 昭和55年)は,豊橋市史々料叢書の第1集として刊行された。豊橋市史々料叢書は,豊橋市史編集の過程で史料編(第5・6・7・8巻)を編集する際,収録できなかった史料の中で,未翻刻の重要史料を順次刊行するものである。「吉田藩 ...

よしだはんたいきゃくじょ  吉田(豊橋)藩対客所は,御馳走(ごちそう)屋敷ともいい,東海道を重要な人々が通る場合に吉田藩として,接待の儀礼を行ったところである。吉田城の正門である大手門の前には,西側に高札場があり,東側には対客所があった。江戸時代には吉田宿を ...

よしだはんかろうにっき  「吉田藩家老日記」(豊橋市教育委員会 平成17年)は,豊橋市史々料叢書の第6集として刊行された。「吉田藩家老日記」は,吉田藩の家老を務めた西村次右衛門・同孫次右衛門が公私にわたる事柄を記した日記である。原本は,旧吉田藩主大河内家に伝 ...

よしだはん  吉田藩は,三河国吉田に置かれた藩で,藩主はいずれも譜代大名であった。15万石の池田輝政が姫路に移ると,松平(竹谷)家清が慶長6(1601)年,3万石で入封して吉田藩が成立した。以後,松平(深溝)氏・水野氏・小笠原氏・久世氏・牧野氏・松平(大河内)氏・ ...

よしだはりこめん  吉田の張子面は,江戸末期吉田藩の下級武士の手内職に端を発するとされている。太田南畝(おおたなんぽ)(蜀山人)の「改元紀行」文中に「…童の弄(もてあそ)びもの多し,獅子の形,仮面の形,鄙(ひな)びたり」の記述があり,吉田宿で子どもの玩具として張 ...

よしだこまびきせん  吉田駒曳銭は,幕府が寛永13(1636)年末,新銭の鋳造を全国的に拡大することを決め,寛永14(1637)年8月「鋳銭所」増設の制を発令したことに端を発する。全国に8か所「鋳銭所」が指定され,吉田(豊橋)藩も命令を受けた。幕府は,各銭座における新銭 ...

よしだ  吉田は豊橋の旧称である。その名は古く,天慶3(940)年に伊勢神宮の神戸が飽海(あくみ)郷に置かれ,その後この中に吉田御園を設置したとあることから,すでに平安時代に吉田と呼ばれていた地域があったことを示している。 一方,永正2(1505)年に牧野古白が築い ...

やまだ・そうへん(1627頃~1708)  山田宗へん,本名周学は,京都二本松(上京区)の出身(「参河名所図絵」には,渥美郡大草村の生まれとある)で東本願寺の末寺長徳寺5世を継いだ。初名を周覚,宗円といい,生来茶を好み,6歳にして小堀遠州に師事する。18歳の時,千宗旦 ...

やなぎもと・じょうせい(1879頃~1964)  柳本城西,本名満之助は,明治12(1879)年,渥美郡豊橋町関屋の元吉田藩弓術指南の家に生まれた。私立中学豊橋時習館に学び,医術開業試験に合格して,豊橋病院外科の医局員となった。明治36(1903)年,「無花果(いちじく)短歌会 ...

もり・ぎょうすけ(1825~98)  森暁助は,文政8(1825)年11月20日,渥美郡越戸村(田原市越戸町)の農業孫兵衛の2男に生まれた。吉田(豊橋)の鍛冶屋に奉公したが,天保8(1837)年12歳の時,吉田藩神道無念流師範亀井六五左衛門の弟子となった。天保12(1841)年,江戸 ...

みちしるべいなり  明和(1764~1772)のころ,吉田(豊橋)藩主松平伊豆守が二川(豊橋市二川町)の山中で濃霧にまかれ,道に迷ってしまった。途方にくれた伊豆守が神に念じると,忽然と一方の霧が晴れ,前方に稲荷社が現れた。その方角に歩いていくと無事,街道に出ること ...

みかわのくによしだめいしょうそうろく  「三河国吉田名蹤綜録」2巻(個人蔵)は,昭和58(1983)年3月15日,豊橋市有形文化財(歴史資料)に指定された。 「三河国吉田名蹤綜録」は宝飯郡下地村(豊橋市下地町)の山本貞晨(1775頃~1821)が文化3(1806)年ごろ流行した ...

