愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

カテゴリ:20-遺跡・城

ごほんまつじょう  五本松城は,豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の本城である。西郷氏は,石巻中山地区を中心に城砦(じょうさい)群を築いたが,この城は唯一平地部に位置する。この城の様子を伝える広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中の「三河五本松」に ...

こはまかいづか  小浜貝塚は,豊橋市小浜町・神ノ輪町に所在する縄文時代前期~晩期の貝塚である。標高約3mの段丘端部に形成された市内で最も長期間継続した貝塚である。昭和17(1942)年に久永春男によって発見され,小浜神明社境内を中心に貝層が4か所に散在していたこと ...

ごかんもりかいづか  五貫森貝塚は,豊橋市大村町五貫森に所在する縄文時代晩期の貝塚である。豊川(とよがわ)流域の自然堤防上(標高約2m)に形成され,A~Cの3か所の貝塚がある。明治大学により,昭和24(1949)年にA貝塚が,翌25(50)年にはB貝塚が発掘調査されている。 ...

こうじょう  高城は,豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。この城の様子を伝える絵図として広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中の「三河五葉」がある。 五葉城は,豊橋市と新城市の境の新城市富岡に所在し,東名高速道路沿いの大原調整池( ...

げじょうやかた  下条館は,「三河国二葉松」(元文5年)に,「下条五井村古屋舖・白井麦右衛門」とあるが,下条氏支配とする説もあり,この館からほど近い下条堀内村古屋敷と混同されている可能性もある。 金西(こんさい)寺(豊橋市下条東町)とその周辺が城址(じょうし) ...

くろだじょう  畔田城は,豊橋南部の梅田川流域で勢力を誇った畔田氏の本城である。赤沢城ともいう。築城時期,規模などは不明だが,東観音寺の古文書によれば寛正2(1461)年以前には畔田氏はこの地域にいたようである。 畔田城は昭和40(1965)年ごろまでは,海岸浸食な ...

くるまじんじゃこふん  車神社古墳は,梅田川左岸の段丘端部に位置する。そこはかつて河口が深く湾入していたところである。明治18(1885)年に古墳の上に社殿が造営されたときに石槨(せっかく)から遺物が出土したと伝わり,出土品の一部は愛知県指定文化財になっている。ま ...

くもんいせき  公文遺跡は,豊橋市牟呂公文町に東西300m,南北200mほどの範囲で広がる12世紀から16世紀を中心とした集落址(し)・城館址である。 昭和60(1985)年から平成7(1995)年にかけて豊橋市教育委員会・牟呂地区遺跡調査会が発掘調査を行い,豪族居館を囲む堀と推 ...

くさまじょう  草間城は,豊橋南部の梅田川流域で勢力を誇った畔田(くろだ)氏の城で,畔田氏関連の城跡群の中では最も北に位置している。築城時期などは不明。規模については地籍図から150m×100mほどと考えられている。「三河国二葉松」三州古城記(元文5年)に,「草間村 ...

きたうらじょう  北裏城は,田原方面で勢力を誇った戸田氏の城の一つである。豊橋市老津町中北の畑地の小高い高まりに祠(ほこら)があるが,この高まりが唯一の遺構,土塁の可能性がある。築城時期・規模については不明である。 城址(じょうし)付近は周囲より高くなっており ...

きじやまじょう  雉子山城は,豊橋南部方面,主に梅田川流域で勢力を誇った畔田(くろだ)氏の城の一つである。寛正年間(1460~66)に,この地の地頭富田弾正が居城とし,後に畔田氏が居城にしたとされる。規模については地籍図から150m×100mほどとされている。 城址は, ...

きけんじとりで  喜見寺砦は,永禄7(1564)年6月,徳川家康が今川方の吉田(豊橋)城を攻める際に臨時的に寺院地を陣所として利用したものである。遺構はなく規模も不明であるが,砦としての築城時期は,永禄7(1564)年である。 「三河国吉田名蹤綜録」には,松平主殿介 ...

かもふるやしき  賀茂古屋敷は,賀茂郵便局の東,字城屋敷に位置する。築城時期などは不明であるが,「三河志」などに城主として竹尾隼人の名が見られる。地籍図からその規模は50m×50mの堀と土塁に囲まれた方形館であったとされる。 「三河国古城古屋敷之記」などには「 ...

おがさとかいづか  大蚊里貝塚は,(大蚊里)素盞嗚(すさのお)神社一帯に所在する縄文時代晩期の貝塚である。大正15(1926)年に伊藤法一によって発見された。昭和23(1948)年に瓜郷遺跡調査会,同38(63)年に明治大学,平成8(1996)年に豊橋市教育委員会によって発掘調 ...

おおにしかいづか  大西貝塚は,縄文時代後期後葉~江戸時代の貝塚であり,豊橋市牟呂大西町の標高約1mの旧海浜部に所在する。昭和63(1988)年以降4次にわたる発掘調査が行われている。縄文時代の貝層は,平面形はくの字形をなし,長さ185m,幅40m,面積5762㎡,体積は5877 ...

⇒ 高縄城(豊橋市老津町西高縄) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと ...

おおさきじょう  大崎城は「三河国二葉松」(元文5年)に,「大崎村古城,伊庭藤太,後戸田三左衛門,仁連木戸田別,後池田武蔵守内伊庭藤太トテ弓勢人也」とある。 戸田氏は,永正年間(1504~1521)には,牧野氏と今橋城の争奪を繰り返していた。今橋城を奪われた戸田氏 ...

