ろへんかんわ 「炉辺閑話─古稀記念集─」(三遠文化協会 昭和51年)は,石川一美の七十の賀を記念して木下克己・野口剛が編集し三遠文化協会が発行したものである。 石川一美は大正13(1924)年に師範学校を卒業し,八名郡牛川尋常高等小学校に奉職,昭和36(1961)年定 ...
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霊江寺(豊橋市下条東町谷口) とは(豊橋百科事典より)
れいこうじ 神宮山霊江寺(曹洞宗)の創立は,不明であるが,はじめは神宮山神口(郷)庵と称する密教系の寺院であったとされる。神口(郷)庵という寺名と境内が接している点から推して,悲目(ひめ)天神社(比売天神社)の社僧寺だったと思われる。悲目天神社は国内神名帳 ...
林広寺(豊橋市大村町勘太) とは(豊橋百科事典より)
りんこうじ 大円山林広寺(曹洞宗)の創立は,慶長3(1598)年,本尊は観音菩薩像,開基は下条(豊橋市下条西町〔五井〕)の郷士白井麦右衛門の支流白井治郎兵衛である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,柴屋村「大円山林広寺,豊川妙厳寺末寺,平僧,客殿六間・三 ...
みなとシティマラソン とは(豊橋百科事典より)
みなとしてぃまらそん 豊橋みなとシティマラソンは,昭和34(1959)年2月15日に,第1回豊橋10哩(マイル)ロードレース大会の開催で始まった。コースは,豊橋市公会堂前と豊川稲荷(豊川妙厳寺)の往復であった。その後,交通事情によりコースの変更が度々なされ,昭和57(1 ...
堀内村古屋敷(豊橋市下条東町北ヶ谷) とは(豊橋百科事典より)
ほりのうちむらふるやしき 下条堀内村古屋敷は,位置が特定できない城の一つである。豊橋市下条東町の霊江寺付近が城址(じょうし)と考えられているが,付近に小堀,木戸口の地名を残すのみで遺構は何もなく,規模も不明である。「三河国二葉松」(元文5年)に,「天正元年 ...
堀之内村 とは(豊橋百科事典より)
ほりのうちむら 八名郡堀之内村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に258石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分261石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数32,人数110であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,堀之内村「天王・ ...
法念寺(豊橋市前田南町二丁目) とは(豊橋百科事典より)
ほうねんじ 東岩山法念寺(曹洞宗)の創立は,昭和3(1928)年,開山は市川戒全尼である。法念寺ははじめ竹ノ内(豊橋市下条東町)に村持薬師堂があったものを,明治維新の際玉川(豊橋市石巻本町)の春興院が譲り受けて隠居地としていた。堂守の戒全尼は一寺院にしたいと ...
報徳社 とは(豊橋百科事典より)
ほうとくしゃ 報徳社は,江戸末期の篤農家であった二宮尊徳(金次郎)の勤倹仕法の流れをくむ民間の運動・結社である小田原報徳社がはじめとされる。東三河地方では,八名郡の農家の間に広まった。運動の柱は,至誠・勤労・分度・推譲の4則を本義とし,精神面を強調するも ...
藤ヶ池村 とは(豊橋百科事典より)
ふじがいけむら 八名郡藤ヶ池村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に694石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分676石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数85,人数327であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,藤ヶ池村「牛頭天 ...
比売天神社(豊橋市下条東町木戸口) とは(豊橋百科事典より)
ひめてんじんしゃ 比売天神社は,八名郡堀之内村(豊橋市下条東町[堀之内])の氏神で,創建年代は不明である。「三河国内神明名帳」の「従四位上日女天神(ひめてんじん)坐八名郡」が当社であるとする説があるが,確証はない。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,堀 ...
八反ヶ谷村 とは(豊橋百科事典より)
はったがやむら 八名郡八反ヶ谷村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に299石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分271石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数26,人数105であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,八反ヶ谷村「天 ...
