豊橋市議の長坂です。
図書館職員の本気です。

さて、豊橋の図書館で大発見がありました。
豊橋市図書館サイトにて、詳細が公表されましたので、紹介します。
「信長書翰等」報道機関対象説明会を開催しました

豊橋市図書館では、羽田八幡宮(花田町字斉藤)において羽田八幡宮文庫旧蔵資料の所有者確認等調査(8/21)を文化財指定に向けて行いました。その調査によって、一部研究者のみに存在が知られていた織田信長、豊臣秀吉などの書翰5点、後奈良天皇などの宸翰3点、計8点が文庫旧蔵資料であることを確認しました。このうち武将の書翰5点については本物であることが確認できたため、報道機関を対象とした説明会を開催しました。詳細は下記のPDF資料でご確認ください。
http://www.library.toyohashi.aichi.jp/
豊橋市発表の一次情報源として、PDF全編の画像を添付するとともに、検索対策用に、全文テキストの文末に記載します。
191106_01
191106_02
191106_03
191106_04
191106_05
191106_06
報道機関向け説明会資料
令和元年 11 月6日(水)

羽田八幡宮文庫旧蔵資料書翰・宸翰(羽田八幡宮所蔵)について

1.羽田八幡宮文庫とは
 羽田八幡宮文庫は、神主の羽田野敬雄や地元の町人らが江戸時代の嘉永元年(1848)に設立した私設文庫である。この文庫は、書籍の閲覧だけではなく無料貸出を行っており、日本最古級となる、貸出を行っている近代的図書館の先駆けとなる文庫として知られていた。最近は、文庫が行った講演会の開催、出版、社会事業の展開などの諸活動が注目され、書籍を中心とした地域コミュニティの場として、現代公共図書館の萌芽ともいえる活動をする文庫として評価されている。図書館文化史上の意義は非常に大きい文庫である。

2.羽田八幡宮文庫と豊橋市図書館
 文庫は明治 40(1907)年頃に閉鎖されて蔵書は売却された。明治 44(1911)年頃に羽田八幡宮の神主を兼任していた大木聟治は、私財を投じて流出した文庫の蔵書を買い戻し、約10,000 冊のうち約 9,200 冊を回収した。豊橋市立図書館は、大木聟治から旧蔵書を買い取り、大正2(1913)年1月に開館しており、羽田八幡宮文庫は豊橋市図書館の母体といえる。

3.羽田八幡宮所蔵の文庫旧蔵資料真贋確認に至る経緯
 図書館では文庫旧蔵資料を保存するための目的で、平成 29 年度~30 年度にかけて、羽田八幡宮文庫の旧蔵資料の調査を行い、保存管理計画を策定(H31.3)している。 今回、文庫旧蔵資料を市の文化財に指定するため、羽田八幡宮において文庫旧蔵資料の所有者確認等調査(8/21)を行った。今まで八幡宮と文庫と所蔵者の区別がつかないものがあったが、調査によって織田信長、豊臣秀吉などの書翰5点、後奈良天皇などの宸翰3点、計8点が文庫旧蔵資料であることを確認したため、これら資料の真贋確認を行った。

羽田八幡宮所有 羽田八幡宮文庫旧蔵資料一覧表(武将・天皇資料)
番号 種別 名称
1 掛軸 右大将頼朝卿之書翰(足利義詮書翰)
2 掛軸 織田右大臣信長公御書翰
3 捲り 豊臣太閤秀吉公御下知書
4 掛軸 徳川家康書翰
5 掛軸 徳川光圀書翰
6 掛軸 後二条天皇宸翰・歌切
7 掛軸 後奈良天皇宸翰・二首懐紙
8 掛軸 後陽成天皇宸翰・花鳥風月

4.書翰と宸翰の真贋
 書翰と宸翰については、9 月 11 日に文化財指定に向けて羽田八幡宮文庫旧蔵資料検討委員会を開催し、昨年度まで委嘱していた羽田八幡宮文庫旧蔵資料保存管理検討委員会(代表山田邦明:愛大教授)の元委員に資料を検討していただいた。検討の結果、筆跡や花押・朱印の形態などから、義詮、信長、秀吉、家康、光圀の書翰は本物であることを確認した。天皇の宸翰は、江戸時代の幕府お抱え鑑定士である古筆了仲が吟味しており、後奈良天皇・後陽成天皇については極札を入れ本物であると判定している。しかし、検討委員会では判断資料が少ないため、真贋については判断していない。現在、図書館では天皇宸翰については今後どのような方法で判断できるかを継続して検討している。

