りゅうねんじ 吉田山竜拈寺(曹洞宗)の創立は享禄元(1528)年,実質開山休屋宗官和尚が,福厳寺(小牧市)始祖盛禅洞しゃく和尚を開山とし,吉田(豊橋)城主牧野信成が亡父・古白の23回忌追善のために建てたとする説と,従来あった寺院跡に大永(1521~28)初年ごろ牧野 ...
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吉田24町 とは(豊橋百科事典より)
よしだ24ちょう 東海道吉田の宿は,慶長6(1601)年,松平(竹谷)家清以来の譜代の城下町であった。また,慶長6(1601)年,徳川家康が東海道に伝馬の制を実施して以来の宿場町であり,吉田川(豊川)の河口を扼(やく)する湊町である。江戸時代を通じての町数は,24町であ ...
吉田神社(豊橋市関屋町) とは(豊橋百科事典より)
よしだじんじゃ 吉田神社は,古くは天王社・牛頭(ごず)天王・吉田天王社と称した古社で,治承2(1178)年源頼朝が普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)に滞在したとき,戦勝祈願のため家臣を代参させ,三河守護安達藤九郎盛長も社殿を造営したという。天文16(1547)年今川義元 ...
吉田方村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
よしだがたむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚村・高須新田が合併して豊田村と改称したが,同17(84)年8月11日豊田村は分離して,東豊田村・西豊田村と改称した。明治11(1878)年12月20日の編成により,茅野新 ...
吉田方中学校(豊橋市吉川町) とは(豊橋百科事典より)
よしだがたちゅうがっこう 豊橋市立吉田方中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,吉田方小学校および帝国鑿岩機(さくがんき)工場の一部を借用し,吉田方小学校を校区とする豊橋市立西部第三中学校として発足した。昭和23(1948)年4月,豊橋市吉川町に校舎を新 ...
吉田方小学校(豊橋市吉川町) とは(豊橋百科事典より)
よしだがたしょうがっこう 豊橋市立吉田方小学校は,明治6(1873)年10月,第10中学区第5番小学吉川学校が三ッ相(みつあい)村・吉川村・野田村を通学区域として,吉川村の香福寺に発足し,同8(75)年8月,渥美郡第6番小学高洲学校(高洲新田・馬見塚村・青竹新田・富久縞 ...
吉前新田 とは(豊橋百科事典より)
よしざきしんでん 吉前新田は,豊川(とよがわ)河口左岸に位置する。明治25(1892)年,浅野喜七郎・青木平太郎・同和市・同重五郎・西土文八・藤井平三・伊庭(いば)喜市・中村兼四郎・小柳津(おやいづ)治郎右衛門・吉原裕太郎・宅間菊太郎の11名の土着資本家の手で,海面を ...
吉川村 とは(豊橋百科事典より)
よしかわむら 渥美郡の吉田方5か村は,寛永15(1638)年,羽田(はだ)村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚村に分立したという。渥美郡吉川村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)では吉田中3032石余である。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,吉川村豊橋藩領分297石余 ...
牟呂吉田村(明治39年合併) とは(豊橋百科事典より)
むろよしだむら 明治39(1906)年7月16日,渥美郡牟呂村・吉田方村は合併して牟呂吉田村と改称した。昭和7(1932)年9月1日,牟呂吉田村は豊橋市に合併した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12 ...
牟呂村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
むろむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡上牟呂村・中牟呂村・下牟呂村・松島新田・富田新田・上ノ原新田・草間村・向草間村・松井新田は合併して磯辺村と改称した。明治17(1884)年8月11日,磯辺村は分離して牟呂村(上牟呂村・中牟呂村・下牟呂 ...
向山大池(豊橋市向山町・向山大池町) とは(豊橋百科事典より)
むかいやまおおいけ 向山大池は,古く承応3(1654)年に吉田(豊橋)藩主が築造させた溜池である。かつては,面積10町2反4畝29歩(約10ha)もあった文字通りの大きな池であった。この水は,吉田城下の下水道に引き入れられ,吉田城の外堀にも供給され,吉田方の水田まで流 ...
