愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:下地

ちょぼくじょう  豊川(とよがわ)の河口付近の豊橋市下地町・北島町の川辺には,各所に材木を係留する貯木場が造られ,製材業が発達した。江戸時代や明治期,南北設楽(したら)・八名(やな)郡地域からの木材の搬出は,豊川を利用して盛んに行われていた。豊川の上流の寒狭川や ...

ちょうそんがっぺい  明治以後の市町村の歴史は合併の歴史である。明治11(1878)年12月20日郡区町村編制が行われ,戸長を置いた。明治11(1878)年12月28日町村分合を行った。明治9(1876)年2月14日愛知県令の通達は,一定の行政水準を維持するに足る費用負担と地租改正の ...

ちゅうぶはいでん  第2次世界大戦直前の昭和16(1941)年9月,国の配電統制令に基づいて中部配電株式会社設立命令が11の電気事業者に発せられた。昭和17(1942)年4月1日,東邦電力の海東要造が社長となり中部配電株式会社が設立された。資本金2億円・従業員9073で本社は名 ...

たなばたごうう  昭和49(1974)年7月7日,東海地方の南海上に停滞していた梅雨前線は,台風8号によって刺激され,東三河地方に集中豪雨をもたらした。この集中豪雨は「七夕豪雨」といわれた。当日は朝から断続的に雨が降っていたが,午後5時ごろから雨足が強くなり,午後7 ...

だいせん  株式会社大仙は,明治25(1892)年鈴木仙吉が吉田方村北島(豊橋市北島町)で創業し,昭和35(1960)年株式会社大仙工務店が設立されたことに始まる。昭和37(1962)年には本社・工場を豊橋市下地町に移転し,同41(66)年株式会社大仙に商号を変更した。事業内容 ...

せんじゅういん  専修院(浄土宗)の創立は不明である。下地町の旧家中西家は,知誓尼( ~1808)のために小庵を結び,専修庵とした。本尊は阿弥陀如来像である。 文政12(1829)年,岡崎荒井山徳住上人の弟子を迎え専修念仏の道場とした。専修庵は一私庵であったが,昭和 ...

せんさいふっこう  豊橋市は,昭和20(1945)年6月19日の深夜から20日の未明にかけて,アメリカ軍B29爆撃機の焼夷(しょうい)弾攻撃によって市街地の90%(被災面積128万6155坪),罹災世帯1万7019,罹災人口7万1502人(全人口の50%)が被災し,家屋の全焼・全壊1万6886(全 ...

せいざい  製材は,伐採した杉や桧などの原木を,角材や板などに加工することである。豊橋の製材業は,その背後に豊川(とよがわ)・矢作(やはぎ)川・天竜川水系の豊かな山林地帯をもっているため,古くから盛んであった。とりわけ豊川は,鉄道やトラック輸送の前は,その流れ ...

せいかしじょう  一星青物市場は,明治41(1908)年,豊橋市花田町に開設された。明治42(1909)年,大丸青乾物問屋が設立された。大正7(1918)年,両者は合併し豊橋青果株式会社が発足した。大正8(1919)年,生産者に青物市場会社を起こす動きがあり,翌9(20)年,それ ...

すずき・けんざん(1842~1915)  鈴木拳山は,天保13(1842)年3月17日,宝飯郡下地村(豊橋市下地町)に鈴木弥次郎の2男として生まれた。名は潜,字(あざな)を子竜といった。嘉永5(1852)年稲田文笠(ぶんりつ)について画の研鑽(さん)を積み,竜雨と号したが,慶応元(186 ...

すいじんじゃ(よつや)  (四屋)水神杜は,瀬織津比咩命(せおりつひめのみこと)を祀り,天文13(1544)年の勧請という。下地町四屋地区の氏神である。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の ...

しんこうじ  朝晃山真光寺(真宗高田派)の創立は,永禄7(1564)年以前で,開山は智清である。以前は聖眼寺の塔頭(たっちゅう)であり,聖眼寺の記録には「本堂五間半・六間,庫裡五間・五間半」とある。 昭和20(1945)年6月の空襲によって全建物が焼失した。昭和52(1977 ...

しょうたいじ  積忠山正太寺(真宗高田派)の創立は,天正19(1591)年,開山は聖眼寺13世行順法師で大明寺と称する寺を再興したものである。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,牛川村「高田宗,積忠山正太寺,下地村聖眼寺末寺,平僧,客殿六間・四間,寺領弐石目 ...