うしかわじん  牛川人は,豊橋市牛川町乗小路にあった牛川鉱山で発見され,鈴木尚東京大学名誉教授によって命名された化石人骨のことである。 昭和32(1957)年,発破作業後の牛川鉱山石灰岩壁(高さ30mほど)から長さ5m,幅2mのフィッシャー(裂け目)が出現し,そこから ...

うえじじょう  上地城は,豊橋南部の梅田川流域で勢力を誇った畔田(くろだ)氏の城の一つである。愛知県道伊古部南栄線の旧道と新道の分岐する交差点の南側の若干小高くなった辺りが城址と推定されているほかは,築城時期・規模など不明である。明治期の地籍図には約50m四方 ...

いぶみやしき  入文屋敷は,位置が特定できない城館の一つである。豊橋市石巻小野田町の保寿寺(ほうじゅじ)付近にあったと推定される。築城時期,規模などは不明である。「三河国古今城塁地理誌」に山本清七郎の名があり,新城市黒田の「山本家系図」では清七が入文村(豊橋 ...

いばじょう  伊庭城は,築城時期など不明である。しかし,地籍図などから30m×30m程度の城と考えられ,伊庭藤太の城といわれている。「三河国二葉松」(元文5年)などでは「大崎村古城」城主として,伊庭氏,戸田氏の名を挙げている。しかし,船渡町竜源院裏手の大崎城とこ ...

いなりやまこふんぐん  稲荷山古墳群は,標高72.3mの小丘陵「稲荷山」の尾根上にある,4基の古墳群である。平成13(2001)年に宅地造成に伴い2~4号墳の発掘調査が行われた。その後,3・4号墳は滅失した。3号墳は直径11.0mの円墳で,墳丘は控積(ひかえづ)みや石列などにより ...

いなのどうたく  伊奈の銅鐸は,大正13(1924)年12月22日,宝飯郡前芝村(豊橋市前芝町)林豊治所有の宝飯郡小坂井町伊奈字松間の畑の深さ80㎝の地中から,横里富三郎,北川馨によって,掘り出された3個の銅鐸である。弥生時代後期の三遠式銅鐸で,袈裟襷(けさだすき)文様 ...

いちりやまこようしぐん  一里山古窯址群は,7世紀の終わりごろから9世紀ごろの須恵器を生産した豊橋市南東部に分布する窯跡群である。豊橋市東細谷町から豊橋市大岩町辺りまでの東西約3.5㎞,南北約5.5㎞の範囲に分布している。窯跡は,深田支群,東篭田(ひがしかごた)支群 ...

いちみちいせき  市道遺跡は,8~10世紀ごろの古代に渥美郡の役人をしていた豪族の館跡,あるいは渥美郡の正倉の一部や豪族の氏寺とされる寺院跡(市道(いちみち)廃寺(はいじ))と,12~14世紀ごろの中世の寺院跡が確認されている。 遺跡は2万㎡以上ある大きなもので,北側 ...

いちばじょう  市場城は,豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つと考えられている。 「三河国二葉松」(元文5年)に「嵩山村古城西郷孫四郎,奥山修理進,中山是非之助,西郷家之別」とあるのがこの市場城と思われる。当時の勢力関係から遠江(とおとうみ)国引佐を領 ...

いちきしまじんじゃこふん  市杵島神社古墳は,標高2~3mの低位な段丘の先端部に位置する古墳である。墳丘上には,市杵島神社が建っている。昭和60(1985)年に,豊橋市教育委員会・牟呂地区遺跡調査会が発掘調査を行い,古墳は全長60m前後,後方部一辺32m,同高さ5m,前方 ...

いそべおうづかこふん  磯辺王塚古墳は,三河湾沿岸の柳生川河口部に発達した砂の堆積地の付け根付近に位置している。羽田野敬雄(はだのたかお)が残した記録により,古くは幕末の弘化3(1846)年に付近の村人が発掘したことがうかがえる。その後,大正11(1922)年から平成9 ...

いしまきさんじょう  石巻山城は,石巻山中腹の石巻神社山上社付近から山頂下にかけて築かれている。 「三河国二葉松」(元文5年)では「城主不知」とあるが,高井城の詰の城,南北朝期の城という説もある。とすれば市内最古の城ということになるが,いずれも史実の裏づけ ...

いしづかかいづか  石塚貝塚は,縄文時代前期の貝塚である。貝塚は標高約9mの段丘端部に形成されているが,現在は寺院や住宅になっているため様子はうかがえない。過去に,久永春男によって数度の小規模調査が行われている。貝塚は,黒色土層上にバイガイ主体の貝層が厚さ20 ...

あずまだこふん  東田古墳は,朝倉川の沖積地を北に臨む段丘の緩斜面に位置している。前方後円墳で,全長40m,後円部の径25m,高さ3m,前方部の長さ15m,幅16m,高さ4mである。今までに発掘調査は行われていないが,明治12(1879)年から翌13(80)年ごろ,後円部の上に神社 ...

あくみいせき  飽海遺跡は,豊橋公園(豊橋市今橋町)を中心におよそ東西1㎞,南北500mの範囲に広がる弥生時代から中世にかけての大規模な遺跡である。大部分は中世~近世の吉田(豊橋)城址と重なっており,吉田城の発掘調査に伴い調査が行われているが,遺跡の詳しい内容 ...

あかいわさんじょう  赤岩山城は,戸田氏の城の一つである。赤岩寺(せきがんじ)の裏山,三河・遠江(とおとうみ)国境の弓張山系南西端にあたる尾根上に築かれている。 赤岩寺の永禄11(1568)年の棟札に「願主戸田左門介」とある一方で,「三河国古今城塁地理誌」には牧野新 ...

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