愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議選に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。現在、豊橋市長(戦後最年少)。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

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ろうじんふくしせんたー  豊橋市老人福祉センターは,昭和41(1966)年から平成3(1991)年までに,市内6地域に開設された。地域高齢者に社会参加・健康相談・機能回復訓練等の場を提供している。・仁連木(にれんぎ)老人福祉センター(豊橋市仁連木町)は,昭和41(1966)年 ...

るーとわん  ルート1は,第2次世界大戦後に国道1号に付けられた別名である。進駐軍のジープは,まだ舗装されていない岡崎から国府などを砂煙りをあげて走っていた。名古屋などでは,1st street,A avenue という街路標識をつけた。東海道のROUTE 1の道路標識は,東海道 ...

よしだのおおはし  吉田(豊橋)の大橋は,東海道吉田宿の北西,東海道が豊川(とよがわ)を横切る地点に架かる橋で,宿西北端の船町(豊橋市船町)と対岸の下地村(豊橋市下地町)を結ぶ。現在の「豊橋(とよばし)」よりもやや下流にあった。江戸時代には豊橋,豊川橋,吉田橋 ...

よしだ24ちょう  東海道吉田の宿は,慶長6(1601)年,松平(竹谷)家清以来の譜代の城下町であった。また,慶長6(1601)年,徳川家康が東海道に伝馬の制を実施して以来の宿場町であり,吉田川(豊川)の河口を扼(やく)する湊町である。江戸時代を通じての町数は,24町であ ...

よしだじょうこうぼうしもじかっせん  吉田城(豊橋)攻防・下地合戦は,牧野信成が吉田城主の時,西三河において松平清康が勢力を拡大して東三河を侵攻した享禄2(1529)年5月28日のことである。松平清康は,享禄2(1529)年5月27日,兵を発し赤坂(宝飯郡音羽町)から小坂 ...

よしだおおはし  吉田大橋は,国道1号が豊川を横切るところに架けられた橋である。豊橋市八町通一丁目・同下地町瀬上間の新国道1号の開鑿に伴い,豊橋市関屋町・同今橋町と同下地町間の豊川に,昭和34(1959)年10月16日に橋長270m・幅員22.0mの上下4車線で完成した。 「 ...

ゆうせんじ  祐泉寺(真宗高田派)の創立年代は,不明であるが,開山は恵善法師で,聖眼寺(しょうげんじ)(豊橋市下地町)の塔頭(たっちゅう)であった。「三州吉田領寺社仏閣記」(元禄6年)に,下地村「一向高田宗,聖霊山聖眼寺……塔中祐泉坊・真光坊・正林坊」とある。 ...

やまもと・ていしん(1775頃~1821)  山本貞晨は,宝飯郡下地村(豊橋市下地町)の板屋の子に生まれた。通称を板平,須摩板琴と号した。享和3(1803)年,「三河大津名しょう綜録(めいしょうそうろく)」「羽田名蹤綜録」「三河国下地名蹤綜録」の3部を著わす。文化3(1806 ...

やまもと・さんたろう(1837~97)  山本三太郎は,天保8(1837)年8月18日,宝飯郡前芝村(豊橋市前芝町)の加藤六蔵正柔の2男に生まれた。宝飯郡下地村(豊橋市下地町)の製油業・山本家の養嗣子となる。文学を大田晴軒,武術を寺尾大之進に学んだ。明治13(1880)年から ...

やました・あいか(生没年不詳)  山下愛花(学文)は,宝飯郡下地町(豊橋市下地町)の出身で,浜松で「浜松短花会」を興し,「夏の花」の題を課して短歌を募集した。これに応じたのが朝倉天易・下村快雨・柳本城西・佐野蓬舟であった。山下愛花は,応募歌のすべてを伊藤左 ...

やまさちくわ  ヤマサちくわ株式会社は,文政10(1827)年,初代佐藤善作が讃岐(さぬき)の金毘羅(こんぴら)詣での帰途,竹輪(ちくわ)・蒲鉾(かまぼこ)・半ぺんに出会って,吉田(豊橋)魚町で製造を始めたといわれる。昭和15(1940)年,企業合同によって,豊橋水産食品有限 ...

みずかみ・よしお(1918~98)  水上義雄は,大正7(1918)年7月5日,水上金助の子として,岐阜県吉城(よしき)郡坂下(さかしも)村祢宜ヶ沢上(ねがそうれ)(吉城郡宮川村)で生まれた。昭和17(1942)年法政大学卒業後陸軍に入隊,第2次世界大戦終戦により復員し,同20(45) ...