しょうげんじ  聖霊山聖眼寺(真宗高田派)は,平安時代に慈覚大師の創立した天台宗の寺で八名郡八名井郷吉祥山麓(新城市)にあった。嘉禎元(1235)年住持行円が浄土真宗の開祖親鸞聖人に面謁(めんえつ)し,真宗に改宗し,下地(豊橋市下地町北村)の地に寺を移し,慶長9 ...

しゅぞう  酒造業は,味噌・醤油などと並んで明治期から,豊橋の代表的な食料品工業であった。明治34(1901)年に,永井仙十が中心となって,宝飯・渥美・南設楽(したら)3郡の酒造業者25人を集めて,東三酒造組合を設立した。東三酒造組合は,当初事務所を宝飯郡下地町(豊 ...

17にんのごうし  戦国時代には多くの郷士が東三河に土着し,多くの郷村が成立した。林自見「三州吉田記」に「是時東三河有十七人郷士」とあり,今橋城を守る今川方の17人の郷士がいたことを記している。① 戸田惣兵衛は,二連木(にれんぎ)にいた。② 石田式部は代々,吉田 ...

しもじやかた  下地館は,城谷(しろがやつ)古城とも呼ばれ,「三河国二葉松」(元文5年)には「下地村城谷古屋鋪,石田浄玄」とある。城址(じょうし)は豊橋市下地老人福祉センター辺りとされるが遺構もなく,規模,時期なども不明である。城主の石田浄玄とは,東三河17騎の ...

しもじむら  明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制,同22(89)年10月1日,町村制施行の宝飯郡下地村は,同24(91)年10月16日,下地町となった。明治39(1906)年7月1日,下地町・大村・鹿菅(しかすが)村は合併して下地町と改称した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊 ...

しもじむら  下地はもと下河地と称したが,応永年間(1394~1427)に下地と改めたとされる。宝飯郡下地村の村高は「三河国村々高附」(寛永期)に1179石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分1127石余,聖眼寺領15石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば ...

しもじちょう  明治39(1906)年7月1日,宝飯郡下地町・大村・鹿菅(しかすが)村は合併して下地町と改称した。昭和7(1932)年9月1日,下地町は豊橋市に合併した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006 ...

しもじしょうがっこう  豊橋市立下地小学校は,明治6(1873)年10月,第10中学区第36番小学豊麻(とよあさ)学校が開校したことに始まる。聖眼寺(しょうげんじ)を校舎とし,下地村・大村・長瀬村・行明(ぎょうめい)村を校区として発足した。明治9(1876)年8月,第10中学区第1 ...

しもじえき  飯田線下地駅は,大正14(1925)年12月23日に,豊川鉄道の豊橋~小坂井間の宝飯郡下地町(豊橋市横須賀町 豊橋起点2.2㎞)に開業した。昭和18(1943)年8月1日に,豊川鉄道ほか3社は国鉄飯田線となり,飯田線下地駅となる。昭和49(1974)年2月19日に,豊川(と ...

じがぞう  「自画像」は,大正12(1923)年9月,宝飯郡下地町(豊橋市下地町)津田の近田久勝が編集兼発行者となって,豊橋自画像社から創刊された詩誌である。菊判16ページ,大正15(1926)年10月,31輯(しゅう)をもって廃刊となった。同人は白井一二ら7人だったが,後に乙 ...

しかすがむら  明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,宝飯郡横須賀村・薮下新田が合併して津田村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制の施行にあたって,津田村・下五井村・瓜郷村・清須新田が合併して鹿菅村と改称した。明治39(1906)年7月1日,鹿菅村 ...

さんようしょうこうびんらん  「参陽商工便覧」(竜泉堂 明治21年)は,商店や製造業者の紹介本である。7.7㎝×18.0㎝のポケットサイズで使用しやすく,文字どおり便覧である。 1ページに1店舗の絵で紹介されている。全188ページで豊橋,岡崎,西尾,刈谷など三河全域にわ ...

さんぽうこうせいかん  三宝厚生館は,昭和22(1947)年11月,豊橋市下地町に三宝社会館母子寮(母子生活支援施設)として開設された。入所定員は20世帯で,母子家庭の経済的,精神的自立に向けた支援を行っている。平成8(1996)年には,夫の暴力等による緊急一時保護など ...

