愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:古墳

豊橋市議の長坂です。最後までお読みくださっても結論なく、とりとめありません。さて、豊橋が誇る国の史跡である「馬越長火塚(まごしながひづか)古墳群」のうち、「口明塚(くちあけづか)南古墳」の発掘調査現地見学会に行ってきました。豊橋市長坂なおと(豊橋だいすき ...

むろし  「牟呂史」(牟呂校区総代会・汐田校区総代会・牟呂史編纂委員会 平成8年)は,牟呂中学校区(おおむね江戸期の牟呂村)を対象に編集された校区史・郷土史である。牟呂地区は,縄文期,弥生,古墳,中世,戦国と多くの埋蔵文化財を有するとともに江戸末期に全国に ...

むろおおづかこふん  牟呂王塚古墳は,柳生川の河口を臨む段丘の南端に立地する。古くからその存在が知られ,明治12(1879)年に村人が主体部を発掘した際に金銅装製品が多数出土し,東京帝室博物館(東京国立博物館)に収蔵された。また昭和63(1988)から平成9(97)年の ...

みょうけんこふん  妙見古墳は,紙田川の河口に向かって伸びる段丘の端部に立地する。妙見古墳は前方後円墳で,全長49m,後円部の径27m,前方部の長さ22mである。墳丘は2段築成されており,葺石(ふきいし)や周溝は現状では確認されていない。前方部は後世に墓地として掘り込 ...

みやにしこふん  「宮西古墳」1基(馬越素盞嗚(すさのお)神社)は,昭和61(1986)年3月28日,豊橋市史跡に指定された。 馬越(豊橋市石巻本町)の「宮西古墳」は,丘陵斜面の南端(豊橋市石巻本町北山)にあり,付近には十数基の古墳が集中して馬越(まごし)北山古墳群を ...

みつやまこふん  三ツ山古墳は,豊橋市牟呂町坂津の段丘の端に位置する。三ツ山古墳は全長38mの前方後円墳で,前方部が発達した形状である。墳丘には葺石(ふきいし)は見られず,2段に築成されている。下段のテラス面には埴輪(はにわ)列があり,さらに墳丘の周囲には前方後円 ...

みかわのくにふたばまつ  「三河国二葉松」(著者自筆,美濃本,2巻1冊,墨付上巻54丁・下巻62丁 元文5年)は,上下2巻からなり,上巻は,三河の名称の起源から始まり,三河8郡の地名が書かれている。次に社寺部として神社名とその社領,神主名を,寺院については寺院名, ...

まんぷくじこふん  「万福寺古墳」1基(万福寺)は,昭和50(1975)年1月21日,豊橋市史跡に指定された。 「万福寺古墳」は万福寺(豊橋市嵩山(すせ)町)境内の山麓の緩斜面にあり,総数15基からなる奈木(なぎ)古墳群のうちの1基で,奈木11号墳ともいう。昭和37(1962)年 ...

まんぷくじ(すせ)  月ヶ谷山万福寺(臨済宗妙心寺派)の創立は貞和3(1347)年,開山は日顔禅師の3世の法孫にあたる大摸範和尚で,古来正宗寺末陽徳派に属していた。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,月ヶ谷村「月ヶ谷山万福寺,嵩山正宗寺末寺,平僧,客殿六間・ ...

まごしむら  八名郡馬越村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に132石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分233石余,素盞嗚(すさのお)社領4石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数43,人数204であった。馬越長火塚古墳がある。「三河国二葉松 ...

まごしながひづかこふん  「馬越長火塚古墳」1900㎡(豊橋市石巻本町紺屋谷)は,昭和56(1981)年11月20日,愛知県記念物(史跡)に指定された。 「馬越長火塚古墳」は前方後円墳で,全長65m,後円部の径約32m,高さ5.75m,前方部の長さ約33mである。埋葬施設は南に開口す ...

はしらいせき  橋良遺跡は,豊橋市柱三番町を中心とした標高3~5mほどの低位な段丘上に,東西600m,南北700mほどの範囲で広がる弥生時代中期を主体とした集落遺跡である。古くは橋良貝塚と呼ばれたこともあるが,弥生時代やそれ以前の貝塚は確認されていない。 遺跡は,豊 ...

