わちがやむら 八名郡月ヶ谷村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に256石,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分252石余,若王子社領2石,万福寺領2石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数33,人数134であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6 ...
カテゴリ:04-町村名
和田村 とは(豊橋百科事典より)
わだむら 八名郡和田村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に564石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分554石余,椙本八幡社領3石,春興院領5石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数96,人数404であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年 ...
若宮村 とは(豊橋百科事典より)
わかみやむら 八名郡若宮村は,戦国末期吉田(豊橋)城の外郭拡張に伴い,飽海(あくみ)村の百姓によって開発され,若宮八幡社にちなんで名付けた村である。八名郡若宮村の村高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分137石余,若宮社領3石余とある。「吉田領戸数調 ...
吉田藩 とは(豊橋百科事典より)
よしだはん 吉田藩は,三河国吉田に置かれた藩で,藩主はいずれも譜代大名であった。15万石の池田輝政が姫路に移ると,松平(竹谷)家清が慶長6(1601)年,3万石で入封して吉田藩が成立した。以後,松平(深溝)氏・水野氏・小笠原氏・久世氏・牧野氏・松平(大河内)氏・ ...
吉田張子面 とは(豊橋百科事典より)
よしだはりこめん 吉田の張子面は,江戸末期吉田藩の下級武士の手内職に端を発するとされている。太田南畝(おおたなんぽ)(蜀山人)の「改元紀行」文中に「…童の弄(もてあそ)びもの多し,獅子の形,仮面の形,鄙(ひな)びたり」の記述があり,吉田宿で子どもの玩具として張 ...
吉田24町 とは(豊橋百科事典より)
よしだ24ちょう 東海道吉田の宿は,慶長6(1601)年,松平(竹谷)家清以来の譜代の城下町であった。また,慶長6(1601)年,徳川家康が東海道に伝馬の制を実施して以来の宿場町であり,吉田川(豊川)の河口を扼(やく)する湊町である。江戸時代を通じての町数は,24町であ ...
吉田町神明社(豊橋市前田中町) とは(豊橋百科事典より)
よしだちょうしんめいしゃ 吉田町神明社は,吉田町(昭和12年吉田町,平成12年前田中町と改称)町内会が,昭和15(1940)年ごろ安久美(あくみ)神戸(かんべ)神明社を分祀したものである。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 ...
吉田神社(豊橋市関屋町) とは(豊橋百科事典より)
よしだじんじゃ 吉田神社は,古くは天王社・牛頭(ごず)天王・吉田天王社と称した古社で,治承2(1178)年源頼朝が普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)に滞在したとき,戦勝祈願のため家臣を代参させ,三河守護安達藤九郎盛長も社殿を造営したという。天文16(1547)年今川義元 ...
吉田方村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
よしだがたむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚村・高須新田が合併して豊田村と改称したが,同17(84)年8月11日豊田村は分離して,東豊田村・西豊田村と改称した。明治11(1878)年12月20日の編成により,茅野新 ...
吉田 とは(豊橋百科事典より)
よしだ 吉田は豊橋の旧称である。その名は古く,天慶3(940)年に伊勢神宮の神戸が飽海(あくみ)郷に置かれ,その後この中に吉田御園を設置したとあることから,すでに平安時代に吉田と呼ばれていた地域があったことを示している。 一方,永正2(1505)年に牧野古白が築い ...
吉前新田 とは(豊橋百科事典より)
よしざきしんでん 吉前新田は,豊川(とよがわ)河口左岸に位置する。明治25(1892)年,浅野喜七郎・青木平太郎・同和市・同重五郎・西土文八・藤井平三・伊庭(いば)喜市・中村兼四郎・小柳津(おやいづ)治郎右衛門・吉原裕太郎・宅間菊太郎の11名の土着資本家の手で,海面を ...
吉川村 とは(豊橋百科事典より)
よしかわむら 渥美郡の吉田方5か村は,寛永15(1638)年,羽田(はだ)村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚村に分立したという。渥美郡吉川村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)では吉田中3032石余である。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,吉川村豊橋藩領分297石余 ...
