愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:仁連木

ろうじんふくしせんたー  豊橋市老人福祉センターは,昭和41(1966)年から平成3(1991)年までに,市内6地域に開設された。地域高齢者に社会参加・健康相談・機能回復訓練等の場を提供している。・仁連木(にれんぎ)老人福祉センター(豊橋市仁連木町)は,昭和41(1966)年 ...

りんざいじ  万年山臨済寺(臨済宗東福寺派)の創立は,寛文4(1664)年で,正保2(1645)年吉田(豊橋)城主小笠原忠知が豊後国杵築(大分県杵築市)より移封の際,菩提寺宗玄寺を吉田に移した。小笠原忠知が没した時,小笠原長矩は宗玄寺を仁連木村(豊橋市東田町)に移し ...

りゅうこういん  法英山竜興院(浄土宗)の創立は,永和元(1375)年であり,開山は岌観和尚である。本尊は阿弥陀如来坐像である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,「…孤峯山浄業院悟真寺…塔頭…竜興院…」とある。麗誠和尚は仁連木(にれんぎ)村の及部氏出身で, ...

よしだじょうひとじちだっかん  吉田城人質奪還は,永禄7(1564)年5月12日,二連木(にれんぎ)城主戸田主殿介重貞が吉田城に人質となっていた母を奪還したできごとである。岡崎の松平家康は,西三河の一向一揆を平定した後,勢力を東三河へと侵攻させ「小坂井」「牛久保」を ...

むかいやま  豊橋市向山町は,江戸期の仁連木(にれんぎ)村分地である。仁連木村の中央の東海道に沿った所に瓦町村が成立したのは,寛文4(1664)年で,その時,仁連木村分地となったものとされる。 仁連木村の村高は寛永期(1624~44)「三河国村々高附」に1096石余とある ...

まちうら10かしょ  町裏10か所というのは,江戸時代末期に吉田(豊橋)町地と仁連木(にれんぎ)村・花ヶ崎村・羽田(はだ)村などとの接点にできた新興住宅地10か所である。 談合宮と中世古は安久美神戸(あくみかんべ)神明社の氏子で,現在の豊橋市談合町・中世古町である。野 ...

まきの・こはく(?~1506)  牧野氏の祖は,長山(豊川市下長山町)の一色刑部の被官として讃岐国から来住して,牧野(豊川市牧野町)に城を築き,瀬木城(豊川市瀬木町)・一色城(豊川市牛久保町)を拠点とした。 牧野成時(法名古白)は,永正2(1505)年,今川氏親(1 ...

ふながたさんじょう  船形山城は,三河と遠江(とおとうみ)の境に位置し,築城時期は明らかではないが,今川氏が三河方面への侵攻の拠点とするために築いたものとされる。 城址(じょうし)は普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の裏山にあたり,現在は東海自然歩道のルートとなっ ...

ふどういん  聖休山不動院(高野山真言宗系 単立)は,寺伝によれば創立は久寿元(1154)年,京都西八条の安阿弥寺にゆかりがあった麻丸という殿上人が,「久寿元年,近く大火あらん」との夢のお告げにより,安阿弥寺の不動尊を負って吉田(豊橋)仁連木村(豊橋市東田小学 ...

はじかみごうじょう  薑郷城は,一説に二連木(にれんぎ)城家老屋敷と伝えられ,御園橋の南東,二連木城から朝倉川沿いに200mほど西北に位置する。城址(じょうし)は河川改修や宅地化により,わずかに土塁の痕跡を残すのみとなったが,昭和初期の地図には50m×50m程度の方形 ...

にれんぎむらぶんち  仁連木村分地は,寛文4(1664)年,仁連木村地の中央を通る東海道沿いに瓦町村の分村が認められたため,東海道の南の地が分地されたとされる。「東海道分間延絵図」(元禄3年刊行)に仁連木村分地が記載されている。渥美郡仁連木村分地の高は,仁連木村 ...

にれんぎむら  渥美郡仁連木村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に1096石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分1890石余,神明社領3石,全久院領36石余,悟真寺領16石余とある。寛文4(1664)年,仁連木村地の中央を通る東海道沿いに瓦町村が分立した。その ...