みかわとおとうみのしてきけんきゅう  「三河遠江の史的研究」(歌川学遺作集刊行会 昭和59年)は,愛知大学の歌川学遺作集刊行会によって編集発行された。 本書の中で,「東三河における条里制の遺構」についての論考は古代穂の国を考える上で重要である。また,神野新田 ...

みかわさいばんしょ  三河裁判所は,明治新政府の地方民政機関である。裁判所は全国で12か所設置された。三河裁判所は,明治元(1868)年4月から同元(68)年6月まで,吉田(豊橋)関屋町の悟真寺に置かれた。三河・遠江(とおとうみ)・駿河の3国を管轄区域とし,幕府直轄領 ...

みうら・へきすい(1841~1915)  三浦碧水は,天保12(1841)年11月29日,吉田(豊橋)藩札元三浦深右衛門の2男に生まれた。幼名を陽次郎といい,字(あざな)を温夫と称した。文久のころ(1861~64),江戸に出て幕臣高畠眉山について西洋流兵学・砲術を学ぶ。慶応4(1868) ...

まみづかむらわたなべけもんじょ  「三州渥美郡馬見塚村 渡辺家文書」(愛知大学綜合郷土研究所 昭和52~平成11年)は,愛知大学創立30周年記念事業の一環として「愛知大学綜合郷土研究所資料叢書」の刊行が計画され,その叢書の第1~7集として22年かけて出版されたもので ...

まつだいら・のぶひさ(1829~88)  松平(大河内)信古は,文政12(1829)年4月23日,越前国鯖江(鯖江市)藩主間部詮勝(まなべあきかつ)の2男に生まれた。嘉永2(1849)年7月27日,松平(大河内)信璋(のぶあき)の没後,末期養子として吉田(豊橋)藩主に迎えられた。嘉永 ...

まつしましんでん  松島新田は,寛文7(1667)年,柳生川河口右岸に吉田(豊橋)藩士野部与次右衛門・堀惣助,馬見塚村孫平次によって開発された新田である。渥美郡松島新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分287石余とある。「吉田藩領戸数調」(安政5年 ...

まつざか・しげます(1805~70)  松坂重賜,字賚(たまう)は,文化2(1805)年4月20日,田中新田(豊橋市牛川町)5代松坂重(しげ)たねの子として生まれた。文化13(1816)年,父・松坂重たね没後6代を相続,分家した姉婿松坂忠慎が後見した。文政元(1818)年,吉田(豊橋) ...

まつい・ゆずる(1839~1911)  松井譲は,天保10(1839)年12月10日,吉田(豊橋)藩重役の家に生まれた。通称を郷左衛門といった。嘉永7(1854)年,家督を継ぎ,近習・者頭・用人並を経て,慶応2(1866)年,中老之通に昇進した。明治維新にあたって,豊橋藩権大参事とし ...

まえしばみなと  前芝湊は,豊川(とよがわ)河口部右岸,前芝村にあった湊である。天文17(1548)年,今川義元が伊奈城(宝飯郡小坂井町)の本多忠俊に「蔵(前)芝湊并湊役」を含む旧領を保証しているので,それ以前から湊としての機能を果たしていたことがわかる。江戸時代 ...

まえしばのとうみょうだい  「前芝の燈明台」19.8㎡(豊橋市前芝町青木地先堤防)は,昭和32(1957)年9月19日,豊橋市文化財に指定され,同40(65)年5月21日,愛知県史跡に指定された。 「前芝の燈明台」は,豊川(とよがわ)の河口部右岸,前芝村の西端青木新田の堤防上に ...

ほづみ・せいけん(1836~74)  穂積清軒は,天保7(1836)年1月,吉田(豊橋)藩士穂積喜左衛門の長男として江戸藩邸に生まれた。名を清七郎といった。はじめ坪井信道について蘭学を学んだが,安政6(1859)年,江戸九段坂上の村田蔵六の蘭学塾に入った。文久2(1862)年 ...

