愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:吉田宿

よしだみなと  吉田(豊橋)湊は,吉田大橋のすぐ下流,豊川(とよがわ)左岸の吉田宿船町にあった湊である。上流域から吉田まで物資を運ぶ川船の終点,さらに江戸への廻船(かいせん)・伊勢通船の起点としてにぎわった。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦に際して船を出して協力 ...

よしだはんたいきゃくじょ  吉田(豊橋)藩対客所は,御馳走(ごちそう)屋敷ともいい,東海道を重要な人々が通る場合に吉田藩として,接待の儀礼を行ったところである。吉田城の正門である大手門の前には,西側に高札場があり,東側には対客所があった。江戸時代には吉田宿を ...

よしだはりこめん  吉田の張子面は,江戸末期吉田藩の下級武士の手内職に端を発するとされている。太田南畝(おおたなんぽ)(蜀山人)の「改元紀行」文中に「…童の弄(もてあそ)びもの多し,獅子の形,仮面の形,鄙(ひな)びたり」の記述があり,吉田宿で子どもの玩具として張 ...

よしだのおおはし  吉田(豊橋)の大橋は,東海道吉田宿の北西,東海道が豊川(とよがわ)を横切る地点に架かる橋で,宿西北端の船町(豊橋市船町)と対岸の下地村(豊橋市下地町)を結ぶ。現在の「豊橋(とよばし)」よりもやや下流にあった。江戸時代には豊橋,豊川橋,吉田橋 ...

よしだしゅくほんじん  吉田(豊橋)宿本陣は,吉田の中心街札木に2軒あった。いずれも街道北側にあり,当初は清須屋こと中西与右衛門家1軒であったが,後に清須屋の東隣の江戸屋新右衛門家が脇本陣より本陣に昇格した。この昇格の時期については,古記録などから松平(大 ...

よしだしゅく  吉田(豊橋)宿は,江戸時代の東海道五十三次中,品川から数えて34番目の宿場町である。慶長6(1601)年の「伝馬朱印状」が残っていることから,東海道宿駅設置当初からの宿場であることがわかる。天保14(1843)年の「東海道宿村大概帳」によれば,東は二川 ...

よしだがわとせん  吉田川(豊川(とよがわ))に架かる吉田大橋の大規模な修理・架け替えは幕府直轄で行われた。江戸時代初期の吉田大橋の架け替えの際には,古い橋を通行しながら新しい橋の架橋工事が行われたが,正徳3(1713)年の大修理からは吉田宿の船町が渡船を運航し ...

よしだがま  吉田鎌は,かつて東海道吉田(豊橋)宿の名物として知られた鎌である。厚い鉄を割って鋼を入れ,くっつけて薄くし,すいて地金だけをとってしまう(鋼を包んだ地金を鋼が出るまですいていく)製法で作られる。いわゆる「付け刃金」の鎌で,鋼が余分に外に出てい ...

みずの・ただよし(1612~76)  水野忠善は,慶長17(1612)年,水野忠元の子として生まれた。元和6(1620)年,遺領を継いだ。寛永19(1642)年,駿河田中(藤枝市)4万5000石から三河吉田(豊橋)に転封した。寛永19(1642)年から同20(43)年は,全国的な飢饉の年であっ ...

まえしばのとうみょうだい  「前芝の燈明台」19.8㎡(豊橋市前芝町青木地先堤防)は,昭和32(1957)年9月19日,豊橋市文化財に指定され,同40(65)年5月21日,愛知県史跡に指定された。 「前芝の燈明台」は,豊川(とよがわ)の河口部右岸,前芝村の西端青木新田の堤防上に ...

⇒ 「二川宿本陣」(豊橋市指定史跡) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂な ...

ほくち  ほくちとは火打石を打って飛び散る火花を移しとる綿状のものである。ほくちは,アオイ科のイチビの殻幹を焼き,または茅花(つばな)やパンヤに焼酎・焔硝(えんしょう)を加えて製造するほか,木綿やガマの穂を原料につくる物もあった。延享3(1746)年の「東海道巡覧 ...

ほうえいじしん  宝永4(1707)年10月4日未の刻(午後1時半ごろ),震源地を東南海道沖とする大地震が発生した。マグニチュード8.4規模の大地震で富士山が噴火した。小笠原4代(1645~1697)の間に完成した吉田宿の町並は,壊滅的な被害を受けた。 吉田宿の総戸数1011,全 ...

はやし・じけん(1696頃~1787)  林自見は,吉田(豊橋)呉服町の林弥次右衛門正封の長男に生まれた。名正森,自見と号した。25歳の時,吉田町年寄役並びに利(とぎ)町・世古町庄屋を兼ねた。元文2(1737)年,吉田宿問屋役となり,宝暦5(1755)年まで務めた。この間,杉江 ...

ながらむら  八名郡長楽村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に332石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分390石余,八幡社領3石,長楽寺領3石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数66,人数260であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年) ...