みかわのくによしだめいしょうそうろく  「三河国吉田名蹤綜録」2巻(個人蔵)は,昭和58(1983)年3月15日,豊橋市有形文化財(歴史資料)に指定された。 「三河国吉田名蹤綜録」は宝飯郡下地村(豊橋市下地町)の山本貞晨(1775頃~1821)が文化3(1806)年ごろ流行した ...

みかわのくにほいぐんし  「三河国宝飯郡誌」(著者自刊 明治24~26年)は,明治15(1882)年および同21(88)年に宝飯郡の各村が村名・分合・位置・地勢・神社・仏閣・官庁・鉄道・学校・戸口などを調査したものを基礎として著したものである。これらの村誌を早川彦右衛門 ...

みかわのくにしもじめいしょうそうろく  「三河国下地名蹤綜録」(著者自筆,美濃本1冊,墨付42丁 享和3年)は,「豊橋市史々料叢書」四「三河国吉田名蹤綜録」の付録として平成9(1997)年翻刻・出版されている。下地村の商家山本貞晨(1775頃~1821)が,当時流行した「 ...

みかわのくにおおつめいしょうそうろく  「三河国大津名蹤綜録」(著者自筆,美濃本1冊,墨付39丁 享和3年)は,「豊橋市史々料叢書」四「三河国吉田名蹤綜録」の付録として平成9(1997)年翻刻・出版されている。下地村(豊橋市下地町)の商家山本貞晨(1775頃~1821)が ...

まるも・とうへい(1882~1956)  丸茂藤平は,明治15(1882)年3月25日,長野県諏訪郡玉川村(茅野市玉川)に両角(もろずみ)彦五郎の2男に生まれたが,丸茂米作の養嗣子となった。明治41(1908)年,京都帝国大学を卒業し,高等文官試験に合格し,愛知県警察部長・京都府警 ...

まつばづか  「松葉塚 附標石1基」2基10㎡(聖眼寺(しょうげんじ))は,昭和59(1984)年2月24日,豊橋市史跡に指定された。 聖眼寺(豊橋市下地町)の「松葉塚」は,松尾芭蕉(1644~94)の句碑で,旧碑と新碑の2基があり,旧碑は「松葉を焚て 手ぬくひあふる 寒さ哉」 ...

ほくぶちゅうがっこう  豊橋市立北部中学校は,昭和22(1947)年4月,6・3制移行に伴い,下地小学校校舎を借用して,下地小学校・大村小学校・津田小学校を校区とする北部第一中学校として発足した。昭和23(1948)年9月,北部中学校と校名を変更した。昭和24(1949)年,豊 ...

へんでんしょ  電力は発電所から高圧で基幹変電所に送電し,配電用変電所から需用者に配電する。明治42(1909)年,見代(けんだい)発電所(南設楽郡作手村)から豊橋変電所(宝飯郡下地町)に1万Vの特別高圧で送電したものを2200Vに降圧して豊橋市内に配電した。明治45(1 ...

べいこくとりひきじょ  豊橋米穀取引所の起源は,江戸時代吉田(豊橋)曲尺手(かねんて)町と宝飯郡下地村にあった米会所と相場会所である。伊勢桑名,近江大津とともに東海道3会所といわれたが,明治9(1876)年,廃止された。明治25(1892)年,豊橋財界が米麦取引所の発足 ...

ふるいち・もくだ(1727頃~1810)  古市木朶は,吉田(豊橋)で生まれた。父・古市猪左衛門とは2歳の時,母・よしとは7歳の時,死別した。そのため親戚の世話になり,14歳の時,犬山へ行って生業を習ったといわれる。20歳の時,名古屋の五条坊木児に入門して楚笠と名乗り, ...

ぶらじるじんがっこう  豊橋在住のブラジル人は,1万2130人(平成18年3月31日現在)で,その子弟のための学校として「楽しく学ぶ学校」(Escola Algria de Saber)がある。ブラジル人学校は現在,豊橋市・豊田市・鈴鹿市・浜松市に,幼児クラスから高校まである。E・A・S( ...

ふなまちえき  飯田線船町駅は,昭和2(1927)年6月1日に,豊川鉄道の吉田(豊橋)~下地間の渥美郡牟呂吉田村東豊田(豊橋市北島町,豊橋起点1.5㎞)に新船町駅として開業した。昭和18(1943)年8月1日に,豊川鉄道他3社は国鉄飯田線となり,飯田線船町駅と改称し,同34(5 ...