三ツ相村 とは(豊橋百科事典より)
みつあいむら 吉田方5か村は,寛永15(1638)年,羽田(はだ)村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚(まみづか)村に分立したという。渥美郡三ツ相村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)では吉田中3032石余である。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,三ツ相村豊橋藩領分2 ...
みかん とは(豊橋百科事典より)
みかん みかんは,果樹園芸で,豊橋は西に蒲郡,東に三ヶ日といった温州(うんしゅう)ミカンの大産地にはさまれており,温州みかんを中心に甘夏・伊予柑(いよかん)などの中晩柑橘が栽培されている。主に,南部の二川地区,西部の吉田方地区で栽培される。平成3(1991)年, ...
馬見塚村 とは(豊橋百科事典より)
まみづかむら 永正2(1505)年,牧野古白が馬見塚と飽海(あくみ)の地に今橋城を築いたという。また,馬見塚のもとの地は,後の吉田(豊橋)城の地である。今川氏親は,馬見塚の替え地として,渡辺平内次に三ツ相村120貫文をあてがったという。吉田方5か村は,寛永15(1638 ...
松葉小学校(豊橋市大橋通三丁目) とは(豊橋百科事典より)
まつばしょうがっこう 豊橋市立松葉小学校は,明治26(1893)年4月,豊橋町立豊橋第三尋常小学校として,本校を西八町,分教場を船町に設置し,豊橋町船町・湊町・上伝馬町・松葉町などを校区として開校したことに始まる。明治30(1897)年1月,校舎を豊橋町松葉町に新築・ ...
法香院(豊橋市野田町野田) とは(豊橋百科事典より)
ほうこういん 春光山法香院(浄土宗)の創立は,天文3(1534)年であり,開山は光誉春応上人,本尊は阿弥陀如来坐像である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,野田村「浄土宗,法香院,吉田悟真寺末寺,平僧,客殿三間半・四間,境内東西十九間・南北廿六間,右寺内 ...
彦坂菊作 とは(豊橋百科事典より)
ひこさか・きくさく(1803頃~79) 彦坂菊作は,吉田御輿休(みこしやすみ)町(豊橋市新本町)の田中嘉兵衛の長男として生まれた。吉田新銭町(豊橋市広小路三丁目)の彦坂喜平の養嗣子となった。天保5(1834)年,牧野伝蔵から関流和算の免状を受ける。江戸に出て和田寧に ...
「羽田名蹤綜録」(山本貞晨) とは(豊橋百科事典より)
はだめいしょうそうろく 「羽田名蹤綜録」(著者自筆,美濃本1冊,墨付30丁 享和3年)は,「豊橋市史々料叢書」四 「三河国吉田名蹤綜録」の付録として平成9(1997)年翻刻・出版されている。下地村(豊橋市下地町)の山本貞晨が,当時流行した「名所図会」の形式になら ...
羽田村 とは(豊橋百科事典より)
はだむら 羽田の地名は,「倭名類聚鈔」(承平年間)三河国渥美郡6郷の1である幡太郷とする説と,渥美郡渥美町福江の旧称畠を幡太(はだ)郷とする説がある。吉田方5か村は,寛永15(1638)年,吉田町地および羽田村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚(まみづか)村に分立し ...
野田村 とは(豊橋百科事典より)
のだむら 吉田方5か村は,寛永15(1638)年,羽田(はだ)村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚(まみづか)村に分立したという。渥美郡野田村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)では吉田中3032石余である。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,野田村豊橋藩領分689石余, ...
豊田村 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 吉田方村(町村制施行) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog ...
高橋製糸 とは(豊橋百科事典より)
たかはしせいし 高橋製糸は,明治38(1905)年6月に吉田方村(豊橋市菰口町)で操業を始めた。大正14(1925)年ごろには釜数114・従業員数135人規模の玉糸製糸工場となった。第2次世界大戦後の昭和23(1948)年からは輸出玉糸の指定工場となって営業を続け,豊橋では大手の ...
