愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

カテゴリ:18-文化・歴史

わたむつえき  渡津駅は,古代東海道の駅名で「延喜式」に参河国三駅の一つとして「渡津」の名が見え駅馬10疋が置かれた。宝飯郡小坂井町に置かれたと考えられている。飽海河(豊川の古名)に接するため,ここより渡船により対岸(豊橋市牟呂町坂津から飽海町付近)に渡った ...

れんだこあげ  豊橋市立五並(いなみ)中学校(豊橋市細谷町北芋ヶ谷)では,毎年連凧揚げの行事を実施している。この恒例の行事は,「小さな学校の大きな夢―生涯に残る思い出づくり―」をテーマに昭和60(1985)年11月から実施している。毎年,五並中学校近くの表浜海岸で連 ...

りくうんがいしゃ・りくうんもとがいしゃ  陸運会社は,明治新政府が明治4(1871)年から5年にかけて街道の宿駅などに設立させた人馬継立の私企業である。陸運会社の設立により,明治5(1872)年には伝馬所(明治元年,問屋場を改称)・助郷は廃止された。しかし,宿駅住民 ...

よしのやまづか  吉野山塚は,豊橋市老津町の老津公園にある芭蕉の句碑で,「よし野にて 桜見せふぞ 桧(ひ)の木笠」と刻まれている。建立年月は平成13(2001)年11月で,碑は高さ113㎝・幅61㎝の自然石で,表面を研磨してある。寿貞(芭蕉の側に居た女性)の追善供養とし ...

よしだみなと  吉田(豊橋)湊は,吉田大橋のすぐ下流,豊川(とよがわ)左岸の吉田宿船町にあった湊である。上流域から吉田まで物資を運ぶ川船の終点,さらに江戸への廻船(かいせん)・伊勢通船の起点としてにぎわった。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦に際して船を出して協力 ...

よしだはんたいきゃくじょ  吉田(豊橋)藩対客所は,御馳走(ごちそう)屋敷ともいい,東海道を重要な人々が通る場合に吉田藩として,接待の儀礼を行ったところである。吉田城の正門である大手門の前には,西側に高札場があり,東側には対客所があった。江戸時代には吉田宿を ...

よしだのおおはし  吉田(豊橋)の大橋は,東海道吉田宿の北西,東海道が豊川(とよがわ)を横切る地点に架かる橋で,宿西北端の船町(豊橋市船町)と対岸の下地村(豊橋市下地町)を結ぶ。現在の「豊橋(とよばし)」よりもやや下流にあった。江戸時代には豊橋,豊川橋,吉田橋 ...

よしだしゅくほんじん  吉田(豊橋)宿本陣は,吉田の中心街札木に2軒あった。いずれも街道北側にあり,当初は清須屋こと中西与右衛門家1軒であったが,後に清須屋の東隣の江戸屋新右衛門家が脇本陣より本陣に昇格した。この昇格の時期については,古記録などから松平(大 ...

よしだしゅく  吉田(豊橋)宿は,江戸時代の東海道五十三次中,品川から数えて34番目の宿場町である。慶長6(1601)年の「伝馬朱印状」が残っていることから,東海道宿駅設置当初からの宿場であることがわかる。天保14(1843)年の「東海道宿村大概帳」によれば,東は二川 ...

よしだこまびきせん  吉田駒曳銭は,幕府が寛永13(1636)年末,新銭の鋳造を全国的に拡大することを決め,寛永14(1637)年8月「鋳銭所」増設の制を発令したことに端を発する。全国に8か所「鋳銭所」が指定され,吉田(豊橋)藩も命令を受けた。幕府は,各銭座における新銭 ...

よしだがわとせん  吉田川(豊川(とよがわ))に架かる吉田大橋の大規模な修理・架け替えは幕府直轄で行われた。江戸時代初期の吉田大橋の架け替えの際には,古い橋を通行しながら新しい橋の架橋工事が行われたが,正徳3(1713)年の大修理からは吉田宿の船町が渡船を運航し ...

よしだがま  吉田鎌は,かつて東海道吉田(豊橋)宿の名物として知られた鎌である。厚い鉄を割って鋼を入れ,くっつけて薄くし,すいて地金だけをとってしまう(鋼を包んだ地金を鋼が出るまですいていく)製法で作られる。いわゆる「付け刃金」の鎌で,鋼が余分に外に出てい ...