5.羽田八幡宮文庫が所有に至った経緯
 これらの書翰と宸翰を羽田八幡宮文庫が所蔵していたのは、吉田藩家老の倉垣長顕が義詮と信長、秀吉の書翰、同じく家老の倉垣主鈴が家康の書翰、同じく家老の和田元長が後二条天皇、後陽成天皇の宸翰を文庫に奉納したからである。元は吉田藩のNo.2である家老が所有していたものであり、書籍と同じように文庫に奉納して末永く残したいという思いがあったようである。ただ、光圀の書翰と後奈良天皇の宸翰は来歴がわかっていない

6.地元で知られていなかった背景
 今回確認した文庫旧蔵資料の武将・天皇資料は羽田八幡宮の神宝として宝庫に所蔵されていたものである。『豊橋市史』や『羽田八幡宮文庫史』等にも載っておらず、地元の歴史研究者は存在自体を知らなかった。ただし、昭和5年刊の『羽田八幡社宝物目録』には、昭和2年に「東京帝国大学文学部史料編纂掛調査」と記録があり、実際に昭和 38 年に東大の史料編纂所が頼朝・信長・家康等の書翰の写真や写しなど記録している。このため、この記録を元に信長・秀吉・家康の書翰については、一部研究者によって「研究書」に翻刻が掲載されている。ただし、信長御朱印状は某氏所蔵として、秀吉のものは隅田八幡宮蔵として「研究書」載っていたため、所蔵の特定はできていなかった。
 昭和5年に羽田八幡社が宝庫を新築した記念に発行した『羽田八幡社宝物目録』(昭和5年刊)には、これら宸翰と書翰は一覧に載っていたが、冒頭に「・・絶対的ナモノト思ワレナイ節ガアル・・」とあり、真贋についてわからなかったことも地元で積極的に評価されなかった理由である。また、秘蔵と書かれたものがあるように、神宝で秘蔵されたため確認できなかったことも一因である。このため、これら資料は地元では知られていなかった

7.羽田八幡宮所有資料(武将・天皇資料)
① 右大将頼朝卿之書翰 ※「足利義詮書状」(仁木義長宛)
 翻刻:「長谷城没落事、/殊目出候、此間心苦/思遣候、委細代官申/候也、毎時又々可令/申候也、謹言/五月廿七日 (花押)/右京大夫殿」
 内容:長谷城が没落したとのこと、おめでとうございます。このところ、心苦しく思っていました。詳しいことは代官が伝えます。
 備考:頼朝とあるが、足利義詮の書状が正しい。花押が一致。

②織田右大臣信長公御書翰「大和筒井順慶宛朱印状」
 翻刻:「惟任日向守用所/申付、自余へ差遣候、/一途之間、森河内/城其方自身相/越、用心等堅固令/覚悟、大坂へ通路/并夜待以下事、/聊不可有由断候也/十月廿日 (朱印)/筒井順慶」。
 内容:信長が、大和郡山城主の筒井順慶に出した朱印状。天正5年9月、松永久秀・久通親子が石山本願寺攻めから離脱し、信長に反旗を翻して信貴山城に籠城した。このため、筒井順慶に「明智光秀を丹波に派遣するよう申し付けた。筒井順慶は森河内城に勤番し、大坂への通路の警備や夜の待ち伏せなどに油断しないよう」と指令したものである。
 評価:石山本願寺攻めの時の家臣の反乱に対する信長からの指令書で、日本史に残る出来事に直結した内容であり、評価される。
 備考:天下布武朱印一致。冒頭に惟任(これとう)日向守(明智光秀)の名前があり、注目される。この5年後に本能寺の変で信長は光秀に殺された。研究書掲載。

