豊橋市議の長坂です。
8月1日は「島の日」です。
さて、以前「大崎漁業協同組合史(S49)」にあるこちらの記載をご紹介しました。
下図の大崎古城址から、西の湾を望んだ景色です。
この「天の橋立」という言葉に、豊橋にもそんな風光明媚があったのか、と少し誇らしい気分になりました。
そして先日、「豊橋だいすきカレッジ」でお話いただたいた松岡先生のスライドにこんな絵図があって驚きました。
https://kochizu.gsi.go.jp/items/409
「伊能大図彩色図」、まさにこれは天橋立
本物の天橋立(京都)はこんな地形。
「水中州」があとちょっとでつながっていたら、まさに同じ地形になったでしょう。
■
昭和になり、この地形が活用され、「州」が整備されて「島(人工島)」になります。
(「絵図から地図へ(豊橋市二川本陣資料館 発行)」より)
海軍の空港島です。
豊橋に陸軍があったことは、有名ですが、海軍もありました。
しかも航空隊です。
その名残として、実は今でも「海軍橋」という地名(橋と交差点)が残っています。
この飛行場「大崎島」は、東の横須賀、西の呉の中間地点としての要所であったようです。
豊橋市長であった河合睦郎さんが発行された「大崎島(著・近藤正典)」に、その経緯について次のような記載があります。
8月1日は「島の日」です。
さて、以前「大崎漁業協同組合史(S49)」にあるこちらの記載をご紹介しました。
私は少年の頃、父に教えられて度々大崎古城址の高台に立って、満汐のとき、またのぞきして海をみた。田原湾の防波堤のような本島の松は東から西へ細長くのびて海中に浮き話にきいた天の橋立のようだ。小さい帆かけ舟が遠く近く算えきれない。碧い海が西日をうけてキラキラと銀いろに光る。かっこよい平島の松の下を、牟呂から田原へ通うポンポン蒸汽が白く輪をえがく煙をポッポッと吐きながら通る。この「少年の頃」は、おそらく戦前の、大正頃の話と思われます。
- もうすぐ海の日。豊橋の海水浴場について。 - 愛知豊橋・長坂なおと のblog
http://nagasakanaoto.blog.jp/180710.html
下図の大崎古城址から、西の湾を望んだ景色です。
この「天の橋立」という言葉に、豊橋にもそんな風光明媚があったのか、と少し誇らしい気分になりました。
そして先日、「豊橋だいすきカレッジ」でお話いただたいた松岡先生のスライドにこんな絵図があって驚きました。
https://kochizu.gsi.go.jp/items/409
「伊能大図彩色図」、まさにこれは天橋立
本物の天橋立(京都)はこんな地形。
「水中州」があとちょっとでつながっていたら、まさに同じ地形になったでしょう。
■
昭和になり、この地形が活用され、「州」が整備されて「島(人工島)」になります。
(「絵図から地図へ(豊橋市二川本陣資料館 発行)」より)
海軍の空港島です。
豊橋に陸軍があったことは、有名ですが、海軍もありました。
しかも航空隊です。
その名残として、実は今でも「海軍橋」という地名(橋と交差点)が残っています。
この飛行場「大崎島」は、東の横須賀、西の呉の中間地点としての要所であったようです。
豊橋市長であった河合睦郎さんが発行された「大崎島(著・近藤正典)」に、その経緯について次のような記載があります。
日華事変がはじまってまもない昭和12年(1937)の10月頃、大崎付近に海軍の軍港が出来るといううわさが流れていた。しかし戦時中のことでその内容については深く知る由もなかった。では!
たまたま、昭和12年1月頃、大崎地区選出の豊橋市議会議員河合末次郎と豊橋市長神戸小三郎が所用で県庁に知事を訪問した時のことであった。そのとき、知事は海軍省の係官と小さな声で用談中であった。隣の部屋に待たされていた2人は、言葉の端々に「豊橋という所は、その点地形的にも、気象的にも……」といった言葉を耳にした。2人は、豊橋のことが気になっていたので知事との面接の際、さきほどの海軍の係官との会話のことに触れると、知事は、「詳しいことは言えないが、海軍が何かを造るらしい」と話してくれた。そして「詳しく知りたければ君らが直接海軍省へ行って聞き出してくれないか」とかえって知事から依頼されたかたちになってしまった。
早速、2人は夜行列車で上京し、翌日海軍省を訪問し、係官にその件について尋ねた。しかし海軍省の係官の返事は「その件については機密事項であるから言えない」であった。そこで愛知県知事からの指示によって来たことを告げると、ようやく係官は「実は、海軍の施設を造る計画がある」ことを説明してくれた。
それでも、何をどのように建設するのかさっぱり見当がつかなかった。仕方がないので知人の海軍少将に応援を頼みこんだ。そのことが功を奏して、海軍省の係官は、田原湾の地図を広げながらぽつぽつ説明を始めた。そして、河合市議に「大崎という所はどういう所か」と質問してきた。
河合末次郎は、
「大崎島は私らの村だが、西の風が強くて、冬などは雹が降るくらいであって軍港には向かないでしょう」と言うと、
「ああ、そうか、それは都合が良い」
といった調子で2人の呼吸が一向に合わなかった。
「この辺の山には、松が生えているので、切るなら時期的に今が良い」
「それは、風受けのためにそのまま置いてもらいたい」
ますますおかしい。そこでもう一度念をおすように、
「この辺は、どえらい風が吹きますよ」
と強調すると、
「いや、その風がいいのだ。飛行機が離陸するには至極よろしい」
この一言によって、軍港であると思っていた予想が完全にくつがえり、飛行場であることがわかった。河合市議が唖然としていると、今度は逆に係官の方が乗り気になり、部下を呼びつけ、
「おい、例の地図を持って来い」
広げた計画図に目をやると、それは海の埋立計画図であった。そのときは漁民の生活の糧となる大崎の浅蜊漁場は計画からはずれていたのでほっとしたという。それでも念のために、
「この計画は図面通りで、今後変更するようなことはありませんか」
と尋ねた。係官は、
「まず動かないであろう。やや南に行くかもしれない。この飛行場は、今度の戦争に使用するので、悠長なことはやっておれない。明日にでも出かけて行くから、あなたは、県知事の所へ行って報告しておいてもらいたい」と答えた。
そのとき河合末次郎に示したものは、航空測量を基にした図面であったが、今度は現地で測量するというのである。そのため測量班員を現地派遣するから民家に泊めてほしいとのことであった。10組からの寝具の準備は、どうしても内密にことを運ぶわけにはいかなく、たちまち村中に知れわたってしまった。
「いよいよ始まる。俺たちの海はどうなるのだ」
憶測は憶測をよび、話は大変な方向に進んでいった。しかし軍の機密を公にするわけにはいかなく、河合市議は地元漁民との間に立って大変苦しんだという。
このようなことがあって海軍航空隊建設のうわさは、秘密のベールの中から公式のものとなり、地元民との話し合いの場に舞台は移されていった。
かかる海軍当局の動きの中には、対米戦を目的として綿密に計画された海軍軍備拡充計画が裏にあってのことであった。
(「大崎島(著・近藤正典 S52)」p61-64より)