ゆうかくのいてん  明治40(1907)年3月,第15師団の豊橋設置が正式に決定した。初代市長大口喜六は,陸軍省に師団誘致運動を展開する際に,条件として豊橋市上伝馬町と札木町の遊郭を適当な地に移転することを挙げていた。遊郭の移転は,市街地中心部の風紀だけでなく道路 ...

むろこう  牟呂港は,「磯辺村誌」(明治14年)に,「渡船場 田原渡 豊橋往環ニ属シテ字市場ニアリ,渡船弐拾八艘,伹私渡ニ属ス」とある。牟呂市場から田原船倉への通船が定期的に行われるようになったのは,明治6(1873)年と伝えられている。明治31(1898)年には渥美 ...

むくげづか  木槿塚は,豊橋市小松原町の東観音寺にある松尾芭蕉の句碑である。「道のへの 木槿は馬に 喰れけり」と刻まれ,詞書6行も記されている。建立年月は寛政12(1800)年夏で,当時の住職万年和尚と京都の俳人柳後園が発起人となって建立したものである。以前は本 ...

みなとふぇすてぃばる  みなとフェスティバルは,豊橋港(三河港豊橋エリア)におけるイベントとして,市民が港と触れる機会を作りだすことを目的に,豊橋港開港5周年の記念イベントとして昭和52(1977)年から始まった。平成11(1999)年からは7月の「海の日」に,ライフポ ...

みなとしてぃまらそん  豊橋みなとシティマラソンは,昭和34(1959)年2月15日に,第1回豊橋10哩(マイル)ロードレース大会の開催で始まった。コースは,豊橋市公会堂前と豊川稲荷(豊川妙厳寺)の往復であった。その後,交通事情によりコースの変更が度々なされ,昭和57(1 ...

まるやまかおるしょう  丸山薫賞は,豊橋市にゆかりが深く,わが国の現代詩,特に主知的抒情詩に多年にわたり真摯(しんし)にかかわりをもった丸山薫(1899~1974)の詩業を顕彰するため,詩人の没後20年を記念して,平成6(1994)年,制定・発足した。賞の目的は,優れた現 ...

まえしばみなと  前芝湊は,豊川(とよがわ)河口部右岸,前芝村にあった湊である。天文17(1548)年,今川義元が伊奈城(宝飯郡小坂井町)の本多忠俊に「蔵(前)芝湊并湊役」を含む旧領を保証しているので,それ以前から湊としての機能を果たしていたことがわかる。江戸時代 ...

⇒ 「二川宿本陣」(豊橋市指定史跡) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂な ...

ほのおのさいてん  炎の祭典は,東三河を発祥の地として約450年の歴史と文化を誇る「手筒花火」の継承と地域の活性化を目的に,豊橋市,豊橋商工会議所,豊橋商工会議所青年部,豊橋観光コンベンション協会三河伝統手筒花火連合会,その他の団体が集結して開催するイベント ...

ふるさとたいし  平成11(1999)年,豊橋市は中核市移行を機に,豊橋のイメージアップをねらい,豊橋ふるさと大使を創設した。豊橋にゆかりの著名人に,様々な場での豊橋のPR,豊橋市の行事などの協力を願って,8人に豊橋ふるさと大使を委嘱した。その顔ぶれは,大森運夫( ...

ふゆのひづか  冬の日塚は,豊橋市杉山町の宝林寺にある芭蕉の句碑で,「冬の日や 馬上に氷る 影法師」と刻まれている。昭和56(1981)年10月に建立されたもので,碑は高さ111㎝・幅155㎝の自然石である。句は,貞享4(1687)年,芭蕉44歳,天津縄手(豊橋市杉山町)で詠 ...

ふでこづか  筆子塚は,寺子屋で筆子(弟子)が師匠のために作った墓や碑のことである。寺子屋は,明治初年まで一般庶民が教育を受けたところで,豊橋市内だけでも約200か所あった。昔から師匠と筆子の関係は筆子が寺子屋をやめてからでも強く,生前に建てた墓や,死後に建 ...