八幡社(豊橋市下条東町北ヶ谷) とは(豊橋百科事典より)
はちまんしゃ(たけのうち) (竹ノ内)八幡社の創建は明らかでないが,「石巻神社誌」によると鎌倉時代の随神面十二面の内五面は下条竹ノ内にあると記すが,現在はない。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,竹之内村「八幡宮,無祢宜,村中支配」とある。境内社采宮 ...
八幡社(豊橋市下条東町白石) とは(豊橋百科事典より)
はちまんしゃ(しらいし) 寛文年間(1661~73)竹ノ内村(豊橋市下条東町)の中村善太夫により白石新田(豊橋市下条東町[白石])が開発された。(白石)八幡社の棟札に寛文5(1665)年とある。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,新切白石村「地神,村中支配」とあ ...
「涅槃図」(豊橋市指定文化財) とは(豊橋百科事典より)
ねはんず 「麻地著色涅槃図」1幅(金西寺蔵)は,平成6(1994)年3月3日,豊橋市有形文化財(絵画)に指定された。金西寺(こんさいじ)(豊橋市下条東町)の「涅槃図」は,釈迦の臨終の情景を描いたもので,麻地着色,縦172㎝・横125㎝の画幅に,沙羅双樹の間に頭を北面し, ...
「豊橋市水道誌」(豊橋市役所編) とは(豊橋百科事典より)
とよはししすいどうし 「豊橋市水道誌」(豊橋市役所昭和5年)は,豊橋市水道の昭和2(1927)年7月18日の起工式挙行から同5(30)年3月2日の竣工式・通水式に至る間の豊橋市水道築造の記録である。 豊橋市水道は,西下条(豊橋市下条西町)の豊川(とよがわ)本流の伏流水を ...
豊川の渡船 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのとせん 平安時代の承和2(835)年には,飽海河の渡船を従来の2隻から4隻に増加させる太政官符が出された。これを「飽海の渡し」という。西側は宝飯郡小坂井町平井辺り(柏木の浜)と考えられ,東側ははっきりせず豊橋市の飽海・関屋・城海津・坂津などが推定され ...
豊川の蛇行 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのだこう 蛇行は,川が連続してS字状にうねって流れる状態をいい,曲流またはメアンダーともいう。豊川は新城(しんしろ)市で三河山間部から豊橋平野に出ると蛇行し,沖積平野をつくり,三河湾に注いでいる。豊橋市内では,上流から豊橋市賀茂町,下条西町,牛川町 ...
東部中学校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
とうぶちゅうがっこう (旧)東部中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,豊橋市向山町中畑の工兵隊跡に本部を置き,東田(あずまだ)教場(豊橋女子商業学校)・向山教場(豊橋高等女学校)・岩田教場(岩田小学校)などで,東田小学校・岩田小学校・多米(ため) ...
電話局番 とは(豊橋百科事典より)
でんわきょくばん 豊橋の電話が自動開局(4桁のダイヤル式)したのは,昭和6(1931)年3月29日である。大正15(1926)年,東京・横浜,昭和3(1928)年,大阪・京都・神戸・名古屋に自動交換式の電話が登場した。豊橋と姫路が軍都として選ばれた。しかし,自動改式は豊橋だ ...
天王村 とは(豊橋百科事典より)
てんのうむら 八名郡天王村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に357石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分376石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数53,人数269であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に「禅宗竜心山江楽寺」と ...
天王の渡し とは(豊橋百科事典より)
てんのうのわたし 天王(下条)の渡しは,豊橋市下条西町(天王村)と豊川市院之子町を結ぶ豊川(とよがわ)の渡船である。天文9(1540)年に創設したとされる。しかし,昭和53(1978)年4月に中条豊橋線(愛知県道394号)の下条橋の開通により廃止された。 - - 豊橋市議 ...