さとう・ぜんさく(1875~1964)  初代佐藤善作は,文政10(1827)年,讃岐(さぬき)の金毘羅(こんぴら)詣での途次に竹輪・蒲鉾(かまぼこ)・半ぺんに出会って,その製造を始めたといわれる。4代佐藤善作は,明治8(1875)年8月15日豊橋魚町の3代佐藤善作の長男に生まれ,幼名 ...

こんじきじま  金色島は,豊橋公園対岸の豊川(とよがわ)河口から6.2㎞地点の右岸蛇行部内側に土砂が堆積して陸地状になった砂州で,島といっても陸続きである。この水域は,三河湾の潮の干満の影響を受けるので,砂州の面積は大きく変化する。金色島の中央部には雑木が繁茂 ...

こじま・わしろう(1926~2004)  小嶋和四郎は,大正15(1926)年9月7日,豊橋市下地町の小嶋和四郎の長男として生まれた。東京大学農学部,同大学大学院でアルコール連続発酵を研究した。昭和33(1958)年,社団法人中部産業連盟(名古屋市)に入社し経営コンサルタントと ...

こくどう1ごう  国道1号は,明治18(1885)年,国道2号(東京~大阪港)となった道路を大正9(1920)年4月1日,国道1号(東京~伊勢神宮)と改称した。昭和27(1952)年12月4日,東京から大阪までに変更された国道である。豊橋市の区間は,潮見バイパスの豊橋市東細谷町 ...

くさまむら  「和名類聚鈔」の渥美郡6郷中の磯部(以曾倍)は太平洋岸の伊古部とする説もあるが,現在の磯辺地区とされる。江戸期には草間村であったが,やがて,向草間村・松井新田・上ノ原新田が分立した。草間村内には,王ヶ崎・駒形・一色・大山などの枝郷があった。渥 ...

がんじょうじ  正覚山願成寺(真宗高田派)の創立は,大永2(1522)年,開山は行円法師である。はじめ関屋町にあったが,天正18(1590)年城主池田輝政が城地拡張をした際に指笠(さしかさ)町(豊橋市新本町)に移転,大正10(1921)年東田(あずまだ)町北蓮田(れんだ)(豊橋 ...

かぶとえび  甲殻類葉脚目のカブトエビは,ヒトよりもかなり昔から地球上に生息していたといわれている。カブトエビは水の底を泳ぎまわり泥を足でかき回す。草取り虫などともいわれ,形状がカブトガニを小さくしたものに似ている。 ホウネンエビは体長15~20㎜で,背を下に ...

かし  慶長5(1600)年関ヶ原の合戦に協力した船町(豊橋市船町)に船役が課され,豊川(とよがわ)の河口に,吉田湊(みなと)が開かれた。豊川の上流からの鵜飼舟,伊勢参宮渡船の道者舟,江戸廻船,伊勢尾張通船などでにぎわった。船町の榎河岸,田町(豊橋市湊町)の神明河 ...

かき  花卉はデルフィニウム,バラ,グロリオサ,キクなどの切り花と洋ラン,観葉などの鉢物があり,ほとんどが施設栽培である。観葉は豊橋の下地地区(豊橋市下地町)でガラス温室とともに発展し,全国発祥の地といわれる。洋ランの生産も愛知県下で草分け的存在である。  ...

おちばづか  落葉塚は,磯村邸にある芭蕉の句碑である。「百年の 景しきを庭の 落葉哉」と刻まれている。建立年月は不明であるが,明治時代との説がある。碑の大きさは高さ126㎝・幅60㎝で,根府川石の自然石である。句は,元禄4(1691)年,芭蕉48歳,明照寺(彦根市平田 ...

おかざきしんようきんこ  岡崎信用金庫は,大正13(1924)年7月に産業組合法による有限責任岡崎信用組合として設立され,昭和26(1951)年10月に信用金庫法に基づき信用金庫に改組した。その後,昭和27(1952)年に幡豆信用組合,同41(66)年に大成信用金庫(名古屋市)の ...