ふたがわしゅく  二川宿は,品川宿より数えて33番目の宿場町である。二川は,本郷の地(三弥町付近)にあった集落が,天正13(1585)年ごろ元屋敷(二川町元屋敷)の地に移ったと伝えられる。この地で慶長6(1601)年12町(約1.3㎞)ほど西方の大岩村とともに東海道の宿場に ...

ひゃっかえん  百花園は,いつ開園し,いつ廃止したのかは不明であるが,その名を高めたのは渡辺崋山の第2子の渡辺小華(1835~87)が明治10(1877)年に豊橋の吉田神社境内に居を構えたころである。 百花園は,豊川(とよがわ)に臨み四季折々に風情を呈する花畑と,その一 ...

ひめかいどう  姫街道は,江戸時代東海道の付属街道であった本坂通(ほんざかどおり)の別称である。豊橋市内は,国道362号に指定されている。この名が使用されるようになったのは,江戸時代末期ごろからである。街道は御油宿(豊川市)の南で東海道と分かれ,豊川(とよがわ) ...

ひこうき  大正5(1916)年1月,高師原に飛行船「雄飛号」が繋留(けいりゅう)され,連日黒山の人でにぎわったという。大正5(1916)年5月5日,豊橋市の八町練兵場でアメリカ人スミスが複葉飛行機で曲芸飛行を行った。この時の入場者は5万人で,入場料は1円・50銭・20銭で ...

はんこうじしゅうかん  藩校時習館は,宝暦2(1752)年7月13日吉田(豊橋)藩主松平信復(のぶなお)の命により創立された。信復の師で荻生徂来の門人三浦竹渓によって,藩校創立の構想が練られたとされている。「時習」は「論語」学而篇の冒頭に由来する。藩随一の書家北原忠 ...

はまぐりづか  蛤塚は,豊橋市老津町の老津公園にある芭蕉の句碑で,「蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ」と刻まれている。建立年月は平成元(1989)年10月,碑は高さ200㎝・幅94㎝の御影石の平板型で,三河芭蕉会が奥の細道の旅300年記念として建立した。句は元禄2(1689) ...

⇒ 花祭(御幸(みゆき)神社) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のbl ...

はなまつり(みゆき)  花祭は,奥三河の伝統的な祭事で国の重要文化財に指定されている。鎌倉時代の修験者が天竜川流域の山間の村々に伝えた「湯立て神楽」が発祥とされている。五穀豊穣や無病息災を祈願する祭事として永く伝承されている。 御幸神社(豊橋市西幸(にしみ ...

はなまつり(はくさん)  白山比咩神社(豊橋市広小路三丁目)の祭礼は,旧暦6月17・18日であった。寛文5(1665)年神輿(みこし)が作られ,紺屋町(豊橋市魚町)の神宮寺境内の鎮守白山社と中柴町(豊橋市中柴町)の諏訪神社を結ぶ神輿渡御(とぎょ)が行われた。この神幸に従 ...

はなごろもづか  花ごろも塚は,豊橋市老津町の老津公園にある芭蕉の句碑で,「きてもみよ 甚(じん)べが羽織 花ころも 宗房」と刻まれている。宗房は若いころの松尾芭蕉の名前である。また,詞書14行が記されている。建立年月は平成4(1992)年10月で,碑は高さ89㎝・幅1 ...

はつぼんだいせがき  初盆大施餓鬼は,豊橋の各宗寺院(真宗を除く)で行われている。中でも豊橋市馬見塚町にある浄土宗専願寺で毎年行われている初盆大施餓鬼は東三河地方でも有名である。 施餓鬼会は,春秋の彼岸会とともに仏教の代表的な行事の一つである。本来は悪道に ...

はだまつり  羽田八幡宮(豊橋市花田町斎藤)の例祭は,豊橋市花田町のうち旧羽田村および豊橋市松葉町など20か町の氏子により奉斎される。乙女の舞・浦安の舞が奉納され,花神輿(はなみこし)・獅子舞が祭りに彩りを添える。宵祭りは,手筒・大筒花火が揚げられる。 - - ...

ばしょうくひ  江戸時代の元禄期を代表する俳人松尾芭蕉(1644~94)は,各地を旅して多くの名句を残している。吉田(豊橋)へも貞享4(1687)年に訪れていて,「松葉を焼て」の句や,「寒けれど」の句を詠んでいる。豊橋市内には12基の芭蕉句碑が建立されている。 「松葉 ...