天王の弁天様(民話) とは(豊橋百科事典より)
てんのうのべんてんさま 昔々,年老いた農夫が山仕事を終え,たくさんの薪(たきぎ)を背負って帰る途中,豊川(とよがわ)の鐘ヶ淵のほとりで一休みした。疲れが出て居眠りをしていると,天女のように美しい娘が現れ,「私を片葉の葦(あし)が生い茂り,清らかな水がわき出てい ...
長松院(豊橋市大村町横走) とは(豊橋百科事典より)
ちょうしょういん 堀内山長松院(曹洞宗)の創立は,天文年間(1532~1555),開山は心状霊印和尚,開基は郷士白井麦右衛門である。長松院ははじめ八名郡堀ノ内村(豊橋市下条東町)にあったので,地名をそのまま山号とした。寛文元(1661)年白井麦右衛門の血筋で大村にい ...
竹之内村 とは(豊橋百科事典より)
たけのうちむら 竹之内村の地名は文武天皇東征のころ,この地で竹ノ内王子が誕生したという伝説に由来する。八名郡竹之内村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に454石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分448石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によ ...
青陵中学校(豊橋市牛川町洗島) とは(豊橋百科事典より)
せいりょうちゅうがっこう 豊橋市立青陵中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴って,豊橋市立北部第二中学校として,本部を牛川小学校に置き,牛川教場(牛川小学校)・下条(げじょう)教場(下条小学校)に分散して,牛川小学校・下条小学校を校区として発足した ...
鈴木玄仲 とは(豊橋百科事典より)
すずき・げんちゅう(1829~91) 鈴木玄仲は,文政12(1829)年1月16日,関屋(豊橋市関屋町)に生まれた。天保11(1840)年,遠江(とおとうみ)国敷知(ふち)郡摩訶耶(まかや)村(引佐(いなさ)郡三ヶ日町摩訶耶)の阿部三圭に漢方医学を学んだ。天保13(1842)年江戸に出て ...
素盞嗚神社(豊橋市下条東町宮脇) とは(豊橋百科事典より)
すさのおじんじゃ(ふじがいけ) (藤ヶ池)素盞嗚神社は,豊橋市下条東町[藤ヶ池]に鎮座する。創立年代は明らかでないが,天文17(1548)年今川義元の修造棟札がある。神輿(みこし)に「天王御輿一宇,三州宝飯郡豊川郷総氏子奉建立者也,宇時寛文壬寅年六月吉日,神主神 ...
素盞嗚神社(豊橋市下条西町西郷廻リ) とは(豊橋百科事典より)
すさのおじんじゃ(はったがや) (八反ヶ谷)素盞嗚神社は,天正元(1573)年八反ヶ谷村(豊橋市下条西町[八反ヶ谷])の産土神(うぶすながみ)として創建された神社である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,八反ヶ谷村「天王,祢宜小太夫」とある。 - - 豊橋 ...
素盞嗚神社(豊橋市下条西町杉本) とは(豊橋百科事典より)
すさのおじんじゃ(ごい) (五井)素盞嗚神社は,五井村(豊橋市下条西町[五井])の鎮守である。創立年代は明らかでないが,天文5(1536)年の棟札があり,室町時代の作と思われる古鏡と獅子頭がある。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,五井村「天王,祢宜七郎左 ...
瑞竜寺(豊橋市下条西町杉本) とは(豊橋百科事典より)
ずいりゅうじ 祥雲山瑞竜寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,天正2(1574)年,開山は,空谷和尚(天正2年12月11日示寂(じじゃく))で,開基は五井村(豊橋市下条西町)の高柳孫兵衛である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,五井村「祥雲山瑞竜寺,嵩山正宗寺末寺,平 ...
水道 とは(豊橋百科事典より)
すいどう 豊橋市水道は,大正15(1926)年6月,豊橋市議会が水道敷設計画を可決,昭和2(1927)年7月着工した。八名郡下川(しもかわ)村大字西下条(げじょう)字三ノ下(豊橋市下条西町三ノ下)の豊川(とよがわ)河底から集水,同村牛川字小鷹野(おだかの)(豊橋市東小鷹野二 ...
