愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議選に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。現在、豊橋市長(戦後最年少)。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~ ※本ブログは個人の見解であり、組織を代表するものでありません

タグ:参陽新報

ゆさ・ひらく(1855~1928)  遊佐発は,安政2(1855)年10月11日,吉田(豊橋)藩士遊佐(ゆさ)笑叟の長男に生まれた。明治13(1880)年ごろから,自由民権運動に没頭した。明治17(1884)年,飯田事件ではいったんは逮捕されたが,証拠不十分で免訴となった。明治22(1889 ...

ほうせんどう  株式会社豊川堂の前身は,高須屋といい,天正年間(1573~92)から味噌製造業,呉服太物,質屋などの事業を代々営んできた。明治7(1874)年,10代高須又八郎(1831~1903)は,学制施行に伴い教科書の出版を手がけた。11代高須広治(1862~1903)は,高須屋 ...

ふじなみ・かずや(生没年不詳)  藤波一哉は,渥美郡伊良湖岬村(渥美町)の出身で,本名を泰吉,別号を参洋といった。早稲田法律学校を卒業し,豊橋で弁護士を開業した。学生時代から俳句を好み,佐野蓬宇(ほうう)晩年の門人となり,蛙流(ありゅう)と号した。その後,明治 ...

とよはしげんろんし  「豊橋言論史─郷土新聞をめぐる人々─」(東海日日新聞社 昭和48年)は,東海日日新聞社社長宮脇良一が昭和48(1973)年,豊橋市のふるさと市民講座で行った講演に加筆して,東海日日新聞社から出版したものである。副題「郷土新聞をめぐる人々」でわ ...

とよはしきんだいげいのうし  「新聞広告から見た 豊橋近代芸能史」(芳賀信男 平成18年)は,豊橋で最初の芝居小屋・朝倉座から,明治・大正・昭和(第2次世界大戦前)の劇場・映画館で上演・上映された外題・演目や出演者などを「参陽新報」「新朝報」の広告・記事から ...

どうしは  同志派は,戦前の豊橋政界を実業派と2分した政治勢力である。明治31(1898)年に,実業派に対抗するために当時町長であった大口喜六が組織した。はじめ公同会と称したが,後に同志派といわれるようになった。同志派という名称は,当時愛知県会議員に政友派と同志 ...

とうさんしんじんかい  東三新人会は,昭和6(1931)年,小山三郎(大衆新聞),碓井不二男(大衆新聞),鈴木充(参陽新報),山本勇夫(名古屋新聞),田中廉平(豊橋新報),浅井弥之助(新朝報),佐藤長吉(新朝報),岩瀬正雄(詩人)の8人により結成され,東京帝国大 ...

とうさんじちけんきゅうかい  東三自治研究会は,昭和3(1928)年8月17日,豊橋の新聞記者を中心に結成された。主な構成員は,委員長広田喜平(水平社豊橋支部),書記長岩田潔(参陽新報),常任幹事河合陸郎(新朝報),常任幹事浅井秀雄(豊橋日日新聞),常任幹事内田駿 ...

たかはし・こじゅうろう(しげひこ)(1881~1943)  高橋小十郎(茂彦)は,明治14(1881)年12月24日,八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)の竹尾準の2男に生まれた。札幌農学校を卒業し,明治40(1907)年豊橋市船町の肥料問屋高橋小十郎久助の養嗣子となった。明治45(1912) ...

たかす・ひろじ(1862~1903)  高須広治は,文久2(1862)年4月3日,吉田(豊橋)呉服町に高須又八郎の子として生まれた。高須家は味噌醤油呉服などを販売していた。父・高須又八郎は,学制頒布を契機とし西洋文化の原動力である教育に着目し,書籍の販売および出版に乗り ...

しんちょうほう  「新朝報」は,明治35(1902)年9月28日に豊橋で発刊された日刊紙で,4ページだて。購読料は1部1銭,月ぎめは1か月15銭であった。新朝報の前身は,明治33(1900)年11月に朝倉幾太郎が発行した「めざまし新聞」であった。毎月3回の発行であったが,明治34( ...

しょうねんきんろうかい  豊橋少年勤労会は,昭和7(1932)年勤労少年を援助するために設立された社会事業団体であった。勤労会は,不況にあえぐ貧しい家庭の少年(小学校尋常科5・6年生と高等科の1・2年生)を学校長の推薦で入会させた。 少年たちは,学校の授業が終わる ...

じつぎょうは  実業派は,第2次世界大戦前の豊橋政界を同志派と2分した政治勢力であった。実業派は,明治31(1898)年に遠藤安太郎が組織した実業談話会に源を発している。当初実業談話会は,実業界の組織として政治とは一線を画して活動していた。しかし,制限選挙のため実 ...

しせいしこう  豊橋町が市制を施行したのは,明治39(1906)年8月1日であった。全国で62番目,県内で名古屋に次ぐ2番目の市であった。市制施行の動きは,明治34(1901)年2月,福谷元次町長の時代に町政刷新に関する委員会が設置され,同34(01)年9月に「市制に関する調査 ...

さんようしんぽう  参陽新報は,豊橋で最初に発刊された日刊新聞で,4ページだて。外国ニュース・国内政治・社会ニュース・汽車時刻表・諸相場・小説・文芸・広告などで紙面が構成されていた。発売当初の購読料は,1か月20銭であった。参陽新報の前身は,明治28(1895)年 ...

こんどう・ろくどう(1874頃~1945)  近藤鹿堂(健吉)は,八名郡富岡村(新城市)に生まれた。長ずるにおよんで参陽新報の主筆として,健筆を振るうこととなったが,社の方針と意見が合わず,明治42(1909)年にいったん退社した。参陽新報は,大正3(1914)年経営難に陥 ...

いちぐう  「一隅」は,大正3(1914)年1月1日鷹野弥三郎(名古屋新聞豊橋支局長)と妻の次子を中心にした一隅同人によって創刊された文芸同人誌である。翌大正4(1915)年9月の第10号の刊行まで継続した。発行所は鷹野の居住した豊橋市中八町,発売所は豊川堂(ほうせんど ...

あおやま・みちたか(1874~1955)  青山衝天は,明治7(1874)年7月,掛川藩医名倉竜淑の2男に生まれた。豊橋で参陽新報の記者をしていた。明治38(1905)年,豊橋育児院の経営に参画した。明治40(1907)年,院長に推され,経営と孤児救済に力を尽くした。篤志家の寄付, ...

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