愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:八町

わだ・やすいち(?~1956)  和田保一は,豊橋市東田(あずまだ)町に生まれた。豊橋市八町高等小学校補習科を卒業し,上京して美術学校に通いながら,佐藤惣之助の門に入り詩を書いた。彼の詩が華麗で官能的であると評されたのも美術の素養のためで,この詩のスタイルは終生 ...

ろうどうきじゅんかんとくしょ  豊橋労働基準監督署は,昭和22(1947)年9月,労働省設置法により,豊橋市中八町(旧歩兵第18聯隊兵舎)に開設された。当初の管轄区域は豊橋市・豊川市・宝飯郡・渥美郡・八名郡であった。その後,新城や蒲郡労働基準監督所の統合により,北 ...

れんぺいじょう  陸軍歩兵第18聯隊が豊橋に設置され,明治17(1884)年旧吉田(豊橋)城内3万2000坪の敷地に兵舎築造が開始された。また,附帯施設として練兵場用地に豊橋宮下町外五か町6万2990坪,射的場用地に八名郡牛川村田中4万2087坪,埋葬地として渥美郡東田村前山200 ...

りくぐんぼち  陸軍歩兵第18聯隊が豊橋に設置されると同時に,その付帯設備として練兵場・射的場・陸軍墓地が建設された。陸軍墓地は,渥美郡東田村前山(豊橋市東田町西前山)の臨済寺山といわれる旧藩時代の刑場跡2000坪を埋葬地とした。墓地開設以来の記録は臨済寺に保存 ...

よみせ  夜店は,明治45(1912)年開通した新停車場通(広小路)で行われていたが,市内電車が敷設された大正14(1925)年に豊橋市西八町に移った。第2次世界大戦後は,広小路と萱町で,昭和52(1977)年から札木通りと松葉公園で行われた。平成7(1995)年から翌8(96)年 ...

よしはま・ゆうじろう(1869~1934)  吉浜勇次郎は,明治2(1869)年7月2日,神奈川府保土ヶ谷(横浜市保土ヶ谷区)に生まれた。駒場農学校に学んだ。明治38(1905)年,家督を弟に譲り,豊橋に移住し吉屋町(豊橋市新吉町)で,輸出品のリンネル半幅の糸抜工業を始めた。 ...

よしだはりこめん  吉田の張子面は,江戸末期吉田藩の下級武士の手内職に端を発するとされている。太田南畝(おおたなんぽ)(蜀山人)の「改元紀行」文中に「…童の弄(もてあそ)びもの多し,獅子の形,仮面の形,鄙(ひな)びたり」の記述があり,吉田宿で子どもの玩具として張 ...

よしだおおはし  吉田大橋は,国道1号が豊川を横切るところに架けられた橋である。豊橋市八町通一丁目・同下地町瀬上間の新国道1号の開鑿に伴い,豊橋市関屋町・同今橋町と同下地町間の豊川に,昭和34(1959)年10月16日に橋長270m・幅員22.0mの上下4車線で完成した。 「 ...

ゆうりょうどうろ  豊橋市域には,東名高速自動車道のほか,多米(ため)峠・本坂(ほんざか)トンネル・豊川橋(とよがわばし)・小坂井バイパスの4つの有料道路があった。 愛知・静岡県道4号(豊橋大知波線)は,昭和40(1965)年11月29日認定されて,翌41(66)年6月24日道路 ...

ゆうらくかん  明治9(1876)年,豊橋吉屋町(豊橋市新吉町)にあった朝倉座が,同14(81)年,豊橋西八町に移転した。大正8(1919)年に,有楽館(大正13年大盛館,昭和8年有楽館と改称)として帝国キネマ作品を上映した。昭和15(1940)年,新興キネマ作品を上映し,新興 ...

めいじしょきのとよはしのしょうがっこう  明治5(1872)年8月,学制が発布され,翌6(73)年10月,豊橋には第10中学区第1番小学関屋学校(関屋町悟真寺)・第2番小学[校名不詳](紺屋町神宮寺)・第3番小学立志学校(世古町竜拈寺(りゅうねんじ))が設立された。明治10 ...

みやけ・とし(1888~1966)  三宅敏は,明治21(1888)年3月30日,岡山県児島郡大崎村(玉野市八浜町大崎)で,三宅藤四郎の長男として生まれた。東京帝国大学医科大学医学科を卒業し,大正3(1914)年,伝染病院研究所技師を経て,大正5(1916)年,愛知県渥美郡田原病院 ...