白石新田 とは(豊橋百科事典より)
しらいししんでん 白石新田は,寛文年間(1661~73),豊川下流左岸に竹之内村(豊橋市下条東町)の中村善太夫が開発したものとされる。八幡社の棟札に,寛文5(1665)年,とある。八名郡白石新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分25石余とある。「吉田 ...
「諸国古城之図」 とは(豊橋百科事典より)
しょこくこじょうのず 「諸国古城之図」は広島市立中央図書館浅野文庫所蔵の城絵図群で,正式には「諸国当城古城之図」のうちの「諸国古城之図」である。その編成については,広島浅野家第7代藩主であった浅野重晟(しげあきら)の治世中(宝暦13年から寛政11年)に,藩主の ...
正楽寺(豊橋市下条東町中屋敷) とは(豊橋百科事典より)
しょうらくじ 呑月山正楽寺(臨済宗妙心寺派)の創立は不明であるが,開山は正宗寺の3世蒲済和尚(永和4年8月示寂(じじゃく))であるので室町初期と推察される。開基は竹内右衛門太夫である。古来正宗寺末浄蔭派に属しており,江戸初期に正宗寺の快鷹和尚が再興した。 「 ...
浄水場(豊橋市東小鷹野(おだかの)二丁目) とは(豊橋百科事典より)
じょうすいじょう 小鷹野浄水場は,昭和5(1930)年3月,豊橋市の上水道事業として建設された。八名郡下川(しもかわ)村西下条(げじょう)地先(豊橋市下条西町三ノ下)の豊川(とよがわ)河底の伏流水を水源として,同村牛川字小鷹野(豊橋市東小鷹野二丁目)に浄水場を,八名 ...
乗運寺(豊橋市下条東町木戸口) とは(豊橋百科事典より)
じょううんじ 興久山乗運寺(法華宗)は,文明11年(1479)年の創立で,開山は鷲津本興寺(湖西市)5代日暹(にっせん)聖人である。開基は,西郷弾正左衛門の一門で郷士中村掃部助である。乗運寺は中村家の菩提寺として建立された。本尊は久遠常住円輪具足題目(木像)であ ...
珠光院(豊橋市大村町下河原) とは(豊橋百科事典より)
しゅこういん 住吉山珠光院(曹洞宗)の創立は,不明であるが,元は真言寺院で,八名(やな)郡の吉祥山の麓(新城市)にあった。兵火のため焼失したので,時の住持大心宗綱法印は,高野山救聞院(和歌山県)から伝恵心僧都作の不動明王を勧請して,天文11(1542)年現在の地 ...
17人の郷士 とは(豊橋百科事典より)
17にんのごうし 戦国時代には多くの郷士が東三河に土着し,多くの郷村が成立した。林自見「三州吉田記」に「是時東三河有十七人郷士」とあり,今橋城を守る今川方の17人の郷士がいたことを記している。① 戸田惣兵衛は,二連木(にれんぎ)にいた。② 石田式部は代々,吉田 ...
下川村(明治39年合併) とは(豊橋百科事典より)
しもかわむら 明治39(1906)年7月1日,八名郡下条村・牛川村は合併して下川村となった。昭和7(1932)年9月1日,下川村は豊橋市に合併した。しかし,下条村犬ノ子(いんのこ)(院之子町)は,昭和8(1933)年6月10日,宝飯郡豊川町に編入された。 - - 豊橋市議の長坂 ...
佐藤清賢 とは(豊橋百科事典より)
さとう・せいけん(1915~2005) 佐藤清賢は,大正4(1915)年2月2日,新潟県西蒲原郡巻町添山に佐藤滝治の2男として生まれた。昭和9(1934)年,法華宗陣門流別院本法寺(越中八尾黒瀬)の田辺日浄聖人(のち73世管長)のもとに得度した。法兄乗運寺(豊橋市下条東町)住 ...
