豊橋市議の長坂です。
感傷的になりやすい時期です。
(追記)
長坂なおとに投票お願いします!
豊橋市議会議員選挙、ギリギリでも、最下位でもいいので当選させてください。
豊橋を変えるため、力を貸してください。お願いします!
(追記おわり 2019.4.16.)
■
さて、ブログで家族のことは、家族個々のプライバシーへの配慮、
ということもあり、あまり書かないようにしています。
しかし、今回いろいろが重なったので、少し筆を執ります。
■
うちの父は、ヨーダに似ています。
もちろん、顔の話です。
耳はこんなに大きくありませんが、目とかおでことか。
もちろん父の方がはるかに若いです(だってヨーダは約900歳)。
ぼくは小さい頃から「お父さんに似ている」と言われて育ってきました。
ぼくもいずれヨーダのような顔になるのでしょう。
でもどちらかというと、現在、おでこのヨコじわよりも、みけんのタテじわが気になっているので、
ぼくも父のような、立派なジェダイ顔になれるか心配です。
■
父は医師で公務員、でした。
「医師で公務員」というと、首を傾げる方もいらっしゃいますが、
県立病院に勤務していたため、県の公務員でした。
豊橋でも市民病院勤務の方は、医師も看護師もみなさん、市の公務員です。
そのため、ぼくは小さい頃から「医者の子ども」と見られていました。
ただ多くの方が「医者の子ども」と見るイメージ(おそらく開業医のイメージ)と、
うちはちがう、というのは感じていました。車はずっと国産車で1台でしたし。
■
小学生ながら、そういうイメージのギャップに違和感を感じつつも、
父のことや父の仕事に対する姿勢は、尊敬していました。
今でも尊敬しています。
それでも、自分の進路選択「医学部か東大か」というとき、
(医学部&東大は厳し過ぎた)
父と同じ仕事でなく、東大を選択した理由の中には、その違和感もあったと思います。
また、ぼくが勉強をがんばれたのも父の存在が大きかった。
「少なくとも父と同じ、できれば父よりいい(偏差値の高い)大学に行く」
という気持ちは小学校高学年くらいから、ずっと心の中にあったと思いますし、
母の「そう言っていた」という証言もあります。
あまり将来や進路に口出しする父ではありませんでした。
それでも同じ仕事に就くことを望んでいたことはわかっていました。
大学の合格発表の際、東京まで掲示板を見に行き、
そこから携帯電話で親に「受かった!」の報告をした際、
母よりも父の方が、喜びの反応が大きかったように感じたのは意外でした。
父のそのような大きな感情表現を感じたのは、僕の中でこのときが最大値です。
なぜなら、うちの父は喜怒哀楽をほとんど表に出さない、とても温和な人間です。
■
そんな「温和」な父を、大学進学で家を出るまでは「無口な」「話が盛り上がらない」父だとも思っていました。
しかし今では、そういう父の反応というかあり方が、少なくとも未成年のときよりは、わかる気がしており、そういう意味でも、より父に敬意を感じています。
顔だけでなく中身も「より似てきた」のかな、とも。
父は最近、よく各地のマラソン大会に行きます。
父が走り始めたきっかけは、僕たちが小学校高学年のとき「マラソン大会」の練習のために、うちの近所を走り始め、それに付き合ったのがきっかけです。
ぼくは今のところ、走る予定はありませんが「父に似ている」ため、いずれ自分もそうなるかもしれない、というか、そうなる可能性が高い気がするので、いわゆる「ブーメラン」にならないよう、今そういう父をどうこう言わないようにしています。
■
そんな父が、この3月末で無事に定年退職となりました。
医師で公務員、という安定オブ安定な仕事ですが、それでも平坦ではありませんでした。
数年前には、家族的にネガティブなこともありました。
それでも今振り返ってみると、そのできごとで、父がより家庭的になった気がしており、
今となっては、結果オーライな気がしています。
この4月からは職場を変え、民間人として仕事を続けています。
母から聞いた話ですが、「転職」の際、父はぼくのために、
「5月1日からの勤務」または「4月のこの1週間は休めること」
を前提に話をしてくれていたようです。
4年前の選挙では「公務員」という地方自治法/公職選挙法上の制約がある立場でありました。
本当にありがたく、しっかりと「100%の戦力」として、期待しています。
■
先日、家族兄弟間でちょっとした揉めごと(チャンネル争いレベルの話)がありました。
その際、父の判断でまるくおさまりました。
職業人生も節目を迎え、2人の孫がいる「おじいちゃん」となりましたが、
むしろ「長坂家」内の存在感は、より増したかも、と。
お父さん、これからも元気でいてください。
では!