みつだ・じゅきち(1884~1947)  満田樹吉は,明治17(1884)年12月14日,旧岡崎藩士西山芳六の4男として生まれたが,5歳の時,医師満田英伯の養嗣子となった。東京赤坂の裁縫練習所へ進み,明治41(1908)年,帰郷して,翌42(09)年,日比オリガ(1887~1961)と結婚した ...

みかわちゅうがっこう  三河中学校は,明治34(1901)年4月,豊橋町中八町に素修学校(校長草鹿砥(くさかど)祐吉)として開校したことに始まる。明治39(1906)年12月,三河中学校に改組し,翌40(07)年4月,豊橋市新川町に移転した。しかし,政争に巻き込まれて内紛が起こ ...

みかわ  「三河」は,昭和4(1929)年4月,編集兼発行者市川光宣(1875~1952)が豊橋市東八町の三河発行所で創刊した俳誌である。昭和19(1944)年3月176号で休刊し,同21(46)年復刊した。市川光宣は,「石楠」の臼田亜浪と親交があり,相互に影響し合った。同人に太田鴻 ...

まつやましょうがっこう  豊橋市立松山小学校は,明治45(1912)年,校舎を豊橋市花田町間田(はざまだ)に建設し,狭間尋常小学校区のうち,牟呂用水以西の豊橋市中柴町・新川町新銭,花田町のうち小田原・松山・石田を校区とし,松山尋常小学校として分離独立(高等科は八町 ...

まつばしょうがっこう  豊橋市立松葉小学校は,明治26(1893)年4月,豊橋町立豊橋第三尋常小学校として,本校を西八町,分教場を船町に設置し,豊橋町船町・湊町・上伝馬町・松葉町などを校区として開校したことに始まる。明治30(1897)年1月,校舎を豊橋町松葉町に新築・ ...

まつだ・しかぞう(1871~1956)  松田鹿三は,明治4(1871)年5月20日,尾張藩士松田堅治(1837~1900)の2男として名古屋で生まれた。長男が夭死したため,嗣子として育てられた。名古屋で関治小学校に入学するが,父・松田堅治が渥美郡役所に転勤したため,明治12(1879 ...

まきの・しんじ(1911~97)  牧野新二は,明治44(1911)年2月21日,渥美郡牟呂吉田村東豊田(豊橋市北島町)で生まれた。大正15(1926)年,八町尋常高等小学校を卒業し,家業の玉糸製糸業を手伝った。昭和8(1933)年,合資会社ミスズセロファン商会を豊橋市関屋町に設立 ...

ほどうきょう  豊橋市初の歩道橋は,昭和40(1965)年3月,豊橋市絹田町の松葉小学校近くの国道247号(国道23号 蒲郡街道)に,地元の寄付で架設(平成12年4月架け替え)された絹田歩道橋である。昭和40(1965)年3月,八町通二丁目の国道1号に公会堂前歩道橋が架設(平成9 ...

ほそうどうろ  第2次世界大戦終了時の豊橋では,旧東海道の上伝馬・本町・札木・曲尺手(かねんて)・鍛冶町・下町・新町から瓦町までは幅員は3間(5.5m)のアスファルト舗装であった。昭和11(1936)年までに愛知県の道路改良工事が行われたのは,国道1号の二川東町~境川間 ...

ほうむきょく  名古屋法務局豊橋支局は,明治20(1887)年2月,豊橋札木町の豊橋治安裁判所に登記所を設置したことに始まる。大正4(1915)年3月,豊橋市中八町へ移転し,同11(22)年4月,名古屋供託局豊橋出張所を併置した。昭和20(1945)年,戦災で庁舎を焼失,豊橋市東 ...

ほうじょうちゅうがっこう  豊橋市立豊城中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,豊橋市立女子商業学校の一部を借用し,翌23(48)年1月,吉田(豊橋)城内の旧陸軍中部第百部隊の兵舎を校舎に,松葉小学校・八町小学校を校区とする豊橋市立中部第二中学校とし ...

ぶんかとし  「文化都市」は,豊橋地域のプロレタリア運動の一環として発行された雑誌である。昭和8(1933)年10月創刊され,翌9(34)年5月まで継続し,第7号をもって終刊となった。豊橋市西八町の文化都市社を発行所として,同所の和田保一が編集・発行人となった。菊判24 ...

ふじもり・よしお(1857~1908)  藤森彦男は,安政4(1857)年7月8日,吉田(豊橋)藩士岡本彦三郎の長子として江戸藩邸に生まれた。明治元(1868)年,吉田藩士藤森庄六の養嗣子となった。吉田藩儒村井楽所・児島閑窓に学ぶ。明治8(1875)年,愛知師範学校に入学した。明 ...