ふなまち  船町は,吉田(豊橋)24町の一つで,天正18(1590)年,池田照正(輝政)の吉田入城後,はじめて町名を命じ,浅井与次右衛門を庄屋役に任命したことに始まる。慶長5(1600)年,関ヶ原の役に東軍のために伊勢渡航の軍役に服したので,船役に対して,表間口より奥 ...

ひよしじんじゃ(しもごい)  豊橋市下地・瓜郷・横須賀・下五井は,宝飯郡小坂井町の菟足(うたり)神社の氏子であったが,天文9(1540)年下五井村開村に先立って山王権現を勧請したものといわれる。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,下五井村「山王権現,祢宜中村三 ...

はだめいしょうそうろく  「羽田名蹤綜録」(著者自筆,美濃本1冊,墨付30丁 享和3年)は,「豊橋市史々料叢書」四 「三河国吉田名蹤綜録」の付録として平成9(1997)年翻刻・出版されている。下地村(豊橋市下地町)の山本貞晨が,当時流行した「名所図会」の形式になら ...

ばしょうくひ  江戸時代の元禄期を代表する俳人松尾芭蕉(1644~94)は,各地を旅して多くの名句を残している。吉田(豊橋)へも貞享4(1687)年に訪れていて,「松葉を焼て」の句や,「寒けれど」の句を詠んでいる。豊橋市内には12基の芭蕉句碑が建立されている。 「松葉 ...

なつめ・たいか(1881頃~1951)  夏目泰果は,宝飯郡下地村(豊橋市下地町)に生まれた。本名を七作と称した。東京美術学校で洋画を学んだが,中退した。洋画で文展に入選,後,帰郷して鈴木拳山に師事して日本画に転じた。はじめ太果と号したが,後に泰果と改めた。大正7 ...

なかやま・うまし(1775~1843)  中山美石は,安永4(1775)年10月10日,吉田(豊橋)藩士中山弥助清勝の長男として生まれた。幼名を為蔵といった。その後,中山弥助美石と称した。寛政10(1798)年,郡奉行支配郷同心となった。文化2(1805)年本居大平(もとおりおおひら) ...

なかじま・とよぞう(1924~45)  中嶋豊蔵は,大正13(1924)年11月,豊橋市横須賀町の農家に生まれた。下地尋常高等小学校を卒業し,陸軍少年飛行兵に応募合格し,宇都宮陸軍飛行学校に入校した(当時15歳)。 中嶋豊蔵陸軍軍曹は,第2次世界大戦末期の昭和20(1945)年6 ...

ながい・せんじゅう(1850~1915)  永井仙十は,嘉永3(1850)年3月10日,宝飯郡下地村(豊橋市下地町)で生まれた。家業は醸造業を営んでいたが,明治6(1873)年下地村学校世話方3人(永井仙十・内藤八郎兵衛・長尾賢保)の1人に選ばれた。明治25(1892)年豊橋商業会議 ...

とよはしでんとう  豊橋電燈株式会社は,明治26(1893)年,豊橋商業会議所が創設された折の電気燈設立気運の高まりにより,翌27(94)年3月に,三浦碧水・福谷元次・佐藤弥吉ら8人が発起人となり,資本金1万5000円で創立された。全国で14番目,愛知県内では名古屋電燈につ ...

とよはししんようきんこ  豊橋信用金庫は,大正10(1921)年10月に事務所を豊橋市上伝馬町に置いて,有限会社豊橋信用組合が創立されたことに始まる。大正14(1925)年2月に本店事務所を豊橋市神明町に新築・移転した。大正15(1926)年6月に花田支所,昭和4(1929)年5月に ...

とよはししんぶん  「豊橋新聞」は,昭和27(1952)年10月,元中部日本新聞出版部長・渡辺登喜雄により創刊された。本社を豊橋市紺屋町(豊橋市魚町)に置き,当初は全判半裁2ページ,後にブランケット判4ページであった。その後社屋を豊橋市下地町に移転した。発足時は編集 ...

とよはししすいどうし  「豊橋市水道誌」(豊橋市役所昭和5年)は,豊橋市水道の昭和2(1927)年7月18日の起工式挙行から同5(30)年3月2日の竣工式・通水式に至る間の豊橋市水道築造の記録である。 豊橋市水道は,西下条(豊橋市下条西町)の豊川(とよがわ)本流の伏流水を ...

とよはししげすいどう50ねんし  「豊橋市下水道50年史」(豊橋市下水道局 昭和60年)は,昭和11(1936)年に築造された下水道が第2次世界大戦後,4次にわたって拡張され,昭和54(1979)年の中島処理場の完成までを記述したものである。この間,6か所の地域下水道が整備さ ...

