わんかせいわ 二川の町並みを出て東へしばらく行くと,立岩(たていわ)(豊橋市中原町)がある。その前に畳3畳敷きほどの岩があり,椀貸せ岩とか膳(ぜん)立て岩といわれている。村で祝いごとやお祭りがあって,お膳を多く必要なときは,この岩にお願いして借りていた。岩に ...
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「鰐口」(妙泉寺)(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
わにぐち(みょうせんじ) 「妙泉寺の鰐口」1口(妙泉寺蔵)は,平成元(1989)年3月24日,豊橋市有形文化財(工芸)に指定された。 「妙泉寺(豊橋市二川町)の鰐口」は青銅製,長径18㎝,厚さ6㎝で,永享5(1433)年に作られた鰐口が何らかの理由で損傷し,2つの鰐口を ...
陸運会社・陸運元会社 とは(豊橋百科事典より)
りくうんがいしゃ・りくうんもとがいしゃ 陸運会社は,明治新政府が明治4(1871)年から5年にかけて街道の宿駅などに設立させた人馬継立の私企業である。陸運会社の設立により,明治5(1872)年には伝馬所(明治元年,問屋場を改称)・助郷は廃止された。しかし,宿駅住民 ...
米山9号窯(豊橋市岩崎町米山) とは(豊橋百科事典より)
よねやま9ごうよう 米山9号窯は,豊橋市岩崎町米山に所在する9世紀後半ごろの平安時代の灰釉(かいゆう)陶器を生産した窯跡である。発掘調査されたことはないが,採集された遺物から二川古窯址(こようし)群の中では最も古い時期の窯跡の一つと考えられる。出土遺物は灰釉陶 ...
吉田宿 とは(豊橋百科事典より)
よしだしゅく 吉田(豊橋)宿は,江戸時代の東海道五十三次中,品川から数えて34番目の宿場町である。慶長6(1601)年の「伝馬朱印状」が残っていることから,東海道宿駅設置当初からの宿場であることがわかる。天保14(1843)年の「東海道宿村大概帳」によれば,東は二川 ...
幼稚園 とは(豊橋百科事典より)
ようちえん 豊橋市内には31の幼稚園がある。学校法人曙幼稚園(昭和28年設立)牛川育英幼稚園(昭和50年設立)恵日(えにち)幼稚園(昭和23年保育園,同31年幼稚園設立)大清水幼稚園(昭和31年保育園,同43年幼稚園設立)希望が丘幼稚園(昭和53年設立)悟真寺幼稚園(昭和 ...
郵便番号 とは(豊橋百科事典より)
ゆうびんばんごう 郵便番号制度は,昭和43(1968)年7月1日から実施された。豊橋郵便局の集配区域(昭和7年合併の豊橋市)は440となり,石巻局441-11・二川局441-31・高豊局441-32・老津(おいつ)局441-33・前芝(小坂井局)441-01のように集配局番号が付けられた。平 ...
郵便局 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 石巻郵便局(豊橋市石巻本町北市場) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂 ...
宿帳 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 「二川宿本陣宿帳」(愛知県指定民俗資料) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋 ...
向山 とは(豊橋百科事典より)
むかいやま 豊橋市向山町は,江戸期の仁連木(にれんぎ)村分地である。仁連木村の中央の東海道に沿った所に瓦町村が成立したのは,寛文4(1664)年で,その時,仁連木村分地となったものとされる。 仁連木村の村高は寛永期(1624~44)「三河国村々高附」に1096石余とある ...
妙泉寺(豊橋市二川町東町) とは(豊橋百科事典より)
みょうせんじ 延竜山妙泉寺(日蓮宗)の開山は,身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町)第5世日台上人である。日台上人は上洛途中の宿舎として貞和年間(1345~50)に,二川の現在地より東北に小庵を建てて教蔵庵と名付けたのがはじまりである。寛永・明暦年間(1624~58) ...
幸公園(豊橋市佐藤町・高師町・東幸町) とは(豊橋百科事典より)
みゆきこうえん 幸公園は,東海道本線二川駅と豊橋駅の中間北側の豊橋市佐藤町池下・江島にまたがる長三池を中心に,昭和58(1983)年3月に開設された都市公園面積12.8haの総合公園である。 豊橋市福岡東部区画整理事業に伴い「人と水と緑」をテーマに農業用ため池の長三 ...
道知辺稲荷(民話) とは(豊橋百科事典より)
みちしるべいなり 明和(1764~1772)のころ,吉田(豊橋)藩主松平伊豆守が二川(豊橋市二川町)の山中で濃霧にまかれ,道に迷ってしまった。途方にくれた伊豆守が神に念じると,忽然と一方の霧が晴れ,前方に稲荷社が現れた。その方角に歩いていくと無事,街道に出ること ...