ひこうき  大正5(1916)年1月,高師原に飛行船「雄飛号」が繋留(けいりゅう)され,連日黒山の人でにぎわったという。大正5(1916)年5月5日,豊橋市の八町練兵場でアメリカ人スミスが複葉飛行機で曲芸飛行を行った。この時の入場者は5万人で,入場料は1円・50銭・20銭で ...

ひがしみかわのうりんすいさんじむしょ  愛知県東三河農林水産事務所は,昭和23(1948)年,豊橋農地開発事務所が設置されたことに始まる。昭和24(1949)年,豊橋地区農業改良普及事務所が設置され,同30(55)年,豊橋農業改良普及事務所と改称した。昭和33(1958)年,豊 ...

ひがしみかわじむしょ  愛知県東三河事務所は,昭和17(1942)年7月,宝飯(ほい)地方事務所(国府町)と渥美地方事務所(田原町)の設置に始まる。昭和24(1949)年3月,宝飯地方事務所豊橋税務出張所が豊橋市に設置され,同30(55)年11月,東三河事務所は,東三河地方事務 ...

ひがしみかわけんせつじむしょ  愛知県東三河建設事務所は,明治24(1891)年,渥美郡役所内に第4管区事務所として設置され,大正9(1920)年,豊橋土木事務所として再発足したことに始まる。昭和6(1931)年,豊橋市西八町に移転,同21(46)年,豊橋土木出張所と改称し旧 ...

ひがしみかわけんぜいじむしょ  愛知県東三河県税事務所は,昭和17(1942)年7月に宝飯(ほい)郡国府町(豊川市)に宝飯地方事務所が,渥美郡田原町(田原市)に渥美地方事務所が設置されたことに始まる。昭和24(1949)年3月宝飯地方事務所に豊橋税務出張所が設置された。  ...

ひがしみかわきょういくじむしょ  愛知県教育委員会は,昭和23(1948)年11月,宝飯(ほい)事務所を豊川市に設置し,豊橋市・豊川市・宝飯郡を管轄区域とした。昭和28(1953)年4月,宝飯出張所としたが,同30(55)年11月東三河出張所を豊橋市に設置し,豊橋市・豊川市・蒲 ...

はりすとすせいきょうかいせいどう  「ハリストス正教会聖使徒福音者馬太(マトフェイ)聖堂」1棟(豊橋市八町通三丁目)は,昭和58(1983)年3月15日,豊橋市有形文化財(建造物),翌59(84)年2月27日,愛知県有形文化財(建造物)に指定された。 「ハリストス正教会聖 ...

はりすとすせいきょうかい  ハリストス正教会の日本への布教は,文久元(1861)年に北海道箱館のロシア領事館の司祭として来日した聖ニコライが,明治5(1872)年,東京神田の駿河台に,ロシア語学校を開設し,同6(73)年,キリスト教禁教令が解除されたことにより,同駿河 ...

はなだしょうがっこう  豊橋市立花田小学校は,明治6(1873)年,羽田村・花ヶ崎村が共同で羽田村浄慈院に,第10中学区第4番小学幡太(はだ)学校として開校し,翌明治7(1874)年,校舎を長全寺に移転したことに始まる。明治13(1880)年,渥美郡第10番小学幡太学校・第11番 ...

はっちょうしょうがっこう  豊橋市立八町小学校は,明治26(1893)年4月,豊橋町立第一尋常小学校・第二尋常小学校を八町に設置し,第四尋常小学校を旭町に設立して豊橋村より受託した児童を収容したことに始まる。明治26(1893)年6月,第一尋常小学校・第四尋常小学校を廃 ...

はっちょう  八町は,東八町から西八町の間が約8丁(870m)あったことから名付けられた地名であり,吉田(豊橋)藩の侍屋敷があった地域である。侍屋敷は,豊橋警察署の隣に1軒だけ残っている。吉田城の中堀と外堀の間の八町通は,豊橋鉄道市内線の軌道が走り,国道1号線 ...

はちまんしゃ(あかもん)  (赤門)八幡社の創建は天智天皇10(671)年と伝えられる。吉田(豊橋)城築城後は城内若宮八幡といわれた。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,飽海(あくみ)村「八幡宮,社人久太夫,社領三石目」とある。「三河国二葉松」(元文5年)に, ...