にほんまつこふんぐん  「二本松古墳群」(愛知県営開拓パイロット事業石巻地区埋蔵文化財調査団 昭和51年)は,芳賀陽を調査団長とした調査団によって発行された発掘報告書である。 渥美半島の先端までも豊川の水を供給する目的で計画された豊川用水建設工事の進展に伴い ...

にほんまつこふんぐん  二本松古墳群は,石巻北部の独立丘陵上に分布する各古墳群の総称である。農業基盤整備事業に先がけて昭和44(1969)年から同47(72)年に発掘調査が行われた。調査古墳数は17基におよび,豊橋市内だけではなく,群集墳の調査事例が乏しい三河地域にお ...

にしなんだいいせき  西南代遺跡は,豊橋市杉山町西南代にあった縄文時代早期から中世までに断続的に営まれた遺跡である。遺跡は紙田川と蜆川に挟まれ,渥美湾に向かって伸びる台地の先端に位置している。標高は23mで,台地下の水田面とは約17mの比高差がある。平成10(1998 ...

とよはししまいぞうぶんかざいちょうさほうこくしょ  「豊橋市埋蔵文化財調査報告書」(豊橋市教育委員会 昭和43年~ )は,文化財保護法に基づく発掘調査の報告書である。平成17(2005)年現在,豊橋市内には埋蔵文化財包蔵地(遺跡)の数は,1396か所ある。こうした遺跡 ...

つみいしづかこふん  積石塚古墳は,土ではなく石を主に使用して墳丘を築いた古墳である。中国東北部および朝鮮半島に存在することから,日本国内にあるものは渡来系氏族の墓制とする説が有力である。東三河地域では豊橋市北部の吉祥山塊を中心に積石塚古墳が分布しており, ...

すさのおじんじゃ(まごし)  (馬越)素盞嗚神社(豊橋市石巻本町[馬越])の創建は明らかでないが,永享9(1437)年の棟札があり,裏面に寛正3(1462)年「為守右馬尉」とあり,牧野氏の一族の造立と考えられる。また,享禄5(1532)年西郷孫四郎信員(のぶかず)の棟札を ...

ごんげんやまこふん  「権現山古墳」2基(豊橋市石巻本町別所・北入田)は,昭和48(1973)年4月4日愛知県史跡に指定された。 権現山古墳群は,標高65mの独立丘陵・権現山の尾根上に築かれた古墳群であり,このうち1・2号墳の2基は「権現山古墳」の名称である。権現山1号 ...

くるまじんじゃしゅつどひん  「車神社出土品」は,昭和34(1959)年10月10日,愛知県有形文化財(考古資料)に指定された。 車神社(豊橋市植田町)は,古墳の上に建てられているが,その古墳は,梅田川の河口部に築かれた6世紀中葉の前方後円墳である。この墳丘上に車神 ...

くるまじんじゃこふん  車神社古墳は,梅田川左岸の段丘端部に位置する。そこはかつて河口が深く湾入していたところである。明治18(1885)年に古墳の上に社殿が造営されたときに石槨(せっかく)から遺物が出土したと伝わり,出土品の一部は愛知県指定文化財になっている。ま ...

くるまじんじゃ  西植田(豊橋市植田町)の車神社は,神亀2(725)年の創建である。社記によれば,貴人(正仁明神)がうつぼ舟に乗ってこの地に上陸したという。この貴人の霊を奉祀し,車を埋めた所を車塚という。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,西植田村「車大明 ...

くさまくちしりゃく  「草間区地誌略」(写 美濃本25丁 明治12年)は,凡例に「予著ス所ノ草間区ハ本村磯辺村ナルヲ以テ巻首ニ磯辺村ノ総論ヲ掲テ以テ地理及ビ人口ノ景況ヲ記ス」とあるように,現在の磯辺校区の地誌を記述したものである。内容は,磯辺村論・草間区総論・ ...

きのした・かつみ(1914~80)  木下克巳は,大正3(1914)年3月28日,八名郡石巻村玉川(豊橋市石巻本町市場)の近田玉吉の2男として生まれた。父・珠浪の影響を受け,豊橋中学校在学中より俳句に興味を持ち,市川丁子(ていし)・臼田亜浪(あろう)に師事した。昭和10(1935 ...