にれんぎとちくかくせいり  仁連木土地区画整理事業(組合施行)は,豊橋市東田町の105haにわたって,昭和8(1933)年度から同27(52)年度に施行された。昭和22(1947)年2月18日,豊橋市東田中郷町・東郷町・東雲(しののめ)町・上地町・仁連木町・東田(あずまだ)町・井原 ...

にれんぎじょう  二連木城(古文書などには「二連木」の表記が多い)は,田原方面で勢力を誇った戸田氏の城の一つである。「三河国二葉松」(元文5年)に,「天文十年戸田丹波入道宣光,法名全香,新築之,同主殿助尚舍息,丹波守重定賜松平称号」とある。明応2(1493)年, ...

なみのうえふるやしき  浪ノ上古屋敷は,浪之上戸田氏の城館である。浪之上戸田氏は,天文16(1547)年田原の戸田氏滅亡後,今川氏に取り立てられ仁連木(にれんぎ)に入った実光,重光(東三河17騎の一人戸田惣兵衛)と続く系統をいう。城址(じょうし)は特定できないが正円寺 ...

なかやま・うまし(1775~1843)  中山美石は,安永4(1775)年10月10日,吉田(豊橋)藩士中山弥助清勝の長男として生まれた。幼名を為蔵といった。その後,中山弥助美石と称した。寛政10(1798)年,郡奉行支配郷同心となった。文化2(1805)年本居大平(もとおりおおひら) ...

とよはしむら  明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡餌指町・旭町・東新(ひがししん)町・西新(にししん)町・談合宮町・中瀬古町・新銭町・中柴町・飽海町・仁連木村分地が合併して豊橋村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行された。明治28 ...

とよはしのちょうめいのへんせん  「豊橋の町名の変遷」(豊橋文化協会 昭和51年)は,豊橋および東三河の土地と結びついた地名を町名の変遷をたどり4部構成で記述したものである。 「豊橋の町名の変遷」は「豊橋文化ニュース」に32回にわたって連載されたものである。吉 ...

とよはししょうぎょうがっこう(いちりつ)  豊橋市立商業学校は,大正12(1923)年4月,豊橋市立図書館(豊橋市花田町守下)を仮校舎として設立された。大正13(1924)年4月,校舎を豊橋市東田(あずまだ)町堂前(昭和22年豊橋市仁連木(にれんぎ)町と所在地名変更)に新築・ ...

とよしょうのぐんぞう  「豊商の群像」-Ⅰ以信会の人々(豊商創立九〇周年記念事業実行委員会 平成8年)は,愛知県立豊橋商業高等学校の創立90周年記念事業として発行された記念誌である。 以信会とは,明治39(1906)年,遠藤安太郎によって,渥美郡豊岡村(豊橋市瓦町 ...

とよおかむら  明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡上岩崎村・手洗村・下岩崎村・田尻村・平川新田は合併して岩田村となったが,同17(84)年8月11日,岩田村は分離して岩崎村・岩田村となった。明治11(1878)年の郡区町村編制により,渥美郡仁連木村・ ...

とちくかくせいり  土地区画整理は,大正8(1919)年の都市計画法に規定され,宅地としての利用増進を目的とした。東部土地区画整理(昭和5~13年,16万坪)では,豊橋市仲ノ町・伝馬町・池見町・大井町・住吉町・瓦町(字なし)・老松町が設定された。南部土地区画整理・仁 ...

とだ・むねみつ(?~1508)  碧海郡上野荘(豊田市)にいた土豪の戸田宗光は,文明7(1475)年ごろ,渥美郡大津(豊橋市老津町)に入り,同12(1480)年ごろ田原(田原市田原町)に移った,明応2(1493)年ごろ牧野氏と今川氏に対峙するために,朝倉川左岸に仁連木(にれん ...

としけいかく  都市計画法が大正8(1919)年に施行され,豊橋市は同12(23)年7月1日都市計画法の適用を受けることが決定した。大正14(1925)年1月8日,豊橋市,宝飯郡下地町,渥美郡牟呂吉田村,高師村福岡・磯辺・高師(梅田川以北)・大崎,二川町大岩・二川(梅田川以 ...

だんごうじんしゃ  永正年中(1504~21),牧野古白が今橋城築城に当たって,元鍛冶町(かじまち)(豊橋市新吉町)に牛久保(豊川市牛久保町)から鍛冶職を移し,高皇産神(たかみむすびのかみ)など4柱を迎えて守護神としたという。「三州吉田神社仏閣記」(元禄6年)に,仁連 ...

