豊橋市議の長坂です。
島ってなんか好きです。

さて、先日見つけた資料「大崎島」から、豊橋航空隊の記述を抜粋します。
大崎島ができた経緯はこちらに。
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「天橋立」と島が豊橋にあった。もしもブラタモリ番外編 - 愛知豊橋・長坂なおと のblog
http://nagasakanaoto.blog.jp/180801.html


戦中、
海軍航空隊と地元民
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変わる町
豊橋海軍基地の建設当時から海軍と地元民の関係は緊密であった。用地の買収交渉・買収金額についても海軍当局は地元民の立場に深い理解を示していた。工事が開始されてからも地元の人々は積極的に参加して、航空基地建設に協力してきた。

基地の建設と関連して大崎町内の様相も一変してきた。竹やぶの多い、そして細い道が曲がりくねった町内は、広々とした海軍道路が一直線に貫通し、多数のスマートな海軍さんが大崎の町を行ききした。航空基地からは海軍の陸上攻撃機がごう音を発して離着陸していた。静かな海辺の寒村は一変して一大航空基地の町となっていった。

基地には3千余人の隊員が常時任務についていた。隊員の若年士官・下士官・兵卒は基地内の宿舎または大崎町の乙隊弊社にいたが古参下士官等は下宿を許されて大崎町内はもとより、老津・大山・駒形などの民家に下宿していた。このような関係が地元民と海軍さんとの人間関係を特に密接なものにした。

その数は正確には確認できないが、大崎町・船渡町で実施した無差別抽出のアンケート調査によると、大崎町では200軒中124軒が、船渡町では194軒中104軒が戦時中に海軍さんを下宿させていたと答えた。その割合は約60%にのぼり、船渡を含む大崎地内の過半数の家が海軍関係者を下宿させていたことがわかる。これでも不足しがちであって、海軍基地から4キロメートルも離れた二回新田・小浜町・橋良町あた自転が繰り広げられたりまで下宿を求めるものもあったという。

海軍さんの下宿のほかに海軍の兵隊さんを相手にした飲食店も、大崎地内にぽつぽつ建つようになってきた。

兵隊母さん
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この頃大崎町船渡で食堂を経営していた青山はなは、当時の大崎町の状況や海軍さんとの思い出を、目をうるませながら次のように話してくれた。

「当時の船渡町は道路が曲がりくねり、淋しい村であった。大崎島に飛行場ができた時は 竹藪を切り開いて海軍道路を通したもので、海軍橋のところには長い板が渡してあっただけで、おっかなびっくりで往来したものであった。海軍指定食堂を経営するようになると、善行章三本の古参下士官から予科練出たての少年搭乗員までが、外出のたびに『おかあちゃん、おかあちゃん』と言って寄ってくれました。遠く北海道や九州の出身者、それに両親や母親のない海軍さんもいて、色々と親身になって世話してやりました。

それから昭和19年10月頃のある日、台湾沖航空戦の当時だと思いますが、豊橋空より前線に出撃していた10人ほどの搭乗員が前線から飛行機を補給に三重県の鈴鹿空に来たとき大崎に尋ねてきたのです。

『あんたたち、生きとってよかったねえ』と手を取り合って喜び合い、夜中までワイワイ陽気に喋ったり騒いだりしたことがあります。そして明け方の4時近くに店を出て行きました。私たちは大崎の橋まで見送っていき、私が『さあここまで、さようなら、皆さん元気でね』ひとりひとり鼻先で念を押すようにいうと、20才前の若者たちは、夜目にもそれを判る白い歯を見せて、こっくりと深い目色でうなづいた。

岸打つ波の音とてもなく、静まりかえる大崎の海、わずかの時の再会を果たしていま血と硝煙の戦場に駈け戻ろうとしているわが子のような若者たち、東西に分かれて一直線の海軍道路を引き返して来た私たち、後髪を引かれる思いでふと足を止め振り返った。いっとき声を潜めていると漆黒の暗闇の向こうから『オーイ、オーイ』二声、三声元気な声が聞えてくる
。『オーイ』と答える。