はぎづか  萩塚は,豊橋市大手町の西光寺にある芭蕉の句碑で,「ぬれてゆく 人もをかしや 雨の萩」と刻まれている。旧碑は大正元(1912)年10月に豊橋俳壇有志によって建立されたが,昭和20(1945)年6月の空襲で損傷した。平成11(1999)年6月に住職によって高さ55㎝・幅 ...

はかりざ  秤座は,江戸幕府の特許を得て,秤の製造・販売・修理を行った機関で,江戸の守随,京都の神(じん)の2家がつかさどった。江戸秤座の出張所として,文政2(1819)年三河和泉村(安城市)の神谷久八郎に開座が許され,文政4(1821)年には三河吉田(豊橋)の福谷増 ...

ばいかぶんこ  梅花文庫は安政3(1856)年江戸勝手掛から復帰した儒官西岡翠園が藩校時習館に文庫がなかったことから設立を提案し,文久元(1861)年公私の財をもって設立した文庫である。文庫の書籍は設立直後に佐野蓬宇が奉納した資治通鑑148巻をはじめとして国典・漢籍な ...

にのみやきんじろうぞう  第2次世界大戦前,多くの小学校には二宮金次郎(尊徳)像が建立された。豊橋市立前芝小学校の像は全国でその第1号といわれている。大正13(1924)年1月26日,皇太子の御成婚記念として,前芝村(豊橋市前芝町)の加藤六蔵が寄贈したものである。像 ...

とよはしまつり  豊橋まつりは,昭和21(1946)年から毎年開催している豊橋市民祭を豊橋商工会議所が豊橋まつりに育てあげようとして,昭和28(1953)年の招魂祭協賛行事としたことから始まった。しかし,第1回の昭和28(1953)年は台風13号のため,催しは取り止められた。 ...

⇒ 豊橋文化賞(豊橋文化振興財団) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なお ...

とよはしぶんかしょう  豊橋文化賞・豊橋文化奨励賞は,財団法人豊橋文化振興財団が優れた文化活動実践者(団体を含む)を顕彰するために設けたものである。豊橋文化賞は学術,芸術,その他文化全般の振興に関して顕著な功績を残した者,豊橋文化奨励賞は今後豊橋市の文化振 ...

とよはしのたくみ  「とよはしの匠」顕彰事業は,ものづくりを支える優れた技能者を顕彰することにより,社会に周知することと,技(わざ)の継承を図ることを目的として,平成10(1998)年度に創設された。機械工作部門を対象とした「くすのき賞」,食品加工分野や建築分野な ...

とよはししのひょうしょう  豊橋市では,豊橋市表彰(自治功労,市勢功労)・教育・体育・文化の各表彰が市制施行記念日(8月1日)に行われている。これらの表彰は,豊橋市での功績が顕著な個人や団体を対象としており,それぞれ,豊橋市功労者表彰条例(昭和27年),豊橋市 ...

とよはししのはな  豊橋市の花は,昭和35(1960)年5月,豊橋市民愛市憲章推進協議会の前身である豊橋都市美協会が,豊橋市民からアンケートで募集した「ツツジ」を選定し,市議会の総務調査会がその旨を承認して決定した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調 ...

とよはししのき  豊橋市の木であるクスノキは常緑樹で,旺盛な成長力と鮮やかな緑色は美観があり「進展する豊橋市を象徴する樹木として最もふさわしい」として選定された。選考経過としては,愛市憲章制定10周年を記念して,豊橋市民愛市憲章推進協議会が市民のアンケート調 ...

とよはししきしょう  豊橋市の徽章である千切(ちぎり)マークは,江戸時代に吉田(豊橋)藩主であった松平大河内家の馬印に由来する。大河内家文書「軍中御馬印」によれば,幾つかの馬印の中に「千切小御馬印」が図とともに記載されている。この「千切小御馬印」を真横から見 ...

とよはししき  豊橋市旗は,豊かなる明るい近代都市建設の理想と愛市精神を結集するための標識として,昭和38(1963)年7月1日豊橋市告示第68号によって制定された。構成は,明治42(1909)年豊橋市告示第34号によって規定された紺色の市徽章(きしょう)を白色の地に配したも ...

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