みかん とは(豊橋百科事典より)
みかん みかんは,果樹園芸で,豊橋は西に蒲郡,東に三ヶ日といった温州(うんしゅう)ミカンの大産地にはさまれており,温州みかんを中心に甘夏・伊予柑(いよかん)などの中晩柑橘が栽培されている。主に,南部の二川地区,西部の吉田方地区で栽培される。平成3(1991)年, ...
「三河日記」(山本政嗣) とは(豊橋百科事典より)
みかわにっき 「三河日記」(著者自筆)は,天保10(1839)年下野国宇都宮藩(宇都宮市)の藩士山本喜三太政嗣が藩命を受け,遠祖戸田三郎九郎清光供養のため江戸を出発し,東海道二川宿から渥美郡大津村(豊橋市老津町)太平寺に至って使命を終え,その後近隣の戸田家ゆか ...
三河裁判所 とは(豊橋百科事典より)
みかわさいばんしょ 三河裁判所は,明治新政府の地方民政機関である。裁判所は全国で12か所設置された。三河裁判所は,明治元(1868)年4月から同元(68)年6月まで,吉田(豊橋)関屋町の悟真寺に置かれた。三河・遠江(とおとうみ)・駿河の3国を管轄区域とし,幕府直轄領 ...
三河県 とは(豊橋百科事典より)
みかわけん 三河県は,三河裁判所の後を受けて明治元(1868)年6月から翌2(69)年6月まで,政府の直轄県として設置された。管轄は三河国内の旧三河裁判所管轄地(旧天領)および旗本知行地・寺社領であった。旗本知行地や寺社領の県域編入を進める過程で,静岡藩および重 ...
幻の遠三鉄道 とは(豊橋百科事典より)
まぼろしのえんさんてつどう 昭和初期に,豊橋~浜松間に鉄道を敷設しようとする計画が3つあった。1つは遠三軌道で,旧東海道を並走し,浜松から舞阪~新居~白須賀~二川を経由し,豊橋の柳生橋あたりまで至る計画であった。しかし,浜名湖の架橋工事が困難なことからとり ...
窓口センター とは(豊橋百科事典より)
まどぐちせんたー 窓口センターは,昭和57(1982)年5月,豊橋市内9か所に設置された。業務は住民の身近な場所での行政サービスである。①届出書受付(戸籍・住民基本台帳・印鑑登録・国民健康保険・国民年金・福祉・学校各関係) ②証明交付(戸籍・住民基本台帳・公的年 ...
本馬静也 とは(豊橋百科事典より)
ほんま・しずや(1918~98) 本馬静也は,大正7(1918)年9月29日,渥美郡二川町小松原(豊橋市小松原町)で,本馬豪二の6男として生まれた。昭和8(1933)年,豊橋高等小学校を卒業し,豊田自動織機に勤めた。昭和16(1941)年,応召,南方・満州に出征し,同20(45)年, ...
本陣資料館 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 二川宿本陣資料館(豊橋市二川町中町) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長 ...
本陣 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 「二川宿本陣」(豊橋市指定史跡) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂な ...
本郷遺跡(豊橋市大岩町本郷) とは(豊橋百科事典より)
ほんごういせき 本郷遺跡は,豊橋市大岩町本郷に所在する古代から中世にかけての遺跡である。遺跡は梅田川と権茂川に挟まれた舌状台地の先端部近くに営まれた集落遺跡であり,古代の灰釉(かいゆう)陶器などを生産した二川古窯址(こようし)群の中心地区である苗畑支群に近接 ...
細谷村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
ほそやむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡下細谷村・上細谷村・小島村・小松原村・寺沢村・東七根(ひがしななね)村・西七根村は合併して五並(いなみ)村と改称した。明治17(1884)年8月11日,五並村は分離して下細谷村・上細谷村・小島村・小松原 ...
細谷小学校(豊橋市細谷町中ノ島) とは(豊橋百科事典より)
ほそやしょうがっこう 豊橋市立細谷小学校は,明治5(1872)年,細谷義校として発足し,翌6(73)年12月,第10中学区第9番小学細谷学校となる。明治7(1874)年,小島村の大応寺内に分教場を設置(下細谷学校)し,同11(78)年,第10中学区第24番小学下細谷学校・第25番小 ...
舗装道路 とは(豊橋百科事典より)
ほそうどうろ 第2次世界大戦終了時の豊橋では,旧東海道の上伝馬・本町・札木・曲尺手(かねんて)・鍛冶町・下町・新町から瓦町までは幅員は3間(5.5m)のアスファルト舗装であった。昭和11(1936)年までに愛知県の道路改良工事が行われたのは,国道1号の二川東町~境川間 ...