横須賀村 とは(豊橋百科事典より)
よこすかむら 横須賀村は,元正元(1573)年以前は,横州村と称していたという。「新訂三河国宝飯郡誌」鹿菅村に,「永正二年乙丑年,今川治部大夫氏親ノ旨ヲ承ケ,牧野田三支配ノ節,天文七戊戌年,横州村ヲ開発,渡津ノ今道ヨリ横手ニ当リ寄州アリ,諸人横州ト云タルヲ村 ...
山内新田 とは(豊橋百科事典より)
やまのうちしんでん 山内新田は,享保16(1731)年以前,豊川(とよがわ)河口右岸に開発された新田である。一時荒廃し,宝暦8(1758)年,青木九郎治が再開発し,青木新田の1部となり,後,分村した。宝飯郡山内新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分14 ...
山田村 とは(豊橋百科事典より)
やまだむら 山田村は,寛永4(1627)年の開発で,村高188石余で高足(たかし)村から分立したとされる。渥美郡山田村の村高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分228石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数18,人数99であった。「三州吉田領神社仏 ...
薮下新田 とは(豊橋百科事典より)
やぶしたしんでん 薮下新田は,寛文7(1667)年,豊川(とよがわ)河口右岸に南部牧右衛門・石川孫次郎が開発した新田で,横須賀村から分立したという。宝飯郡薮下新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分132石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれ ...
八名郡 とは(豊橋百科事典より)
やなぐん 八名郡は,「倭名類聚鈔」の三河8郡の1つで,「八名 也名」と表記される。多米(ため)・美和・八名・養父(やぶ)・和太・服部(はとり)・美夫の7郷がある。渥美郡とは朝倉川,宝飯郡とは豊川(とよがわ)で境し,遠江(とおとうみ)国とは赤石山脈の末端を境として,北 ...
森田新田 とは(豊橋百科事典より)
もりたしんでん 森田新田は,元禄11(1698)年,柳生川左岸に開発された新田である。高39石余で高足(たかし)村から分立した。渥美郡森田新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分70石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数6,人数38であった ...
森崎新田 とは(豊橋百科事典より)
もりさきしんでん 森崎新田は,万治3(1660)年以前,田原湾岸に林権四郎によって高39石余を開発された。渥美郡森崎新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分40石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数18,人数83であった。明治11(1878)年 ...
森岡新田 とは(豊橋百科事典より)
もりおかしんでん 森岡新田は,貞享(1684~88)以前,神田川上流左岸に開発された新田である。八名郡森岡新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分20石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数4,人数18であった。明治8(1875)年,森岡新田 ...
明治新田 とは(豊橋百科事典より)
めいじしんでん 文政3(1820)年,吉田(豊橋)藩が,福島献吉を牟呂沖新開惣奉行に任命して築成した富士見新田は,大風と高浪によって,堤防が決壊して荒廃していた。西富士見新田は,文政4(1821)年に,修復されて富久縞新田となった。しかし,中富士見新田・東富士見新 ...
牟呂吉田村(明治39年合併) とは(豊橋百科事典より)
むろよしだむら 明治39(1906)年7月16日,渥美郡牟呂村・吉田方村は合併して牟呂吉田村と改称した。昭和7(1932)年9月1日,牟呂吉田村は豊橋市に合併した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12 ...
牟呂村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
むろむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡上牟呂村・中牟呂村・下牟呂村・松島新田・富田新田・上ノ原新田・草間村・向草間村・松井新田は合併して磯辺村と改称した。明治17(1884)年8月11日,磯辺村は分離して牟呂村(上牟呂村・中牟呂村・下牟呂 ...
牟呂村 とは(豊橋百科事典より)
むろむら 牟呂村は,柳生川河口の渥美湾に面している。牟呂の地名は熊野の「牟婁(むろ)」に由来するとされる。渥美郡牟呂村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に1844石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に上牟呂村豊橋藩領分610石余,中牟呂村豊橋藩領分474石余・坂 ...
向草間村 とは(豊橋百科事典より)
むこうくさまむら 向草間村は,江戸時代初期に草間村より分立した。渥美郡向草間村の村高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分216石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数37,人数148であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,向草間村 ...