たいれんじ  太子山太蓮寺(浄土宗)の創立は,文安3(1446)年であり,開山は覚阿残夢上人,本尊は室町時代作阿弥陀如来像である。もとは八名郡小鷹野(豊橋市小鷹野),屏風岩の麓にあった真言寺院で,覚阿残夢上人の時,浄土宗に改宗した。「太蓮寺縁起」によると,「往 ...

ぜんみょうじ(はいじ)  鏡光山善明寺(浄土宗)の創立は,慶長元(1596)年で,開山は繁誉昌閑和尚である。初めは十王堂と称し,江戸時代には吉田惣門(豊橋市上伝馬町)の東側に建てられていたが,寛文6(1666)年,吉田藩主小笠原長矩の命により,瓦町村(豊橋市瓦町) ...

ぜんきゅういん  仙寿山全久院(曹洞宗)の創立は,永正11(1514)年と伝えられ,開基は仁連木(にれんぎ)城主戸田憲光で,亡父戸田宗光(法名全久)の追善のため仁連木城の西方に一禅院を建てたのが始まりである。開山は大洞山泉竜院(新城市)第4世克補契嶷和尚である。し ...

しんめいしゃ(かわらまち)  (瓦町)神明社は,寛文4(1664)年吉田城主小笠原山城守が仁連木(にれんぎ)村に菩提寺臨済寺建立の際,瓦町村(豊橋市瓦町)開発が許され,翌5(65)年仁連木村神明を勧請して瓦町村の鎮守とした。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,仁 ...

しらい・ばくせい(1907~2004)  白井麦生,本名一二は,明治40(1907)年5月4日,豊橋市船町の白井倉吉の末子に生まれた。生後すぐに,父の弟・白井卯一の養嗣子となった。昭和4(1929)年東洋大学専門部文学科を卒業し,豊橋商業学校・松葉尋常小学校・豊橋高等家政女学 ...

しょこくこじょうのず  「諸国古城之図」は広島市立中央図書館浅野文庫所蔵の城絵図群で,正式には「諸国当城古城之図」のうちの「諸国古城之図」である。その編成については,広島浅野家第7代藩主であった浅野重晟(しげあきら)の治世中(宝暦13年から寛政11年)に,藩主の ...

しょううんじ(ひがしいわた)  如意山祥雲寺(曹洞宗)の創立は,寛永4(1627)年に開墾された田尻村に,庵真宅公座元が小庵を結んだのが始まりである。その後,寛永14(1637)年に公称寺院となった。全久院の隠居寺となり,全久院第24世郁応憲鳳和尚が開闢(かいびゃく)開 ...

じゅせんじ  鶴松山寿泉寺(臨済宗妙心寺派)の創立年代は不明であるが,開山は大津村(豊橋市老津町)桂昌寺の松山和尚である。延宝8(1680)年,新規開発された河原町(豊橋市瓦町)へ移転し,京都妙心寺末寺の証文を得た。元禄6(1693)年,公儀寺社奉行所から寿千寺の公 ...

きんのにわとり  不動院(豊橋市瓦町通一丁目)が仁連木(にれんぎ)(豊橋市仁連木町)にあったころ,まばゆく輝く金の鶏の彫刻があり寺の宝物とされていた。心配性の和尚は,「大切な金の鶏が盗まれたらどうしよう」と考えた。和尚があまり心配するので,見かねた小坊主がど ...

かんのんいん  宝樹山観音院(浄土宗西山禅林寺派)は,仁連木(にれんぎ)村(豊橋市東田(あずまだ)町)にあったが,元禄12(1699)年浄慈院3世覚元の弟子南嶽寂厳が開山となり,中世古に移築した。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村「猿屋町観音堂,四尺四方, ...

かんしんじ  玉竜山観真寺(真言宗醍醐派)の創立は,昭和31(1956)年3月,開山は戸苅法海和尚で,本尊は十一面千手観世音菩薩像である。法海師は豊川市の人で昭和24(1949)年仏門に入る。はじめ豊川市内にあったが,後に豊橋市東田(あずまだ)町に,昭和35(1960)年に仁 ...