放送局(豊橋市今橋町) とは(豊橋百科事典より)
ほうそうきょく NHK名古屋放送局豊橋支局は,昭和6(1931)年,豊橋市新銭町(広小路)に豊橋ラジオ相談所として開業した。昭和15(1940)年,名古屋中央放送局総務部豊橋出張所に改称,加入・相談業務を開始した。昭和23(1948)年,名古屋中央放送局豊橋分局に改称した。 ...
豊清神社(豊橋市豊清町茶屋ノ下) とは(豊橋百科事典より)
ほうせいじんじゃ 明治25(1892)年,豊清町の開拓者斎藤清助が豊清園(豊橋市豊清町)に稲荷社を祀った。明治41(1908)年磯辺村より移住した兵藤荒次郎らが二川八幡社より分霊して稲荷社に合祀した。昭和38(1963)年社殿を改築し,社名を豊清神社と改めた。 - - 豊 ...
変電所 とは(豊橋百科事典より)
へんでんしょ 電力は発電所から高圧で基幹変電所に送電し,配電用変電所から需用者に配電する。明治42(1909)年,見代(けんだい)発電所(南設楽郡作手村)から豊橋変電所(宝飯郡下地町)に1万Vの特別高圧で送電したものを2200Vに降圧して豊橋市内に配電した。明治45(1 ...
船形山(豊橋市岩崎町・雲谷(うのや)町) とは(豊橋百科事典より)
ふながたさん 船形山は,豊橋市の東部,弓張山系の南端近くにある標高276mの山で,山頂は北東部から南西部にかけてなだらかなカーブをえがいているので,東側山麓から仰ぐと山容が船底型に見える。山頂には,戦国時代に今川方により城が築かれ,現在も土塁の一部が残ってい ...
二俣線 とは(豊橋百科事典より)
ふたまたせん 二俣線は,遠美線(掛川~大井)のうち掛川~二俣間(二俣東線)と,二俣~豊橋間(二俣西線)を連結して建設されたものである。昭和9(1934)年,大井(恵那)~明知間,翌10(35)年,掛川~遠江森間が開通した。昭和11(1936)年12月1日,豊橋~新所原~三 ...
二川郵便局(豊橋市大岩町東郷内) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわゆうびんきょく 明治5(1872)年渥美郡二川村に二川郵便局が設置された。明治10(1877)年,下細谷村・高足(たかし)村は高塚郵便局から二川郵便局管内となった。明治41(1908)年,高師村は二川郵便局から豊橋郵便局,翌42(09)年,二川町小島・小松原・寺沢は高 ...
二川村 とは(豊橋百科事典より)
ふたがわむら 渥美郡二川村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に363石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に中泉支配所682石余,八幡社領2石とある。安政6(1859)年の家数202,人数843であった。慶長6(1601)年から人馬継立を命ぜられた東海道宿駅である。正保元(1 ...
二川南小学校(豊橋市大岩町前荒田) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわみなみしょうがっこう 豊橋市立二川南小学校は,昭和63(1988)年4月,梅田川以南の二川小学校区の大岩町本郷・大岩町南・大岩町南丘・大岩町久保田,二川町南町,豊清(ほうせい)町・三弥(さんや)町・豊栄(ほうえい)町・細谷町一里山,谷川(たにがわ)小学校区の豊 ...
二川分校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわぶんこう 二川分校は,昭和24(1949)年2月,愛知県立蒲郡高等学校定時制課程(農業課程)の分校として渥美郡二川町二川字西向山(二川中学校の隣接地)に設置された。昭和24(1949)年4月,愛知県立豊橋時習館高等学校の分校となった。昭和31(1956)年,時習館高 ...
二川トーチカ とは(豊橋百科事典より)
ふたがわとーちか 二川トーチカと呼ばれるコンクリート構造物が,豊橋市大岩町北山にある。この構造物は,第2次世界大戦末期に本土防衛のために構築された大砲を据えるための砲台である。二川トーチカは,弓張山系の南端,山の南斜面標高約31mに立地している。 この構造物 ...
二川町(明治39年合併) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわちょう 明治39(1906)年7月16日,渥美郡大川町・谷川村・細谷村・小沢村は合併して二川町と改称した。昭和30(1955)年3月1日,二川町は豊橋市に合併した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、200 ...
二川中学校(豊橋市二川町西向山) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわちゅうがっこう 豊橋市立二川中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,二川小学校の校舎を使って,二川小学校・谷川(たにがわ)小学校を校区として渥美郡二川町立二川中学校として開校した。昭和23(1948)年9月,二川町西向山に校舎を建設した。昭和30( ...