へいりんじ  金鳳山平林寺(臨済宗妙心寺派)は,埼玉県新座市野火止にある松平(大河内)三家(三河国吉田藩主・上野国高崎藩主・上総国大多喜藩主)の菩提寺である。はじめ永和元(1375)年太田道灌の父である太田道真によって岩槻(いわつき)(埼玉県岩槻市)に創建され, ...

ふじもり・よしお(1857~1908)  藤森彦男は,安政4(1857)年7月8日,吉田(豊橋)藩士岡本彦三郎の長子として江戸藩邸に生まれた。明治元(1868)年,吉田藩士藤森庄六の養嗣子となった。吉田藩儒村井楽所・児島閑窓に学ぶ。明治8(1875)年,愛知師範学校に入学した。明 ...

ふくたに・すいちく(1787頃~1850)  福谷水竹は,吉田西町(豊橋市松葉町)の油屋で,福谷藤左衛門世黄(よつぎ)という吉田藩の御用達であった。赤守の号で狂歌を作っていたが,文政4(1821)年ごろから,岡崎の鶴田卓池(1768~1846)に,師事して俳諧を学んだ。 嘉永元 ...

ふくしま・けんきち(1768頃~1836)  福島献吉は,吉田(豊橋)藩士福島伝蔵思斎の子として生まれた。文政3(1820)年,吉田藩主松平信順(のぶより)に新田開発見込書を提出し,その許可を得た。養子留吉の実父柴田猪助善伸の協力を得,豊川(とよがわ)河口左岸に150町歩を開 ...

ふかい・せいか(1827~88)  深井清華は,文政10(1827)年1月15日,吉田(豊橋)藩の家老深井藤右衛門資敬の子として生まれた。深井家は,藩祖松平伊豆守信綱の生母の里方にあたるので,藩士の中では格別の家柄で,禄高700石,代々吉田藩の重職を務めてきた。清華は雅号 ...

ひらやま・じんた(1840~1900)  平山甚太は,天保11(1840)年1月13日,吉田(豊橋)藩士中村哲兵衛の2男として生まれたが,吉田藩士平山清助の養嗣子となった。第八国立銀行を設立した中村道太の弟である。 明治3(1870)年,横浜ではじめて花火を打ち上げたといわれる ...

ひこさか・きくさく(1803頃~79)  彦坂菊作は,吉田御輿休(みこしやすみ)町(豊橋市新本町)の田中嘉兵衛の長男として生まれた。吉田新銭町(豊橋市広小路三丁目)の彦坂喜平の養嗣子となった。天保5(1834)年,牧野伝蔵から関流和算の免状を受ける。江戸に出て和田寧に ...

はんこうじしゅうかん  藩校時習館は,宝暦2(1752)年7月13日吉田(豊橋)藩主松平信復(のぶなお)の命により創立された。信復の師で荻生徂来の門人三浦竹渓によって,藩校創立の構想が練られたとされている。「時習」は「論語」学而篇の冒頭に由来する。藩随一の書家北原忠 ...

ばくまつびしょうねんろく  「幕末美少年録─上野彰義隊の春田道之助─」(天佑書院「浜田弥兵衛」所収 昭和17年)は,長谷川伸が吉田(豊橋)藩士春田道之助の手記をもとに,昭和13(1938)年「オール読物」の臨時増刊号に掲載した短編小説で,原題は「彰義隊の美少年」で ...

はが・じろきち(生没年不詳)  芳賀次郎吉は,渥美郡高足(たかし)村(豊橋市高師町)の神官芳賀庄兵衛の子であるが,生没年ははっきりしない。吉田(豊橋)藩鉄砲組の士であったが,手内職として毛筆製造をしていた。廃藩により職を免ぜられたので,毛筆製造を専業にしよう ...

のざわ・ゆうさい(1838~1918)  野沢卯之助,号右斎は,天保9(1838)年6月6日,吉田(豊橋)藩士山内門兵衛の2男に生まれたが,万延元(1860)年吉田藩士野沢家を継いだ。明治4(1871)年吉田藩江戸詰となり,日本橋大黒屋で売薬・ビール・雑貨などを商い,京橋で舶来品 ...