かわらまちむら  寛文2(1662)年,仁連木村の佐藤弥八郎が瓦町村の開発を願い出たが許されなかった。寛文3(1663)年,吉田(豊橋)城主小笠原忠知の死去に当たって,菩提寺を仁連木村地内に移転するに当たって再願し,許された。寛文4(1664)年には,村高269石で,新発田 ...

かわらまちかいはつおぼえ  「河原町開発覚」(稿本 延享元年ごろ)は,現在の豊橋市瓦町に関する開発覚である。筆者は当時瓦町の庄屋で,鎮守神明宮の神主も兼ねていた佐藤弥七信長と推定される。本書の内容は,寛文2(1662)年から延享2(1745)年8月までの84年間にわた ...

おがさわら・ただとも(1599~1663)  小笠原忠知は,正保2(1645)年,水野忠善(ただよし)が岡崎に転封した後,豊後杵築(きつき)(杵築市)から吉田(豊橋)4万5000石に入封した。承応3(1654)年向山大池を造り,吉田城外堀に水を入れ,下水道を造った。明暦元(1655)年 ...

おおさきむら  渥美郡大崎村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に610石,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に中島与五郎知行1140石余,八幡社領7石とあり,天保12(1841)年の家数301,人数1474である。元和8(1622)年,高柳治郎右衛門が船渡新田を開発した。「三河国二 ...

おおさきじょう  大崎城は「三河国二葉松」(元文5年)に,「大崎村古城,伊庭藤太,後戸田三左衛門,仁連木戸田別,後池田武蔵守内伊庭藤太トテ弓勢人也」とある。 戸田氏は,永正年間(1504~1521)には,牧野氏と今橋城の争奪を繰り返していた。今橋城を奪われた戸田氏 ...

おおぐちこうえん  大口公園は,昭和60(1985)年3月30日,豊橋市仁連木町に開園(敷地面積約9066㎡)した。公園内には,初代豊橋市長・豊橋市名誉市民である大口喜六の筆による「二連木城址」の碑(大正15年)や妻栄子をたたえて建立した「大口栄子碑」(大正12年)がある ...

いわたしょうがっこう  豊橋市立岩田小学校は,明治6(1873)年,第10中学区第7番小学田尻学校として,田尻(豊橋市岩田町)の祥雲寺に勧善館が,第6番小学三ノ輪学校として三ノ輪(豊橋市三ノ輪町)の士族屋敷に至誠館が設立され,翌明治7(74)年に,勧善館分校が仁連木( ...

いしまきじんじゃ(むかいやま)  明治初年仁連木(にれんぎ)村分地(豊橋市向山町)に7戸の農家が石巻神社の分霊を受けて,小社を建てて祀ったという。東向山の氏神として,昭和61(1986)年,社殿・社務所を改築した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べく ...

あずまだしんめいぐう  東田神明宮は,伊勢神宮外宮の神領であった薑(はじかみ)御園(永久3年宣旨)に天照皇大神を祀ったものである。天文22(1553)年,仁連木(にれんぎ)城主戸田宣光造営の棟札があり,「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,仁連木村「神明,祢宜及部五 ...

あずまだしょうがっこう  豊橋市立東田小学校は,明治7(1874)年,第10中学区第5番小学勧善学校(田尻学校)の分校として仁連木村(豊橋市東田町)の全久院を校舎として発足した。翌明治8(1875)年,仁連木学校と改称した。明治20(1887)年,渥美郡尋常小学岩田学校の仁 ...

あさひしょうがっこう  豊橋市立旭小学校は,昭和27(1952)年4月,東田(あずまだ)小学校から分離し,これまでの東田小学校の校舎(旧豊橋女子商業学校校舎)を旭小学校とした。東田小学校は豊橋市仁連木町の旧豊橋商業学校用地に新築移転した。旭小学校が校舎とした旧豊橋 ...

あかいわさんじょう  赤岩山城は,戸田氏の城の一つである。赤岩寺(せきがんじ)の裏山,三河・遠江(とおとうみ)国境の弓張山系南西端にあたる尾根上に築かれている。 赤岩寺の永禄11(1568)年の棟札に「願主戸田左門介」とある一方で,「三河国古今城塁地理誌」には牧野新 ...

↑このページのトップヘ