この時初めて別離の哀感をしみじみ味わった。あの若者たちの何人かは、やがて南海の空に果てたことであろう」
と当時の感慨にふけるのであった。

また、続けて、
「いざ出陣という前夜、酒宴の席が私の店で開かれた。宴たけなわの時、宴席を離れてこっそり脱け出してきた若者がいた。鹿児島出身の帆立広上飛曹でした。勝手場にいた私を呼び止め、もじもじしながら紙切れを差し出した。

『これ、おかあちゃんに置いていくと』と一言いって、くるりと向きをかえ、酒の席へ戻っていった。紙片を広げて見ると、

征きし後も 清く正しく 生きぬけよ 船渡に咲ける 大和なでしこ

出陣し、祖国日本を守るために死のうとしている青年の無垢な気持が感じられて、身の引き締まる思いがしました。そこですぐ筆をとり、

いたはれと いたはりきれぬ いくさ人 武運めでたく かへる日を待つ

と返歌をしました。この帆立広上飛曹は、台湾沖航空戦で戦死したことを、しばらくしてから知りました」

と当時を思い出して話してくれた。
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 -「大崎島(著・近藤正典 S52)」p153-157より
海軍道路とは、おそらく今の県道2号線(時習館~南郵便局~磯部小の道)と思われます。



特攻、
豊橋空に特攻命令
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(略)特攻命令に基づいて豊橋空は直ちに96陸攻15機を整備し、友隊松島空の96陸攻15機をもって豊橋基地で特攻隊を編成し、豊橋空司令の指揮下にはいった。そして豊橋基地から三機編隊で別々に小松基地に出発し、そこで九州出撃のための待機を行った。

この頃の特攻隊員は、フィリピン航空戦のときのように選ばれた特攻隊員ではなく、ある練度に達した搭乗員はほとんど全部が特攻隊員であって、自ら進んで祖国に一身をささげようとする意識はやや低く、小松基地の行動には粗暴なふるまいがみられた。

隊員の一下士官は出撃を明日にひかえて、酒気を帯びて小松の街に繰り出し、日本刀で通行人に斬りつけ、巡羅隊に捕らえられて隊内に拘束収容された。

しかし、全体的には平静で、必死の覚悟を胸に抱いて、互いに特攻隊出撃の別杯をかわし、三機ずつ五次にわたって鹿児島県の出水基地へ飛び立っていった。
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(略)巖谷少佐は、新しく着任した司令の佐藤大佐と特攻出撃のことについて種々研究を行った結果、96陸攻による特攻攻撃の効果が薄いとの結論に達したので、すぐさま鹿屋に本部を置く、第5航空艦隊司令長官宇垣纏中将の大防空壕に出向し、今村参謀を通じて、96陸攻による特攻攻撃の効果のないことを、攻撃技術からも、また実践の経験からも例を挙げて説明し、特攻攻撃の無意味であることの意見具申を行った。

第5航艦司令部は率直にこれを認め、特攻出撃の直前になって夜間雷撃を継続するように命令を変更した。

このことを知らずに小松基地に発信した96陸攻30機の特攻機は、無事九州の出水基地に着陸した。降りたった搭乗員の顔は緊張し、眼は充血してた。

巖谷飛行長から、特攻が夜間雷撃に命令変更されたことを伝達された特攻隊員の顔色は異様に紅潮した。一命を祖国にささげ、敵艦に体当たりを敢行しようとする若者に、今さら命をおしむ空気は全く感じられなかったが、成功の公算がほとんどない特攻出撃に大きな懸念を抱いていたことは確かであった。
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出水基地の豊空派遣隊
雷撃命令に作戦が変更された豊橋空の96陸攻機は、九州の出水基地に待機し、天信号作戦命令に従って、九州南方の海域の哨戒にあたり、また敵艦船に対して単機または小数機による夜間雷撃を行った。昼間攻撃は対空砲火が激しく不可能であった。戦果の確認についても対空砲火の火焔と、魚雷が命中した時の火焔との区別がつきにくく、ほとんど不可能であった。(略)