にしむらじえもんにっき・みうらふかえもんにっき  「西村次右衛門日記(補遺)・三浦深右衛門日記」(豊橋市 平成6年)は豊橋市史々料叢書三として翻刻・出版されている。「西村次右衛門日記」は吉田藩(豊橋)の家老の要職にあった西村次右衛門為周が記した公私日記であ ...

なるさわむら  成沢村は,慶長9(1604)年ごろ,西郷村から分立したとされる。八名郡成沢村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に47石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分57石余とある。「吉田藩戸数調」(安政5年)によれば,家数12,人数44であった。神社 ...

なかむら・きよゆき(1822頃~86)  中村清行は,吉田(豊橋)藩士成瀬正普の第4子として生まれ,中村家を継いだ。通称荘助,吉田藩代官を務めた。明治元(1868)年大総督有栖川宮の東征に従って東京に留まり,大蔵省に出仕,権大丞となった。統計頭で退職し,第十五国立銀 ...

ながお・かよう(1824頃~1913)  長尾華陽は,遠州(浜松市)に生まれた。若いころ,江戸に遊学し,漢学を大橋訥庵に,書を巻菱湖に,画を椿椿山(つばきちんざん)について学ぶ。諱(いみな)を正名・華陽・守拙庵・不休斎と号した。 帰郷した後,吉田(豊橋)本町の呉服商奈 ...

とよはしらいどうひょうき  「豊橋雷動ひょう記」(三興社 昭和11年)は,参陽新聞社主事の近藤鹿堂(健吉)が,「喧嘩は停滞腐敗する時代を促進洗滌(せんじょう)し,生動する波瀾(はらん)・刺激である」と定義して,明治維新から昭和11(1936)年までの豊橋の動向を相対立 ...

とよはしはん  吉田(豊橋)藩は,明治2(1869)年6月,政府の指示により豊橋藩と改称した。吉田藩は,他に伊予吉田藩(愛媛県北宇和郡吉田町)があったからといわれている。 政府は明治2(1869)年6月の版籍奉還を機に,紛らわしい同名の藩は1藩を残して他を改称すること ...

とよはししししりょうへん  「豊橋市史」史料篇(豊橋市役所 昭和35年~41年)は,通史編纂に先立ち,豊橋市にとって重要な史料を翻刻する必要性から,昭和35(1960)年に始まった。以来,毎年1冊ずつ刊行し,昭和41(1966)年の「豊橋市史」史料篇七まで続いた。主な収録 ...

とよはししこうかいどう  「豊橋市公会堂」鉄筋コンクリート造り3階建て,建築面積1202㎡(豊橋市八町通二丁目)は,平成10(1998)年9月2日,国の文化財登録原簿に登録された。 「豊橋市公会堂」の建設の経緯は,大正11(1922)年豊橋市議会で,八町高等小学校跡地(吉田 ...

とよはししきしょう  豊橋市の徽章である千切(ちぎり)マークは,江戸時代に吉田(豊橋)藩主であった松平大河内家の馬印に由来する。大河内家文書「軍中御馬印」によれば,幾つかの馬印の中に「千切小御馬印」が図とともに記載されている。この「千切小御馬印」を真横から見 ...

とよはし  明治2(1869)年6月19日,版籍奉還に際して吉田(豊橋)藩は豊橋藩と改名させられた。明治維新政府によって,伊予国(愛媛県)に同名の吉田藩があるので,それと混交して誤りやすいため,改名を命ぜられたとされる。命令を受けて,明治2(1869)年5月23日,豊橋・ ...

とよきじんじゃ  豊城神社は,正徳2(1712)年松平信祝(のぶとき)が下総古河からの転封に際して,先祖の霊を吉田(豊橋)城二の丸に移したもので,藩祖源頼政を祀ったものである。廃藩の際宮下町(豊橋市今橋町)の秋葉神社に合祀したが,明治18(1885)年陸軍豊橋分営(歩 ...

としみつ・せんあん(生没年不詳)  利光仙庵は,吉田(豊橋)の町医の家に生まれた。長崎遊学中に中川五郎治がロシアから持ち帰った種痘書を馬場佐十郎が翻訳した「遁花秘訣」を入手し,嘉永3(1850)年「魯西亜牛痘全書」と題して板行した。さらに「引痘夜話」を著した。 ...

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