③豊臣太閤秀吉公御下知書「羽柴備前宰相他宛覚」
 翻刻:「覚/一手前請取代官所之内ニ御座所於有之者、其代官留主申付、其郡之物成納可入置事、一法度以下事、其請取之代官所之内、手前々堅申付、百姓以下可召直事、一扶持方之事、手前代官所之内を以可下行、遠路相越候間、下々中食是又可遣事、[付代官不仕衆にも、其手寄/\兵粮可相渡候事]、一順風可然時分、可被成御渡海之旨、各御訴訟申上候間、先々御代官所被相極、当所務事被仰付候、菟角ニ大明国之儀被仰付候ハて不叶候間、成其意、物成入念納置、国々法度并御座所・路地・橋等普請迄、無由断可申付事、一此度之船にて可被成御渡海与被思召候処、上様先へ被成御越候へハ、跡ニ有之者とも迷惑之由申、又御人数被遣候へハ、往来経数日候、当月早手風、来月浪高、八月ハ風時候間、来年三月迄渡海被成御延候様にと、先々よりも申越候由、江戸大納言・加賀宰相、其外只今罷越候者ともゝ、達而無用之由御理申上候付而、来年三月迄被相延候事、一高麗都より大明国境迄つなきの城々普請、為先衆申付、其代官/\として在番仕候事、一其地罷越物主とも、つかい女持可申候、自然不持者於有之者、可為曲言候、則女之扶持方可被下由、被仰付候事、/以上/天正廿年六月二日 (朱印)/羽柴備前宰相とのへ/羽柴丹後少将とのへ/羽柴東郷侍従とのへ」。

 内容:豊臣秀吉が羽柴備前宰相(宇喜多秀家)、羽柴丹後少将(細川忠興)、羽柴東郷侍従(長谷川秀一)ら3名にあてた覚(7か条)。
一、預かった代官所は留守になるので、留守番に納めるものはきちんと納めさせるように。
一、法度など、百姓以下にも守らせること。
一、遠路はるばる代官所に来たら食事をとらせるように。代官に仕えていない人にも食事を与えるように。
一、風向きが良くなったら、海を渡って朝鮮へ行くように。明まで攻めに行くことになるので、御座所や道や橋などをつくって整備しておくように。
一、この度の船で上様(秀吉)が渡ろうと思ったが、上様が先に行くと後に行くものが迷惑だというので延ばしていたら、今月は早手風、来月も浪高し、8月は風があるので、来年3月までは延ばすことを先に行った者にも伝えた。徳川家康、前田利家、そのほかの九州にいるものたちも3月まで延ばすことになった。
一、高麗(漢城)から明までの間の城々は、先に行った者たちが造ったので、海を渡ったらそこの城の番をするように。
一、連れて行った召使の女にも、きちんと給料をあたえるように。  評価:秀吉の朝鮮出兵のことが書かれている。宇喜多秀家や細川忠興ら戦国大名に宛てた覚えであり、明を攻めに行くための状況が読み取れる資料として評価される。

 備考:江戸大納言は徳川家康、加賀宰相は前田利家、高麗都は漢城のこと。発給文書の朱印を黒く塗りつぶす例はほとんどない。研究書掲載。 ④徳川家康書翰「上杉景勝(推定)宛書状」  翻刻:「鴨鷹御用之由、/内々承及候之/間、即二もとすへ/させ令進覧候、/猶明春早々罷上/可申進候間、不能審候、/恐々謹言/十二月廿三日 家康(花押)/中納言殿」

 内容:家康が中納言へ送った手紙「鴨鷹がほしいと聞いたので、すぐに2つを持って行ってご覧いただきます。来年の春にあなたの所へ行ってお話しします。」
 備考:宛所の中納言は上杉景勝と推測されている。研究書掲載。

⑤徳川光圀書翰
 翻刻:「為厳旨飛骨、/殊ニ求肥飴一箱/拝受、忝仕合奉存候、/雖成寒節候、/其御所益御安泰被成/御座之旨、畏悦之至奉存候、/此趣宜預演言、光圀/恐々謹言、/ 十二月廿一日 水戸宰相光圀(花押)/津田木工権頭殿」
 内容:津田木工権頭からもらった手紙と求肥飴に対するお礼状。寒いけれど元気そうでなによりですと書かれている。
 備考:

⑥後二条天皇宸翰・歌切
 翻刻:「むすはぬさきにすゝしかりけり/秋/はしめの秋/よをこめて風のけしきのすゝしきは/そらものたけに秋やきぬらん/たいりにてほしあひのそらをみて/くもゐにてなかむるをりはあまのかは/ほしあひのそらははるけかりけり/すゝむしを」。
 内容:歌内容は不明。歌切は、和歌の冊子・巻物などにある古人の名筆を、手鑑にはりつけたり掛け物に仕立てたりするのに適した大きさに切り取ったもの。
 備考:後二条天皇は鎌倉時代の第 94 代天皇で徳治 3 年(1308)8 月25 日没。

⑦後奈良天皇宸翰・二首懐紙
 翻刻:「明わたると山の/さくら夜のほとに/花さきぬらし/かゝるしら雲/なきぬへき夕の/そらをほとゝきす/またれむとてや/つれなかるらむ」。
 内容:歌内容は不明。和歌・連歌・俳諧などを正式に書きしるす時に用いる紙に2首の歌を書いている。
 備考:戦国時代の第 105 代天皇。弘治 3年(1557)9 月 5 日没。江戸時代の幕府鑑定士、古筆了仲が吟味している。

⑧後陽成天皇宸翰・花鳥風月
 翻刻:「花鳥風月」
 内容:花鳥風月と書かれた書。自然の美しい風物という意味。真贋は未確認。
 備考:戦国~江戸時代の第 107 代天皇。慶長 16 年(1611)3 月 27日没。江戸時代の幕府鑑定士、古筆了仲が吟味している。

8.まとめと評価
 今回確認された資料のうち書翰は、今まで地元の歴史研究者や羽田八幡宮文庫の研究者には知られておらず、『豊橋市史』や『羽田八幡宮文庫史』等にも載っていないものである。 しかし、その存在は一部研究者には羽田八幡宮宝物として知られていた。一部研究者には知られていたので、資料自体は新発見とはならない
 今回、これらが旧蔵資料と確認できたことによって、新知見、資料自体と文庫についての評価を以下に述べる。

【新知見】
①今回の調査で、書翰・宸翰は当初から羽田八幡宮の宝物であったわけではなく、元は文庫旧蔵資料であったことが確認できた点。
②右大将頼朝卿之書翰については、今まで源頼朝とされてきたが調査の結果、足利義詮のものと確認された点。
③書翰の5点については、本物であることが初めて公式に確認できた点。

【資料自体の評価】
足利義詮、織田信長、豊臣秀吉等の書翰は、日本史上の重要な出来事が書かれており、貴重な資料ということができる。
②足利義詮の書翰は御真筆である可能性があり、真筆とすれば数少ない資料になるものと思われる。また長谷城陥落の事は知られていない事実であり、今後の室町期の歴史研究に寄与するものと考えられる。
③信長が筒井順慶宛に出した朱印状は、石山本願寺攻めの時の松永久秀・久通親子の反乱に対する信長からの指令書であり、明智光秀の名前も出ているように、当時の織田方の対応を示す良好な資料である。
④秀吉の覚は、朝鮮出兵の際に宇喜多秀家、細川忠興、長谷川秀一の3戦国大名に出した覚であり、明国を攻める野望が書かれている。宇喜多家か長谷川家から流出した覚と推測される。

【文庫の評価】
①大名や社寺の文庫ではなく、国学者を中心として町民がつくった江戸時代の私設文庫で武将書翰・天皇宸翰を所蔵していたのは珍しく、稀な例といえる。
書翰・宸翰資料の8点中6点は吉田藩の家老家に伝わったものが文庫に奉納されたものであり、羽田八幡宮文庫が庶民だけではなく吉田藩主や藩士からも理解され関わりが深いことなど、地域に根ざした文庫として特徴的であり価値がある。
文庫が閉鎖された時に旧蔵資料は売却されたが、書翰・宸翰など極一部の貴重資料は売却されずに八幡宮へ移管されて宝物となった

 これら書翰と宸翰の存在を初めて公表し、初公開したという点では、地域史および文庫史を研究する上で意義があると言えよう。
取り急ぎで失礼します。

では!