大仙(豊橋市下地町柳目) とは(豊橋百科事典より)
だいせん 株式会社大仙は,明治25(1892)年鈴木仙吉が吉田方村北島(豊橋市北島町)で創業し,昭和35(1960)年株式会社大仙工務店が設立されたことに始まる。昭和37(1962)年には本社・工場を豊橋市下地町に移転し,同41(66)年株式会社大仙に商号を変更した。事業内容 ...
素盞嗚神社(豊橋市新本町) とは(豊橋百科事典より)
すさのおじんじゃ(みこしやすみ) 治承2(1178)年源頼朝が雲谷(うのや)の普門寺に在泊,天王社(吉田神社)に祈願した。(御輿休(みこしやすみ))素盞嗚神社は,その後文治2(1186)年天王社の分霊を建立し,天王社の別宮としたことに始まる。天文16(1547)年今川義元は ...
新制中学校 とは(豊橋百科事典より)
しんせいちゅうがっこう 新制中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制の新学制として発足した。従来の学制では国民学校初等科6年の義務教育に続いて,国民学校高等科または中等学校(中学校・高等女学校・実業学校)という複線型であったのが,国民学校高等科の2年制を改め ...
称名院(豊橋市松葉町三丁目) とは(豊橋百科事典より)
しょうみょういん 三社山称名院(浄土宗)の創立は,寛永19(1642)年で,開山は悟真寺第24世典誉上人,本尊は阿弥陀如来像である。境内は吉田神社の神職石田式部屋敷の一部で,山号三社山は,神明,白山,天満天神の三社によっての命名で,この三社は創立当初から祀られて ...
実業補習学校 とは(豊橋百科事典より)
じつぎょうほしゅうがっこう 実業補習学校は,明治26(1893)年,文部省の「実業補習学校規程」により,小学校の尋常科または高等科を卒業した人の学習補充と農工商などの就業者に,職業に関係ある知識を学べるように開設されたものである。 明治35(1902)年に,規程が改 ...
地蔵院(廃寺) とは(豊橋百科事典より)
じぞういん(はいじ) 地蔵院(浄土宗)の創立は寛永元(1624)年で,開山は方誉欣西である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,吉田方「下リ町,浄土宗,地蔵院,悟真寺末寺,平僧,客殿弐間半ニ壱間半」とある。本尊は地蔵菩薩像,前立阿弥陀如来像である。明治5( ...
悟真寺(豊橋市関屋町) とは(豊橋百科事典より)
ごしんじ 孤峰山悟真寺(浄土宗)の創立は,貞治5(1366)年で,開山は善忠寂翁上人である。善忠上人は浄土宗藤田派4代唱名上人の高弟,仏法を広めるため関東から三州今橋(豊橋)に来て奇瑞(きずい)があってその地に一寺を建立し,浄業院悟真寺と称した。建立地は現在の吉 ...
興徳寺(廃寺) とは(豊橋百科事典より)
こうとくじ 今橋山興徳寺(曹洞宗)は,吉田神社の社人石田次郎兵衛を開基とし,永正から大永(1504~28)初年までの間に創立されたとされている。開山祖庵英彭和尚は,その師の盛禅洞しゃく和尚を始祖と仰ぎ,延命地蔵菩薩を本尊として祀っていた。 「三州吉田領神社仏閣 ...
川崎町 とは(豊橋百科事典より)
かわさきちょう 川崎とは,川の前(さき)という意味である。豊橋市川崎町は,明治初年までは,馬見塚・吉川・三ツ相・野田とは地続きであった。「鹿菅村誌」によれば,川崎の村内小区画は,吉川川崎南・野田川崎北・馬見塚川崎南がある。現在でも豊橋市川崎町には,吉田方地 ...
遠藤敬勇 とは(豊橋百科事典より)
えんどう・ゆきお(1896~1942) 遠藤敬勇は,明治29(1896)年7月30日,渥美郡吉田方村(豊橋市小向町北小向)の遠藤安太郎の弟・遠藤猶次郎の3男として生まれた。吉田方尋常小学校を卒業し,愛知県第四中学校から大正4(1915)年海軍兵学校に第46期生として入校した。昭 ...