このような戦果確認はきわめて困難な状況にあり、豊橋空の戦果は、確認されないまま終戦を迎えた。これにひきかえ豊橋空の損害は、出水派遣隊15機のうち4機が墜落または未帰還、27人が戦死するという結果であった。

 -「大崎島(著・近藤正典 S52)」p167-171より


そして、8月15日。
701空の動き
(略)8月15日正午、君が代に続いて天皇陛下の玉音放送があったが、ラジオの状態が悪くて、内容が聞き取れなかった。しかし外国放送によって、日本の無条件降伏をしることができた。

大分海軍航空基地には、沖縄航空戦を指揮した第5航空艦隊司令長官宇垣纏中将の司令部があった。長官は沖縄戦に3,000余人の特攻隊を出撃させた全責任者である。敗戦の中におめおめと生きられる身でもなかった。直ちに701空の彗星特攻5機に準備を命じ、沖縄の艦船に突入を決意した。長官の補佐役である参謀長や第12航戦司令官が極力再考をうながしたが、その意見には耳も貸さず、

「未だ大本営からの停戦命令をうけていない。戦闘は続行されるべきである」

と言いきり、司令官室で決別の宴を催し、別盃の酒を飲みほして、発進準備のできた飛行場に向かった。従う者は幕僚を城島12航戦司令官だけであった。滑走路には、701空の中津留達雄大尉以下22人の搭乗員が整列していた。指揮台に立った長官は一同に訣別の訓示を述べ、5機の命令に11機分の準備をしたことを責問したが、隊員たちは声を揃えて、最後の特攻として長官に従うことを誓った。

長官は仕方なく同行を認め、最後に、「神州の不滅を信じ気の毒なれど、余の供を命ず。参れ」と結んだ。

17時長官は指揮官中津留大尉の偵察席に偵察員と同席し、発進していった。左手には恩賜の短剣を高々とかかげ、夏草繁る青草原をまっしぐらに、南西の空をおおう雲の一点に機体を没していった。約30分間で701空の最後の特攻機は、南西の空へ同じように消えていった。

やがて20時25分、中津留大尉機より訣別の「我奇襲ニ成功ス」の電報がはいり、長符は長く続いて消えた。「敵艦ニ体当り」後続機も次々に体当りに成功した。体当り機8機、途中で不時着したもの3機であった。

これが初代豊橋海軍航空隊が改名してできた701空の終戦の日の模様であった。

 -「大崎島(著・近藤正典 S52)」p197-198より


戦後、
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軍需物質の民間放出

航空隊に残された兵器以外の食糧・衣類・ガソリン類は、民間の公共団体に払い下げよという指令もあって、豊橋市役所・豊橋駅に大量に引き渡し、一部は大崎・老津の漁協組合・農業会に払い下げて、不足しがちな市民生活に少なからず援助を行った。大崎・老津の町内では、この物資を戸別にクジで割り当てていった。

そのほか海軍さんを下宿させていた家では、その手づるによって個人的に物資の放出を大なり小なりうけていた。とくに糧秣・被服かかりをしていた海軍さんを下宿させていた家が最も収穫が多かったと言われている。ある家では、毛布を部屋に山のように積みあげ、百枚までは数えたが、あとは数えきれなくてやめたとも言われている。

その逆は、出征兵士の留守家族や未亡人家庭などであって、この光景を指をくわえて見ているより仕方がなかった。

大崎の出征兵士のひとりは、「復員してみると、あちらでもこちらでも航空隊関係でうまい汁をすった話しばかりであった。何か馬鹿らしくて、怒れて仕方がなかった」と当時を語ってくれた。