かもじんじゃ  賀茂神社は,天平元(729)年,山城国賀茂別雷(かもわけいかずち)神社を勧請したといわれる。天文12(1543)年,今川氏親が神領として298貫を寄進,慶長8(1603)年,徳川家康より朱印100石を寄せられた。「三河国内神明名帳」に,「正四位下大伴明神,坐八名 ...

かみやまこふん  「神山古墳」1基(豊橋市賀茂町神山)は,昭和48(1973)年3月12日豊橋市史跡に指定された。 賀茂神社境内の「神山古墳」は,段丘の端部に位置する直径28mの円墳である。墳丘は東側が一部変形しているが,比較的よく遺存している。発掘調査がまだ行われて ...

うりごういせき  「瓜郷遺跡」1万3688㎡(豊橋市瓜郷町寄道・前川)は,昭和28(1953)年11月14日,国の史跡に指定された。 「瓜郷遺跡」は,豊川(とよがわ)沖積地の標高2~3mの自然堤防上に立地する弥生時代中期から古墳時代前期(2000~1700年前)にかけての集落遺跡で ...

いなりやまこふんぐん  稲荷山古墳群は,標高72.3mの小丘陵「稲荷山」の尾根上にある,4基の古墳群である。平成13(2001)年に宅地造成に伴い2~4号墳の発掘調査が行われた。その後,3・4号墳は滅失した。3号墳は直径11.0mの円墳で,墳丘は控積(ひかえづ)みや石列などにより ...

いちきしまじんじゃこふん  市杵島神社古墳は,標高2~3mの低位な段丘の先端部に位置する古墳である。墳丘上には,市杵島神社が建っている。昭和60(1985)年に,豊橋市教育委員会・牟呂地区遺跡調査会が発掘調査を行い,古墳は全長60m前後,後方部一辺32m,同高さ5m,前方 ...

いそべおうづかこふん  磯辺王塚古墳は,三河湾沿岸の柳生川河口部に発達した砂の堆積地の付け根付近に位置している。羽田野敬雄(はだのたかお)が残した記録により,古くは幕末の弘化3(1846)年に付近の村人が発掘したことがうかがえる。その後,大正11(1922)年から平成9 ...

いしまきそんし  「石巻村誌」(石巻村 昭和32年)は,明治39(1906)年に八名郡の西郷村・玉川村・嵩山(すせ)村・三輪村・多米(ため)村の5か村で構成された石巻村が,昭和7(1932)年に先に豊橋市に編入された多米を除いて,同30(55)年豊橋市に解村合併された記念事業と ...

あみだじ  無量山阿弥陀寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,応徳元(1084)年9月で隣地所在の古墳「王塚」の供養寺として建てられた真言寺院ではないかとされる。永正3(1506)年,禅宗となり,建長寺の蘭渓道隆の高弟南浦紹明を勧請開山として臨済宗になったと伝えられている。 ...

あつみぐんし  「渥美郡史」(渥美郡役所 大正12年)は,大正12(1923)年の郡制廃止にあたってまとめられたもので,遺跡・遺物・古文書などの資料を中心に,渥美郡の歴史の概要が記述されている。 豊橋についての記述では,牟呂,高師,二川,老津などの古墳の様子,平安 ...

あずまだこふん  東田古墳は,朝倉川の沖積地を北に臨む段丘の緩斜面に位置している。前方後円墳で,全長40m,後円部の径25m,高さ3m,前方部の長さ15m,幅16m,高さ4mである。今までに発掘調査は行われていないが,明治12(1879)年から翌13(80)年ごろ,後円部の上に神社 ...

あくみいせき  飽海遺跡は,豊橋公園(豊橋市今橋町)を中心におよそ東西1㎞,南北500mの範囲に広がる弥生時代から中世にかけての大規模な遺跡である。大部分は中世~近世の吉田(豊橋)城址と重なっており,吉田城の発掘調査に伴い調査が行われているが,遺跡の詳しい内容 ...

↑このページのトップヘ