はせがわ・まき(1880~1961)  長谷川まきは,明治13(1880)年8月15日,南設楽郡千郷村(新城市豊島)に生まれた。明治31(1898)年18歳の時に医師平尾源吉と結婚したが,翌32(99)年夫に死別した。このことが医療の道へたずさわる契機となり,20歳の時に看護婦を志して ...

はざましょうがっこう  豊橋市狭間尋常小学校は,明治42(1909)年4月,豊橋市花田町狭間に,花田尋常小学校区のうち東海道線以東(停車場・西宿・狭間・城海津・小田原・松山・石田),松葉尋常小学校区のうち松葉町(御旗・南町・栄町)・萱町・指笠(さしかさ)町・三浦町 ...

はくじゃのまつ  昔,八町(豊橋市八町通)の武家屋敷で働いていた娘が主人に切り殺されてしまった。娘は「七代たたってやる」といい残して息絶えた。やがて,屋敷にあった松の大木に白蛇が住みつくようになり,主人は若死にした。その後,白蛇は茶坊主に姿を変え,この松に ...

ばいかぶんこ  梅花文庫は安政3(1856)年江戸勝手掛から復帰した儒官西岡翠園が藩校時習館に文庫がなかったことから設立を提案し,文久元(1861)年公私の財をもって設立した文庫である。文庫の書籍は設立直後に佐野蓬宇が奉納した資治通鑑148巻をはじめとして国典・漢籍な ...

のだしょりじょう  豊橋市下水道野田処理場は,昭和6(1931)年6月,豊橋市議会が下水道築造事業を議決,4排水区(八町・松山・船町・北島)の汚水と雨水を処理するため,同8(33)年10月豊橋市野田町・三ッ相町に汚水処分場と併設ポンプ場の築造に着工した。昭和10(1935) ...

にほんきりすときょうだん  豊橋中部教会は,日本基督教団に所属する教会である。豊橋での布教は,明治29(1896)年,アメリカ南部長老派に所属する宣教師フルトンと牧師加藤虎彦によって豊橋湊町に講義所を開設したのが始まりである。明治35(1902)年豊橋曲尺手(かねんて) ...

にほんかんぎょうぎんこう  明治30(1897)年尾三農工銀行が創業され,同45(1912)年豊橋市中八町に豊橋支店を開設した。大正14(1925)年に愛知県農工銀行と改称したが,昭和19(1944)年日本勧業銀行と合併した。日本勧業銀行豊橋支店は,昭和37(1962)年豊橋市神明町に ...

なりたべいごかいわきょうしつ  成田米語会話教室(NACCR)は,昭和23(1948)年,成田忠光によって,豊橋ハリストス正教会信徒会館2階を教室として開講された。英会話熱が高まり,昭和25(1950)年には,豊橋英語塾として中八町(豊橋市八町通三丁目)に教室を建てた。 成 ...

なかやま・おみふみ(1905~70)  那賀山乙巳文は,明治38(1905)年8月1日,豊橋で,父・那賀山浩,母・ゆさの子(異母兄が2人いた)として生まれた。20歳前後から,三河・遠江(とおとうみ)地方の郷土史研究に没頭した。浜松の内田旭に師事し,国史資料編纂室の岡本太郎に ...

ながさか・りいちろう(1870~1961)  長坂理一郎は,明治3(1870)年4月22日,豊橋札木町の料亭・千歳楼の長坂重次の子に生まれた。千歳楼の屋号は,原田圭岳がはじめ千歳舎とつけたものを,明治13(1880)年小野湖山が千歳楼と改めたものである。八町小学校を卒業,茶道を ...

どんとさいれん  正午を知らせる号砲をドンといった。東京では明治4(1871)年から昭和4(1929)年まで,江戸城旧本丸で空砲を発射した。名古屋鎮台では明治21(1888)年から正午のドンが始まったといわれる。豊橋では明治37(1904)年八町の練兵場で正午のドンが始められた ...

とよはしもうあがっこう  明治31(1898)年2月,宝飯(ほい)郡塩津村拾石(ひろいし)に拾石訓唖義塾(塾長成瀬文吾)が設立され,翌32(99)年4月,豊橋へ移転した。明治33(1900)年3月,豊橋訓盲院が豊橋に設立された。明治33(1900)年4月合併して,7月豊橋盲唖学校(校主 ...

とよはしひがしこうとうがっこう  昭和23(1948)年4月,6・3・3制移行に伴い,愛知県豊橋第二中学校は愛知県立青陵高等学校に,豊橋市立高等女学校は豊橋市立高等学校となった。昭和23(1948)年10月,愛知県立青陵高等学校と豊橋市立高等学校は統合して愛知県立豊橋東高等 ...

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