とよはしし  明治22(1889)年10月1日の町村制施行により豊橋市街23町が渥美郡豊橋町となった。明治28(1895)年2月25日,豊橋町(25大字)は豊橋村(9大字)を合併した。明治39(1906)年7月16日,豊橋町(34大字)・花田村(1大字)・豊岡村(6大字)は合併して豊橋町(41 ...

とよばし  豊橋は,白鳥豊橋線(愛知県道496号・東海道)が豊川(とよがわ)を横切るところに架けられた橋である。豊橋市船町と同下地町間を結ぶ。「豊橋」は,地名の「とよはし」と区別するために「とよばし」と呼称されることもある。 天正18(1590)年,吉田大橋として架 ...

とよがわのとせん  平安時代の承和2(835)年には,飽海河の渡船を従来の2隻から4隻に増加させる太政官符が出された。これを「飽海の渡し」という。西側は宝飯郡小坂井町平井辺り(柏木の浜)と考えられ,東側ははっきりせず豊橋市の飽海・関屋・城海津・坂津などが推定され ...

とよがわのてっきょう  豊川に明治21(1888)年,東海道線(単線)の鉄橋が架設され,同41(08)年,複線化(下り線架設)した。この間,豊川鉄道(飯田線下り線)の架設は,明治30(1897)年,資本金40万円を50万円に増資して,下地町起点を花田村(豊橋市花田町西宿)豊橋 ...

とよがわのしゅううん  江戸期の豊川の舟運は,八名郡乗本村(鳳来町)と対岸の設楽郡長篠村(鳳来町)から,鵜飼舟によって吉田(豊橋)・下地・前芝に貨物を送ったものである。鵜飼舟は,長さ7間半・幅4尺5寸で,舟人2人ずつ乗組み,11里を9~10時間かかって下った。 宝 ...

とよかわてつどう  明治29(1896)年1月24日,豊川鉄道株式会社に私設鉄道敷設免許状が下付され,同29(96)年2月1日,豊川鉄道株式会社創立,取締役社長横山孫一郎(1846~1911),同29(96)年,起点を下地から花田村に変更(資本金を50万円とする),豊橋停車場(明治32 ...

とよがわ  豊川は,北設楽郡設楽町の段戸(だんど)山(標高1152m)を源流とする豊川(別名寒狭川)と,明神山(標高1016m)を源流とする宇連(うれ)川(豊川,別名三輪川・板敷川)が南設楽郡鳳来町長篠地先で合流し,中央構造線に沿って南西に流れ,新城(しんしろ)市で山地を ...

とよあさじんじゃ  豊麻神社は,旧称秋葉神社で,天明4(1784)年下地村が勧請したものである。明治34(1901)年移転し,昭和15(1940)年境内を拡げ,社殿を改築した。下地村は元来小坂井菟足(うたり)神社(宝飯郡小坂井町)を氏神とし,近年までその祭礼に参加していた。 ...

としけいかく  都市計画法が大正8(1919)年に施行され,豊橋市は同12(23)年7月1日都市計画法の適用を受けることが決定した。大正14(1925)年1月8日,豊橋市,宝飯郡下地町,渥美郡牟呂吉田村,高師村福岡・磯辺・高師(梅田川以北)・大崎,二川町大岩・二川(梅田川以 ...

とくていゆうびんきょく  特定郵便局は,「全国郵便局沿革録」明治篇・「三河三等局長会沿革誌」「東海地方特定郵便局長会史」によれば,二川(明治4年)・高塚(明治9年,同42年高豊と改称)・大津(明治9年,同14年老津と改称),高井(明治9年,同12年玉川と改称,同42年石 ...

とうかいどうじんぶつし  「東海道人物志」(三都書林 享和3年)は,東海道五十三次各宿場とその周辺に住む文人などを紹介したいわゆる「姓名録」である。大須賀鬼卵は,安永8(1779)年妻夜燕(やえん)とともに吉田(豊橋)に移り住んだが,天明3(1783)年妻を亡くしてか ...

つだしょうがっこうこうしゃとうかい  津田小学校校舎倒壊は,大正15(1926)年9月4日9時30分,東三河地域の悪天候により起こった。この日,早朝から暴風雨が東三河地方を襲っていたため,津田小学校登校児童数は全校児童197人中124人であった。このうち105人の児童が3年前 ...

つだしょうがっこう  豊橋市立津田小学校は,明治6(1873)年10月,第10中学区第37番小学鹿菅(しかすが)学校として瓜郷村の満光寺を校舎として,瓜郷村・下五井村・横須賀村・清須新田・薮下新田・小坂井村・大蚊里(おがさと)村を通学区域として発足したことに始まる。明治8 ...

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