向山神明社(豊橋市向山台町) とは(豊橋百科事典より)
むかいやましんめいしゃ 向山神明社は,昭和40(1965)年,向山西町・向山台町・向山大池町に土地区画整理が行われるに際して,第一向山町内会の氏神として東田(あずまだ)神明社を分祀したものである。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがと ...
向山 とは(豊橋百科事典より)
むかいやま 豊橋市向山町は,江戸期の仁連木(にれんぎ)村分地である。仁連木村の中央の東海道に沿った所に瓦町村が成立したのは,寛文4(1664)年で,その時,仁連木村分地となったものとされる。 仁連木村の村高は寛永期(1624~44)「三河国村々高附」に1096石余とある ...
南栄町 とは(豊橋百科事典より)
みなみさかえちょう 豊橋市南栄町は,昭和7(1932)年,渥美郡高師村が豊橋市に合併した際,高師村大字福岡(橋良)字蟹原,大字高師字空池(からいけ),大字磯辺(草間)字東山で編成された町である。明治40(1907)年,高師村に陸軍第15師団が置かれ,大正13(1924)年, ...
三ツ相村 とは(豊橋百科事典より)
みつあいむら 吉田方5か村は,寛永15(1638)年,羽田(はだ)村・野田村・三ツ相村・吉川村・馬見塚(まみづか)村に分立したという。渥美郡三ツ相村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)では吉田中3032石余である。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,三ツ相村豊橋藩領分2 ...
美米村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
みこめむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,八名郡多米(ため)村(多米村・赤岩村が合併)・三輪村(金田村・神郷村が合併)と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制施行にあたって,多米村・三輪村は合併して美米村と改称した。明治25(1892)年12月2 ...
馬見塚村 とは(豊橋百科事典より)
まみづかむら 永正2(1505)年,牧野古白が馬見塚と飽海(あくみ)の地に今橋城を築いたという。また,馬見塚のもとの地は,後の吉田(豊橋)城の地である。今川氏親は,馬見塚の替え地として,渡辺平内次に三ツ相村120貫文をあてがったという。吉田方5か村は,寛永15(1638 ...
松葉町 とは(豊橋百科事典より)
まつばちょう 松葉町は,吉田(豊橋)藩の下級武士の西組屋敷町で,御籏(みはた)組・普請組などがあった。明治11(1878)年11月20日の郡区町村編制に際しての町村分合の豊橋市街の町名改称に,一~三盤町・六軒町・西中町・南町・三籏(みはた)町が合併して豊橋松葉町となり ...
松島新田 とは(豊橋百科事典より)
まつしましんでん 松島新田は,寛文7(1667)年,柳生川河口右岸に吉田(豊橋)藩士野部与次右衛門・堀惣助,馬見塚村孫平次によって開発された新田である。渥美郡松島新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分287石余とある。「吉田藩領戸数調」(安政5年 ...
松井新田 とは(豊橋百科事典より)
まついしんでん 松井新田は,寛文2(1662)年以前,梅田川下流右岸に開発された新田である。渥美郡松井新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分129石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数14,人数69であった。産土神(うぶすながみ)に伊勢 ...
町裏10か所 とは(豊橋百科事典より)
まちうら10かしょ 町裏10か所というのは,江戸時代末期に吉田(豊橋)町地と仁連木(にれんぎ)村・花ヶ崎村・羽田(はだ)村などとの接点にできた新興住宅地10か所である。 談合宮と中世古は安久美神戸(あくみかんべ)神明社の氏子で,現在の豊橋市談合町・中世古町である。野 ...
馬越村 とは(豊橋百科事典より)
まごしむら 八名郡馬越村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に132石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分233石余,素盞嗚(すさのお)社領4石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数43,人数204であった。馬越長火塚古墳がある。「三河国二葉松 ...
牧新田 とは(豊橋百科事典より)
まきしんでん 牧新田は,元禄11(1698)年,牟呂村(豊橋市牟呂町)の牧野伝蔵の一族が豊川(とよがわ)河口左岸に開発したが,安政4(1857)年,前芝村(豊橋市前芝町)加藤六蔵に譲渡された。渥美郡牧新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分54石余とある ...