とよはしはん  吉田(豊橋)藩は,明治2(1869)年6月,政府の指示により豊橋藩と改称した。吉田藩は,他に伊予吉田藩(愛媛県北宇和郡吉田町)があったからといわれている。 政府は明治2(1869)年6月の版籍奉還を機に,紛らわしい同名の藩は1藩を残して他を改称すること ...

とよはしとんとんうた  「豊橋とんとん歌」は,三河港や鬼祭などを歌詞に盛り込んだリズミカルな民謡で,豊橋まつりの市民総おどりやとんとん踊りコンテストなどを通じて市民に親しまれている。昭和55(1980)年より市民総おどりの曲目に加わり,平成6(1994)年には,現代 ...

とよはしちょうやくば  豊橋町役場は,明治22(1889)年10月,町村制実施により,吉田(豊橋)宿の23か町が豊橋町に移行したため,仮役場として八町に開設された。豊橋町は人口1万2339,選挙人(制限選挙)722,町会議員24,初代町長は三浦碧水であった。町吏員は書記10,使 ...

とよはししししりょうへん  「豊橋市史」史料篇(豊橋市役所 昭和35年~41年)は,通史編纂に先立ち,豊橋市にとって重要な史料を翻刻する必要性から,昭和35(1960)年に始まった。以来,毎年1冊ずつ刊行し,昭和41(1966)年の「豊橋市史」史料篇七まで続いた。主な収録 ...

とうかいどうぶんげんのべえず  「東海道分間延絵図」(道中奉行所 文化3年)は,正式には「五街道其外分間延絵図並見取絵図」と呼ばれる。道中奉行管轄のもと寛政12(1800)年から,勘定方や普請方などの役人を派遣し実地の測量を行い,各宿駅の絵図や明細書上を出させる ...

とうかいどうじんぶつし  「東海道人物志」(三都書林 享和3年)は,東海道五十三次各宿場とその周辺に住む文人などを紹介したいわゆる「姓名録」である。大須賀鬼卵は,安永8(1779)年妻夜燕(やえん)とともに吉田(豊橋)に移り住んだが,天明3(1783)年妻を亡くしてか ...

とうかいどう  江戸期の東海道は,江戸~京都間126里余(約495㎞)の街道であり,江戸日本橋より京三条大橋まで53の宿場があった。宿場の設置は,慶長6(1601)年正月から始まり,豊橋市内には吉田宿と二川宿の2宿がおかれた。街道の管理は,万治2(1659)年道中奉行が設置 ...

すけごう  助郷とは,江戸時代の宿場で用意すべき継立人馬(東海道では100人・100疋)が不足する場合に,幕府より指定された村が不足する人足や馬を提供することである。江戸時代初期には宿場が近隣の人馬を雇い不足をおぎなっていたが,幕府道中奉行が宿場ごとに村々を指定 ...

さんしゅうよしだき  「三州吉田記」(写半紙本1冊,墨付56丁 寛延3年序)は,吉田(豊橋)呉服町の郷土史家・林正森(自見)(1696頃~1787)の著した記録である。吉田におけるまとまった地誌としての最初のものである。 内容は,はじめに吉田に関する詩歌を挙げ,次に ...

ええじゃないかほったんしりょう  「『ええじゃないか』発端資料」は,平成12(2000)年4月10日,豊橋市有形文化財に指定された。 牟呂八幡宮(豊橋市牟呂町)の神主を務めていた森田家が所蔵する文書群は,江戸時代後期から明治時代にかけての神社・神官・葬祭に関する記 ...

ええじゃないか  ええじゃないかは,慶応3(1867)年7月14日吉田(豊橋)宿近郊牟呂村大西(豊橋市牟呂大西町)での伊勢外宮や伊雑社(いざわのみや)の御札降りを契機として,牟呂村では手踊りや餅投げ神酒の振る舞いなど臨時の祭礼が行われた。この後周辺の羽田村・草間村・ ...

いむれ  渥美郡飯村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に345石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,豊橋藩領分488石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば家数68,人数294であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,飯村「熊野大権現,神明,山ノ ...

いちりづか  一里塚は,街道の両側に1里(約3.9㎞)ごとに木を植えた塚のことで,旅人が道程や目的地への目印としたり,馬や駕籠(かご)の賃銭を支払う目安ともした。慶長9(1604)年徳川家康の命により徳川秀忠が江戸日本橋を起点として東海道をはじめ各街道に一里塚を築き ...

いせとせん  伊勢渡船とは,江戸時代に存在した吉田(豊橋)湊から伊勢の川崎・神社(かみやしろ)などの湊へ渡る船便のことである。多くは三河以東から伊勢参宮をする旅人の近道として使われた。伊勢への渡船は吉田宿船町が事業を独占し,その運賃から上前銭を徴収することが ...

あきばさんじょうやとう  火防の神として秋葉山三尺坊(静岡県周智郡春野町)が人々から信仰を集めた。秋葉山常夜燈は江戸時代中ごろから数多く建てられるようになったが,市内では寛政年間(1789~1801)ごろから建て始められ,文化・文政と時代を経るごとにその数は増加し ...

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