おおむらしょうがっこう  豊橋市立大村小学校は,明治6(1873)年10月,下地村・大村で下地(しもじ)村の聖眼寺に第10中学区第36番小学豊麻(とよあさ)学校を設立(大蚊里(おがさと)村は瓜郷村満光寺に開設された鹿菅(しかすが)学校へ,長瀬村は海蔵寺へ通学)されたことに始 ...

おおむら  明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,宝飯郡柴屋村・大磯村・沖木村・住吉村が合併して,大村と改称した。明治17(1884)年8月11日,大村と大蚊里村は合併して大村と改称した。明治22(1889)年10月1日の町村制施行にあたって,大村・長瀬村は合併して ...

おおぎ・はぎゅう(1709頃~84)  大木巴牛は,名を近義,字(あざな)は恭夫,吉田(豊橋)曲尺手(かねんて)町の人で,通称を大木屋十右衛門といい,吉田藩御用達3人扶持である。名古屋の六々庵巴静の門に学び,巴静の没後は,不之庵木児に師事した。明和6(1769)年,下地の ...

おいつこうえん  老津公園は,豊橋市老津町今下地内にあり,国道259号に面している。老津公園は,昭和58(1983)年,鈴木新兵衛商店の清酒製造工場の跡地が豊橋市に寄付され,同60(85)年3月30日開園した。面積は0.68haで,園内には遊具や休憩所が設けられている。中央でペ ...

えんちゅうじ  清川山円忠寺(真宗高田派)は,慶安4(1651)年に竜察法師により八名郡暮川村(豊橋市牛川町)に創建された。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,暮川村「一向高田宗,清河山円忠寺,下地聖眼寺末寺,平僧,客殿五間半・三間半」とある。本尊は阿弥陀如 ...

えどさんぷりょこうにっき  「江戸参府旅行日記」(平凡社・東洋文庫 昭和52年)は,オランダ商館付医員として来日したケンペル(1651~1716)の長崎から江戸往復の紀行文である。ケンペルの「日本史」に記録された江戸参府の往路は,元禄4(1691)年3月7日,吉田(豊橋) ...

えいふくじ(しもじ)  延寿山永福寺(曹洞宗)の創立は,天正19(1591)年で,開山は花井寺(豊川市花井町)4世一鑑呑撮和尚,開基は深谷米七郎であると伝えられている。本尊は釈迦如来像である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,下地村「禅宗,延寿山永福寺,古宿 ...

うたりじんじゃ  菟足神社の産土神(うぶすながみ)区域は,宝飯郡小坂井町小坂井・同町平井・豊橋市下五井町・瓜郷町・横須賀町・下地町であった。菟足神社は,延喜式神明帳所載の神社で,雄略天皇のときに穂国造(ほのくにのみやつこ)に任命された菟上足尼命(うなかみのすく ...

うしかわむら  八名郡牛川村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に772石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分889石余,桃林寺領5石とあり,「吉田領戸数調」(安政5年)によれば家数105,人数476であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,牛川村「 ...

うえたばし  植田橋は,国道259号(田原街道)が梅田川を横切るところに架けられた橋である。豊橋市磯辺下地町と豊橋市植田町を結ぶ。明治13(1880)年8月に完成し,「植田の渡し」は廃止された。明治43(1910)年4月と昭和30(1955)年6月に改築した。さらに,昭和63(1988 ...

いまはし・そんしょう(1871~1909)  今橋尊勝は,明治4(1871)年1月8日,大阪府渋川郡久宝寺村(大阪府八尾市)の顕証寺住職,近沢含師の3男に生まれた。明治30(1897)年,下地(豊橋市下地町)の聖眼寺30世を継いだ。日露戦争後の出征軍人遺家族困窮者および傷痍軍人 ...

いぬいのけやき  「乾の﨔」樹木を中心として30坪(豊橋市吉田城址内)は,昭和30(1955)年7月1日,愛知県天然記念物に指定されたが,同33(58)年8月2日,指定を解除された。 吉田城址二の丸乾の土塁外側の豊川(とよがわ)沿いにあって,目通り2丈4尺余で,樹齢600年の大 ...

いちりやまのいちりづか  「一里山の一里塚」1基は,昭和50(1975)年11月8日,豊橋市史跡に指定された。 一里塚は慶長9(1604)年に徳川家康が徳川秀忠に命じて1里(約3.9㎞)ごとに築かせたものである。豊橋市域の東海道には,東から細谷・二川・飯村・下地の4か所に一 ...

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