感傷的になりやすい時期です。
(追記)
長坂なおとに投票お願いします!
豊橋市議会議員選挙、ギリギリでも、最下位でもいいので当選させてください。
豊橋を変えるため、力を貸してください。お願いします!
(追記おわり 2019.4.16.)
■
さて、ブログで家族のことは、家族個々のプライバシーへの配慮、
ということもあり、あまり書かないようにしています。
しかし、今回いろいろが重なったので、少し筆を執ります。
■
うちの父は、ヨーダに似ています。
もちろん、顔の話です。
耳はこんなに大きくありませんが、目とかおでことか。
もちろん父の方がはるかに若いです(だってヨーダは約900歳)。
ぼくは小さい頃から「お父さんに似ている」と言われて育ってきました。
ぼくもいずれヨーダのような顔になるのでしょう。
でもどちらかというと、現在、おでこのヨコじわよりも、みけんのタテじわが気になっているので、
ぼくも父のような、立派なジェダイ顔になれるか心配です。
■
父は医師で公務員、でした。
「医師で公務員」というと、首を傾げる方もいらっしゃいますが、
県立病院に勤務していたため、県の公務員でした。
豊橋でも市民病院勤務の方は、医師も看護師もみなさん、市の公務員です。
そのため、ぼくは小さい頃から「医者の子ども」と見られていました。
ただ多くの方が「医者の子ども」と見るイメージ(おそらく開業医のイメージ)と、
うちはちがう、というのは感じていました。車はずっと国産車で1台でしたし。
■
小学生ながら、そういうイメージのギャップに違和感を感じつつも、
父のことや父の仕事に対する姿勢は、尊敬していました。
今でも尊敬しています。
それでも、自分の進路選択「医学部か東大か」というとき、
(医学部&東大は厳し過ぎた)
父と同じ仕事でなく、東大を選択した理由の中には、その違和感もあったと思います。
また、ぼくが勉強をがんばれたのも父の存在が大きかった。
「少なくとも父と同じ、できれば父よりいい(偏差値の高い)大学に行く」
という気持ちは小学校高学年くらいから、ずっと心の中にあったと思いますし、
母の「そう言っていた」という証言もあります。
あまり将来や進路に口出しする父ではありませんでした。
それでも同じ仕事に就くことを望んでいたことはわかっていました。
大学の合格発表の際、東京まで掲示板を見に行き、
そこから携帯電話で親に「受かった!」の報告をした際、
母よりも父の方が、喜びの反応が大きかったように感じたのは意外でした。
父のそのような大きな感情表現を感じたのは、僕の中でこのときが最大値です。
なぜなら、うちの父は喜怒哀楽をほとんど表に出さない、とても温和な人間です。
■
そんな「温和」な父を、大学進学で家を出るまでは「無口な」「話が盛り上がらない」父だとも思っていました。
しかし今では、そういう父の反応というかあり方が、少なくとも未成年のときよりは、わかる気がしており、そういう意味でも、より父に敬意を感じています。
顔だけでなく中身も「より似てきた」のかな、とも。
父は最近、よく各地のマラソン大会に行きます。
父が走り始めたきっかけは、僕たちが小学校高学年のとき「マラソン大会」の練習のために、うちの近所を走り始め、それに付き合ったのがきっかけです。
ぼくは今のところ、走る予定はありませんが「父に似ている」ため、いずれ自分もそうなるかもしれない、というか、そうなる可能性が高い気がするので、いわゆる「ブーメラン」にならないよう、今そういう父をどうこう言わないようにしています。
■
そんな父が、この3月末で無事に定年退職となりました。
医師で公務員、という安定オブ安定な仕事ですが、それでも平坦ではありませんでした。
数年前には、家族的にネガティブなこともありました。
それでも今振り返ってみると、そのできごとで、父がより家庭的になった気がしており、
今となっては、結果オーライな気がしています。
この4月からは職場を変え、民間人として仕事を続けています。
母から聞いた話ですが、「転職」の際、父はぼくのために、
「5月1日からの勤務」または「4月のこの1週間は休めること」
を前提に話をしてくれていたようです。
4年前の選挙では「公務員」という地方自治法/公職選挙法上の制約がある立場でありました。
本当にありがたく、しっかりと「100%の戦力」として、期待しています。
■
先日、家族兄弟間でちょっとした揉めごと(チャンネル争いレベルの話)がありました。
その際、父の判断でまるくおさまりました。
職業人生も節目を迎え、2人の孫がいる「おじいちゃん」となりましたが、
むしろ「長坂家」内の存在感は、より増したかも、と。
お父さん、これからも元気でいてください。
では!