前芝村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
まえしばむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,宝飯(ほい)郡前芝村(青木新田・山内新田を合併)・日色野村・梅薮村は合併して前芝村と改称した。明治22(1889)年10月1日,町村制が施行された。昭和30(1955)年3月1日,前芝村は豊橋市に合併した。 - ...
前芝村 とは(豊橋百科事典より)
まえしばむら 宝飯(ほい)郡前芝村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に499石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分532石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数251,人数1042であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,前芝村「神明 ...
堀之内村 とは(豊橋百科事典より)
ほりのうちむら 八名郡堀之内村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に258石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分261石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数32,人数110であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,堀之内村「天王・ ...
細谷村(町村制施行) とは(豊橋百科事典より)
ほそやむら 明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡下細谷村・上細谷村・小島村・小松原村・寺沢村・東七根(ひがしななね)村・西七根村は合併して五並(いなみ)村と改称した。明治17(1884)年8月11日,五並村は分離して下細谷村・上細谷村・小島村・小松原 ...
宝飯郡 とは(豊橋百科事典より)
ほいぐん 宝飯郡は,「和名類聚鈔」の三河8郡の1で,「宝飫(ほお)」と表記されたが,後に,「宝飯」と誤記されたものといわれる。形原・赤孫(あかひこ)・美養(みや)・御津(みと)・宮道(みやじ)・望理(もり)・賀茂・度津(わたつ)・篠束(しのづか)・宮島・豊川・雀部(ささべ) ...
船町 とは(豊橋百科事典より)
ふなまち 船町は,吉田(豊橋)24町の一つで,天正18(1590)年,池田照正(輝政)の吉田入城後,はじめて町名を命じ,浅井与次右衛門を庄屋役に任命したことに始まる。慶長5(1600)年,関ヶ原の役に東軍のために伊勢渡航の軍役に服したので,船役に対して,表間口より奥 ...
船渡新田 とは(豊橋百科事典より)
ふなとしんでん 梅田川河口左岸の船渡新田は,大崎領主中島与五郎の領地拡張の意図から開発された。元和8(1622)年高柳治郎右衛門父子によって,高378石が船渡郷として開発された。このほかに大崎村内には,古新田(寛文2年)・鶴ヶ崎新田(宝暦7年)・伝六新田(文政2年 ...
仏餉村 とは(豊橋百科事典より)
ぶっしょうむら 渥美郡仏餉村は,寛永検地によって野依(のより)村から分立した。仏餉村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に131石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分140石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数32,人数158であった。「三 ...
札木町(豊橋市札木町) とは(豊橋百科事典より)
ふだぎちょう 豊橋市札木町は東海道沿いに造られた町で,吉田(豊橋)24町の1つである。天正18(1590)年,池田輝政(1564~1613)が吉田(豊橋)城を拡張し,町並みを整備した時に,安海(やすみ)熊野社を南に移し,外堀を造った。もと安海熊野社の境内地に,東西に走る東 ...
二川村 とは(豊橋百科事典より)
ふたがわむら 渥美郡二川村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に363石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に中泉支配所682石余,八幡社領2石とある。安政6(1859)年の家数202,人数843であった。慶長6(1601)年から人馬継立を命ぜられた東海道宿駅である。正保元(1 ...
二川町(明治39年合併) とは(豊橋百科事典より)
ふたがわちょう 明治39(1906)年7月16日,渥美郡大川町・谷川村・細谷村・小沢村は合併して二川町と改称した。昭和30(1955)年3月1日,二川町は豊橋市に合併した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、200 ...
富士見台土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
ふじみだいとちくかくせいり 富士見台土地区画整理事業(組合施行)は,豊橋市南大清水町・西赤沢町・老津町の44haにわたって,昭和56(1981)年度から同63(88)年度に施行された。昭和60(1985)年2月4日富士見台一~三丁目・同63(88)年6月1日野依台一~二丁目,同63 ...
富士見小学校(豊橋市富士見台二丁目) とは(豊橋百科事典より)
ふじみしょうがっこう 豊橋市立富士見小学校は,昭和59(1984)年4月,豊橋市南大清水町富士見・赤沢町深山(すやま)に,大清水小学校区のレイクタウン地区を校区として設立された。富士見小学校の所在地名は,昭和60(1985)年,富士見台二丁目と改称され,県営区1~11区・ ...