金西寺(豊橋市下条東町古城) とは(豊橋百科事典より)
こんさいじ 宝光山金西寺(曹洞宗)の創立は明応2(1493)年,開山は華屋厳公座元,開基は不明である。創立当時は鎌倉系の臨済宗寺院であった。元和5(1619)年豊川妙厳寺12世月岑牛雪和尚が曹洞宗に改め,隠居所としたのが始まりであると伝えられている。「三州吉田領神社 ...
江楽寺(豊橋市下条西町南) とは(豊橋百科事典より)
こうらくじ 竜心山江楽寺(曹洞宗)の創立は,永禄8(1565)年正月28日,開山は竜心順虎首座,開基は天王村(豊橋市下条西町)の郷士,村上三郎兵衛である。本尊は阿弥陀如来像,ほかに観音像を祀っている。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,天王村「禅宗,竜心山江 ...
庚申講 とは(豊橋百科事典より)
こうしんこう 庚申講は,60日ごとにめぐってくる「庚申(かのえさる)の日」に庚申仲間の人々が一堂に会し,共同飲食しながら徹夜で語り明かす行事である。庚申の夜は,眠ると人体に潜む三尸(し)という虫が天に登り,天帝にその人の罪を告げるため,夜は起き明かして三尸が体 ...
五井村 とは(豊橋百科事典より)
ごいむら 八名郡五井村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に386石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分397石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば家数63,人数269であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,五井村「天王祢宜七郎左衛門 ...
下条館(豊橋市下条東町古城) とは(豊橋百科事典より)
げじょうやかた 下条館は,「三河国二葉松」(元文5年)に,「下条五井村古屋舖・白井麦右衛門」とあるが,下条氏支配とする説もあり,この館からほど近い下条堀内村古屋敷と混同されている可能性もある。 金西(こんさい)寺(豊橋市下条東町)とその周辺が城址(じょうし) ...
下条村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
げじょうむら 明治11(1878)年12月20日,郡区町村編制により,八名郡堀之内村・白石新田・竹之内村・藤ヶ池村は合併して東下条村と改称し,八反ヶ谷村・天王村・五井村・暮川村は合併して西下条村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行され,東下条村・西下 ...
下条橋(豊川(とよがわ)) とは(豊橋百科事典より)
げじょうばし 下条橋は,中条豊橋線(愛知県道394号)の豊橋市下条西町と豊川市行明町間の豊川に架けられた橋である。昭和53(1978)年4月12日竣工した。橋長は370.0m・幅員は12.0mである。なお,橋の開通により「天王(下条)・行明・暮川の渡し」は,廃止された。 - ...
下条小学校(豊橋市下条東町西浦) とは(豊橋百科事典より)
げじょうしょうがっこう 豊橋市立下条小学校は,明治5(1872)年,八名郡藤ヶ池村(豊橋市下条東町)金西寺(こんさいじ)に藤ヶ池郷学校が開かれたが,翌6(73)年に義校,さらに10月に五井村・八反ヶ谷(はったがや)村・竹之内村・藤ヶ池村・天王村・堀之内村・白石新田を学 ...
下条街道 とは(豊橋百科事典より)
げじょうかいどう 下条街道は,豊橋市が平成2(1990)年に道路愛称として公募して認定した道路である。豊橋鳳来線(愛知県道69号)の一部区間で,豊橋市旭本町の豊橋大知波線(多米街道)との交差点から豊橋市石巻本町の国道362号(姫街道)との交差点までの延長5.0㎞の道 ...
慶増寺(豊橋市下条西町西郷廻リ) とは(豊橋百科事典より)
けいぞうじ 宝勝山慶増寺(臨済宗妙心寺派)の創立は不明であるが,開山越宗和尚は慶安2(1649)年11月の没であることから,江戸時代初期の創立と推察される。正宗寺第5世陽岸和尚を追請開山と仰ぎ,古来正宗寺末松寿派に属していた。開基は菅沼七郎左衛門・山本五左衛門と ...