南設楽郡大野にあった豊橋空の農業作業所食糧倉庫・衣料倉庫は、一夜のうちに倉庫の中味はもちろんのこと土台石までひとつ残らず持ち去られてしまった。

また飛行場の四囲は海であったから、闇夜にまぎれて大崎・老津・神野新田三号方面から船で乗りつけ、物資を持ち出したりした。時には、三号と大崎の侵入者が飛行場の中で出会う場面もあった。大崎側は、飛行場は大崎地内にあるのだから、盗み出す権利は大崎側にあるなど、闇の中で盗みの縄張り争いが演じられたこともあった。それに朝鮮人が、戦勝国の権威をかさにきて侵入し、物資を持ち出していた。

これらを追い払う役目は、終戦処理衛兵司令の岡田大尉であったが、すでに武器はとりあげられ、木剣を振り廻すだけであって、とうてい追い払えるものではなかった。まさに無法の島であった。
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終戦処理の完了
一方兵器類は、進駐軍に接収される運命をもっていた。むざむざ進駐軍に接収されるのは残念である。航空隊が所有していた150トンの鋼鉄船で三河湾に棄ててしまった。

残ったのは百本ほどの魚雷と、役に立ちそうもない兵器の部品ばかりであった。これらの飛行場の一隅でガソリンをかけて焼きはらった。弾薬類は船で積み出し、海に放棄してしまった。

アメリカ軍にはひとつの兵器も渡さないという意図からであった。兵器の処分がほとんど完了した20年9月26日、アメリカ軍の若い少尉を長とする1個分隊12人が豊橋海軍基地に進駐してきた。そして飛行場の点検と兵器類の焼却と引き渡しをおこなった。その時には飛行場には三機の破損した飛行機があっただけで兵器らしいものはほとんどなかった。豊橋海軍航空隊の数十機の96陸攻は終戦には九州の出水基地、石川県の小松基地・千葉県の木更津基地に移動していてわずか3機だけしかなく、これも終戦のごたごたで破壊されたままであった。したがってアメリカ軍に引き渡した兵器はトラック1パイ程度の軍刀・短刀だけであった。12人のアメリカ兵と終戦処理にあたる海軍航空隊員200人とを結ぶ役目は若い日本人の男女各1人の通訳であった。若いアメリカ兵たちは日本の若い女性に特別な関心を示していた。特に若い女性通訳は人気の的であった。彼女の笑顔によってアメリカ兵たちは歓呼の声をあげてはしゃぎまわり、談笑した。時には一日の仕事を放棄して伊良湖方面に出かけるなど観光を兼ねた飛行場の接収であった。

始めの頃は、どうなることかとおっかなびっくりで、心配していた岡田平治大尉以下200人の終戦処理の兵たちは、ようやく緊張がとけ、約1か月あまりの大崎地内の乙隊兵舎でアメリカ軍と寝食を共にした。彼らの仕事ぶりはのんびりしたもので、仕事というよりも観光といった方が適切であり、ほんの3,4日で出来そうな仕事を1か月かかってようやく終了し、11月26日豊橋海軍基地から引き揚げていった。それからまた1か月あまり岡田大尉らは航空隊関係の物件処理に当たった。この間にも飛行場には付近の村から侵入する盗人が後をたたず、点検した物件と員数が合致せず、建物等の確認もあいまいであった。同じ敗戦日本人として盗人の取り締まりには迫力がなかった。それでも20年11月30日ようやく終戦処理の事務のすべてを完了し、名古屋財務局に引き渡すことが出来た。岡田大尉・経理の鶴田大尉以下200人の終戦処理豊橋海軍航空隊員は、全員復員することになった。豊橋航空基地の土地・物件は名古屋財務局の管理するところとなった。

豊橋海軍航空隊が開隊してから2年6か月の短い年月であった。

 -「大崎島(著・近藤正典 S52)」p204-206より
では。