二川小学校(豊橋市二川町北裏) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわしょうがっこう 豊橋市立二川小学校は,明治6(1873)年,寛明学校を二川村の松音寺に設立,同6(73)年10月,大岩寺を校舎として第10中学区第8番小学大岩学校を設立したことに始まる。明治11(1878)年,第10中学区第8番小学大岩学校・第22番小学二川学校となり, ...
「二川宿本陣宿帳」(愛知県指定民俗資料) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわしゅくほんじんやどちょう 「二川宿本陣宿帳」33冊は,昭和41(1966)年1月17日,愛知県有形民俗資料に指定された。付属資料として頂戴御金割賦帳と本陣地図も同時に指定されている。 「二川宿本陣宿帳」は,馬場家が本陣を始めた文化4(1807)年から慶応2(1866 ...
二川宿本陣資料館(豊橋市二川町中町) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわしゅくほんじんしりょうかん 豊橋市二川宿本陣資料館は,平成3(1991)年8月豊橋市二川町中町に開館した。資料館の建設は,二川宿本陣の改修復原工事と同時に行われ,近世交通史上の貴重な文化財である二川宿を保存活用し,見学できる施設として建設され,平成17( ...
「二川宿本陣」(豊橋市指定史跡) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわしゅくほんじん 「二川宿本陣」(豊橋市二川町字中町)は,昭和62(1987)年11月26日,豊橋市史跡に指定された。 江戸時代,大名・公家など貴人の宿であった「二川宿本陣」は,二川宿では当初後藤家が,続いて紅林家が務めたが,火災などに遭い本陣職継続が困難と ...
「二川宿総合調査報告書」(二川宿総合調査団) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわしゅくそうごうちょうさほうこくしょ 「二川宿総合調査報告書」(豊橋市教育委員会 平成11年)は,豊橋市教育委員会より刊行された。調査・執筆・編集は教育委員会から委託を受けた二川宿総合調査団(会長小野木重勝)が平成6(1994)年から同10(98)年までの5か ...
「二川宿大岩加宿の研究」(鈴木関道) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわしゅくおおいわかしゅくのけんきゅう 「東海道に於ける二川宿大岩加宿の研究」(鈴木関道 昭和8年)は,渥美郡二川町大岩(豊橋市大岩町)の大岩寺(だいがんじ)17世住職鈴木関道が著した二川・大岩に関する研究書である。内容は,江戸期から明治時代の二川・大岩 ...
二川宿 とは(豊橋百科事典より)
ふたがわしゅく 二川宿は,品川宿より数えて33番目の宿場町である。二川は,本郷の地(三弥町付近)にあった集落が,天正13(1585)年ごろ元屋敷(二川町元屋敷)の地に移ったと伝えられる。この地で慶長6(1601)年12町(約1.3㎞)ほど西方の大岩村とともに東海道の宿場に ...
二川座 とは(豊橋百科事典より)
ふたがわざ 二川座は,二川(豊橋市二川町東町)の駒屋瀬古に面して東向きに建っていた。昭和19(1944)年ごろまであったが,開設時期は不明である。座席は茣蓙(ござ)または畳敷きで,演劇・映画を上演し,2階席や花道があった。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のこと ...
二川古窯址群(豊橋市大岩町など) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわこようしぐん 二川古窯址群は,松明峠(たいまつとうげ)南西麓を中心に分布する9~11世紀ごろの灰釉(かいゆう)陶器と緑釉(りょくゆう)陶器を生産した古窯址群である。尾張の猿投窯(さなげよう)からの技術導入によって,生産がはじめられたものであり,北は豊橋市多 ...
二川跨線橋(東海道新幹線・東海道本線) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわこせんきょう 二川跨線橋は,国道1号が豊橋市大岩町久保田の東海道本線(東京起点288.0㎞)に,昭和4(1929)年に上下2車線で建設され,昭和16(1941)年ごろから国道1号バイパスとして供用された。昭和36(1961)年9月,東海道新幹線の新二川跨線橋(東京起点268. ...
二川駅(豊橋市大岩町南元屋敷) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわえき JR東海二川駅(東京起点286.7㎞)は,明治21(1888)年9月1日,開業した東海道線豊橋駅~鷲津駅間に,同29(96)年4月7日開業した。所在地は,渥美郡大川町(豊橋市大岩町)の旧東海道に面した二川宿の西端である。昭和11(1936)年12月1日から同62(87)年 ...
伏見稲荷(豊橋市大岩町西郷内) とは(豊橋百科事典より)
ふしみいなり 神道伏見稲荷東洋大教会は,明治43(1910)年浦野勝雍が京都伏見稲荷大社より分霊を奉載したことに由来する。昭和2(1927)年渥美郡二川町大岩に教会所を建立した。昭和44(1969)年神殿を建設,同46(71)年会務所伏見会館を建設した。 - - 豊橋市議の長 ...